馴染まない天井だ。見覚えがないし、とてもそっけなく、排他的だ。ライトも染みもない。
視界がひっくり返っていると思ったら、僕は飛び箱に逆さまに引っ掛かるような格好になっていた。
大きな飛び箱だ。八段ある。僕が学生をやっていた頃は、何度か額がお世話になっていたはずだ。がつんとぶつけて痛い思いをした。
僕は運動神経にかけてはちょっと自信があったのだが、それは可愛い女の子たちの目や声援がないと発揮されない種類のものだったらしい。男子合同のむさくるしい体育の授業なんかだと、結構鳴かず飛ばずなものだったような気がする。
こういうのは燃費が悪いと言うのだったかなと思い当たったが、意味が合っているのか間違っているのかは分からない。いつも正解と不正解を僕に教えてくれるカオナシの姿はそばに無かったし、今となってはどうだって良いことだった。
僕はもう多分飛び箱に頭をぶつけたり、ハードルに脛をぶつけたり、マットの上で前転の勢いを付け過ぎて顔面を強く打つというようなことは二度と無いんだろう。多分。でもそれが幸福なことなのかどうかは知らない。
顔を上げて身体の周りを見回すと、僕がいるのは体育用具室だった。一瞬前まで一緒にいたカオナシの姿は無かった。
僕は一度あくびをして目を擦り、「カオナシ?」と呼び掛けてみた。返事は無かった。
彼も僕と同じようにどことも知れない場所に飛ばされて困っているのか、または明日の夜まで蝋人形のように固まっているかのどちらかだろう。
僕は僕が塔から弾き出されたことがちょっと意外だった。何か暗示めいたものを感じるなと思ったが、まあ考え過ぎかもしれない。考えないことにした。
「チドリさん、聞こえるかい」
『はい』
呼び掛けるとカオナシの時とは違って、少し経ってから、今度はちゃんと返事が返ってきた。
「カオナシはそばにいるかい? 塔に閉じ込められたか、僕からはぐれて泣いているんじゃあないかと思うんだけど」
『後者です、皇子様』
「ああそう、そりゃ大変だ。急いで合流するよ」
僕は頷き、チドリさんの指示を聞きながら歩き出した。
『校門前にじゅ……S.E.E.Sがいます。一度教室の方へ』
「ああ、なんだかそんなに長いこと会ってない訳でもないのに、無性に懐かしいよ。顔を見て来ようかな」
『……皇子様。できるだけ急いでいただかないと、死ぬ程うざいのが』
「冗談さ。いやだな。ごめんね、その子、手間が掛かる子で」
僕は肩を竦め、渡り廊下から校舎に入った。
ほんの数日その空間にいなかっただけで、学校という場所の何もかもが懐かしく感じられた。悪く思うものがひとつも無かった。僕は当たり前のように毎日をこの校舎で過ごす生徒たちがすごく羨ましくなり、また同時に不憫になった。僕さえ産まれなきゃ、これからも彼らの未来は光り輝いていたろう。
でも僕は『僕さえいなかったら』という仮定を行なうことはあまり好きじゃない。つまり、『僕がいない世界でひどい目に遭っているカオナシ』を空想することが好きじゃない。他にも、『悪い奴らに捕まって小突き回されるカオナシ』や、『誰にも覚えていてもらえないままひっそりと人生を終えるカオナシ』なんてのも駄目だ。
僕はこれでも十年彼の慰めになってきたことを自負しているし、反対もそうだ。僕にとってのカオナシも同じだった。彼が何度僕の救いになったことか。
二階の廊下に差し掛かると、二年F組の教室の扉が勢い良く開き、カオナシが飛び出してきた。僕の足音を聞き付けたらしい。彼は本当に野生動物みたいなところがある。
「皇子様っ」
そして勢い良く僕の身体に飛び付いてきた。彼はチドリさんが言う通り、顔面をどろどろのぐちゃぐちゃのそりゃひどいことにしていた。「美人が台無しだよ」と僕は苦笑し、ハンカチで彼の顔を拭う。
「まったく君ってば、ちょっと離れたくらいでなんだい」
「塔から、出てこられないのかと、僕、明日は一日あなたにお仕えできないのかと、思っ、」
「はいはい、泣かないでよ。子供みたいだよ君。大丈夫、そう時間はないんだから、せめて残りの時間は君といるよ。そのくらいは僕にも許されるだろうからね」
僕は溜息を吐き、夜空に浮かぶ月をそっと見上げた。教室の窓ガラス越しに見える月は、何の取り柄もないただの天体に見えた。
