地球は青いものだと思っていた。でも今僕の下に広がっている星は、何とも言い難い、グロテスクな色に染まっていた。星じゅうをシャドウが覆い付くしている。僅かに覗いていた赤い色をした海も、やがては死のコールタールに埋れて消えていく。星ひとつがまるごと底無し沼になってしまったみたいだ。
 星は最後の力を振り絞るようにして大きく波打ち、そして静かになる。鏡のように平坦で美しい死の星の出来あがりだ。生命が溶け出し、シャドウのスープになって、全てを呑み込んだのだ。
 想像していたよりもずっと深淵な光景が、僕の目の前にあった。
 僕はこれまで、愚かな人類がもがき苦しみながら滅びていく様を、笑いながら見ていてやろうと思っていた。でも実際のところはそんな次元の話ですらなかった。僕の存在意義や生きていた証明や日々磨いてきた最強のペルソナ能力なんてものが、全部価値観ごと崩れ去ってしまうくらい、圧倒的で無慈悲な光景だった。
 滅びとはこういうことなのだと、僕は理解した。これは何があったって抗いようがない。僕だってニュクス様に抱えてもらってなきゃ、大勢の人類と同じように、すでにどろどろのシャドウに変貌していたことだろう。
「すごいですね」
 僕は正直な感想を言った。これでもすごく感動しているのだが、僕にはあまり語彙がないのだ。しょうがない。
 ニュクス様もそれに関しては理解して下さっているから、苦笑しながら『そうだね』と頷いて下さった。
 ふいに、ぽつぽつと水が降ってきた。赤い水だ。雨が降ってきたのかなと、僕は天を見上げ、そしてぎょっとした。
 ニュクス様が泣いていたのだ。がらんどうの目から、血の色をした涙がすうっと流れ落ち、僕の頬にぽつぽつと落ちる。
「ど、どうなさいました。何か悲しいことがあったんですか?」
『うん、すごくね。大好きな人が死んだら、人は泣くんだ。みんな悲しんでる。どろどろに溶けても、愛する者の滅びを嘆いている。でももうこの世界に泣くなんてことができるのは、僕くらいのもんだからね。涙くらい出るのさ』
 僕はそれを聞いて、思いっきり頭を殴られたような気分になった。
 滅びた人類を悼んで、この方はこれからも永遠に涙を流し続けるのだろうか? 数え切れない数の嘆きや痛みや苦しみを背負われるのだろうか?
『そんな顔をしないでよ。これも僕の務めさ』
「……そんな、あなたがそんな、泣くことはないんです。悲しむこともない。僕はあなたを望んでいます。みんなだって望んでいた。あなたを悲しませたいなんて思っちゃいないんです」
『いいんだよ。僕はこれでいいんだ。さ、カオナシ、最後に格好悪いとこ見せちゃったな。ごめんよ。そろそろ時間だ。僕に付き合ってくれてありがとう。君には感謝してる』
 ニュクス様は僕を手のひらの上に乗せて、『君ももう苦しまないでいい』と言われた。僕は頭を振る。
「……僕が死んでも、あなたは泣くんですか?」
『君が死んだら、僕は僕の為に泣くだろうね。誰かの代わりじゃなく、君がいなくなって寂しい僕がさ』
「僕は死にません。ずっとあなたのお傍に」
『無理だよ』
 ニュクス様が、聞き分けのない子供をあやすように、優しい声で僕を諭す。
『特別な人間なんていないんだ。みんな平等に死んでしまう。それが滅びってことなんだよ』
「知っています」
 僕は頷く。そしてニュクス様の腕を抱き締め、「必ずまたあなたの傍に」と言う。
「人として死ぬ覚悟なんて、とっくにできています。いつかまた、会いましょう。そしたらあなたは独りじゃないんです。僕がずっと、あなたのことをずっとお守りしますので」
『……いいのかい?』
「はい」
 僕は頷く。そしてニュクス様の剣の切っ先を胸に抱く。さっき貫かれた場所から少しずらした、心臓の上だ。
 いくら僕が半端なく丈夫な性質だろうが、さすがに心臓を突かれたら即死する。
『待ってるよ』
 そして僕は、僕としての役割をひとつ、終える。



