信仰の獣

       1

 ──そう、見つけた。

 体が弾丸のように勝手にはねて、いつも隣を歩いて見上げていたソウゲンの、大きな体をめがけてぶつかっていった。
 スズランは、自分のような非力な男に、そんなことができるとは、思ってもいなかった。とっさに放り捨てた錫杖が、地面に転がって硬い音をたてて震える。
 突き飛ばしたソウゲンと入れ替わりに、降ってくる刃と向かいあう。ぎらぎら。嵐の夜に、雷がひらめくのを見ているようだ。
 死を前にスズランが感じているのは、恐れではなく、胸がはぜそうなほどの喜びだった。
 心臓がバクバク波打って、頬に赤みが差し、『見つけた』と、やけにゆっくり動く世界のなかで繰り返す。見つけた、見つけた。斬ったはったをしている場合じゃなかった。

「……スズラン殿!!」

 ソウゲンが叫んだ。この人はこんなにも大きな声も出せるのかと、スズランは感心した。
 ばっさりと刀で体を斬られても、痛くはなかった。
 それを感じる一瞬あとには、もう死んでいるだろう。楽な死に方だ。罪悪感をおぼえるほどに。

(そっか。僕は……。僕が信じるものは。神様は──)

 ──この人だったのだ。

 見開いた緑の目に、無残にほどけていく己の肉体が映っている。とても綺麗な目だ。恨みを知らず純粋で、濁りのない無垢な目だ。

(神様じゃなきゃ、こんな目はできないよね。どうして気づかなかったんだろう)

 この人に会うために、今まで生きてきたのだ──無意味だとあきらめていた人生に、こんなにも意味があったことに、スズランはひどく驚いていた。
 己という人間は、このとき、この一瞬に身を投げ出して、神様の身代わりになって死ぬために──あの日にひとりだけおめおめと生き残って、汚泥にまみれてみじめに歩き回り、恥知らずの顔をして生き伸びてきたのだと、スズランは今ようやくわかった。
 しかし、困った。無為なものを意味があるものに変えてくれた己の神様への、祈りの言葉がわからない。
 こんな宗派は知らないし。仏教神道キリスト教、どこの教義にも記されていない。
 これって、どういう解釈? なんて祈ればいい?

「すき」

 口が勝手に動いて言った。
 そっか。そういうこと。
 本当の信仰とは、見返りを求めず、ためらいなく殉ずる聖なる愛だ。
 神を信じて祈る言葉は、人の、神への睦言か。
 やっとわかった。わかって、死んだ。あの女の言うとおりだった。
 長い間、罰だ報いだ呪いだと怯えていたものは、なんのことはない、すばらしい福音だったのだ。藤堂平助が手をあげた時に、きつい拳骨をくれるのかと歯を食いしばったら、逆に褒められて頭を撫でられちゃったみたいなもの。予想外にうれしい。

「大好きだよ、ソウゲンちゃん」

 うん、すごくいい。単純で、とてもすてきな祈りの言葉だね。

       1

 ──寛永十五年、二月二十八日(一六三八年四月十二日)。

 四方を有明海に囲まれた原城に、三万七千人の一揆軍が立てこもっている。
 キリシタンを中心に、飢餓貧困にあえぐ農民、浪人の入り混じった烏合の衆。女子供や病人などの、戦う術を持たない者も含まれている──。
 対するは、ネーデルラント連邦の助力を受けた江戸幕府軍の精鋭、十二万五千人。
 ──のちに、日本の歴史上でもっとも大きな一揆であったとされる、『島原の乱』である。
 一揆軍の総大将は、天草四郎時貞。まだ幼さの残る、十六歳の少年だ。
 白い絹の着物を着て、クルスの旗印を持ち、薄笑いを浮かべながら座している。額には脂汗が浮かんでおり、すみれ色の短い前髪が濡れて貼りついている。
 戦況は、一揆軍の圧倒的不利にある。それでも、総大将がうろたえるわけにはいかない。ただでさえ、もうみな限界なのだ。

「天草四郎さま。ご報告をいたします。原城を守る遊軍二千人、幕府軍の攻撃に遭い、全滅いたしました。浮武者頭の松右衛門殿は、細川藩の長岡帯刀と一騎討ちの末に、戦死──。せめて、芦塚殿が、ここにいてくださったら……」

「もうよい、千束。すべては神の思し召し。我らの祈りを、父なるデウスは聞き届けてくださる。必ずや奇跡が起こり、正しき者の敵を打ち滅ぼして下さると信じるのだ」

 天草四郎はうつろな目をして、薄っぺらく言った。
 食料は尽き、水も尽き、口にできるものは崖下に広がる海の藻草のみ。迫りくる確実な敗戦と死の恐怖にさらされて、いま戦うものの心を支えるのは、キリシタンの信仰だけだ。
 「あんめんりゆす(アーメンデウス)」と誰かが唱えた。「あんめんぜんす」「あんめんりゆす、マルヤさま」──。
 じつのところは、ここにいるキリシタン信徒のほとんどが、その言葉の意味を知らない。
 唱えれば博打に勝てるという、不思議な呪文。先祖伝来の仏像の前で、手をあわせて口ずさむ拝みの口上。決まりきったお題目。
 デウスもマルヤもなにも知らない彼らの祈りは、唄のようだ。ただの習俗。
 『国土安全万民快楽』──そう無邪気に唱えた天草四郎の祖父の言葉と同じ、空虚な音の高低。
 誰も、信仰のために戦ってなどいない。
 この乱の首謀者らが誠に信奉するのは、デウスでもマルヤでもなく、豊臣の血だ。徳川憎しの一念で、今この場に立っている。
 彼らの神は亡霊だ。『国土安全万民快楽』。取り憑かれたあげくの果てに、豊臣復興を掲げて、江戸幕府に不満を持つ者たちを集めて挙兵した。
 苛烈な年貢の取り立てに耐えきれなくなった農民や、働き口を失った浪人、迫害されるキリシタンたち。寄せて集めて、『救世主』と慕われる天草四郎少年を、その名を、血を、士気高揚に利用した。
 だからこそ敵方は容赦せず、一揆軍を、ひとりのこらず漏らさず殺す。
 『キリシタンの反乱軍ということにして』殺すのだろう。
 この乱の首謀者の天草五人衆。最期は逃げて隠れて生きるしかなかった、亡き父。キリシタン。農民、浪人たち──誰も、自分の頭で何も考えていない。
 ただ状況に流されて、誰かの思惑にのっかって、楽なほうに楽なほうにと、海藻のように揺らぐだけ。
 それは己も同じだと、お飾りの総大将に仕立てあげられた天草四郎は知っている。
 まもなく城が落ち、幕府軍がなだれこんできた。

「──豊臣秀綱公。いいや、反乱軍の総大将、天草四郎時貞よ。その首、頂戴つかまつる!」

 肥後細川藩士、陣佐左衛門が斬りこんできた。
 刀を握ったこともなかった、非力な天草四郎少年の首は、あっけなく飛んだ。

       * * *

 長崎出島で首をさらされていた天草四郎が、雨の夜中に眠りから目覚めると、分かたれたはずの体が生えてきていた。
 たしかに斬首されたのに。首に入った赤い線を、指でなぞる。

「オレは──なぜ生きておる」

 うめきながら、泥にまみれて、天草四郎は逃げ出した。何に追われているのかもわからないまま、夜をはしる。

「うう……。芦塚。芦塚はおるか……。どこだ、うううぅ……」

 ──花のような秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり加護島へ。

 京のわらべがそう唄ったように、亡き父を助けて薩摩へ逃れた真田幸村──いまは芦塚大左衛門と名乗るしもべを呼びながら、さまよう。
 かつては大坂夏の陣で徳川家康を追い詰め、日本一の兵と讃えられた武将も、今は老いて病に伏していた。忠義にあついこの老兵が、戦において力になることかなわず──敗けて晒された主人の首を見上げて望みをなくし、その場で自刃したことを、天草四郎は知らない。
 春の雨の夜。黒い、荒れた海が見えてきた。
 海に囲まれた原城は、三日前の戦の姿を、まだそのまま留めている。打ち壊され、みっしりと並べられた躯の山のそこここに、クルスにメダイにロザリオが、割れて砕かれ散乱していた。
 飢え、乾いて、黒い大波のように押し寄せてくる幕府軍に呑みこまれ、ひとり残らず全滅した一揆軍の躯に囲まれて、天草四郎はただひとり生きてそこにいた。
 しびとの復活は、デウスの御業。
 しかし、これを奇跡だというのなら、なぜ、城にこもって祈るこの弱い者たちを、救ってくださらなかった。役立たずのお飾り大将が、ひとり蘇ったところで、今更何になる。
 せめて、しびとたちが天に召されていれば、安息を祈ってやれるものを。
 傷ついた魂たちは、いまだに戦の終わりを知らず、自らの終わりを知らず、落ちた原城に立てこもったまま、何度も死の瞬間を繰り返して断末魔をあげていた。
 天草四郎には、しびとの魂が見える。だから、わかる。命を落とした者たちが、パライソにもインヘルノにも行けず、この地上に縛りつけられて永劫苦しむさだめがわかる。
 天草四郎は身を翻し、原城を囲む有明海に身を投げた。
 キリシタンにとって、自害は禁忌。神を裏切る大罪。知ったことではない。
 祈りが届かぬ神ならば、おらぬのと同じだ。

 海に投げた身は、数刻後か、数日後か、陸に打ち上げられて──。
 天草四郎は、崖の下でふたたび目を覚ました。

「なぜ死ねぬ?」

 幼いころより、夢で見た青い女が、涙を流しながら告げる言葉を思い出した。
 谷間に揺れる鈴蘭畑に降り立って、女はこう言う。

『本当の信仰を見つけたときに、あなたは死ぬでしょう』

 それを見つけたときに、己は死ぬ。
 だから、まだ死ぬことはかなわない。許されない。
 本当の信仰。

「あんめんりゆす、マルヤさま」

 ──救いを願って頭を垂れる、祈りの題目。

「きりやれんず、きりすてれんず、きりやれんず、ぐるりよぉざ」

 ──オラショを口ずさみ、天を仰ぐ。これは信仰ではないのか。

 ならば、なんなのだ、それは。とんと見当もつかぬ。死ぬすべが見つからぬ。
 天草四郎がうつろに天を見上げていると、岸辺に女がひとり通りかかり、もし、と声をかけてくる。若い比丘尼であった。

「死すべきすべを見失い、こうして八百年のあいだ、さまよい続けております。どうやら、あなたも似た身の上の様子と思い、声をかけてしまいました」

 比丘尼は、崖の下の谷間の鈴蘭をつんで、天草四郎にさしのべてきた。
 薬に詳しい父に、決して触れてはならぬと言い含められてきた、毒の花。夢に出てくる花を差し出す比丘尼は、あの女に面差しが似ていて恐ろしかった。

「死なずの知らせを夢で見たのなら、まだそのときではないのでしょう。私も同じく。それまでこうして八百年、ほうぼうを歩き回っております。仏の道をときながら、救われるべきものを探して、手をのべるために……」

 女が去ったあとも、小さな百合のような花が連なって揺れているそれを握って、天草四郎は死んだ目で、いつまでも海の果てを遠く見つめていた。

「本当の信仰……。それを、見つけねばならぬというのか。これから百年。八百年。そんなものが、はたして見つかるのか。見つけられるのか。オレは……」

 ──ほんとうは、誰よりも、神など信じておらぬというのに。

 人を救わぬ神など、ひとつもあてにならぬと、胸のうちで唾を吐いていたのに。

       * * *

 ──いや、見つかったよ。

 それは、走馬灯で見た、昔の己の姿だ。
 生きる価値も死ぬ価値もないお飾りは、その祈りでもその血でも、誰ひとり救えず殺して、うずくまって震えていた。遠い春の日の自分自身に、声は届かないと知っていたが、語りかけずにはいられなかった。

 ──僕、神様を見つけたんだ。たくさん歩いて、たくさん探して、そりゃしんどいこともたくさんあったけど。全部帳消しにしちゃうくらいの、本当の信仰をさ。

 ──でもねえ。そうなったらさ、死にたくないって思っちゃった。本当の信仰のために、祈りながら生きていたいって。あまのじゃくだよねぇ。

 天草四郎は、死に魅かれてふらふらと立ちあがり。

「きりやれんず、きりすてれんず、きりやれんず、ぐるりよぉざ──」

 焦点のあわない瞳で、音の狂ったオラショを口ずさみながら、闇の向こうへと消えていく背中を、いつかの己を、スズランは静かに見送って──。

       2

 とある男が旅に出たとき、山中で足を怪我して困っていたところ、大きな木箱を背負った医者と行き会った。

「これで大丈夫でしょう」

 傷の処置をする手つきは手慣れており、都ではさぞ名のある医者だろうと感謝し、これからどちらへと問うと、南へ、と短く返ってくる。

「家内が、故郷をともに見たいと言っていましたので」

 穏やかだが感情の起伏が乏しく、一見冷たそうな男だが、これが意外と細君にぞっこん惚れこんでいる。幸せそうなのろけにおかしくなって苦笑しながら、恩人の旅が楽しいものであることを祈った。
 聞けばこの医者と細君は、出身はふたりとも近かったのに、出会ってねんごろの間柄になったのはつい最近のことで、めぐりあえた縁を喜びつつも、それをすこし残念にも思っているのだという。

