飛んで行ったボールの行方が分からず、途方に暮れていると、「おい、探しものこれじゃね?」と声を掛けられた。顔を上げると、順平が右手にボールを持っている。僕が探していたものだ。「でかした、順平」と僕は彼に礼を言う。
「どう? ボール見つかった?」
 僕が戻るのが遅かったせいだろう、綾時が心配をして見に来てくれたようだ。僕は「はい、問題ありません綾時様」と頷く。
「その『様』ってのはねえ。なんだか気恥ずかしいよ」
 綾時が困ったように微笑む。僕は「何を言うんですか」と返す。
「恩人のあなたのお名前を呼び捨てになんてできません」
 僕は少し前まで、帰る場所も寝る場所も食べるものも仕事もなにもなく、街でうずくまっている浮浪者だったのだ。街に溢れていた無気力症の人間たちみたいに、駅はずれの溜まり場で兄弟揃って座り込んでいるところを、この望月綾時という人間に拾っていただいた。
 綾時は僕じゃうまく想像すらできないくらいに金持ちだった。どこかの国の大富豪の息子なんだという。僕にしてみれば、雲の上にいるような種類の人間だ。僕らを養うことなんて、カブト虫を虫篭で飼うくらいに簡単なことらしい。
 彼は兄弟の中でも一番歳が近い僕のことを気に入ってくれて、なにかと世話を焼いてくれる。こうして僕が今学校に通って、体育の授業を受け、飛んで行ったボールを探すことができているのも、彼のおかげなのだ。
「ごめんよ、思ったよりも勢い良く飛んで行っちゃって」
「いいえ、さすが綾時様です」
 僕は笑顔で順平からボールを引ったくり、綾時に差し出した。順平は苦い顔をしていたが、特に文句を言うこともない。ただ具合悪そうに眉を顰めて僕らを見つめて、「なあ、なんも覚えてねえの?」と言った。
 僕は意味が分からず、「はあ?」と言った。綾時は首を傾げ、「何か約束してたっけ?」と言う。
「ごめん、女の子たちとの約束なら忘れないんだけどなあ。何かあった?」
「いや、なんでもねー」
 順平は微妙な顔つきで、背中を向けて「じゃあな」と行ってしまう。僕らにしてみれば、訳が分からない。
「ううん、何かあったかな。彼のお気に入りのエッチな本借りっぱなしだったとか、一緒にナンパに行こうとか、そんな約束をしてたような……」
「何ですか、あいつ。順平のくせに綾時様の前で態度悪いぞ」
 僕はむくれ、綾時は残念そうな顔で溜息を吐き、「最近順平、なんだか僕によそよそしいんだよね」と言った。
「知らないうちに彼が好きな女の子に手を出しちゃったりしたのかなあ」
「順平のくせに生意気です。綾時様はあんな奴と関わったりしないほうがいいですよ。馬鹿が移ります。友達なら僕がいるじゃないですか」
「うーん、君はなんか友達って訳じゃないんだよね」
 綾時がちらっと僕を見て言う。僕としてはひどいショックだ。思わず「分不相応な望みを抱いて申し訳ございません!」と謝りながら駆け出していた。
「そんな一言じゃ言い表せないっていうか……あれ? 栄時?」





