「大分寒なったな」とジンが言う。「そうですね」とタカヤが頷く、くせに彼は相変わらずまともに服なんか着ちゃいない。破れたジーンズ一枚きりだ。彼の横を通り過ぎる人間は、まず間違いなく自分の目を疑うような素振りを見せ、『うげえ』という顔つきをする。僕も心底同意する。
チドリは相変わらず僕らの話なんか聞かずに、歩きながら絵を描いている。「転ぶからやめって」とジンに諭されているが、やっぱり聞いちゃいない。
街を往く人々が厚着になったり薄着になったりすることに、僕らはどうも上手く馴染むことができない。感覚として上手く理解出来ないのだ。
寒いというのは分かる。身体の芯まで凍えるということも良く分かるし知っている。ただそれらは僕とは遠い世界に生きる誰かがかわりに感じてくれているんじゃないかと、たまに感じることがある。良く分からないのだ。
僕は毎日午後五時に起き、日の入りが過ぎてから起きてくる皇子様のために食事を作って、空が白んできた頃に彼が眠りにつくまで、話し相手のようなものをしている。まるで吸血鬼みたいな生活だ。皇子様は明るい日の光がどうも気に食わないらしいのだ。少し前の、柔らかい秋の日差しのようだった彼のことを考えると、僕はなんだかがらんどうの乾いた洞穴を覗き込むような、ぽっかりとした気持ちになる。
ジンは朝から晩から朝まで、パソコンに向かって忙しそうだ。復讐代行サイトの依頼が溜まっているのかと思えば、そうではないらしい。「ソッチはちょっと休業やて」と言っていた。彼が自発的に何か大掛かりな仕事を始めるとは思えなかったから、大方タカヤがまた新しい遊びを思い付いたのだろう。
そのタカヤ本人はといえば、相変わらず部屋の隅で奇妙なポーズを取っている。彼が何を考えているのかということを理解するのは僕には難しいし、理解しようと努力をするのも面倒臭かったから、特に構い付けず放っておいた。たまに寂しがりの子犬のような目を向けてくるが、僕の知ったことじゃない。
チドリは相変わらずふらふらと出て行く。絵を描きに行くのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。彼女はまだ順平と会っているのかなと僕は考えてみたが、ありえないだろうと思い直した。彼女も馬鹿じゃないのだ。いや、馬鹿だが、そこまで馬鹿じゃないはずだ。
たまにジンと一緒にパソコンに向かっている。チドリとパソコンなんて、アリとキリギリスがコンビを組んで漫才をやるくらい似合わない。
僕はちょっと興味を覚えて覗いてみたが、すぐに見なきゃ良かったと後悔した。またあの気色の悪い絵を描いている。パソコンの中でだ。どうやらCGというらしい。
スケッチブックの上だろうがパソコンの中だろうが、僕はどうもチドリの絵というものが苦手だ。理解出来ない。長いこと見ていると目が回りそうになる。
「皇子様どうしてはる?」
「少し眠られるそうだ。頭が痛いって。なあ、薬箱に冷えピタあったか? 無かったら青ひげに買いに行ってくるよ」
「いや、どやったろ。頭痛薬はあった思うけど、それやったらアカンか?」
「皇子様には薬が効かないんだよ、全然。ああ、お前らこそ何をしてるんだ? 楽しそうなことならあとで僕も混ぜろよ」
「なんか、やるんだって。タカヤが」
チドリがどうでも良さそうに返事をくれた。タカヤを見ると、床に頭をついて逆さまになった格好で「楽しいことですよ」と言った。
「我々はニュクス様のご意志を人類に伝える代弁者としてしかるべき活動をするべきかと」
「……そのニュクス様は大分へこんでらっしゃるみたいだけどな」
僕は溜息を吐いて頭を振った。今日もまた食事を取っていただけなかったのだ。シャドウの皇子である彼には人間の食事なんて不必要であるとは言え、あの方は子供の頃はすごく美味しそうに僕が盗んできたプリンを食っていたし、この間までも僕が作った食事をにこにこしながらたいらげていた。不必要なものであっても、僕は美味いものを食っている時の彼の顔が好きだったのだ。