「早くに出会えていたら、今みたいにずっと楽しかったのにと笑われましたので。情の豊かな方なのです。小生、考えても仕方のないもしもを想像することなど、今までなかったのですが……いやはや、わからないものなのです」

 長身痩躯の二枚目が、はにかんだように笑うのがなにやら可愛らしい。
 では、と別れるときに、花のような匂いにつられて振り返ると、医者の背負った木箱の隙間から、人の手のようなモノがちらりと覗いた。

 ──いやいや、猿の手だろう。医者のやるようなことは自分はわからんが、きっと薬になるのだ。
 そう考えながらも、なんともいえない薄気味悪さが残った。

       * * *

 ──家内。

 ソウゲンの口を自然について出た言葉は、あまりにも違和感がない。
 スズランが、好きだと笑った顔を見た。
 ソウゲンも同じ気持ちである。なればもう自分たちは、そういうことなのだろう、と思っている。
 背中で聞いているスズランはどう思っただろう。バラバラに壊れた肉の体は、拾い集めてきれいに直して、手足を折り曲げた屈葬の姿勢で木箱のなかに収められている。
 スズランの目に見える魂とやらは、そのへんを酩酊した酔っ払いのごとく、ふわふわと漂っているのだろうか。己とスズランの目玉をすげかえたら、かの人の姿が見え、声が聞こえるようになるのだろうか。
 ソウゲンは興味をひかれたが、己の血肉がスズランと混ざるのが、咲いている花を手折るような、スズランを殺めた男たちと同じような無粋な感じがして、できずにいた。

 ──それにしても、家内か。

 家だのなんだの四角い箱の中に人を閉じこめておくような、窮屈な言葉である。
 箱。
 小さな箱の奥にでも恭しく閉じこめて、守ってやらねばと──ソウゲンはスズランにはじめて会ったときから、その顔を見るたびに感じている。
 スズランは非力な人間であるが、いい歳をした大人の男だ。それが、女人や童を相手にすら感じたことのない衝動に、心を揺らされる。
 スズランにエレキテルのからくり箱を贈ったときも、そんな気持ちだった。小さな箱が脳裏に浮かぶ。幻視ともせん妄ともつかぬこの感覚は、どこからくるのだろう。
 背負った木箱に、スズランの体を閉じこめて歩いていく。それがなんとも心地よい。あのにぎやかなお喋りが聞こえないのは残念だけれど──。
 おや、とソウゲンは口の中で呟いた。
 わらわらと湧いて出て、道の先に立ちはだかった男たち。履物に『薩賊会奸』と書き入れて、薩摩と会津への恨みをこめて踏みつけて歩く姿。
 スズランを殺した長州軍であった。

       * * *

 律宗、壬生寺。
 新選組の隊士を弔う壬生塚のある寺の本堂で、藤堂平助はひとり経をあげている。
 藤堂は以前、スズランに寺に連れこまれて日夜坊主の真似事をしていたことがある。それは、失った本物の新選組の幹部たちの安らかな眠りを願ってのことであって、スズラン当人を弔うために始めたわけではない。
 それなのに──本物と替え玉の斎藤一を、並べて拝むことになろうとは。
 南無毘盧舎那仏の合間に、馬鹿者、と藤堂は毒づく。

 ──死なずだの、白蔵主の狐だの、奇怪な噂ばかりが一人歩きしていたくせに、本当に死んでしまったら誰とも変わらぬ、ごくふつうの人間だったではないか。本物の新選組幹部の皆さんと同じに、この役立たずを置き去りにして先立ちおって──。

 祈りだか呪詛だかをこぼしていると、本堂にアキラが駆けこんできた。

「藤堂。来てくれ」

 近藤局長が、と息を荒げて続ける。ただごとではない様子だ。
 
       * * *

「やりやがった、あの野郎……!」

 一番星が険しい顔で吐き捨てた。
 ツキトの墓である。
 土がほじくりかえされて穴が開き、墓標の刀が消えていた。棺のなかはからっぽだ。
 アキラに連れられて駆けつけた藤堂は、まさか、と肝が冷えた。
 今朝、ソウゲンがいなくなった。
 相方のスズランが死んでしまってから、最近あの男はおかしかった。掘り返された墓から、埋葬されていたはずのツキトの死体がなくなっている。医者が、躯を持って逃げたか──。

「どこ行きやがったかしれねぇが、死んだ弟の体を慰み者にされるとなっちゃ、俺ぁ黙っていられねぇ」

 頭に血がのぼっている一番星と対照的に、サクヤはいつもどおりに冷静だ。荒らされた墓の土を検分している。違う、と気づく。

「穴のふちが盛りあがっている」

 鋤を上から入れて掘っていけば、土が下へ落ちていく。サクヤがボソボソと喋るのに、藤堂も合点がいった。ツキトの躯が消えたのは、ソウゲンの仕業ではない。

「じゃあどこ行ったんだよ、ツキトは! 俺の弟が墓の中からテメェで抜け出して、どっか出かけちまったってのか。そんな無茶な話が……」

 感情のたかぶりをサクヤにぶつけて叫ぶ一番星だったが、徐々に呆けた顔つきになっていく。

「……無茶な、話が」

 昨今身のまわりで起こるのは、無茶な出来事ばかりだ。人の魂を動力源とする霊式兵器に、何百年も昔に存在した歴史上の人物の復活。
 骸が勝手に起き上がろうが、いまさら驚くほどのことでもない。

「ツ、ツキトが生き返ったてえのか。えっ。なにが起こってんだ……」

 サクヤはふところから、ソウゲンから受け取った置き薬の袋を出した。

「昨日、自分にと、ソウゲンは薬を置いていった。しばし旅に出ると」

       * * *

 ──昨晩、サクヤがいつものように、肺病を診てもらうために、ソウゲンの研究室を訪れたときのこと。
 相変わらず物の多い雑多な部屋である。使い道もわからない不気味な器具ばかり。
 今晩は、棚の上に顔見知りの首がある。
 スズランだ。頭の下に、小さな座布団をしいてもらっている。
 伏し目を縁取るまつげが、頬に長く濃い影を落としている。ずっと考え事をしているみたいな顔だ。
 死化粧でも施してあるのだろう、血色はよく、家主みたいな顔をして他人の部屋に入り浸っていた生前と同じように、『あら、いらっしゃあい』と今にも喋りだしそうな様子。
 本人と同じくうすっぺらいすみれ色の目は、最後に見たときは片方がなくなっていたはずだが、今はどちらも揃って眼窩におさまっていた。
 目玉の代わりにガラス玉を嵌めこんでいるのか、律儀に探して拾いあげてきてやったのか。
 どうせ死体は目など見えないから、どちらでもいいかと思いなおす。
 これはずっとここにあるのだろうかと、サクヤはぼんやりと考えながら、棚の上のスズランの首を見上げている。

「そうそう、土方殿にお願いが。小生、しばらく暇をいただきたいのですが」

 ソウゲンが背中を向けたまま、薬をいつもより多く調合しながら、のんびりと言った。
 医者は働きすぎだから、少しは休めと藤堂が言うのを何度も聞いていたが、今なのか。年がら年中死体の相手をしているこの男でも、親友スズランの死が少しはこたえたのだろうか。

「スズラン殿にお聞きしたのですが、我々は存外故郷が近くなのでして。それで先の変の後始末が一段落つけば、ともに故郷を見ようという話をしていたのです」

「また捕まる」

 サクヤは、まっとうなことをいった。
 ソウゲンが咎を得たのは、死体漁りが原因と聞いている。懲りていないらしい。
 悪いことだとは思っていないのか。そもそもこの男に、善悪とやらの区別がつくのか。
 悪を悪と知ってなお、成すべきと決めて構わず成す者からすると、こういう次の手の読めぬ狂人が一番恐ろしい。
 ソウゲンは、なるほど、という顔をしている。

「では、首に体をつけたあとで、箱にでもつめてまいりましょうか。スズラン殿、いささか窮屈な道中になりますが……よろしいか」

 ソウゲンは優しげに、スズランの首に話しかけて。

「ああ、死んでおられました」

 失念していた、というふうに、ぽんと手を打った。
 サクヤもさすがに不気味に思い、暇の許可を出すと早々、薬をもらって部屋を出た──。

       * * *

「スズランの死体は持っていったのかよ、ソウゲンは。死体と二人旅とか、気が狂ってんな」

「今になって狂ったわけではなく、ソウゲンはもとからああだ。だから気にしなかった。死体を背負って歩く男など、珍しくもなんともない」

「闇殺しの常識でモノ考えんなよ。おかしいんだって、そりゃあ」

 一番星がやぶにらみになった。
 昨日、サクヤの会ったソウゲンは普段と変わりなく、本当にただ旅行に出かけるつもりのようだった。
 スズランの躯を、愛用の枕のごとく、折りたたんで薬売りの背負箱に収めて持っていったが、『己が死んだら、遺体の扱いは山南敬助に一任する』という、新選組に入る以上は全員が書かされる念書がある。
 生きているうちに本人が書いたものだ。この紙が一枚ある以上、ソウゲンが誰の死体をどうしようが、ほかの者は何も言えない。

「じゃあ俺らも死んだら、ソウゲンに解剖されんのかよ!?」

「仏さまになったら、痛いのも痒いのもないし、今までいっぱいお医者の先生にお世話になったから、ギャタ兄はいいって言ってた。置き土産にくれてやるって。だから、オデもいぃマァ」

 一番星が鳥肌を立てて叫んだ横で、握り飯を食らいながら、ボウがのんびりと言った。
 さっきまで腹を立てていた一番星も、ソウゲンに世話になりっぱなしなのは本当なので、「まあ、そう言われればそうなんだけど」と頷くしかない。

「しかしソウゲンのやつは、スズランの遺体をどうしようというのか」

 アキラはソウゲンが、死んだスズランに約束していたとおりに、無残な姿にされた躯を元通りになおしてやったのは知っている。
 形を整えようと、しびとはしびと。命は戻らず、よみがえりはしない。
 しかし──。
 狐憑きと噂される、生者にとりついたしびとたちの魂が、京の町を跋扈している。
 先の禁門の変では、何百年も前の人間が化け物の姿で蘇り、あたりかまわず破壊してまわった。
 人間の魂の存在を裏付ける、数多の面妖な術。
 死者の復活の奇跡。我が物顔で現世にのさばる物の怪ども。
 医者が到底信じられなかっただろう非科学的な超常現象が、さすがのソウゲンでも信じざるをえないほどに度々起こる。
 ううむ、と藤堂は唸った。
 ソウゲンは頭がいいものの、己の興味あることに夢中になるあまり、そばに止める者がいなければ歯止めがきかなくなる。
 そういう危ういところがあるのは、現世に執着の薄いスズランも同じで、あのふたりはお互いがお互いを、人の道を外れぬように引き留めあっていたような感じがあった。
 スズランがいなくなってしまった今は、ソウゲンを御せるものが誰もいない。

「ソウゲンは天才だと、皆もあやつ自身も知っている。土御門が見せたよみがえりの秘術を、あれは己の目で確かめたのだ。今ごろ、よからぬことを考えておらねばいいが……」

 誰かの手でできることならば、己も同じようにできぬはずがないと、ソウゲンは考えているのではないか。
 土御門の技をなぞり、友人のスズランの遺体を、よみがえりの実験に使うつもりではないか──。

「そういえば、ギャタロウはどこへ行ったのだ。ボウ、知っているか」

「ソウゲンが旅に出たの、追いかけてった。スズランから聞いた話、教えてもらいにいくって」

「まだ埋蔵金を探すとか言っておるのか、あやつ」

「んん。ギャタ兄、お医者の先生のこと、心配してるんだと思うマァ」

 ボウがつぶらな瞳をまたたかせて、おひつにしゃもじをつっこんだ。

       3

 刀を手にソウゲンににじり寄ってきていた長州藩の侍が、腹に響く轟音とともに、のけぞって倒れた。頭には星形の穴。
 永倉新八の愛刀・播州住手柄山氏繁(びしゅうじゅうてがらやまうじしげ)をスペンサー銃に作りつけた、見慣れた銃剣から煙を立ちのぼらせて、ソウゲンが今しがた踏みしめてきた山道にギャタロウが立っている。
 ソウゲンと目があうと、ばつが悪そうに後ろ頭をかきながら、ヒヒヒ、と何かをごまかすような笑みをこぼした。

