「やあ、カオナシ」
彼は僕を呼んで、にっこりと微笑まれた。そこには薄暗い部屋で膝を抱えて蹲っていた時のような、暗い影はなかった。
タルタロスの扉にもたれて、彼は僕をじっと見ていた。まるで僕が追いかけてくることが始めから分かっていたような様子だった。分かっていたのだろう。
「迎えにきてくれたんだね。でももう少し待って。ここに来るとすごく落ち付くんだ」
「はい。しかし、あいつらに見つかって、うるさいことを言われるのも癪です」
「彼らと顔を合わせて罵られることになったってしょうがないさ。本当に僕が全部悪いんだからね。僕が滅びを呼ぶんだ。覚悟は……まあ、しなきゃどうしようもない。忌々しいことにね。それよりも息が詰まっちゃったんだ。少し相手をしてよカオナシ。昔みたいに、鬼ごっこだよ。僕が逃げる、君が捕まえる」
彼は戸惑っている僕にお構いなしに、塔の中へ入っていく。堂々とした足取りだった。馴染んだ実家に帰ってきた時のような足取りだった。まあその通りなのだ。僕はと言えば、いきがって田舎を飛び出したものの、上手く都会に馴染めずに故郷に出戻ってきた不良息子みたいに、おっかなびっくり彼のあとについて行った。もう長いこと塔の外で暮らしていた僕には、悲しいことに、そこはもう他人の家みたいに感じられた。
「行くよ、カオナシ。僕を捕まえて」
皇子様は一度だけ振り向かれ、悪戯を思い付いたみたいな顔でにっと笑われた。家に帰ってきて、外で起こった悪いことをすべて忘れた子供みたいだった。そしてふっと姿を消した。比喩じゃなく、ぱっと消えた。
一人きりで滅びの塔のエントランスに取り残された僕は、結構途方に暮れた。
今になって皇子様に、僕を散々てこずらせてくれたファルロスみたいなことをされると、僕はなんだか困ってしまう。あの方はそれを狙ってやってるのかなと僕は邪推し、まあそうなんだろうなと思い当たって、溜息を吐いた。彼がファルロスなら、僕を困らせて楽しんでいるに違いない。
遊ぶ元気を取り戻されたのは良いことだと思うが、影時間は時計の長針が逆さまにぐるっと一周する間、つまり一時間しかない。一時間が経てば塔は消滅し、僕らは日々変貌を続ける奇妙な空間のなかに取り込まれる。つまり一時間以内に皇子様を見付けて塔の外へ連れ出さなければ、最悪出られなくなる。
まあ今更僕が塔から出られなくなっても困ることはそうない。不便と言えば、プレイヤーで音楽が聞けなくなることくらいだ。
僕は諦めて、『もう勘弁してくださいよ』という泣き言を飲み込み、巨大な階段を上って行った。
ターミナルの点灯は消えていた。どうやらルール違反ということらしい。
子供の頃、僕らがふたりで塔の中を駆け回っていた時分もそうだった。ターミナルを使うのはずるいからダメだと、あれは確か僕自身が決めたことだったのだ。
僕を見て慌てて逃げ出すシャドウをひっつかまえて、「なあ、皇子様知らないか」と聞いても、首を振るばかりだ。知らないらしい。もしくは、皇子様に「チクッたら握り潰すよ」と脅されているのかもしれない。なんにしろ彼らはあてになりそうにないので、僕は抱えたシャドウを背中の後ろへ放り投げた。床にぶつかった衝撃でべちゃっと潰れたシャドウが、慌てて起き上がって、ノイズみたいな悲鳴を上げながら逃げていく。まったく嫌われたものだ。
「皇子様、どこですか?」
辺りを見回すと、ひらひらした黄色いものが、ちょうど通路の角を曲っていくのが見えた。ああなるほどと僕は理解した。僕は完全に弄ばれているらしい。
彼は何を考えているのかなと、なんとか思い巡らしてみたが、無駄だった。今は彼の思考ってものがまるでわからない。僕らは同じじゃないのだ。
「お待ち下さい」と僕は彼を呼び止め、駆け出した。
ベッドから出ることさえ嫌がっていたのに、なんでいきなり散歩になんか出掛ける気になられたのか、あんなに塞ぎ込んでいた彼が、どうして急に微笑んで僕を「遊ぼう」と誘われるのか、僕には良くわからないことばかりだった。
それから三十分ばかり塔の中を走り回らされ、へとへとになって頂上まで辿り付くと、皇子様は塔のへりに腰掛けて足をふらふら揺らしながら、「行き止まりまで来ちゃった」とちょっと残念そうに言って笑った。
僕は彼の隣に同じ格好で座った。そして不躾ながら彼の手を取って、「やっと捕まえました」と宣言した。鬼ごっこは終わったのだ。
皇子様は「うん」と頷かれ、冷えた缶ジュースを僕に寄越された。タルタロス内部に自動販売機なんてあるわけがないから、一体どこから持って来られたんだろうと訝しく思ったが、まあ彼のされることなので、僕は深く考えることをやめ、「ありがとうございます」と礼を言って、プルトップを開けた。皇子様も缶ジュースを手に持っていたが、開けようとする気配はなく、困った顔をして僕を見ている。僕は、ああ、と理解した。