あの星が僕の母親ということになっているが、まあ微妙なところだった。母親というものを僕が認識するための心は、元々は今僕に縋りついてわんわん泣いている泣き虫のカオナシのものなのだ。
つまり、僕の心というものは、カオナシが長い時間を掛けて砂浜で作り上げた砂山のようなものなのだ。僕を僕と感じる意識や身体や何やかやはカオナシが作ったことになる。
僕はカオナシをあやしながら、彼を観察してみた。僕より小さい背丈(長年彼に見下されていた僕としては、してやったりという感じだ)、泣き虫の性質(昔は僕のほうが随分弱虫だったのに、僕を皇子様と呼ぶようになった最近のカオナシはとても打たれ弱い。僕以上だ)、あまり母親らしいところはなかった。
でも彼が僕のお母さんで間違いはない。男だという点は問題があるのかもしれなかったが、僕にとってはどうでも良いことだった。気にならない。
自分だと思っていたら母親だった。彼に関しては、その点だけ僕は混乱している。あのカオナシが「お母さん」だった。
まったく似合わないなと思うが、僕に母親なんかがいたこと、それが彼だったということは、僕は結構気に入っている。でもこれは内緒だ。今更彼を「お母さん」なんて、照れ臭くて呼べやしない。
カオナシはしばらくして頭が冷えると、顔を赤くして僕から身体を離し、「すみません」と言った。針金みたいに細い彼の肩が僕の胸から離れていくのは、いささか残念なことだった。
「僕はどうも、あなたに関しては感情を抑えることができないようなんです」
「抑える必要なんてないよ」
「いいえ、かなり無様だって自覚はあるんです。ああ、もう、お前らは笑うな。僕を笑っていいのは皇子様だけなんだぞ」
カオナシは悔しそうに、小馬鹿にするような顔つきでいる仲間たちを睨んだ。彼はとても恥ずかしそうだった。
「すごく不細工」
「う、うるさいな。見るなよ……ていうか、撮るなよ! データ消せってば!」
「さて、騒がしいカオナシに関しては皇子様に詫びなければなりませんが、影時間はもう過ぎ去ってしまいました。そろそろ戻りましょう」
「チドリ! 携帯寄越せってば!」
「汚い。触るな。涎が付く」
「見られたら周りの奴らにうるさいこと言われへんかな。ほら、皇子様は有名人やさかい」
白戸くんが僕をちらちらと見て、ちょっと困った顔になった。まあそうだろう。
僕はなんでか、身代金目的で犯罪グループに誘拐された大富豪の御曹司ということになっているらしい。なんでそういうことになっているのかは分からないけれど、そうなってしまっているらしい。
ニュースや新聞なんかでもばっちり報道されてしまっている。懸賞金まで出ているって話だ。何かの冗談だと思いたいが、今朝居間のとても小さなテーブル(ちゃぶ台と言うらしい。コンパクトで、良く白戸くんやカオナシがひっくり返す。聞く所によると、ひっくり返すために作られたテーブルなのだそうだ。妙なものだ)に広げてあった新聞に、間違いなく僕の顔が載っていた。まさか生まれて一月で三面記事を飾ることになるとは思わなかった。僕はカオナシをそっと見遣り、溜息を吐いた。
僕としてはまったく親に合わせる顔がないって意味合いだったつもりだけれど、カオナシは『どうにかしなよ』という意味だと受取ったらしい。やっぱり僕らの思考は、昔のようにぴったり調和しない。
彼は「失礼します」と一言断わったあと、僕のマフラーを取り去り、自分の首に巻いた。明るい色のマフラーは、僕の首に巻かれている時よりも、幾分か幸せそうだった。
次にカオナシは僕の頭に触れ、整髪料で固めてある髪を解した。
僕は多分訝しいふうな顔をしていたんだろう。チドリさんが、「どうぞ」と手鏡を僕に向けてくれた。白戸くんがその隣に立ち、『YES→現状維持/NO→鉄拳制裁』と書かれたプレートを手に持っている。二人としてはどうやら鉄拳制裁を選択して欲しいようだった。
鏡を見ると、僕はちょうどカオナシと同じような頭にされたらしい。「これで大丈夫ですよ、多分」とカオナシが微笑んで言う。彼としては、僕とお揃いというのが、それは嬉しいことのようだ。荒垣先輩に餌を前に置かれて、「食べろよ」と合図が降りてくるのをうずうずしながら待っているコロマルみたいになっている。
やはり僕には鉄拳制裁を選べそうにない。
「これで僕だってわかんないかな」
「ええ。あなたは髪を下ろすと大分感じが変わります」