「助かりました、ギャタロウ殿。しかし、なぜここにあなたが」

「いやぁ、スズランに聞きてぇことがあったんだが……坊主の頭のなかにしまいこんだ、宝の地図の話だがよ。結局聞けずじまいだァ。逆にお医者先生なら、酒の席ででも、とっかかりを耳に入れてんじゃねぇかと思ってな。追いかけてきちまったワケよ。アンタァ、坊主とたいそう仲がよかったじゃねぇか」

「そう言われましても、今回のことは小生も初耳なのです」

「まぁそう、つれねぇコト言うなって。オイラもひとつ、天才様のお相伴にあずかろう、ちゅーワケで。旅は道連れ、なんかの拍子にギャッと思い出すかもしんねぇしよ、なっ」

 揉み手をしながら、猫撫で声を出すギャタロウ。ソウゲンは、いつもと同じく気の抜けた顔で、「はぁ」と頷いた。

「……とのことですよ。スズラン殿」

 背負った木箱を平たい岩の上にうやうやしく置いて、蓋を開けようとするので、ギャタロウは慌てて止めた。

「イ、イヤイヤ。オイラァべつに、スズランの顔を見にきたってワケぎゃねーのよ」

 スズランが不逞浪士に殺されてから、もう幾日も経っている。季節が夏の盛りを過ぎたとはいえ、躯は傷んでいるだろう。
 仲間の死体を見るのは慣れっこだが、わざわざ腐り落ちた姿を見たいわけではない。生前、自分の見目を人一倍気にしていたスズランならば、なおのこと──見ないでいてやりたかった。

「おや、そうですか」

 かすかに開いた箱の隙間から、白い手が覗いている。
 どういう手品かまやかしか、刀で斬られて打たれてバラバラになった肉片を寄せ集めたものであるはずが、傷も縫い目もひとつもない。
 ソウゲンの手腕はいつもながら見事すぎて、ゾッとするほどだ。
 その道を極めたものの手腕は、理屈のわからない者の目には、神様みたいに映るものかもしれない。
 ソウゲンはまごうことなき天才で、おおよそ人間というものを、読み終えた一冊の書物のようにきわめている。

 ──そういうシュッとした男が、友達ひとりの生きた死んだで、こんな気狂いになっちまって。初めてできたダチ公だったんだろうなぁ。大事に思ってやがったんだろうなぁ。

 ギャタロウはこみあげるものがあって、口を結んでサングラスをおろした。年をとると、涙もろくなっていけない。
 ソウゲンは新選組の替え玉をはじめたときから狂っていたが、今回はいつもとは様子が違っている。もともとは、目に見えない魂など信じる男ではなかった。 
 魂──そういう話は、スズランの専門分野だ。
 この世が捨てたものでもないのは、捨てる神あれば拾う神ありで、欠けたところを補うものが、不思議とどこかから降ってくるからだとギャタロウは思う。
 人を現象としてとらえて魅せられているソウゲンに、ちょうど欠けていたのが、魂やら心やらの目に見えぬものについて、長いあいだ思索の時間を重ねてきたスズランだ。
 お互いに欠けたものを補いあった完璧ゆえの、静かで満ち足りた空間ができあがった。そこで、しびとを開いて満足していた男が、人への友愛を知ったのだろう。
 一度完全に成ったものは、また欠けてつりあいがとれなくなってしまったときに、どうなるか。
 心を壊した子どもを、何度か見たことがある。
 まだクソみたいな浮世になじまず、スレていない幼い心の者は、喪失の感覚に耐性がない。体力がない者が剣を振ろうとするのと同じだ。罅が入ったところから、一気に崩れてしまう。
 ソウゲンも、そうではないか。
 昔の話を聞けば、部屋に引きこもって書のみを話し相手とし、新選組の山南敬助に成り替わるまでは、気心の知れた友と酒を酌み交わして羽目を外したこともなかったという。
 しびとはしびとだ。蘇ることはない。腐り果てて土に還るだけ。
 新選組の面々の中でも、人を知り尽くしたソウゲンは、とくに強くそう思い知っていただろう。
 土御門の血の源である平安時代の陰陽師、安倍晴明が実際にこの世に蘇る姿なんぞを見るまでは。
 己の常識を打ち砕かれたそのあとで、大切なものが手からこぼれてしまったら──あの化け物の在り方に、希望を見出してしまいはしないか。

「ギャタロウ殿は、小生をおかしな男とお思いでしょう」

 箱の隙間からこぼれた白い指を、うやうやしく大事にしまって、ソウゲンが眉を寄せて笑む。

「かつては、小生にとって死とは、ただの現象だったのです。人は生まれ落ち命を得た瞬間から、死へ向かって落ちてゆく。それを捻じ曲げることは絶対に不可能な道理。そう考えておりました。スズラン殿に出会うまでは……」

 スズランの不思議な瞳には、ソウゲンの目には見えないものが見えていた。金飾りをつけた耳には、聞こえない声が聞こえていた。
 ふたりで話をする機会が増えるごとに、それは嘘ではないと感じるように、ソウゲンの心は変わっていった。

「いまは小生、人には魂があると信じております」

「お医者先生、存外熱い男だったんだなぁ。安倍晴明みてぇにスズランを生き返らせてやろうと、こうして連れ出してきてやったんだろ──オイラぁ、いくつも先生にギャりを作ってるからよう、いっちょ手を貸そうじゃあねぇか」

 ギャタロウは己の胸をドンと叩いて宣言した。
 その胸の中で、もしもスズランが蘇ったなら、埋蔵金の地図でもなんでも作らせて、長州藩や新選組よりも先に宝を手に入れてやろうと画策する。
 生き返らせてやった借りをちらつかせてやれば、坊主も嫌だと首は振れないだろう。
 ギャタロウは新選組に恩義はあるが、忠義はない。そもそも、金を独り占めするなとは、命じられていないのだし。
 よみがえりの奇跡なぞ眉唾な話だが、本物の天才のソウゲンなら、本当にやってしまうのではないかとギャタロウは考えている。どこかに前例があり、それをこの男が目で見たならば、再現してみせるだろう。かの平賀源内が、長崎でオランダ製エレキテルを復元したように。
 ギャタロウは胸中でそろばんをはじいてほくそ笑んだが、ソウゲンのほうは、いまひとつピンとこないような顔をしている。

「スズラン殿を生き返らせる、ですか。よくわかりません……」

「いや、わかんねえのかよ。また会いたいとか、喋りたい、酒呑みてぇ、何なら一緒に女抱きてぇ、そういうカーッと熱い気持ちでよう。おスズの死体を背負ってるんじゃないのか」

「とくに、そういうつもりは」

 ソウゲンはスズランの仕草をまねるみたいに、首をかしげた。

「スズラン殿の防腐処理は完璧なのです。小生の死後も末永く、あの永久死体のように、ひとつもかわらず同じ姿であられるでしょう。ご存じですかギャタロウ殿、人間はみな死体なのです。人を人の形に見せる皮は、すでに死んだ細胞でできている。命を宿して動く部分が死体をかぶっているだけで、人は生きていても死んでいても大して変わりないのです。どちらも等しく、興味深く……ただ残念ながら、生きていても死んでいても興味深いスズラン殿の、たとえば骨の長さや目方をはかっているだけでさえ、驚くほどの時間が過ぎていくのです。ですので小生はおそらく生きているうちに、この方が遺された体をすべて知ることが叶わないでしょう……実に心残りなのですが……」

 ソウゲンは、自分の話にギャタロウがついてきていないことを気にも留めずに、クドクドと喋り続けている。
 この男は死ぬまでスズランの躯をもてあそんで、それで満足らしい。
 常人の感覚では理解しがたいが──逆にスズランにならば、この男の言っていることがわかるのだろうか。
 ギャタロウはそう考えて、いや坊主にもわからんか、と思い直す。
 アイツもよく隣で、このお医者の先生の奇行に引いたりしてたもんな。

「だけどよォ、いっしょにやりたかったこととかよ、まだまだあんだろォ」

 ギャタロウは往生際悪く、ソウゲンに言い募る。この気狂いの医者にスズランを生き返らせてもらわねば、埋蔵金のありかがわからないのだ。
 下手をすれば国がひっくりかえるほどの、とんでもないお宝である。
 手に入れれば、もう小さな仲間たちが飢えたり、金に困ってやばいヤマに手を出して、簡単に命を落とすこともない。
 雨風しのげる立派な屋敷で、温かい飯を腹いっぱい食って、硬い地べたではなく布団で寝れる。大事な子供たちが、毎日歌でも唄いながら気楽に笑って暮らせるようになる。
 恩人の藤堂が、ギャタロウをそうしてくれたようにできる。

「たとえばほらよ、今度顔を突きあわせて呑もうって言ってた銘柄の酒ギャあったじゃねーか。何より、あんなに女に飢えてたスズランの奴がよ、童貞のままおっ死んじまったのが、オイラぁ憐れでよ。そう思うだろォ、先生」

「小生も、スズラン殿と同じく童貞ですが……」

「マジかぁ。これぎゃからオタクどもは」

 ギャタロウは理解できなさすぎて、眉間に皺を寄せた。
 色っぽいお姉ちゃんの良さも知らずに、よくここまで生きてきたものである。頭ばかり使って生きている奴らのことは、本当によくわからない。
 ギャタロウはその道の先達として、ソウゲンとスズランを二人並べて、ありがたい説法をしてやりたいくらいだった。

「この先の長崎にゃ、有名どころの丸山遊郭ギャあんだろが。前に住んでたときに、行ったこたぁねェのか先生」

「何度かあります。梅毒の患者を診に」

「そんなこったろうと思ったァ。しゃあねえなぁもォ、連れてってやんよお特別に。頭カチカチのお医者先生に、オイラが夜の遊び方ってヤツを指南してやってもいいぜェ」

「お気持ちはありがたいのですが」

「そこはありがたく受け取ってくれよぉ」

 ギャタロウがぶうぶう言っていると、ソウゲンは困ったように眉をさげて、薬箱のふたをゆっくりと跳ねあげた。
 ギャタロウは驚いて、おおう、と声が出た。
 木箱のなかには白い着物を着せられたスズランが、膝をかかえて小さくなってしまいこまれている。
 明るいすみれ色の髪をおろして、眠りこむように目を閉じた姿は、どこかのやんごとなき姫のようなかわいらしさ。声をかければ今すぐに目を覚まして、表情をコロコロと崩したりして、綺麗な顔やたたずまいから考えられないようなにぎやかさで、体が痛いだとか酒をくれと騒ぎ出しそうだ。
 ソウゲンの手わざは、いったい何がどうなっているのだ──。
 スズランが無残に斬り捨てられた現場を、ギャタロウも見ていた。
 あのバラバラの肉片から、もとの形にまで、完璧に『復元』されている。傷も見えず、綺麗に整えられた今のスズランを前にすると、このソウゲンという男は、本当に神様なのじゃないだろうな、とうそさむい心地がしてきた。
 ソウゲンの長い指がスズランの顎をとらえて、最上級の天目茶碗でも愛でるみたいな仕草で、上向かせる。

「この口に、好きだといわれたのです。小生も同じ気持ちです。ご遺体の扱いは、小生に一任されております。ご本人の書かれた委任状もある。ならば……これから、この方に生涯添い遂げても、許されるのでしょうか」

 ソウゲンは穏やかな微笑を浮かべている。狂っている。
 いや、逆に元からこんな感じだったか──ギャタロウは、わからなくなってきた。

 ──スズラン、オメェ、えらい化け物に好かれちまったなァ。

 ギャタロウは呆れ半分、おののき半分で、胸のなかでぼやく。
 好きだとか、誰にかれにでも言うから、こんな事態を招くのだ。

 ──オイラも言われたことあるわ。しかも、大好きって言われたわ。藤堂のダンナに、鍛錬サボったことを黙っててやったときに、感極まって抱きつかれたわ。なんか、言いだしづらい。

「なぜかはわかりませんが、スズラン殿をこうして箱の中に入れていると安心するのです。しまいこんでいると、ずっとこうしたかったような気がしてきます。この方に出会ったときから、小さい箱にでも閉じこめてしまいたいと……そうして守ってやらねばと、なぜそう感じるのかわかりませんが、思わずにいられないのです」

 びゅう、と鋭く風を切る音。
 憑かれたように早口で喋っていたソウゲンのコートの肩口に、赤い花が咲く。
 頭上から矢で射られたのだと、すぐにギャタロウは悟った。喧嘩慣れしていないソウゲンの腕をつかんで、共に地面に伏せる。
 狙いはそれほど正確ではなかった。距離が遠いのと、射手の腕が悪い。ソウゲンとギャタロウが離れた隙に、駆けこんできた狐面の人影が、スズランの躯が入った薬箱に手をかけた。