「開けますよ」
「ありがとう。僕力加減が上手くないんだ。いつも開け口壊しちゃう。僕、何やってもものを壊しちゃうんだ。デスの性ってやつかな」
「単純にあなたが不器用なんだと思いますよ」
「そうなのかな」
「ええ。でも心配しなくてもそんなの僕がやりますから。それよりも危ないですよ、こんなところに座っちゃ」
「大丈夫だよ、落ちても平気」と彼は言う。まあそうなんだろう。僕は頷き、「はあ、僕は死ぬでしょうけどね」と言った。皇子様に僕の意見を聞いてもらおうなんてことは、最近はもう大方無理だと諦めている。
「ジュースでも、あなたが口に入れてくれて良かったです」
「うん、ごめんよ。とても心配を掛けてしまって。僕は随分予想外の事態に弱いみたいだ。君にもひどいこと言った」
「いいえ」
「君もお腹減ってたろうに、僕に付き合ってくれたんだね。ごめんよ」
僕は頭を振り、「僕もです」と言った。「腹が減らなかったから」と言ったそばから腹が鳴って、僕は赤くなった。本当はすごく空腹を感じているのだ。
「明日お詫びをさせてよ」と皇子様はおかしそうに笑って言われた。
僕らは並んで、黒ずんでなにも見えない地表を眺めながら、缶ジュースを飲んだ。奇妙な感じだった。
塔の上には月が無かった。「僕は満月が好きなんだけどな」と彼は言った。
「ああ、だから『望月』様だったんですか」
「即興の割に悪くない名前だろう? 結構気に入っていたんだよ。君は一度も名前を呼んではくれなかったけどね」
「綾時様」
「うん、それ。できれば一月前に呼んで欲しかったよ。最後に僕らがこの塔の上で話したのはいつ頃だったかな?」
「まだ十年にはならないと思いますけど」
「確か君をあの月へ連れて行くと約束をしたんだ。無知って怖いものだね。意味することはひとつだ。僕は君に死を与えると約束をしたんだね」
「後悔してらっしゃるんですか」
「いや……どうだろう。わからない。さっきまではすごくそういうの嫌だったんだ。この塔のことを見るのも嫌だった。でもね、帰らなきゃってずっと思ってて、いざここへ来てみると、今まで悩んでいたことが全て薄っぺらいもののように感じるんだ。悩みとか、苦しい、悲しい、すべての感情がね。僕にはそんなものはなから無かったんだ。君からの借り物だ。最近僕からどんどん何かが零れていく。何だろうって思っていたら、それだったんだよ。君から貰った人の心だ。心を無くしてく分だけ、楽になってくってのもおかしい話だね。このままじゃいつか君を好きだと思う気持ちも無くなってしまうかもしれない」
「構いません」
「僕が君を忘れてしまってもかい?」
皇子様は悲しげに僕の顔をじっと見つめられた。僕は「はい」と頷き、「あなたは今とても僕に優しくしてくださる」と答えた。
「僕はあなたにお仕えすることができて、今とても満たされているんですよ。先のことなんて考えたくない」
「君は構わなくてもね、僕にはとても怖いものなんだ。みんなに死を振り撒くことも、全部終わってしまうことも、滅びのなかに君が含まれていることも、滅んだ後の世界に、もしも一人きりで僕だけ取り残されてしまったらって考えたら」
皇子様は怖気を感じたようにぶるっと肩を揺らされ、「冗談じゃないよ」と震え声で言われた。
「昔に帰りたいな」
「時は待たない。あなたが僕に教えて下さいました」
「うん。でもそう考えてしまうんだよ。無理だと強く理解していても、やっぱり考えてしまう。この塔の中で、君と二人でいつまでも追い駆けっこをしていられたら、今でもそうしていられたら、どんなに素敵だったろうな」
「ええ、そうですね。僕はちょっと、大分、疲れてしまいましたが」
「ああ、くたびれたかい?」
「こんな高いところまで、休憩なしで走らされたら、僕だってくたびれます。まああなたのご命令なら文句はありませんけど」
「そりゃ悪いことをしたよ。可哀相なカオナシ」
「…………」
皇子様はくすくす笑われている。僕は憮然としていたと思う。
「手を出して」
僕は右手を出した。でも皇子様は「違う違う」と首を振り、「左手のほうだよ」と言われた。僕が訝しく思いながら言われた通りにすると、彼は僕の薬指のあたりをくるくると輪を描くように撫でられた。
「残念ながら指輪はないんだ」
「指輪ですか?」
「うん、君にはどんなのが似合うだろうってずっと考えていたんだ。考える時間が永遠じゃないなんてことを、僕はすっかり忘れていたからね。一度やってみたかったな。君と僕でお揃いのリングを指に嵌めるんだ。ああそう、薔薇も贈らなきゃ。まあ君はいつもいいムードを壊滅的に台無しにしちゃう人だから、どうせ食べちゃうんだろうけど」