聞くと、タカヤは宗教を始めるらしい。名前も『Nyx教』と決めたらしいのだ。以前の食卓会議で決まったらしいが、僕は全然知らなかった。不満を述べると、「貴方最近いませんし」と言い訳された。
確かに僕は最近皇子様につきっきりで、ほとんど彼の部屋から出ることがない。あの方は随分神経をやられていて、放っておけないのだ。
タカヤに誰かの世話なんてできるとは思えなかったし、ジンとチドリは割合人見知りをするところがある。ぴりぴりしている皇子様の傍にいるのは居心地が悪いんだろう。馴染みの僕が世話を任せられるというかたちになっている。誰も文句は言わないまま、自然にそう決まってしまったのだ。
僕は小難しい宗教の話を聞き流しながら、薬箱を漁り、目当てがやはり無かったことに溜息を吐き、玄関のハンガーに掛けてあるコートを羽織ってポケットに財布を突っ込んだ。
「青ひげ行ってくる。それとジン、頭痛薬もなかったぜ。傷薬もあとニ三回分てとこかな。包帯も切れてる」
「ああ、悪いな全然気ィ回らんで。最近こっちにかかりきりやさかい、いろんなもん切らしてしもてるわ。カオナシ、悪いけどメモ書くから、ついでに買い物行ってくれへんか。好きなお菓子一個買ってエエから」
「いいけど、持てるだけにしてくれよ」
僕は頷き、「皇子様になんかあったら頼むな」と言い置いてアジトを出た。
まだ八時にもならなかったはずだが、冬の夜はいっそう冷え込んできた。身体の感覚がかなり馬鹿になってきた僕でも、空気の冷たさと身を切るような風を感じ取ることができた。ただ何とも思わないだけだ。
玄関を出て腐食しきった鉄骨の階段を降りた所で、腹が鳴った。そう言えば僕自身も随分食事を取っていなかったような気がする。なにせ主が何も口にされないのだ。子分の僕が彼を差し置いてものを食う訳にはいかない――はずなのだが、今日も僕の仲間達は平然とお茶漬けを食っていた。あいつらにはまったく忠誠心が足りないなと僕は呆れたが、人に強要するようなことでもないので黙っておいた。僕は僕が一番皇子様に忠誠を誓っていることを結構誇りに思っている。
ポロニアンモールは僕らのアジトからだと、踏み切りを抜け、ムーンライトブリッジを渡ってすぐだ。近くもないが遠くもないという微妙な距離だ。
僕はジンから渡されたメモを見た。そこには、情けも容赦もない内容が記されていた。ボックスティッシュにトイレットペーパーにラップにアルミホイルに歯ブラシ、歯磨き粉など。ティッシュとトイレットペーパーはかさばるから要注意だ。ついでにというレベルじゃない。僕は溜息を吐き、あとでケーキショップに寄ってチーズケーキをホールで購入して帰ることに決めた。皇子様と二人で食うのだ。
モールに足を踏み入れるなり、僕はすごく見覚えがある姿を見付けた。あまり見付けたくはない人間だった。なにかにつけて僕らを邪魔するS.E.E.Sのメンバーだった。真田と小学生の天田だ。
珍しい組み合わせだなと思いながら、僕はコートのフードを目深に被って顔を隠した。どうやら彼らは交番に用があるらしく、辰巳東交番の中に入っていき、巡査と何か話をしている。S.E.E.Sと警官の組み合わせなんて、正直ろくでもない。僕にとっちゃどちらも天敵なのだ。
さっさと青ひげで買物を済ませて帰ろうとしていたら、どうも薬局内部に不審な人間がいる。万引きでもしているのかと思って覗いたら、意外なことに、知っている顔だった。友近だ。この間まで僕のクラスメイトだった男だ。制服姿で、学校帰りなんだろう。
彼はすごく敏感に僕の視線に気付き、顔を上げ、そして僕の顔を見てとても驚いたようだった。「あれ、黒田!」と彼は声を上げ、「どうしたんだよ、お前、何日も休んじゃって」と言った。