「スズラン殿!」

 ソウゲンが大声で叫んだ。
 コートの仕込みのおかげで致命傷ではないものの、片腕が上がらない。狐面の男に奪われた薬箱を見送ることしかできなかった。
 同じ面の男たちが、ふたりのまわりをグルリと取り囲んで、道をさえぎる。

「追手のおかわりか。執念深いこって。仏さんになんの用だィ」

 ギャタロウはすごむ。
 狐面とは、多田銀銅山でも顔をあわせたことがある。あそこで見た永久死体は、こいつらが近づいてくると、不思議とビクビクと震えだしたのだ。
 霊式兵器を扱う雑面ノ鬼と、似たようなにおいのする奴ら。死体が見せた不可解な反応。

「何か知ってやギャるな。くたばったハズの仏さんを動かす技……もしかして、スズランを生き返らせて、宝のありかに案内させる気かァ?」

「かの土御門陰陽道の猿真似をしたところで、小生が完璧に処置したスズラン殿のご遺体を損ねるだけ。美しい体を傷つけられることは許せないのです」

 ソウゲンが低くささやく。
 ギャタロウが言い出した、スズランを蘇らせようという話に乗り気ではなかったのは、それが不可能と判断したゆえだ。
 ソウゲンは、先の安倍晴明討伐のあと、土御門の遺物を調査して、あれを再現できることはないと判断した。医者がさじを投げたのだ。
 土御門晴雄が行った安倍晴明よみがえりの技は、土御門本人か、かの陰陽師と同じだけの知と技を持つ者でなければ不可能だと──。

「その方は小生の妻です。今すぐに返していただきます」

 逆にソウゲンがいつもどおりだったと気づいたギャタロウだが、真剣に怒っている姿のおっかなさに、思わず「うぇ」と声が出た。
 今、妻って言った?
 まじめな顔をして狂っている男ほど、何をしでかすか予想もできず、恐ろしいものはない。もしスズランの魂とやらがそのあたりを漂っていたら、どんな反応をしただろう。
 友達を作ることが苦手な奴は、人との距離の詰め方が下手だ。好きか嫌いか、他人か結婚かみたいな、極端なところがある。何かあると、ひとりで勝手に盛りあがってしまう。
 そういえばうちの組ってそんなんばっかだったわと、ギャタロウの脳裏に、情緒に難ありの元暗殺者や、男装した娘の顔がよぎる。
 スズランが入った箱を抱えた狐面が、馬に乗って駆けていく。背中が遠くなっていくのを見送って、ソウゲンが珍しく苦渋をにじませてうめいた。

「スズランを心配している場合じゃないぜ、先生ェ」

 ギャタロウは叫んだ。多勢に無勢、ひとりは手負いだ。下手をすれば、すぐにスズランとあの世で再会することになる。
 冗談じゃねぇや、とギャタロウは唾を吐く──。
 狐面が踏み出した。囲まれた輪が狭まる。ギャタロウは発砲してふざけた面を割り砕いた。
 どうと倒れた狐面が、頭の半分がなくなったまま、平然と起き上がってくる。
 「げぇ」と思わず声が出た。
 ギャタロウが時間を稼ぐうちに、手早く自分で傷の処置をしたソウゲンが投げた爆弾が炸裂する。
 ギャタロウとソウゲンは、いくさ場では相性が良くない。銃に爆薬。どちらも遠くの敵を討つのが得意な、近接戦になる前に片づけることを目的とした武器である。
 だから、やりあう相手が寄ってくるのをぶん殴ったり、感電させたりする相方が重宝する。
 爆風からうち漏らしの狐面が抜け出してきて、肉薄される。
 面ごと顔が半分割れていて、本来ならばもう動けるはずもないそれが、バッサリと斬り捨てられて、まっぷたつになった。

「新選組とお見受けする。助太刀いたす」

 見覚えのある顔が、混戦に飛びこんでくる。

「アキラの男だ、あんた。おうよ、ありがてぇ」

 アキラが連れてきた密通相手、桂であった。
 長州藩士だが、先の変で新選組に協力した、局長が認めた仲間だ。もっともそのガワに入っているのは、別人の魂であるらしい。
 元々の桂小五郎とは、ギャタロウもソウゲンもそれほど親しくはなかった。親密な仲のアキラでなければ、本物と偽物の違いはわからないだろう。
 偽の桂が振るうのは、いくさ慣れした、突風でも吹いたかのような剣さばき。スズランに話を聞いていた通りに、鬼のように強い。
 息をつくまもなく、その場に立っているのはギャタロウたち三人だけになった。
 桂の中にいる誰かは刀を納めて、ギャタロウとソウゲンを見上げると──なぜか、ハッとした様子で息をのんだ。

「なるほど──あのお方が貴殿らに愛着する理由。確かにこれは、腑に落ちまする」

 神妙な顔でひとりごちると、忠実な家来がやるように跪いた。長州藩士が敵の新選組を相手にやるから、妙な感じである。
 ギャタロウは、偽桂が膝を折るのに納得している理由がなにもわからないので、こりゃあオイラたちの顔がよすぎたからかしらん、逆の逆に美人って得ね、とスズランみたいなことを考えた。

「自分は、しびとにございまする。土御門なる者に、面妖な奇術で再びこの世に呼び起こされ、使役されている身の上。霊式兵器と土御門が名付けた妖術は、しかしそのような名が付けられる以前から在った手わざ」

 この世には古いその術で、死なずの命を得て、永くを生きる者がいる。何百年も人の命を弔い、何万何十万の、膨大なその魂を食らって生きながらえてきた者が。

「わが人生最後の主君、秀綱様は誰にそそのかされたか、本当の信仰を追い求めておられた。祈る限りは死なずと知らず……。そう、知らなんだのです。ただ女人のごとくお優しく、純粋にしびとの冥福を祈っておられた。それを爺は知っております。嘘ではなかったのです」

 桂に憑いたしびとの顔が、強い無念にゆがんだ。
 土御門。暗躍するのは、死んだはずの雑面ノ鬼の総帥。殺しても平然と起き上がってくる、狐面の男たち。不可解にうごめく躯のかけら。
 目の前の桂の体に憑いた魂も、とうの昔に死んだ男である。しびとばかり──生きた者の世界を、当たり前の顔をして歩いている。

       4

「綱は、大きくなったら、父上のお嫁になりとうございます」

 もじもじと膝をこすりあわせて、おさない童がませたことを言った。
 無原罪のマリアの象徴花である鈴蘭をあしらった白い着物に、ロザリオを下げている。母親の形見の金のクルスの耳飾りは、ちいさな耳にはまだ重いから、垂らした淡いすみれ色の長い髪の上に、髪飾りにして差していた。
 天使のごとく愛らしい、幼い女童に見える。
 生まれてこれまで城のなかに閉じこめられて、外の世界を知らず、ゆえに己を豊臣の綱姫だと疑わずに信じている末の息子、秀綱であった。
 薩摩藩の『井知地文書』に記され、後水尾(ごみずのお)天皇も知るところであったように、真田幸村の手引きで鹿児島に逃れた豊臣秀頼は、以降は己を『宋連(ソウレン)』と号している。
 島津藩に庇護されて、谷村の女を妻に娶り、子をひとり儲けて暮らしていた。
 この息子が、幼いころより不思議な奇跡を起こす。
 水の上を陸のように歩きまわる。盲目の女の目を、触れたとたんに治してしまう。デウスの化身とされる鳩に手を差し伸べると、鳩はすぐさま手のひらの上に聖書の巻物が入った卵を産んだ──あまりに人間離れした噂ばかりが広まるので、キリシタンたちは、殉教した宣教師に予言されし救世主だと持てはやした。
 それとは反対に市井の人間は、幼い子を残して死んだ母親は、神通力を得て人に化けた葛葉狐で、それだから狐の子である綱姫も妖術を使うのだと、口さがないことを言いふらした。
 秀綱が、背中に隠していた花を父親に差し出してきた。ふくふくとした子供の手だ。

「母上がいなくて、父上はさみしそうなのです。綱が母上のかわりにお嫁になれば、もうさみしくないのです」

 童らしく他愛のないことを言いながら、無邪気に差し出された花。それを見てソウレンは、血相をかえてはたきおとした。柔らかな手から、鈴蘭の花がこぼれていく。

「馬鹿者っ」

 一喝。

「これは毒じゃ。触るでない。おまえのような童なぞ、すぐに殺してしまう毒の花じゃ。死にたいかっ」

 大きな声で怒鳴られて、驚いて秀綱は泣き出した。想いをこめて父に贈った花を捨てられて、傷ついたのもあっただろう。

「ああ……ああ、すまぬ。急に怒鳴って悪かった。泣かんでおくれ、しかし、だめなものはだめなのだ……」

 ソウレンは秀綱をかかえて、谷の泉の水で手を洗ってやりながら、「泣いた顔をこするでないぞ。目に入っては大事じゃ」「部屋を出てはならんと言いつけておるのに、また勝手に抜け出したな。どうしてそうもお転婆なのか」「鈴蘭畑には危ないから近寄ってはならんと、あれほど言い含めたろうに」病で弱った喉で、吶々と言い含める。

「父上は、綱がお嫌いですか?」

「馬鹿者っ」

 父親がクドクドと説教をするから、目に涙をいっぱいためている秀綱を、また叱り飛ばした。

「嫌いなわけがあるか。皆いなくなってしもうたわしにはもう、おまえだけじゃ、失いとうない。おまえだけは……。のう綱や、頼む。せめてわしの死に目を見届けるくらいには、おまえは生きて大きゅうなってくれ、頼む」

「なぜそんなことをいうのです。父上。いなくならないでほしいのです。綱はどこでもお供します、父上といっしょに行くのです。連れていってくださいませ」

「馬鹿者っ。子に死ねと言う親がおるか。──かなうならば、お前をいくさの届かぬ小さい箱にでも隠して、かわいらしい娘の着物で飾って、男たちのやるような荒っぽいことから遠ざけて、ずっと大事に守ってやりたいのだ。だがなぁ、父は病じゃ。わしが死ねば、おまえの味方は芦塚だけになる。いまの幕府を快く思わん大名は皆、おまえの血が、喉から手が出るほどほしいのだ。よいか。くれぐれも……流されるばかりのお飾りにはなるな。自分の頭で考えよ。綱は聡い。わしのようにはなるな……」

 ──父は、いまの自分にそっくりだと、スズランは思う。

 臆病で非力で流されてばかりで、何ひとつ成すべきことを成せずに、楽なほうへ逃げることばかり考えている。
 姿かたちはそのままに、似姿みたいなソウゲンはしない表情ばかりだ。不思議な感じがする。

       * * *

 全身が重い。まるで魂が、粘土でできた人形にでも宿ったかのように、体の反応がにぶい。
 また飲みすぎたのだろうか、昨晩はどこで何をしていたか。思い出せないが、これはとんでもない飲み方をしたものだろう。さては、好いた人にでもふられたかと思い浮かんで、ぞっとする。
 ともかく藤堂が見回りに来るまでに起きてしゃんとしなければ、またゲンコツだ。スズランはうめきながら体を起こす。
 知らない場所にいた。扉をかたく閉ざされた、真っ暗な御社殿のなかだ。
 いつもの法衣と袈裟ではなく、しびとが着るような白い着物を着ていた。鈴蘭の花みたいなこの色の着物は、あまり好きではない。飾り物にかぶせるぴかぴかのお仕着せか、首を斬られるときに着るぼろきれの色だ。

「僕は──どうして生きてるんだ」

 スズランはうめいた。
 よみがえりの奇跡を受けて目を覚ましたことに、戸惑うのは久方ぶりだ。
 スズランは、たしかに本当の信仰を見つけた。神への愛ゆえに殉ずる覚悟が、神の身代わりを果たせた歓喜が、それでなくては何だというのだ。
 ならば、何故蘇った。
 いつか藤堂に話したように、神は二枚舌だから、御言葉もうつろうものなのか。夢に現れる、一面の鈴蘭畑で泣く女のお告げも、嘘いつわりなのか。
 本当の信仰を見つけても、本当には死ねないのならば──己の終わりは、どこにあるのか。

「お目覚めですか。深き眠りより、よくぞ戻られました──」

 あまり聞き覚えのない声で呼びかけられて、スズランは息をのんだ。
 相手の顔に覚えがある。
 異人の血がどこかに入っているのか、金の髪に透ける白い肌。瞳は己と同じ色をしている。もっとも、薄っぺらい自分の目の色よりは、ずいぶんと深みのある紫の色の瞳だ。
 雑面ノ鬼の総大将、羅生丸を名乗って新選組と敵対していた、ツキトだった。
 友達の、死んだはずの弟だ。