皇子様はそこで何か面白い光景を想像したふうにおかしそうに笑い、肩を竦めて、僕の手の甲を優しく撫でて、「君が欲しいんだ」と言われた。
「僕はすでに全て……」
「あなたのものですって? 嬉しいな。でもカオナシ、君は全然分かってない。僕は君にかしずいてもらいたい訳じゃなくて、僕らが同じものだからいつもぴったりくっついてなきゃ具合が悪い訳でもないんだ。君が僕じゃないってことを完全に理解しても、やっぱり僕は君を求めている。前とおんなじに、ううん、前よりももしかすると強く。これ、どういうことか分かるかい」
「え……いや、あの」
僕は言葉に困って口を閉じ、俯いた。皇子様は膝に頬杖をついて、上目遣いに、悪戯っぽい目で僕のことをじっと見ている。彼は僕の自制の限界を試しているんじゃないかなという気分になった。
「『お前、きっと俺のことがすごく好きなんだよ』って言ってくれないんだね」
「いや、あの、皇子様」
僕は赤くなって、「勘弁して下さい」と言った。非常にいたたまれない。皇子様が僕の口真似をすると、元々がおんなじものだっただけに、それは僕以上に僕らしい声に聞こえた。
「恥ずかしがらないで。昔はこんなのなんでもなかったじゃない」
「ですから、僕はあなたに忠誠を誓うと決めたんです。だから、そういうのは失礼になりますから」
「ならないよ」
「なります」
「ならないんだ。今から僕は君にプロポーズするつもりでいるんだから」
「………は?」
僕は数瞬呆けて、気の抜けた山彦みたいに「プロポーズ?」と反芻した。皇子様はすごく当たり前みたいな顔をして、「うん」と頷かれた。
「君が僕と結婚するんだ」
「なんだか一番大事なところを忘れておられるようですが、僕は男です」
頭が痛くなってきたが、僕は「同性は結婚しません」と彼に教えて差上げた。小さなファルロスに絵本を読み聞かせてやるように。
「できないんです。子供もできませんし、第一非生産的です。それに僕はあなたにお仕えしている今がとても幸せで――」
「僕がしたいって言っているんだ」
「はあ……まあ、あなたが仰るのなら……でもなんだかおかしいですけど」
「おかしくないよ」
皇子様が微笑まれる。その顔は、なんだか『してやったり』ってふうに、僕には見えた。
多分その通りなのだろう。僕の扱いってものを悟られてしまったのかもしれない。彼に強く言われれば、僕は何も逆らえないということをだ。
「いいの? 君が甘やかすと、僕はどんどんつけ上がってしまうよ」
「はい……僕は、あなたの望みは何だって叶えられるように努力します。それが例えどんなに無理な注文でもです。僕はこれでも、自分の忠誠心ってものにちょっと自信を持っているんですよ」
「うん」
皇子様は微妙に嬉しそうだった。
彼の本質は、おそらく塔の中を二人で駆け回っていたあの頃から何も変わってはいない。変わったのは、彼の周りのものだ。世界と、そして僕だ。彼の身体を取り巻くものが、彼を無理矢理変えていこうとする。引き摺っていく。僕もその一部なのかと思うと気が滅入る。うんざりする。
「ねえ、手を握って」
僕は皇子様の手を両手でそっと包み込む。彼は満足したように頷き、「病める時も健やかなる時も」とたどたどしく覚えたての文字を読み上げるように言う。
「死が二人を分かつ時も? うーん、これは違うな。僕は離れ離れになりたいなんてこれっぽっちも考えていないんだから。ともかく、大いなる死が君を飲み込む日がいつか来たとしても、僕は君を守る。君が真っ白になってしまっても、僕のことがわからなくなってしまっても、それでも僕は君のそばでずっと君を見ているよ。君は僕の気持ちにもすごく鈍いし、勘違いと間違った思い込みにかけちゃ王様みたいなものだけど、この世界中の誰よりも僕のことを愛してくれるように」
「はい……」
なんだか妙なことになっている上に、結構ひどいことを言われているような気がするけど、僕は頷き、「あなたの望まれるままに」と言う。これは昔良くあったようなファルロスと僕のごっこ遊びの延長なのか、それとも本気なのか、僕には判断できない。僕の顔から困惑を読み取ったらしい皇子様が、「僕は本気だよ」と言う。僕は「はあ」と頷く。
「何であれ、僕は滅びが訪れる日まで、必ずあなたのお傍であなたをお守りします。さあ、もう戻りましょう。まだ時は満たないんでしょう?」
「そうだね。ここは居心地は良いけど、君と過ごせる時間が減っちゃう」
彼は頷き、「行こうカオナシ」と僕の手を取られた。その顔には、先ほどまでのような、自殺志願者みたいな暗い影は見えなかった。大分吹っ切られたのかもしれない。僕はそう考え、ほっとした。この世界に関して、彼が気にやまれることなんて何もないのだから。
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