 そして僕はすぐさま去って行ったばかりの順平を捕まえた。彼を渡り廊下に連れ込み、文句を言ってやろうと思ったのだ。僕は多分順平を殴っても良かったんだと思うが、友達にそんなことをされちゃ、いくら綾時でも怒るだろう。
 話し合いで済ませてやろうってだけでも、僕にしてみれば破格の待遇だ。僕はなんでも殴って言うことを聞かせるのが得意なのだ。ラジオやテレビなんかもそうだ。
 いざ文句を言ってやろうと思ったのだが、唇が震えて上手く喋れない。
「ど、どうしたよ?」
 順平がびっくりした顔をしている。僕はやけになって、「お前のせいだ」と言ってやった。目が潤んでいるのが自分でも分かる。
 僕らの傍を通り過ぎて行った、合同授業中の三年生が、「あいつニ年のお調子者じゃね? ひでえ奴だな、一年をこんなトコに連れ込んで泣かせてんぞ」とひそひそ話をしている。誰のことかと思ったが、どうやら僕は一年生と間違われたらしい。僕は二年だ。
「ちょ、な、泣くなって。オレなんかしたか? なんもしてねえよ。ど、どした? ん?」
「お前が綾時様につれなくしたりするのが悪いんだぜ。優しいあの方がどれだけ傷ついたと思ってんだ」
「あ、ああ、それか。……いや、そんなつもりはなかったんだけど、わりー、やっぱ、色々あって構えちまうんだわ、今は。お前はそれ言いに来てくれたのか?」
「当たり前だろ。綾時様が交友関係に支障をきたすだとか、そんなのは駄目だ。あの人の友人なんて、身に余る光栄だと思い知れ。俺なんかな、友達じゃないって言われたんだぜ。確かに俺なんか、綾時様の友達としては不釣合いだけどなあ、お前より頭はいいし、綾時様のことを大事に思ってるんだ。ちくしょう、なのに、お前はちゃんと友達だとか、羨ましくなんかないんだからな……!」
「あ、あー、よしよし、悪かったって。あとでお前の綾時様にも謝っとくからって。ただちょっとほら、なんか気マズイっつーか」
「気まずいって感じるのはお前にやましいところがあるからに決まってるだろ! チドリに順平は悪魔だって言い付けてやるんだぜ!」
「わわわ、や、やめてくれなさいって!」
 順平が弁解をしようとしたのか、ばたばたしながら僕の肩を掴む。彼はなんでか僕の姉のことが好きなのだ。僕ならあんな怖いやつに一目惚れなんて世界が終わったってありえないが、順平の趣味はやっぱり良く分からない。
 そうしていると、急に順平の頭の上に拳骨が落ちてきた。僕のじゃない。
 「いでっ!」と順平が悲鳴を上げ、後ろを振り返り、「あ、真田サン」と言う。『真田サン』は校章から見てどうやら三年生らしく、僕と順平よりも背が高い男子生徒だった。僕は初めて見る顔だが、順平は知り合いらしい。
 真田サンは順平と僕とを交互に見遣り、「お前は何をやっている」と厳しい顔つきで言った。順平にだ。
「相手が弱体化した今を狙って仕返しをしていたのか。見損なったぞ」
「ごごご、誤解ッスよ!」
 順平が勢い良く頭と手を振り、「虐めなんかしてねえッスよマジで!」と言う。どうやら僕は虐めに遭っていたものと勘違いをされているらしい。でも自業自得だ。順平が悪いのだ。
 真田サンは僕をちらっと見遣って、なんだか居心地が悪そうな顔になり、「身体は平気か」と言う。僕を気遣ってくれているらしい。
 僕は「はい」と頷く。別に順平に殴られたり蹴られたりした訳じゃない。真田サンは「身体をいとえよ」と言い、僕に背中を向けて、上着を担いだまま空いた方の手を振り、去っていく。
「結構いい人だな。順平、誰あれ。友達か?」
「覚えてねーの? ……ああ、うん。同じ寮生なんだよ。真田先輩つってな、ボクシング部の主将。チャンピオン。すげー強いんだぜ」
「ふうん」
 僕は頷く。そして去り際に順平にもう一度忠告をすることを忘れない。
「いいか、綾時様をへこませたら許さないからな」
 順平は渋い顔になり、目を閉じ、そして何故かちょっと笑った。「ハイハイ」と言う。
「ごめんな、お前をへこましてえ訳じゃなくってサ。気ィ付けるわ。なんせオレらが今またくだんねー話できてんの、お前のお陰だもんな。すげー納得いかねーけど」
「くだらないって言うな。大事なことだ」
「うん、そだな。……な、わりーけどリョージにも謝っといてくんねー? オレっちそういうの苦手でさあ」
「ふん、しょうがないな。恥ずかしがり屋さんって顔かよ」
「あとあれだ、リョージさ、お前のことすげー好きだからさ。あんまへこむなよ、な」
「慰めてるつもりかよ」
 僕は順平からぷいと顔を背ける。そこでチャイムが鳴る。僕は順平と一緒に更衣室に戻って着替えを済ませ、後からやってきた綾時に「綾時様! やりました! 順平の奴を謝らせてやりましたよ!」と報告した。
「うん? 何の話?」
「なんでもねー。……おい黒田くん、もう黙りなさい。いい子だから」