「ツキトくん、生きてたの。よかったねぇ、はやくお兄さんに顔を見せてあげよ。一番星ちゃん、すっごく喜ぶよぉ、きっと泣いちゃうくらい……!」

 かしましく話しかけながら近寄って、スズランは、その男の肉体と魂の色がチグハグであることに気づいた。 
 中身と容器が、別物のままに混ざって在る。まともな人間のカタチをしていない。人の魂を穢して力に変換する、あの度し難い霊式兵器と同じ歪みかたをしている。
 この男はツキトではない。別人の魂が肉体を動かしている。
 スズランは総毛だつ。己のしもべ芦塚の魂の眠りを妨げ、アキラが大切に想う桂の体に押しこめたのと同じ手わざだ──。

「新選組の命名式のときにお会いしたきりでしたか。何度か顔をあわせる機会はあったのですが、ご挨拶もできずにいました。申し訳がない」

「……じゃあ、あなたが──」

 京を焼き数多の罪なき魂を利用して、霊式兵器を生み出した、雑面ノ鬼の首魁。土御門晴雄。
 一番星とツキトの親の仇。新選組の本物たちを殺した、敵。

「いまは土御門晴栄(はれなが)と呼ばれております。本来この名は、私が養子に迎えた羅生丸に与えた名でしたが……」

 土御門晴雄は、親を殺めたツキトに羅生丸の名を与えて、安倍晴明復活の憑代とするために拾い育てた。
 しかし禁門の変で蘇った晴明は、憑代の抵抗により滅する。晴雄自身もまた命を落とした。
 その死んだ晴雄の魂が、養子ツキトの体に憑依して動かしている。

「悪人に仲間をおもちゃにされちゃ……いくら執着しない坊主でも、さすがに怒っちゃうんだけど?」

「おもちゃなどと。息子は、躯となっても義理の父に忠義を尽くしてくれる。誇らしく思っておりますよ」

 土御門は冗談を言う様子でもない。穏やかに晴れやかに、嘘を嘘とも思わず喋る。本心から出たまことでさえも、嘘でくるんで人を惑わす。
 こういう輩がいちばんロクでもないのだと、スズランはよく知っている。
 安倍晴明の滅びと同時に、雑面ノ鬼が使っていた霊式兵器は力を失い、京に攻め入った長州軍は頼りにしていた武器をすべて失って、国に逃げ帰るしかなかった。
 人は一度味わった蜜は忘れられないものだ。長州藩は、霊式兵器を生み出した土御門家の養子に、神秘の技の手がかりを求めて庇護を申し出た。
 それが血の繋がらない息子の肉体を乗っ取った、雑面ノ鬼の首魁その人であることを知らずに。

 ──この男、またあちらこちらを巻きこんで、今度はいったい何を企んでいるのやら。

「藤堂平助は、つくづく運がいい」

 命名式のときと同じに、知己と世間話でもするようなとりとめのなさで土御門が言った。

「この国で、日夜どれほどの咎人が出ていることか。有象無象のなかから、あなたがたにたどり着く幸運が、どれほどのものか。己の誠を叶えるために必要なものをすべて偶然に与えられ、過不足なく揃えていく」

 藤堂のような者こそ、神に愛されていると言えるのかもしれない。近藤勇の替え玉とは別の力で、人の心を惹きつける。

「恩に報いて守ってやりたい、なにか助けてやりたいと、そう思ってあなたのような貴人が、吹けば飛ぶような木っ端の組織に身を置いているのでしょう。星が味方をしているのです、あの気狂いには。藤堂ほどの神の加護が、もしあなたにあれば……歴史は変わっていた。天草四郎様」

 歴史に「もしも」はないが──。
 島原の乱において──結局いくさの最後まで、江戸幕府は、潮の流れが速い有明海を制圧できずにいた。
 そこに、星の味方があれば。
 一揆軍の頼みの綱だった、ポルトガルの援軍船が到着していれば。
 藤堂の助けになりたいと望み、新選組に命を預ける替え玉たちのように──天草四郎を。それとも豊臣三代目の秀綱を助けて、力になりたいという想いに突き動かされた人間たちが、幕府軍を下せるほどに、あの日の原城に集結していれば。

「さすれば江戸幕府は滅亡し、ふたたび豊臣の天下が返り咲き、あなたは誉れ高き豊臣三代目の天下人として、歴史に名を刻んでいたやもしれません」

 あの乱で江戸幕府は、一揆軍の規模を見誤って何度も敗走した。幕府軍総大将の板倉が銃で撃たれて戦死した瞬間は、皆が「勝てる」と希望を抱いた。
 なんとか、いくさに勝ちきっていれば。
 今日の日本の地には異国の言葉が飛び交い、海外貿易によって欧米列強に肩を並べる最新の軍備を整え──自由を勝ち取ったキリシタンがオラショを口ずさみながら、クルスを下げて白昼往来する。そんな神の国があったかもしれぬと、淡い飛沫のごとき哀しい理想郷の夢を、敗軍のお飾りの将は、たしかに夜ごとに見ていた。
 その夢は、何ひとつ現実にならなかった。
 スズランには、一番星や藤堂のように人を惹きつける天賦の才も、人を突き動かす揺るぎなき信念も、己で天下を勝ち取る力も、何もかもが欠けていた。
 ただ逃げ隠れて怯えながら、生まれたことすらなかったことにされて──体だけは死ぬこともなく、人でもなく、神にもなれず、嘘偽りを重ねて人を騙す白蔵主の狐にしかなれなかった。
 豊臣秀綱の名は歴史から消えた。天草四郎、デウスに棄てられた子は──昔島原の地に、江戸幕府に歯向かって死んだ愚かな邪教の司祭がいたと、時折誰かの口に、思い出したかのようにのぼるだけの哀しき存在となった。

「この国で最初にキリシタンの迫害をはじめた人間は、あなた様の祖父、豊臣秀吉でした。お父君も同じく、多くのキリシタンを処刑しておきながら……薩摩へ逃れたあとは、幕府に敵対するキリシタンたちを、己が保身のために都合よく利用した。父なるデウスとやらは、そのような不届き者の一族の血を許したのでしょうか。私には、わかりかねますが……ときに、あなた様のお父君──秀頼様が亡くなってのち二百年あまり経ちます。その魂が、いずこかの地にお戻りになっておられても不思議ではない。目がいいあなた様のこと。ほうぼうを歩き回って見つけたのでは。だから、ここにいるのではありませんか。ひとところに留まることが、どれほどに危険か知っていたのに。浪士などという荒くれ者は、誰よりも信用できないのに──新選組の斎藤一に成った」

 スズランが咎人として処刑される日に藤堂に救われ、新選組の替え玉役を引き受けた日のこと。

 ──死体が出るなら、小生はここに。

 隣に並んで不気味に笑う、薬としびとのにおいのする男を見上げて、縛られたままのスズランは、それを追いかけるように斎藤一に成った。

 ──じゃあ僕も、その死人を弔うために、ここに。

 新選組に入ったスズランは、いつも隣にいる背の高い姿を見上げて、ちいさい獣のように、コロコロと足元につきまとってきた。

 ──頭なーでて。ほめてほめてー。えらい? 僕、がんばったよね、今の、見てた? ねえ……ソウゲンちゃん。

 ──ソウゲンちゃんはねえ、父上と同じにおいがするの。

 薬のにおい。しびとのにおい。魂のにおいがおなじ人──。

「子とは、いつまでも父のあとを追うものです。お可哀想に、天草四郎様……今生のお父君は、あなたとは何の関わりもない別人になってしまった」

「僕は、ちょっとかっこわるかった父上より、ぜんぶかっこいいソウゲンちゃんが大好きだよ。僕らは友達になれた。亡くなった父上の魂が生まれ変わって、その人と友達になれるなんて、こんな面白いことそうそうないでしょ。きみも血の源のご先祖様と……安倍晴明公と、仲良しの友達になればよかったのにねぇ」

「理解不能です」

 土御門はスズランを、頭は良いが、私欲から生まれる信念がない男だと察する。
 こういう、いい加減に宙に浮かぶ風船のような者は、針でついて傷を作ってやればいい。容易に潰れて堕ちる。
 近藤や藤堂が一緒にいれば、調子よく追従して、敵対している土御門が何を言おうとはねのけるだろうが、私欲のない人間はひとりになると脆い。心が揺れやすい。誰かの意志に押し流されて、流れに流れてここまできた弱さは、もうどうにもならない。
 人の心の壊しかたは、土御門は手に取るようにわかる。

「おっ父……!」

 奥の扉が開いて、子どもが飛びこんできた。まっすぐにスズランに駆け寄ってくる。
 スズランが島原の角屋で洗礼をほどこした、ペイトロ好次であった。
 「お父様──」母親のレシイナ福も、狐面の男に引っ立てられて現れる。

「好次。お福さん。なんでここに」

「ヘンテコな狐のお面をかぶった大人が、僕らを捕まえにきたんや。おっ父、僕、人に名前は言うてへんよ。ほんまや」

 スズランと好次の足元へ、三日月型の奇妙な刀が投げてよこされた。床の上で跳ね、がらあん、と大きな音が鳴る。スズランの腕の中で、体温の高い子供の体がビクリとすくんだ。
 羅生丸が、多くの人を斬って魂を吸わせた刀。ツキトの墓標の刀だ。

「生きのびるのは、ひとりだけ。どちらか片方を殺せば、残った方は助けましょう」

 ツキトの声帯が、幼いころに己がかけられた言葉を発する。これはまたひどい冒涜だなと考えながら──スズランは刀に手を伸ばした。
 重くて、非力な腕では持ち上げるのがやっとだ。力の強い仲間の誰かならば、武器が手の中にあれば、迷いなく敵に向けて斬りこんでいっただろうに。うらめしい。
 こんなことならば、鍛錬をサボらずに、藤堂のもとでまじめに木刀を振っていればよかった。
 いや、詮無いことだ。いくさの才能のなさは、長く生きてきて自分がいちばん理解している。
 大勢の狐面の男たちにまわりを囲まれ、鍛え抜かれたツキトの肉体を操る土御門と相対している。こうなると、得意の口のうまさは何の役にも立たない。
 スズランは戦うことを諦めて、投げ与えられた刀を抜いた。
 刀身から禍々しい闇の気配が立ちのぼる。好次の顔が、青ざめて引きつった。

「おっ父を突きなさい」

 スズランは刀の切っ先を己の胸に向けて、子どもの手に刃を握らせる。

「好次、いけません。お父様は死んではならぬお方です。絶対に殺めては駄目。おっ母と共に、神様のところへ参りましょう──」

 かしましく騒ぎはじめた福の胸を、狐面の男が刀で一突きにした。女の体が、ぐにゃりとくずおれる。

「おっ母っ」

「……早く!」

 スズランは短く強く囁いた。子どもひとりでも、救えるものは救わねば。外道の気が変わらないうちに──。

「でも。おっ父」

「子供に死ねという親はいないよ。好次。……これからつらいこといっぱいあるだろうけど、生きてりゃなんとかなるんだよ」

 できれば痛くないように一思いに殺してほしいかなぁと、内心では日和りながら、一番星の言葉をなぞる。
 自分も、あんなふうに眩しい人間になりたかった。今からでも、すこしくらいなら間にあうか。
 さすがに霊式兵器の贄にされた経験はない。己の身に降りかかった呪い──デウスのよみがえりの奇跡なぞ、関わりのない歪な法則にあてはめられてしまう。
 魂を二目と見られないほどに穢されて刀に縛りつけられ、誰かを傷つけ続ける道具になる。
 呪いの武器の動力源にされた魂を、何度も見てきた。己もこれから同じように穢れるのだと思うと、身が竦みあがるほどに恐ろしい。
 それでも一番星なら、藤堂なら、新選組の仲間たちなら、いつか刃に囚われた者の魂たちを解放してくれると信じている。
 そのときに、もう一度だけでもあの人に──スズランだけの神様に会って、えらいえらいと頭を撫でて褒めてもらえたら。
 淡い希望を抱きながら──。

「生きて」

 吐息で囁いて、刀身を胸に押しこんだ。
 その瞬間。
 認識もできないうちに背後にいた土御門が、好次の手から刀を奪って、そのやわらかい首をはねていた。
 幼子のあたたかい返り血を浴びて、スズランは呆然として土御門を見上げる。

「ことほどさように、本能は消せない」

 土御門が、どこか諦めたように笑んだ。

「羅生丸の本能が、親に刃を向ける子を殺すのです。肉体に刻まれた悪癖ばかりは、私にも制御することができない」

 ──こいつは、わかっていたのだ。

 毎夜の夢で、母を殺す自分の姿を繰り返し見ていたツキトの目が、幼く無力だったころの自分自身の罪の似姿を見せつけられたときに、体が勝手にそれを殺すことを知っていた。
 人の心を嬲って笑う。
 これほど邪悪な魂が、人間の形を真似ている。救いのなさに吐き気がする。
 スズランは、胴から離れた子供の頭を、ぎゅっと胸に抱きしめた。
 どうかパライソへと祈る。そこで二度と苦しむこともなく幸せになりなさいと──。