僕は「別に」と言葉を濁して、さっさと話を切り上げようとしたのだが、彼は順平並に人の話を聞かない。その上気安い男で、僕の肩に手を置き、「絶対内緒だからな」とすごく大事な約束でもするように、声を潜めて言った。
「万引きのこと?」
「ばっ、万引きなんかするかよ。これだよ、オレがこんなん買っちゃってたこととか、順平とか、望月とかさ、あの辺の軽い奴らに絶対チクるんじゃないぞ」
絶対に言うなよと言う割に、彼はどこか得意げだ。顔には言いふらしてくれよと書いてある。手に持っているものを見ると、手のひらに乗るサイズの銀色の長方形の箱だった。
「煙草?」
「ばっ、ちげー、コンドー……ばっ、言わせんじゃねーって!」
背中を叩かれた。友近は興奮しているのか顔を真っ赤にしている。「ハズカシー」と言っている。じゃあ羞恥で赤くなっているのだろう。
「近藤って誰」
「いや、こんどうじゃなくって、コンドーム。人の名前ではありませんよ、お前もちろんそれわかっててボケてるんだよな」
「コンドームとは何だ?」
「何って、お前が何って。ほら男のルールってやつだよ。ナマなんかでヤっちゃったら子供デキちゃうだろ、そんなこともわかんないとか言わないでくれよ?」
僕は首を傾げ、友近の言葉を理解しようと努めてみたが、良く分からなかった。普通の学生というやつはやっぱり分からない。やはり天才とは言え数ヶ月の付け焼刃では、学生を完全に理解しきるなんて難しいというところだろう。
あまり深く詮索すると不審がられるのは目に見えていたから、僕は「ふうん、がんばれ」と言葉を濁しておいた。日本語というやつは結構便利なもので、相槌を打っていれば相手が勝手に会話を進めてくれる。友近は嬉しそうに頷き、何かと話し掛けてきた。
「お前、元気そうじゃんよ。サボリか、学年トップなのに。あ、薬局来てるってことはそんなに元気じゃねーの? いつ来んの」
「辞めた」
「うん?」
「学校、辞めたんだ」
友近は人好きのする顔のまま固まってしまった。「え?」と困惑するように首を傾げ、しげしげと僕を見て、「辞めちゃったの?」と言った。「うん」と僕は頷いた。
「お前、嘘だろ、学年トップとかそんな頭いいのに、学校もさ、いくら貧乏だって、お前くらい頭良かったら奨学金みたいなの出してくれるんじゃ……良く分からないけどさ。もう、ホントに、辞めちゃったの?」
「ああ」
「そっか……」
友近はとても残念そうな顔になって、「寂しくなるな」と言った。僕がいなくなってクラスが寂しくなることはありえないと思ったが、僕も「うん」と頷いた。
「その、ラーメン食いに行かねえ? これからさ。今日は偶然みたいにして会えたけど、次いつ会えるかわかんないんだろ」
「誘いは嬉しいが、知り合いがいるから無理。あまり顔を合わせたくないんだ。できればここで俺に会ったことは順平たちにも内緒にして欲しいな」
「うんまあ、分かる、気まずいよな。あ、じゃあシャガールで茶だけでも飲んで行こうぜ。時間あるんだろ? 奢ってやるから」
「あまりないが、まあそれくらいなら」
僕は頷き、ひどくかさばる荷物を青ひげの店主に預けて店を出た。
モールの中で目深にフードを被っている僕に、友近は変な顔をしている。「フード取らないの?」と言っている横を真田が通ったものだから、彼は納得して、「ああなるほどね」と言った。
「お前、あの人と派手な殴り合いやらかしたことあるんだって? そりゃ気まずいよな」
真田は天田と並んで過ぎ去っていく。彼らは随分くたびれているようだった。会話のなかから、かすかに「望月」とか、「いまだに行方知れず」とか言う単語を拾うことができた。僕の横でそれを聞いていた友近が、「望月さ、あのヒューマノイド・タイフーン、誘拐されたって噂だぜ。あれなんか本当っぽいな」とぼそっと言った。
「金持ちで、綺麗なお姉さん見たらすぐについていきそうな奴だったろ。お前も知ってると思うけど。身代金目的らしいぜ。学校もう随分来ないんだ」