「そりゃ良かったよ」
僕は頷く。僕としても、警察に保護されたり、誘拐グループとしてカオナシたちが逮捕されることを望んではいないのだ。もしもそこで何か弁解をしようにも、『僕は世界を滅ぼすために生まれた死の宣告者です、学生を辞めたり寮に戻らないのも僕自身の意思なんです。なにせ自分の役割を思い出したので』なんて言ったって、早急に頭がいかれていると判断を下されて、精神病院に放り込まれるんだろう、きっと。
そうするとカオナシに会えなくなる。それは困る。僕の本意じゃない。
影時間の記憶置換がもう少し上手いこといけば良いのにと考え、恨みがましい気持ちになったが、シャドウたちに罪はないのだし、僕自身が何か彼らに、例えば何とかしろと命令を下したわけでもないのだ。
僕は夜空の無害な月を見上げた。それに、もしかするとあの僕の実母が、僕がカオナシばかり大事にするものだから、嫉妬なんかしでかして、そう仕向けたのかもしれない。
馬鹿馬鹿しい。
まあ邪推に過ぎないだろうなと考えることにした。元々星に意思なんてないのだ。
「でも少し首が冷たいかな。手も」
「皇子様、手はポケットに入れると冷たくないですよ」
「僕はそんなちょっとしたアドバイスを求めてたわけじゃないんだけど……君に微妙なニュアンスは伝わらないってことをたまに忘れるよ。手を繋いで帰ろうか。そしたら僕の手は冷たくないんだ」
「はい、皇子様」
「はっ、了解です」
「榊貴先輩、申し訳ない話ですけど僕はあなたとはとても手を繋ぎたくないんです。チドリさん? 君と……ああ駄目だね、君にアプローチなんて掛けたら、僕は順平くんに殺されそうだ」
「皇子様……タカヤがかなりしょげてしもてるんですけど……頼んますから、五秒でエエんで手、繋いだってください」
「ええ、いやだよ。僕の両手は可愛い女の子のためにあるんだ。カオナシは特例だよ」
「皇子様、順平なんかがあなたに危害を加えられるとは思いません。でもチドリとは止めておいた方が賢明です。チドリ菌がくっついてきますよ。きっと意地が悪くなったり、気持ち悪い絵を描いたり、そういうことがしたくなってしまうんです。違いありません」
「人を細菌みたいに言うな。それお前のほうでしょ、泣き虫で弱虫でへたれ、役立たずでうざくなるカオナシ菌。焼却滅菌」
「メーディアしまいて! お前ら二人は小二のガキンチョかいな! ああ、タカヤ、そんな落ち込まんとって下さい。わしで良かったら手、いくらでも繋ぎますさかい。なっ、チドリも手、繋いだるやんな?」
「死んでも嫌だ」
「チドリ! 意地悪したったらアカンて!」
「意地悪とかじゃなくて、生理的に嫌なんだよ」
僕らは騒ぎながら夜の学校を後にした。その後ふとした思い付きで、「ねえ、スーパーってとこはまだ開いているのかな?」と訊いてみた。まともに買物なんかしたことがありそうなのは、カオナシと白戸くんくらいのものだったから、二人にだ。彼らは顔を見合わせた。
「今何時だっけ」とカオナシが訊くと、「零時二十分」と白戸くんが答えた。
「駅前のスーパーでしたら、確かまだ開いてたと思いますけど」
「そりゃ良かったよ」
僕は頷いた。
「襲撃ですか。先陣はこの僕が」とカオナシが言う。そんな訳はない。僕はこれでも一応それなりにお金というものを持っているし、貯め込んでおくにしては有効期限ってものが短過ぎた。それらを有効利用するためには、僕が『お金を使って買い物をする人間』である必要があるのだ。
紙幣も硬貨も、古びた蝶々の標本と同じだ。欲しい人にとってはそれなりに価値があるんだろうけど、手放したってまるきり惜しくはないものだ。
僕は首を振り、「そうじゃない、買物をするんだ」とカオナシを窘めた。彼は強盗や万引きなんてものが似合う顔をしていなかった。
「もう今日はクリスマスじゃないか。思い出したんだ、ジングルベルだよ」
僕はカオナシの首に巻き付いたマフラーのかわりに、彼から借りたプレイヤーから零れてくる音楽をヘッドホンで聴いていた。そして思い出したのだ。良く知っているメロディだった。
シャンパンやケーキやチキンや温かいスープは無かったけれど、僕は街中が星のように煌くこの季節を良く覚えている。