「こんなに簡単に命をもてあそんで、魂を侮辱して……きっと地獄行きだ。僕はどんなにそこへ行きたいと願っても行けないのに、きみなら簡単に行けちゃうね。うらやましいな……」

「残念ながらその母子の魂は、パライソへもインフェルノへも辿りつくことはない。この国を守護する霊式兵器となるのです。異敵の神などに、この国の民の魂はひとつたりとも譲りはしない」

 御社殿の外から、歓声とも悲鳴ともつかぬ声が、まじりあって聞こえてきた。

「なに……?」

 いくさの度に聞こえた音だ。とてつもなく嫌な予感がして、スズランは声を震わせる。
 土御門が本殿の扉を開け放った。
 高台から、眼下の広場が一望できる。そこには粗末な木の板を組んで作った十字架に、老若男女問わず縛り付けられた人々がいた。
 足元に組まれた薪に、火がつけられたところだ。

「浦上崩れで出たキリシタンの咎人たちです。先ほどの母子とともに、ぜひとも、あなたのお目にかけたいと思い連れてまいりました。さて、それでは……隠れキリシタンどもの処刑をはじめましょう」

 燃え上がる十字架と、悶え苦しむ人々を背に、ツキトの美しい顔が朗らかな笑みを作った。
 キリシタンたちは火刑に処されてなお信仰を捨てず、十字架の上で励ましあいながら、讃美歌を歌い続けている。そのうちの何人かの顔に、スズランは見覚えがある。
 あれは──。

「お気づきですか。あなたが密葬を手伝ったキリシタンたちです。あなたは祈り人として、即刻斬首刑とされましたが、彼らは『転べ』ば救うと約束しました。ですが今日まで拷問を受けても、誰一人、キリスト教の教えを棄てはしなかった」

 捕らえられたキリシタンたちは、激しい拷問を受けた。
 棒が折れるまで殴られ、すぐに死なないように頭に血抜きの穴を開けたあとで吊るされる。水が凍るような寒中に、水牢へ閉じこめられて放置され、凍死する者も出た。
 狭い穴ぐらのような部屋に、体が浮くほど大勢をつめこんだ。数か月も身動きできず、食べるものもほとんど与えず。死んだ者が出ても放置した。生きた者は、蛆がわいた躯にしがみついて過ごした──。
 あらゆる拷問を尽くしても、信仰を捨てて転ぶキリシタンはわずかだった。

「すばらしい精神性です。この国のすべての民が、キリシタンのような教えに殉ずる覚悟があれば……霊式兵器の弱点である、動力の確保の難しさが解消されるのですが」

「きみは、ソウゲンちゃんにちょっと似てるね。彼がひとりで年をとったら、きみみたいになってたんだろう。でも彼はみんなと出会えたから、今はきみとは違う道に進んでる。僕、きみのことは嫌いだな」

「それは残念です」

 大して残念そうでもなく、土御門が言った。

「藤堂があなたがた咎人を利用したことと、何も変わりはないでしょう。咎人ならば何をしてもかまわないと考えているあの男を、あなた方替え玉は恨んでいますか。命を使い捨てるならば、もとより死ぬさだめの不要な人間を使えばよいとの発想は、まったく正しい。死にゆくキリシタンどもの魂がどうなろうと、誰も気にもとめません」

「咎人にだって魂はあると、藤堂ちゃんは知っている。君が言う、不要な魂の寄せ集めにすぎない新選組に、負けて夢破れて死んじゃった人は、どこのどなただったかしら。どうしてキリシタンを目の仇にするの?」

「異敵の神なぞ淫祠邪教のまがいものと、切り捨ててしまえれば良いのですが。ご存じの通り、キリスト教は私ども土御門家にも縁が深い」

 ──それは、古代のころ。
 興ったばかりの日本国を統一し、この地に大和朝廷を築き上げた秦氏の一族は、弓月国からやって来た渡来人であった。彼らは日本に来るときに、原始キリスト教を持ちこんだ。
 稲荷神のはじまりに、こういう話がある。
 キリストが磔刑の際に掲げられた、「イエズス、ナザレヌス、レクス、ユデオルム(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)」という意味のラテン語の頭文字「インリ」に、「稲荷」という当て字をして、秦氏は稲を神格化した宇迦之御魂神と、イエス・キリストを習合して祀りはじめたという。

「晴明様は摂津国の安倍保名と、信太の森の葛葉狐の間に生まれた狐の子。あのお方は、尊き稲荷神の生まれ変わりであらせられました──」

 安倍保名は、猟師に追われていた狐をかばって争いになり、深い傷を負ってしまった。葛葉狐は怪我を負ってまで己を救ってくれた保名を慕い、人間の女に化けて甲斐甲斐しく世話をするうちに、男児をひとりもうけた。それが安倍晴明である。
 ある日葛葉は、保名に正体が知れてしまう。狐の姿に戻った母は、もう人の世で生きることがかなわず──。

 ──恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

 こんな歌を残し、幼い安倍晴明を置いて信太の森へと消えてしまった。

「晴明様のお力で異敵を排除する試みは、いまだ潰えてはおりませぬ。我ら土御門の血の源は狐の子。稲荷(インリ)を父(パードレ)と崇めるキリシタンたちもまた、狐の子供たちです。キリシタン宗の信徒がよく使う言葉のように、兄弟も同然の我々が──この国を守るために、ともに力をあわせる必要があるのですよ。天草四郎様。日本をあなたの島原にしないためにも、彼らの魂は必要な犠牲です」
 土御門の言葉は、どこまで本気とも知れない。
 すべては嘘か。しかし、この男の口から発せられた音は、すべてが誠の言葉に聞こえてくる。
 嘘と誠で人の心を砕いて柔らかくする技を、土御門は知り尽くしている。ツキトを、従順な頭飾りの羅生丸に作り変えた術だ。
 しかしスズランは、土御門の手に落ちたばかりのころのツキトのような、純粋な童ではない。数百年を生きた古狐を言いくるめるには、あと、もうひと押しが足りぬ──。
 土御門は、ふと思いついてささやく。

「そう。言い忘れていました。あなたの父君の魂を持つ、あの若者のことですが──」

「……ソウゲンちゃんに何かしたの!?」

 存外に──たやすくかかる。土御門は胸の内でほくそ笑む。
 人の心を守り支える他者は、同時に克服することもかなわない弱みになりうる。羅生丸が義父の命に背いてまで、どうしても近藤勇の替え玉を斬れなかったように。

「私は何も。ただ、新選組の掟に従い、山南は腹を斬りました」

 スズランの顔色が変わった。

「そんなこと藤堂ちゃんは命じない。みんなも認めない」

「組織において、上の者の意志などさほど重要ではありません。人は集まると個の心をなくして、一塊の大きな化け物になる。それはかつて島原の乱でお飾りの総大将だったあなたも、よくよくご存じでは。下の者に示しがつかないからやむなく、と……とりとめのない理由で、あなたを救うために新選組を脱走し、掟に背いた山南敬助は死にました」

「死んだ……」

「ええ。あなたが守りたがったパライソは、かように脆く儚いものです」

 スズランの表情は、ツキトが父を殺され、母を殺して生まれ変わった瞬間に見せた表情だ。憑代の躯にとりついている土御門には、その顔をする者が考えていることがよくわかる。

 ──どのみち失い続ける生ならば、いっそのこと何も考えずに永遠に眠っていたい。亡くして苦しむなら誰も好きになんてなりたくない。もう何もしたくない。何も見たくない。考えたくない。神のごとき誰かの思惑どおりに動くだけのカラクリみたいになり果てられたら、どんなに楽になれるだろう。安心するだろう。

 そんなふうに他者に心を明け渡し、たやすく御せるお飾りになる。
 しかし、数百年を生きてまだ人を愛せるとは、奇矯な男だと呆れる──。
 土御門が、ツキトの躯のふところから、黄金の杭を取り出した。
 一見して、ただの細長い杭のように見える。しかし、無残な姿に変えられた魂たちが閉じこめられたさまを見る目を持つ者にとっては、さながら小さなインフェルノだ。
 スズランは、あ、と思わず声が出た。その杭が、もとは何であったかを理解してしまった。

「父上と母上の形見を……!」

 己の体を飾っていた黄金の瓔珞──もとはクルスとメダイの形だったそれらは、父が母に婚礼の際に贈ったという、両親の縁のかたちだ。
 それがひとまとめに溶かされて、不格好な杭の形にされてしまったことが、悲しくて悔しい。
 スズランが、斎藤一の遺した刀を壊してしまったときの、藤堂の顔を思い出す。人が大切に想う誰かの形見を蔑ろにした、その報いを受けたのか──。
 金の杭を手に、動く死人が、スズランにせまってくる。

「やめて。こないで……」

 スズランはかすれた声で、うううう、とうめく。助けを求めて逃げ惑うことしかできなかった、春の夜と同じように──。
 荒事が嫌いで、いつも鍛錬をサボっていたから非力だ。強いツキトの体から、自分自身の命と尊厳を勝ち取る力もない。己は弱いと、スズランはまた思う。
 大人の男に成長して、図体ばかり大きくなっても、中身は今なおかよわき姫のままだと、いくさ慣れしたしもべに馬鹿にされるのも道理だ。どうしようもない──。
 二百余年の殉教者の血を吸い続けてきた、金の杭がかざされた。父と母の縁の証が。
 己が生まれた理由の象徴が、スズランめがけて降ってくる。

       * * *

 喉笛に杭を打ちこまれたとたんに、膨大な量の穢れた魂が、いっせいにスズランのなかに流れこんできた。
 悲鳴が鳴り響く。怒号の奔流。断末魔。耳が一瞬で馬鹿になる、とんでもない音の暴力。
 黒い津波を見上げる心地で、スズランは振り向いた。
 そこには、無数のキリシタンたちが、一塊になっていた。
 殉教した信徒の無垢な信仰の目が、スズランひとりに一心に注がれている。

 ──天草四郎様信じております、なにとぞ奇跡を起こし我らをお救いください。デウスの寵児よ予言された救世主よ。我らの祈りに唾を吐き、迫害し弾圧し処刑する憎き江戸幕府を滅ぼし、我らの夢見た神の国をこの地上に築きあげてください。どうか……。

「天草四郎様」

 急に音が戻った。
 肉声で呼びかけられて、天草四郎はハッとして顔を上げた。
 ここはあの日の原城だ。目の前に島原の乱の首謀者、天草五人衆がひとり、千束善右衛門が立っている。

「天草四郎さま。ご報告をいたします。原城を守る遊軍二千人、幕府軍の攻撃に遭い、全滅いたしました。浮武者頭の松右衛門殿は、細川藩の長岡帯刀と一騎討ちの末に、戦死──。せめて、芦塚殿が、ここにいてくださったら……」

 助けて、と天草四郎は、我知らず呟いている。誰か。父上。神様──。

「ソウゲンちゃん」

 原城の門が破られた。江戸幕府軍がなだれこんでくる。
 籠城したすべてのキリシタンを、一人残らず滅ぼすために刃が向けられる。
 ふたたび、あの日の虐殺が繰り返される──。

       5

 ──伏見稲荷大社。

 桂の中に宿った芦塚大左衛門の死霊に導かれて、ソウゲンとギャタロウが向かった先。
 無数の赤い鳥居が列する先に、狐面をかぶったしびとたちに攫われたスズランの姿を見つけた。

「──スズラン殿!」

 数多の、町人と見える惨殺遺体に囲まれながら、生きて動いているスズランの姿を認めて、ソウゲンは瞠目する。
 理由もわからないまま、ふたたび命を宿して起きあがった躯に呼びかける。ソウゲン本人も気づかぬままに、ほっと深く息をつき、瞳にあたたかな光が宿る。
 スズランはうずくまったまま、顔をあげない。
 ソウゲンの声も聞こえていないようだ。体を折り曲げて、首を掻きむしっている。恐怖と焦燥にまみれた表情を歪ませて、幼子のごとく泣いている。
 興奮ゆえか、赤く染まった首筋に、糸のような赤い痕が浮かびあがる。まるで首を斬られた咎人が、打ち捨てられたあとに何食わぬ顔をして起きあがり、胴に頭をくっつけて歩き出したかのような形の傷跡。ソウゲンがスズランに出会った最初から、彼の首に刻まれていたものだ。
 その赤い輪の上に、胴に頭を縫いとめるようにして、金色の太い杭が突き刺さっている。表面から、黒い泥水のようなものが滴り落ちて、スズランの体に触れると皮膚を溶かして肉へ潜りこんでいく。
 土御門の手の者が扱う、霊式兵器が宿した穢れに似た現象である。そうすると、目に見えるほどに濃くなった、人の魂のなれの果てか──。
 いったい、この人は何をされてしまったのか。
 ソウゲンの蓄えた知識では、推し量ることすらできない。書を読んでも思索にふけっても、何もわからぬ。理解ができないことがもどかしい。