「噂だろ」
「そうなんだけどさ、信憑性あるっていうのがまた。今の真田さんの話聞いたかよ。それに桐条系列のガッコで不祥事を起こすわけにはいかんって、あの桐条先輩が警察に協力してるって話も聞いたな。望月って思ってたよりずっと金持ちだったらしくてさ。どっかの富豪の一人息子らしいぜ。グループの会社なんかいくつも持ってて、あ、桐条先輩の婚約者って話も聞いたことある」
「なんだそれ」
「だよなあ。望月にはあの女王様は不釣合いだよな」
僕の皇子様に失礼なことを言うなとつい怒鳴ってやりそうになったが、なんとか自制して、好きに言わせておくことにした。人間どもが彼を何と言おうと、彼の価値は何も変わりはしないのだ。
僕らはシャガールへ入った。真田と天田の背中がモールから消えたことを確認してから、フードを上げると、友近が変な顔をして、「やっぱりまだ見慣れない」と言った。
「その顔、お前マジで黒田なんだよな……。整形したとかじゃ、あ、食うにも困ってるお前にそんな金がある訳ないよな。悪かっ……」
友近はすごく失礼なことを言い掛け、急に顔を青ざめさせて、脱ぎ掛けた僕のコートの前を慌てて閉じた。「どうした」と聞いてやると、「お前今どこで働いてるの……!」と、涙目で聞かれた。
「どこって……絶対的なお方のもとで、下僕として……」
「SM倶楽部!? SMなんだな、そのボンデージは? 下僕? お前はやっぱりマゾだったのか? いやお前、まだ十七じゃ……ひ、非合法の? だから交番の前通る時にあんなにコソコソと……」
「僕はマゾじゃない」
「ど、どうなの? 女王様って、美人なのか? 年上だよな。そーいう方面のことちょっとあんまり詳しくなくてその、」
「女王様じゃない。あの方は皇子様だ」
「皇子……男!? おま、お前は一体どこまで道を踏み外してしまったんだ……!」
理由は良く分からないが、携帯の番号が書かれた紙ナプキンを押し付けられて、「困ったことがあったらいつでも掛けてこい」と優しくされてしまった。
「なんで?」
「いいか、お前がどういう境遇にあろうと、これからもお前はオレの友達だからな。悪い、今はお前の為に泣かせてくれ」
そして僕の為に泣かれてしまった。まったく学生というものは理解不能だ。
「ただいま」と玄関先から声を掛けて、かなりかさばる荷物を入口の横に置き、冷却シートとチーズケーキの箱を選り出して、僕はそのまま皇子様の部屋へ向かった。
お休み中なら邪魔をしちゃいけないだろうと思い、音を立てないように慎重に扉を開けて、僕は唖然とした。部屋の中に皇子様の姿はなかった。窓が開いていて、カーテンが夜風になぶられてひらひらと揺れていた。
僕は慌てて仲間たちの様子を見に行ったが、彼らは僕が買物に出掛ける前と姿勢一つ変わらずそこにいた。それぞれの作業に没頭していて、皇子様と何らかの会話を楽しんでいるなんてこともない。
「おい、ちょ、皇子様は?」
「はぁ? 何を言っとるんやてカオナシ。あの方寝てはるんやろ」
「い、いや、いないんだって。窓開いてて――」
言い掛けたところで、ふっと部屋の電気が切れた。影時間が到来したのだ。僕は冷却シートとチーズケーキを投げつけるようにしてジンに押し付け、「探してくる。それ、食ってていいから!」と叫び、アジトを飛び出した。
狭苦しい部屋の中で塞ぎ込んでいると息が詰まったとか、そういう理由なのかもしれない。外の空気でも吸おうと思われたのかもしれない。
でも影時間とは言え、外の世界にいるのはシャドウだけじゃあない。例えばS.E.E.Sなんかと鉢合わせしたりしたら、あの馬鹿どもにひどい言葉なんて投げ付けられたりしたら、彼は更に深く傷付かれるに違いないのだ。
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