◆◇◆



 肉体から這い出した心ってのは、すごく不便だ。まず目線がとても低い。地べたを這って歩かなきゃならない。今までちびだと散々馬鹿にされた僕だが、さすがにこれはない。まともな手足もなく、立ちあがることができない。
 しばらく苦労して動き回っているうちに、足の速さにかけてはちょっと自信がついたが、それにしたって僕がコールタールの水たまりみたいなものだって事実に変わりはない。
 僕は今になって、比喩でもなんでもなく、貌のない存在になってしまったわけだ。
 僕が立っている星は鏡みたいにつるつるしていて、スープみたいになった、僕と同じ人の心が蠢いている。遠くから見ていればそりゃ綺麗なものだったが、上を歩くとなるとぞっとしない。ちょっと油断すると、僕も星の一部に取り込まれそうになってしまう。
『そんなに急いでどこへ行くんだい』
 足元の地面が僕に語り掛ける。『お前誰?』と返すと、『誰でもない』と返ってくる。やはりくっつき合ってしまうと、元もとの自我ってものが薄れて消えてしまうのだろう。ただでさえ身体がなければ、個人って認識は曖昧になるのだ。もう人類は皆昔自分が人間だった時のことなんか忘れてしまって、自分のことを生まれた時から黒いスープだと認識しているに違いない。
『お前ちびのくせに、そんなに急いでどこへ行くの。こっちへ来て混ざれよ。そういう決まりなんだ』
『悪いけど、僕はニュクス様んとこ行かなきゃならないんだ』
『お前みたいなちびが? 皇様は相手にしてくださらないよ』
『そんなのわかんないし、お前らには関係ないだろ。じゃあ』
『まあ待てって』
 地面がぼこぼこと盛り上がる。大きな波が生まれ、僕を飲み込もうとする。呑まれたら終わりだ。僕は多分僕が誰だったかとか、何をしなきゃいけないのかだとか、そういうことを全部忘れて、星を覆うシャドウのスープの一部になってしまうだろう。それは困る。あの方を慰める者がいなくなってしまう。人類どもは、もう「悲しい」がどういうことなのかも分からないのだ。
 僕は足の速さを生かして必死に逃げる。だが相手は数が多い。何度か波に飲まれながらも、僕は溺れないように、必死で地表に顔を出す。
『なんだこれ。このちび、なんか変じゃないか?』
『なんか変だ。でも同じになったらもう分からなくなる、大丈夫』
 地面が波打つ。まるで大嵐の海を、裸で泳いでいるような感じだった。何度も飲み込まれる。でも僕は必死で地表に顔を出す。そういうことを、何度も繰り返す。
『ニュクス様あ!』
 僕は叫ぶ。叫ぶ、何度も名前を呼ぶ。
 あの方はたぶんまだ泣いているに違いないのだ。泣きっぱなしだ。そんなことは許されない。
 早く僕が行って「もう大丈夫です、これからはまたカオナシがお傍におります。あなたを泣かせる者は、この僕が殴って泣かせてやりますから」と慰めなければならないのだ。





 平坦な星に、ひとつきり、頭を突き出すようにして突っ立っている塔がある。僕も良く知っている、タルタロスだ。
 僕が人間をやっていた頃よりも、タルタロスは圧倒的に巨大だった。僕の背丈がものすごく縮んでいるせいもあったろう。
 それにニュクス様の居城にふさわしく、昔よりもなんだか長くなっている。天辺からマーカーみたいに光の筋が伸びて、月まで一直線に届いている。
 僕は空を見上げて、溜息を吐いた。月は瞼を閉じている。たまに大粒の赤い涙が零れて落ちてくる。ああまたあのお方は泣いているんだと、僕は考える。早く行かなければならない。
 塔に足を踏み入れ、僕は奇妙な懐かしさを覚えていた。中身はほとんど変わらない。あの頃のままだ。シャドウのスープに浸っているのは下層の領域だけで、中を這い回っているシャドウは、僕よりもいくらか大きいが、まあ個体と言ったって良かった。
 僕は本当に、いきがって都会に出たはいいが、いまひとつ上手くいかず、田舎に出戻ってきた不良息子みたいな気分だった。こそこそと柱の影に隠れながら大きなシャドウをやり過ごし、塔を上っていく。今の僕は疲れというものを感じることが無くなっているが、それでもやはり高い高い塔を上っていくのは堪えた。
 なにせ仲間の共食いを続け、まともにかたちを得たシャドウがうろうろしているのだ。僕みたいな個人の心の塊なんて、奴らにとってみれば飴玉やカップアイスとそう変わりない。
 僕のことを覚えてくれていたら良いのだが、それは絶望的だった。僕は身体を失っていた。見目が大分変わってしまっていた。シャドウたちは感覚で僕に気付いてくれるような器用者ではないのだ。良い所、ちょっと変な感じがする同族って程度だろう。
 ペルソナが使えれば良いのだが、ペルソナを喚べるシャドウなんて聞いたことがない。身体を失った今になっても、僕の意思が残っているだけで、奇跡だと言っていい。
 ともかく逃げたり隠れたりするのは得意な僕だ。なんとかやり過ごしながら、上へ上へと上っていく。