「ううう……ううううう……!」

「スズラン殿」

 苦しんでいるスズランの姿を前にすると、死に際の患者の苦しむ姿を見ていられなくて、安楽死の薬を作るに至ったことを、ソウゲンは思い出した。
 己の咎の在処を。医者の本分を、命を賭して成したかったことを思い出した。
 忘れていたわけではなかったが、生きる希望に満ちた若者たちに囲まれているうちに、みなに感化されて、治してやりたい、生かしてやりたいと、命を救うことばかりに重きを置くように、いつの間にやら変わってしまっていたと知る。
 しかし、苦痛から逃れたいあまりに死を望むものを、なかったことにはできない。自我が崩壊するほどの苦痛に苛まれた者が、人の人である一線を超えてしまう姿を何度も見た。
 あの苦しみに実際に立ち会っていなければ、診ている患者を苦痛なく死なせてやりたいとは、ソウゲンは考えなかっただろう。
 その苦しむ患者たちとそっくり同じ顔をして、スズランが悶え苦しんでいる。
 愛しい男が、ソウゲン自身の咎の理由を誰よりも必要としている光景は──悪い夢を見ているようだ。
 スズランは焦点のあわない瞳を揺らして、ソウゲンに手をのばしてきた。ソウゲンも応じるように手をのばす。
 首に刺さった杭を抜いてやらねば。
 もし、それがスズランの魂を体に留めるための装置なのだとしても、これ以上の痛苦はあまりにも残酷だ。
 穏やかに眠らせてやりたい。救いたい。安楽な死を──。

「助けて父上──」

 錯乱している者によくあるように、救いを求める相手の姿に幻を重ねて見て、ソウゲンのことを身内の人間と取り違えている。

「ちちうえぇ」

 泣き叫ぶその頬の肉が、上下に引かれて裂ける。
 歯列がむき出しになる。真夏の晴れた日の朝顔のようにぐんぐんと伸びていく。伸びて伸びて、鋭い犬歯へ変わっていく。
 よく喋る口が、見えない手につままれたかのように、ずるりと引き出されていく。
 背が折れ曲がる。背骨が内側から作り変えられていく。見目を整えることを人一倍気にして、エレキテルでまめに毛を抜いていたから、産毛もないつるりとした肌に、密集した獣毛が生えそろっていく。
 手足の関節が逆さに折れ曲がる激痛でか、いつも穏やかに喋る口から、聞いたこともないような、低い絶叫がほとばしった。
 体の部位のあちこちが、伸びていく。異形の相を帯びていく──。
 またたくまにスズランは、見上げるほどに大きな体の、四つ足の獣に変わってしまった。
 白狐である。
 泣き叫ぶような表情が、まだ人のころの名残を残しているのが、その姿の異様さを際立たせている。

『ソ……エェ……アァ……ゥ──』

 獣は、まだかろうじて人の言葉に似た音を、歯列の隙間からこぼした。喉に刺さった金の杭のせいで、ゴボゴボと血に溺れたように聞こえる唸り声。

「──天草四郎様。獣にお成りにございます」

 鳥居の上から、声が降ってきた。
 ギャタロウが、かがり火に照らし出された男の姿を見あげて、息を呑む。

「ツキト!? 一番星ンところの、死んだ弟ギャあねェか」

 ツキトは獣にむかって、恭しく頭を垂れている。口角が、歓喜と侮蔑に上がっている。
 一番星の弟のツキトではないと、ギャタロウはすぐに悟った。桂の中にしびとの魂が宿っているように、土御門がツキトの体を乗っ取って動かしているのだ。

「彼の祈りは、すべてが無為でした。天に昇れと口にしながら、しびとたちを地に縛りつけていた。安らかにあれと気休めを言いながら、その実際は魂を食い散らして糧にしていた。彼の祖父がかつて迫害したように、彼の父がかつて迫害したように、彼の祈りはキリシタン宗を殺す呪いに他なりません。炎に集う虫のごとく、祈りに集ったキリシタンたちを死地に導き、牢に入れられ引き回され、水に漬けられ火で炙られ磔にされ、あらゆる責め苦を受けて死したすべての殉教者たちの魂を、弔いというおためごかしの裏で喰らって肥え太った、信仰喰らいの白蔵主。なるほど、ふさわしい姿に変わられた」

 スズランの末路を目の当たりにして言葉を失っているソウゲンへ、救いを求めてか、それともひどい飢えを満たすためか──救いと飢えの区別もつかなくなったのか、獣がとびかかってくる。
 相方だったものを前にしても、何ひとつ理解しないまま、顎ががちりと閉じられた。
 ソウゲンの前に芦塚が出て、桂の愛刀、備前長船清光を噛ませる。

「なんと愚かな。頭飾りになぞ、二度とさせませぬ」

 力任せに刃をすべらせて、硬い獣の牙を割り砕く。獣は身をよじって、毛むくじゃらの太い前脚を力任せに振るった。細身の桂の体を跳ね上げる。
 社に叩きつけられながらも、芦塚は剣を握って立ち上がり、獣と向かいあう。

「せがれ殿……秀綱公。またもお守りかなわず、面目次第もございませぬ。もっと早うにさらっていれば……安全な場所に、連れて逃げていれば。かくなる上は腹を斬って果てとうございまするが、あなた様おひとりを残してしまった、あの夜のような過ちはもう犯しとうございませぬ」

 獣が突っこんでくる。巨躯のけだものの姿をした霊式兵器を、人の力でいなすことは不可能だ。
 罅の入った牙が、桂の胴に食いこんだ。

「ぐうう」

 すると獣が噛みついたところから、桂小五郎の肉体との結びつきの弱い魂が、結び目をほどかれるように漏れ出していく。中身をすすって喰らうつもりなのだと──芦塚は理解し、腹を決めた。

「食らうならば食らわれよ。命なくしても、主君をいさめるのが臣下のつとめ」

 見知らぬ老人の面影が重なった顔が、ソウゲンをしっかりと見据える。

「御方様、何卒お頼み申す。お救い下され。せがれ殿を──」

 獣は、噛みつき引き抜いた魂を、一飲みにして喰らってしまった。
 飢えた臓腑に染みわたる餌の滋養に、歓喜の咆哮が、おおおおおん、と空気を震わせ響いた。
 日本一の侍と謡われた男の強い魂を食らった獣の体が、膨張する。ひとまわりは大きくなる。
 人の魂の美味を知った獣は、もう先ほどのような泣き顔ではない。笑顔にも見える不気味な表情を浮かべて、雨の夜にたたずんでいる。
 まだかろうじて息のある桂の体をかかえて、ソウゲンとギャタロウは、すこし前まではスズランだった獣を呆然と見あげている。

       6

 オラショを口ずさみ歩く者がいる。
 役人がそう聞きつけて、市中の見回りをしていた雨の夜であった。

「きりやれんず、きりすてれんず、きりやれんず、ぐるりよぉざ──」

 噂どおりに大きな声で、喉が潰れたようなかすれ声で、歌うようなオラショが聞こえる。
 すわ淫祠邪教のキリシタンが現れ出たかと、声の出所へ役人が駆けつけると、誰の姿もない。すると川沿いの暗い藪の中から、見上げるほどに大きな体の白い狐が、ぬうっ、と頭を出した。
 荒事に慣れた大の男でも、あ、と大きな声が漏れた。
 姿かたちは狐に似ているが、身の丈は八尺ほど。長い毛の生えた尾は、さらに五尺ほど。それほど大きく育つ狐を、役人は知らない。山の主かと思えるほどの、異様な、妖気がただよう風体の獣であった。
 額には額飾りのような、不思議なクルスの文様があり、金の杭が喉に深々と刺さっている。鉱石を思わせる紫色の目玉には、あっけにとられて口を開ける役人の姿が、鏡のようにくっきりと映っていた。
 鋳物屋から、娘がひとり、役人の声に驚いて外に出てきた。
 父の墓参りに向かう途中で、夜の間、親族の家に身を寄せていたお糸は、獣と正面からかちあう格好になって、悲鳴のような吐息をこぼす。

「化け物っ……!」

 驚いて射すくめられていた見回り役人は、女の姿を認めて我にかえった。すばやく獣とお糸のあいだに体を滑りこませて、刀を抜く。

「娘、ここは儂にまかせて、安全な場所まで逃げぇ」

 激しい雨の中、役人が声をあげるのが、獣には音が出るおもちゃのごとく、興味を抱くものだったらしい。三尺ほどある前脚で、横殴りにひっぱたく。
 役人の体は、飛んで転がっていった。

「お侍さまっ」

 お糸が叫んだ。
 娘の脳裏に、よく見知った京の守り人の姿が浮かぶ。京を襲った長州軍を追い返し、戦火で焼けた市街を復興するために尽力してくださった、新選組の組長。
 そのなかでも剣の達人と誉れ高い斎藤一は、多忙なはずなのに、市井の人間を気にかけて足しげく様子を見に来てくれた、とても優しいお人だ。
 あの人がここに駆けつけてくださったら──。
 折れた肋骨に難儀しながら、起き上がろうともがく役人に、獣が近づいていく。お糸は恩人の顔を思い浮かべながら、足元の石を拾って獣に投げつけた。

「あっち行きぃ、えいっ。えい、化け物っ。あんたなんか怖ない。お父っつぁんを助けてくださったお医者様とお坊様が、みんな守ってくれる。新選組の斎藤一さんが、あんたなんかやっつけてくれるわっ」

「何をしてるんや娘、早よ逃げやっ!」

 役人が、糸を振り返った。視線が逸れたその一瞬に、獣が役人の喉笛めがけて飛び掛かった。
 刀を向けてくる腕を踏みつぶしてしまう。

「ぎゃああああああああああああああっ!!」

 絶叫する頭をくわえて、獣が顎を引く。役人の首から伸びた長い脊柱が、畑の大根を抜くみたいに、ズルズルと出てきた。
 獣は、大人の男の手のひらほどある巨大な牙で、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぼりぼりと、役人の頭を骨ごと砕いて咀嚼しはじめた。
 人が動物に喰い殺されるさまを目の当たりにして、お糸の手から、握りこんだ石がすべり落ちる。
 断末魔の叫び声を聞きつけて、見回りをしていた役人の仲間たちが集まってきた。
 獣が顔をあげる。
 仕留めたばかりの獲物から引きずり出した背骨が、耳まで裂けた口蓋からはみだして、白い糸のようにぶらさがっている。暗く灰がかった紫色の目玉が、ぎょろりと群衆を向いた。

「ぐるりよぉざ」

 獣が、人に似た言葉を発した。
 野次馬たちが現れて、遠巻きに見ていたのが、わあわあぎゃあぎゃあと騒ぎながら、我先にと逃げていく。まるで先のいくさのときのように、あたりは一瞬で騒然とした。

「お糸ちゃんっ」

 鋳物屋のおかみが叫んで、恐慌状態にあるお糸の手を強くつかんで引いて、逃げていく。
 遠くなっていく娘の背中を、獣は狩った生餌の背中を前脚で踏みつけながら、見送るように一瞥し──。

「おいトちゃンッ」

 人間の口真似をして繰り返す。
 何も感情の乗っていない音なのに、存外に優しい声を出す。
 おそらく、こうして人の言葉を覚えたのであろうと──死んだ役人は『思った』。
 山中に隠れてキリシタンの祈りを捧げていた不届き者が、どこぞの山神とも、物の怪とも知れぬ狐に出くわして喰われて──人をたぶらかす誘い声として、獣に覚えさせてしまったのだろう。
 キリシタンの祈りを聞けば、己のような役人が飛んでくる。それとも、仲間がいると思ってノコノコと出てきたキリシタンかもしれぬ。人が姿を現したそこを、喰ろうてしまうのだろう──。
 この獣には、人のごとき知恵がある。
 死肉を喰われながら役人は思って、肉体から逃げ出した魂すら、ずるりと吸われて獣の糧になった。

 獣は目を落とし、噛み殺した男の残骸を、どこかうらやましそうに見ている。
 獣に、人だったころの心はない。意志も、望みも、はなから無かった。
 それでも、死んで終わった生き物のなれの果てを、曇天の切れ間から射しこむ天の光のごとき、とても尊いもののように目玉にうつして──。
 小さく解体した役人の躯を、一飲みにした。
 人間を己の血肉にとりこみ、魂をはぎとり力に変える。それが霊式兵器たる獣の宿命であり、本能だ。
 カラクリは何も考えずに、誰かの思惑に乗せられ、流されて、止まれと命じられるまでは無機質に動き続ける。
 死肉をむさぼる音にまじって、つぶれた喉の奥でうなる隙間風のような音が、おおおおん、と雨の夜の路地奥に不気味に響いていた。