「去年は散々だったな。君は人間が水だけで何日生きていられるかって記録の更新をしていたよね。限界に挑戦ってやつ。もっともあの頃の君のお腹の中には僕がいたから、別にものを食べなくたってそれなりのぎりぎりの線で生きてはいけるはずだったんだ。残念ながら無効試合という奴だね」
「……別にギネスに挑戦したり、そういうことをしたかった訳じゃないんです。ただその、ほんとに食べるものがなくて」
「知ってる。四人のうちの誰が礎になるかってジャンケンをしたんだよね」
「皇子様は全てを良くご存知だ。承知のとおり、カオナシが負けました」
「あと数時間、売れ残って廃棄されたクリスマスケーキを発見するのが遅れたら、今頃とても快適なことになっていた予感がします」
「すごく寂しいことの間違いだろ。お前ら僕がいなきゃ全然駄目なくせに、なんでそうやってたまに怖いことを真顔で言い出すんだ」
「冗談に決まっとるやろ。飢餓感をごまかす為のゲームやて」
「いや、私は本気だったから」
「ねえ、最後なんだからさ、僕はこの素敵なイベントを楽しみたいと思うんだ。心から思うよ。もっとも、一月前の僕はこんなおかしな顔ぶれでクリスマスを過ごすことになるとは思っていなかったけど」
僕は苦笑して、僕に傅いてくれる者たちを見た。基本的に全員すごくキている。
一月前の僕は何を考えていたろうか? クリスマスに対して、どう言った幻想を抱いていただろうか? 可愛い女の子とシャンパン片手に高級レストランで愛を語らい、サンタクロースのプレゼントでも楽しみにしていただろうか? そうかもしれない。
なんにせよカオナシのことしか頭になかった僕だ。この日は二人で一緒に過ごせたらいいなあと先月から考えていたんだよなんて言って微笑むのかもしれない。
でもそれに関しては今の僕でもそうかわりはない。
「皇子様は何を望まれますか?」
「望み? 変なことを言うね、僕はシャドウみたいなもんなのに」
「老獪かつ強力な、偉大なサンタクロース様が選ばれし者の望みを叶えて下さる日なのでしょう? 彼は滅びの皇子様のご友人ではないのですか? マブダチだって言ってました」
「誰が?」
「幾月さんが、昔」
「……あ、そう」
僕は溜息を吐き、「望みねえ」と投げやりに吐き出した。僕の息は一人だけ白みもしていなかった。
「望むところは何もないよ。ただ君がそばにいてくれるだけ、僕にも救いはあったんだなって思うよ」
「僕ですか?」
「うんそう。君こそ何かあるの? 夢なり希望なりがさ」
「僕ですか? 僕はそりゃもちろん……」
「私は救世主になりたく思います」
「わしは新しい眼鏡が欲しいです。腹いっぱいたこやき食いたい言うんもあるけど、こないだチドリが寝返り打った拍子に割りよってさかい、罅入って見辛いです」
「知らない。私は……朝起きたら枕元に順平が入った箱が置いてあったら神様信じる」
「微妙に僕のほう見て言ってるねチドリさん。言っておくけど僕女の子の頼みにはちょっとばかり弱いんだ」
「もー、皇子様はお前らには聞かれてないんだって! せっかく僕が皇子様のお傍にいられるなら他になにもいりませんってすごい忠誠心溢れることを言おうとしたのに台無しだろ!」
カオナシがまたむきになって仲間たちに突っ掛かっていく。思うんだけど、生真面目に本気で僕を神様みたいに崇拝なんてしているのは彼だけだ。みんなゆるい。カオナシも彼らくらい頭が柔らかいと良いんだけどなと、僕はこっそり考えた。
思い込みが激しく、頭が固い。天才だ。そのくせたまにすごく彼のおつむは可哀相なくらいに――いや、止めておこう。彼を貶めるのは、元々ひとつだった僕にそのまま返ってくるのだ。
彼らは少ない余命をそれぞれ謳歌している。誰もろくに世界に執着しないふうに見えるけど、本当のところはどうなのか僕は知らないし、もう考える時間もない。
そう、時間がないのだ。
できれば僕はもう少し時間が欲しかった。僕の周りの人間という生き物について、そして僕の愛すべき半身について、色々と思い巡らせてみたかったと思う。
僕は、『僕はもう少しだけ人間として生きてみたかったかもね』と言おうかどうしようか少し迷って、結局言うのは止めた。何にしろ時は待たないし、僕にはもう何の意味もないことだったからだ。
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