 様々な障害があったせいで、随分と時間を食ってしまった。僕はようようエレスへ辿り付き、僕の主の姿を探した。
 でも誰もいない。おかしいなと僕は考えた。皇様は王居にいるのが普通なのに、ニュクス様はどこへ行かれたんだろう? まさか僕がここへ辿り付くのが遅かったせいで、もう本体の、涙を流す月へ帰ってしまわれたのだろうか。
 それは困る。僕には空を飛べる羽根なんか付いちゃいないのだ。
 それとももしかしたら、僕が僕だって分からないのだろうか。他のシャドウたちみたいに、人のかたちをしていなければ、僕は彼に見付けてはもらえないんだろうか?
『ニュクス様あ!』
 僕は叫んだ。でも返事はない。アダマへやってきた他のシャドウたちが、ようやく僕に気付いてわらわらと寄ってくる。皆困惑しているみたいだった。王居に立ち入る無礼なシャドウなんて、普通はいないのだ。
 僕はとりあえず、落ち付いてひとつひとつ思い当たることから試してみた。やはり見た目は大事だろう。なんとか頑張って、人間のかたちを作っていく。
 でもいくら身体を持っていた頃は最強と呼ばれようが、ただのシャドウに成り下がってしまった今の僕には、随分時間を掛けても、小さな子供の姿を固定するのが精一杯だった。あのファルロスと同じくらいの背丈の、子供の頃の僕の姿だ。
 そしてもう一度僕は叫ぶ。
「ニュクス様!」
 返事は、やはりない。僕はちょっと泣きそうになってきた。ここまで何度も消滅しそうになりながら辿り付いて、でもあの方に会えないなんて、どうしようもない。
「綾時様……」
 鼻の奥がつんとして、涙が出てきた。僕は目をごしごしと擦り、なんとか泣くまいと堪えた。ニュクス様が泣いている時に、僕まで泣いてしまってどうするのだ。僕は彼を慰めなきゃならない。もう泣かないで下さいと言わなきゃならないのだ。



「綾時様ぁ……!」



『栄時?』



 声が聞こえた途端、僕は、ばっと顔を上げた。
 はたして、夜空には僕の主がいた。この星の皇だ。ニュクス様が、あの美しい翼を広げて、エレスに降り立った。
「りょ、綾時様、」
『遅くなってごめんよ。気が遠くなるくらいに、ニュクスを呼ぶ声が聞こえるんだ。でもその仮初の名前で呼んでくれるの、もう君だけだからさ。聞こえたよ』
――綾時様っ!」
 僕は転げそうになりながら駆けていき、僕の主に飛び付いた。でもその瞬間、気が緩んだのだろう、僕の身体は解けていき、また水たまりみたいな不恰好なシャドウに戻ってしまう。
 でもニュクス様は器用に僕を抱き止め、『これはまた可愛くなっちゃったねえ』と言われる。ぴいぴい鳴いている僕の頭を撫でて、『おかえり』と言われる。僕は頷く。
『待ってたんだ。約束を守ってくれてありがとう』
 僕は何度も何度も頷く。僕の主の顔を見上げて、『あなたは僕がお守りしますから』と言う。
『もう独りじゃないですから』
『うん』
『僕がこれからまた、ずっとずっと一緒にいますから。だからもう泣かないで下さい』
『うん』
 ニュクス様が『ありがとう』と言われる。僕は随分と不恰好で、死ぬ程申し訳無かったし、恥ずかしかったが、これを言うためにここまで来たのだ。



『僕は、もう二度とあなたを泣かせはしない』








[復讐代行人ST4〜いとしの僕の皇子様〜:終わり]


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管理人:ゆりんこ 2007年04月29日〜