 「その、身体、大丈夫なの?」と、僕の前の席の岳羽ゆかりが心配そうな顔をして言う。隣の席のアイギスも、そっくり同じような顔つきで僕を見ている。
「何か?」
 僕が首を傾げて訊き返すと、「その、胸とか」と言う。僕の胸がどうかしたろうか?
「怪我をしていたはずです。その、あなたのことが心配で」
 アイギスが言う。僕は「ああ」と頷いた。
「ちょっと事故で、まあ痕は残るって言われたけど、大したことはない。それより何で知ってるんだ?」
「あ、い、いや、何でもないの。何でも」
 岳羽は愛想笑いみたいな変な顔をして、頭を振った。アイギスは僕をじっと見て、「進路、どうしますか?」と言った。そう言えば、僕はまだ進路調査表を出していないのだ。色々なことがあって、進路指導は見送りになっていた。
「考えてないな。君はなんて?」
「私は……」
 アイギスはそこでちょっと口篭もり、僕をじっと見つめながら、「ある人を一生守り続けようと思います」と言った。僕は「ふうん」と頷き、まあ悪くない進路だなと考えた。





――それで、僕まだ出してないんですよ、進路調査表。綾時様は出しました?」
「あ、僕もまだ」
 教室で、僕は綾時と話し込んでいた。綾時は購買で僕が買ってきたいちご牛乳を半分飲んで、僕にパックを差し出した。「はい、あげる。甘くて美味しいよ」と言う。僕は彼の言葉に甘えて受け取った。ストローを口に咥えると、綾時はにっと笑って、「間接キスだ」と子供っぽいことを言って笑う。高校生にもなって間接キスもないだろう。
「どうしようかなあ、そろそろ出さないとお小言だよね。まあ美人の鳥海先生のお小言なら喜んで聞きたいけど、こういう時ってどういうことを書くのかなあ。親の後を継ぐとか、そんなのかな? 君はもう決まっているの?」
「僕はあなたのお傍であなたを守りたいです。ボディガードとかSPとかでしょうかね。なんか格好良いし」
「わあ、そりゃ頼もしいや。君すごく喧嘩強いもんね」
 綾時はそう言いながら、なんだか表情が暗い。どうしたのかなと心配になっていると、「僕はどうすればいいのかな」と言った。
「未来のことを考えると、なんだか不安になるんだ。それに君がもしかしたらいつか、僕から離れてってしまうんじゃないかって、そういうこともたまに考えるよ。怖くてたまらなくなる」
「まさか、そんな訳ないです」
「うん。ごめん、変な話をしちゃった。忘れてよ」
「はい。本当ですよ。僕が綾時様を一人になんてするはずありません」
 僕は真面目な顔をして頷いた。綾時はそれに随分ほっとしたようだった。さっきよりも幾分か柔らかい顔で、「進路ねえ」と言った。
「僕も考えてみようかな。未来について一生懸命考えるなんて、なんだか不思議な感じだよ。僕、そんなことをしてもいいのかなって気持ちになる。本当に僕みたいな奴がそんなことしていいのかなってさ」
「当たり前です」
 僕は頷く。もしも綾時の選択に文句を言う者なんかが現れたら、僕が殴って黙らせてやる。僕はそういうのはとても得意なのだ。
 綾時が僕を見て、まだ少し不安そうに言う。
「ねえ、僕らずうっと一緒だよね?」
 僕は力強く頷く。そうすると、綾時はほっとしたように笑う。
 僕はこれからもずっと綾時の近くにいて、綾時のために生きるだろう。ずっとずっとそうなるだろう。僕が決めた、そういう決まりなのだ。
 だから僕は微笑み、綾時に言った。



「はい、僕はいつでもあなたのお傍に!」







[復讐代行人ST4〜いとしの僕の皇子様〜:終わり]


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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