       7

 ──うちは、そーいうのはやってねーぞ。

 一番星は内心そう考えて、渋い顔をする。
 伏見奉行所より、新選組に害獣駆除の応援要請があった。
 ──稲荷山に人喰い狐が出る。
 見回りをしていた役人が、逃げ遅れた娘をかばって獣に喰われて死んだ。娘のほうは助かったが、人が獣に喰われていくところを目の前で見ていたので、なかば錯乱状態にある。
 このお糸という娘、以前から新選組の組長たちと懇意にしていたという。
 雑面ノ鬼に斬られた父の茂吉を、山南敬助に診てもらい、その後で容体を心配した斎藤一が、足しげく様子を見にきていたそうだ。
 お糸は、あと何年かすれば娘ざかりの年ごろ。あの軟派な女好きの『斎藤一』は、この娘目当てに怪我人のところへ通っていたのだろうなと、一番星は腹の中で悟った。
「急に訪ねてきてしもうて、堪忍してください。困ったことがあったら頼れと、お坊様が……斎藤一様がお声をかけてくれはったものですから」
 役人が連れてきたお糸が、近藤勇の顔をした一番星と向かいあって座り、オドオドと見上げてくる。
 どうやら奉行所の役人は、助けた娘が斎藤一の名前を口に上らせるのを、ふたりが良い仲だと勘違いをしたようだ。それならば斎藤を頼れと、お糸を屯所に連れてきた。
 若い男女に気を利かせたつもりか。それとも、新選組を引っ張り出してくる良い口実になると考えたか。
 アキラがお糸に熱めの茶を出して、ずぶぬれの冷えた体が温まるようにと、己の羽織を出してきた。手拭いを渡されたときに、お糸の頬がぽっと染まる。
 若い娘に下心があっただろうスズランも報われねーことだなと、一番星は思った。
 実父が床について気落ちしているところに、気のいい親切なおっさんが助けてくれたとなると、そりゃ娘の目には父親がわりとしか映らない。好いた惚れたは、人の弱みにつけこんでやるようなものではないのだ。
 そんなだからあいつは童貞だったんだなと、草葉の陰でスズランが泣きわめきそうなことを考える。
 恐慌状態の娘の前で、頼みの綱の斎藤は死んだと言いにくい。
 父親を診ていた山南のほうも、斎藤の死体を背負ってほうぼうを観光しているという気の狂いぶり。ある意味、人が獣に喰われる場面よりも、今のあのふたりの姿を若い娘には見せたくない。
 しばし考えて一番星は、わかった、と頷いた。
 獣の駆除は専門外だが、斎藤一が気にかけていたという娘の頼みを、無下にするわけにもいかない。
 お糸が父の茂吉を雑面ノ鬼に殺されたということは、すなわち、一番星の弟がこの娘の親を殺したということである。罪滅ぼしにもなるまいが、放ってはおけない。

「よくわかんねーが、人を殺すようなでかい獣が山に出るのは、京ではよくあることなのか」

「知らん。町では、キリシタンが邪教の呪いをかけて祈ったせいで、稲荷神が怒り狂って暴れているのだと噂になっている」

「なんでキリシタンが稲荷神を拝むんだよ」

「神だ仏だと、目に見えぬものにすがってばかりいる者の考えることはわからん」

 首に下げた砂時計をクルクルと指で回転させながら、サクヤが言った。昔のことを思い出すときの癖だ。スズランのことを考えている。
 救ったものに死なれるのは、気分が悪いとサクヤは知った。医者は救った患者に死なれるのがいちばん嫌いだと言っていた、ソウゲンの気持ちがすこしわかった。

「キリシタンは己の信仰を隠して拝むために、様々なものを見立てに使うのだ。木刀を真剣に見立てて剣術の鍛錬を行うのと同じく、稲荷神はキリシタン宗の者たちにキリストの見立てに使われることがある。これは眉唾だが、大昔に渡来人が持ちこんだ「インリ」というキリストを表す当て字が、稲荷の語源になったという話もある」

「なんでそんな詳しいんだよ」

 急にアキラがスズランみたいなことをすらすらと言い出したので、すわ生臭坊主の霊にとり憑かれたかと、一番星が目を丸くする。

「スズランが言っていた。花街であやつ、キリシタンの洗礼式を隠れてやっていたのだ。そのときに会った母子が、伏見稲荷の狐の根付を持っていた。不思議に思って、キリシタンが稲荷神を拝む理由を聞いたのだ」

 先日アキラとスズランが、桂にとりついた悪霊に囚われて軟禁されていたときに、話を聞く時間はたくさんあった。小難しくてうさんくさいスズランの祈りについても、人が好きでやっていることだから、知れば面白いのだ。
 だが、もうそういう話を聞く機会はない。スズランは死んだ。

「スズラン。面白い奴だったよな。ちょくちょく飛ばしてくる駄洒落は、クソみたいにつまんなかったけど」

「ああ、意外と良いところもあった。刀を持ちあげることもできず、喧嘩荒事で一切役に立たないうえに、それを恥とも思わず毎日鍛錬をサボって女の尻を追いかけている、クソのような大人の見本だったが……」

「スズラン、オデが気づかないと思って、お酒こっそり持ってくこと、けっこうあった……。でもオデ、ちゃんと気づいてたよ。スズラン、いちばん高いお酒から着物のなかに隠して、「しめしめ」って笑ってたこと……」

「童貞のくせに、あそこまで玄人の顔をしてイキれる神経、理解しがたい。奴は……うるさい……とにかくうるさいという感情しか湧かなかった。あの男が欠けたことで、新選組への損失が一切なくて驚く。世の中にはあそこまで役に立たない人間がいると知って、自分も捨てたものではないのかもしれないと考えるようになった。逆に尊敬できる」

「そ、そこまで言ってやることはないのではないか? スズランとて、役に立つことのひとつやふたつ……」

 一番星に藤堂、ボウとサクヤが顔をつきあわせて、神妙な顔でスズランを語った。見事に悪口しか出てこない。サクヤは嫌いなものには饒舌になるので、珍しく早口長文で喋る。
 アキラはさすがにスズランをかわいそうに思って、良いところも挙げてやろうとしたが、女を見かけたらちょっかいをかけてくる、そこらへんの呑み屋に一山いくらでいそうな、明るくてずるくてうるさい雑学おじさんを褒めてやれるところが上手く見つからない。
 ここにいる者たちは、スズランをよく知っているし、うるさいと思っている。親しみやすいし、にぎやかだなあ、と思っている。
 しかし知らない。スズランの内面も、思想も、信念も、なにひとつ聞きだしたことがない。
 スズランが若人たちに語ったのは、『古臭いおじさんが好きそうなやつ』とひとくくりにできるような、物分かりのよさそうな箴言に、クソみたいな駄洒落だけであった。若者が「これだからおっさんは面倒くさい」と、煙たく思うやつばかりである。
 本人だって、まるで十六の若者みたいな、幼い顔立ちをしていたくせに。
 平坦な笑顔をニコニコと浮かべて、僧侶らしく感情を上下させず、いつもうしろで皆を見守っている。思想と感情のぶつけあいを経て、確かな絆を得た新選組の若者たちとはなにか異質で、存在感があるようでない。生きているときから、幽霊みたいな男であった。
 そうなると死んでしまってしばらく経つと、印象がぼやけてくる。
 袈裟を腰に巻いた法衣姿だったのは覚えている。でも、どんな顔をしていたかを、思い出せなくなってくる。
 いったいどんな奴だったんだろう。本当は何を考えてここにいたんだろう。誰もスズランがよくわからない。理解者となると、常にニコイチで一緒にいたソウゲンくらいだ。
 そのソウゲンも、今はここにいない。
 スズランの遺体に異様なほどの執着を見せる姿を見ると、何を考えているかわからない変わり者同士、奇跡的にウマがあってしまったのだろう、と察する。
 ──かちかち、と。
 スズランのためにソウゲンがあつらえたエレキテル錫杖が、とつぜん震えて音を立て始めた。
 錫杖の先端にはめこまれた鬼神丸国重が、ほのかな紫色の光を放っている。刃に宿った斎藤一の魂が、何かを伝えようとしているのか。
 藤堂は錫杖をとりあげた。材質は軽く、非力な坊主でも取り回しがしやすく作られている。刀を振れない坊主のために作られたいくさ道具は、今の藤堂の右手にしっくりとなじんだ。
 藤堂は、借りるぞスズラン、と口の中で転がす。

「斎藤一さん、まいりましょう」

 藤堂が声をかけると、斎藤一の魂が返事をするように、刃が一度明滅した。

       * * *

 冷たい雨が降っている。夜の始まりのころである。
 稲荷山の向こうの空は不思議に晴れていて、ほどけた雲をすかした夕日が射しこんでくる。遠いかすかな光が、山の影をさらに濃くしている。
 伏見稲荷の千本鳥居。
 細い山道を、伏見奉行所の役人が、新選組の前を歩いていく。
 畜生に喰い殺された同僚の仇討ちと意気ごんで、新選組の助力に顔をしかめていたので、一番星は不満そうだ。必要ないなら呼ぶなよ、とブツブツ文句を言っている。
 三ツ辻を超えたところで、気配にさといサクヤが振り返った。

「どうした」

「さっきから見られている」

「人か? 獣か」

「いや。わからないが。なにか、覚えがあるような。……思い出せない」

「お主にしては珍しいな」

 サクヤと、前を行く藤堂は小声でやりとりをする。奥へ進むと、なじんだにおいが漂ってきた。
 死体が打ち捨てられている。

「獣の犠牲者ではないな。これは人の仕業だ」

 アキラが、首と胴が別れた子どもの死体のそばに跪いた。
 砂と泥で汚れてしまって、人相もわからない。傷口を見る。鋭利な刃物で、一薙ぎに刎ねられたようだ。苦痛は少なかったのが、せめてもの救いか。
 幼子が命を奪われた現場は、何度見てもやりきれない。
 子どもの遺体の近くには、母親と思しき女の死体もあった。アキラは黙って母子の躯に手をあわせる。
 奉行所の役人が、乱暴にアキラの肩をつかんだ。

「待ちや。こいつらキリシタンや。手なんか合わせたることないで。幕府に逆らって禁教破って、おりもせん神さんのせいで死ぬ阿呆どもや。なんや気色悪い。山の下で神主が、獣が出たんコイツらのせいや言うて騒いどったわ」

 神職たちは、キリシタンどもが隠れて社に訪れ、稲荷神を自分たちの神に見立てて祈るので、祀られている宇迦之御魂神が怒り、暴れていると信じている。

「馬鹿なことを」

「そや、キリシタンも稲荷神もアホな話やで。古臭い迷信や。わしらは山に出る、人を喰ろうた獣を駆除しにきただけや」

 キリシタンが見つかれば、相互監視のために無理やり組まされた、ほかの家の者まで連帯責任で殺される。
 だから身内に信者を見つけた家が、ことが露見しないうちに、相手が山で祈っているところを襲って殺してしまったのだろう、と役人が言った。

「この世に、目に見えんものなぞ存在せん。神さんへ祈ったかて、どこにも届かん。おらんもんは、誰ンことも助けてくれへん。神さんが、死んだやつを生き返らせてくれることは、あらへんのや」

 仲間を殺された役人が、怒りで顔をどす黒くして吐き捨てた。
 すると──。

 おおおおおおおおおおおん。

 長く尾を引く咆哮。濡れた鳥居が、ビリビリと震える。

「出たな、人喰い狐──」

 荒神峰のあたりである。
 足音もさせず、気配もなく。鳥居の上から、四つ足の獣がのぞきこんでくる。
 もとは白狐だったのだろう獣毛に、赤黒い血と泥がこびりついてかたまり、いくさ場の土の色に染まっている。夜の闇を押し固めたような紫の目は、一番星に、どこか弟のツキトの瞳を思い出させた。

「なんか……デカくね……」

 一番星は、無意識につぶやく。
 屯所でお糸に聞いていた話よりも、ひとまわり、ふたまわりは大きい──。
 おおおおおおおん、と──再び、湿った空気を震わせる咆哮があがった。
 獣は頭を左右に振ると、水浸しになったぬかるみを、滑るように移動してくる。新選組に手柄を譲るまいと先行していた伏見奉行所の役人の喉笛に、重い牙で食らいついた。
 役人は、ボウとおなじくらいの巨漢である。奉行所一の力自慢であるらしい男が、声をあげる間もなかった。獣が突き上げるように顎をそむける。
 役人の喉をとらえたまま、後ろ足だけで立ち上がり、体を刀の刃のように振り下ろす。
 濡れた石畳に役人の巨躯を、どう、と打ちつける。
 その時点で全身の骨が砕けて、役人は再起不能になっていた。
 獣は人ではないから、人の容赦を知らぬのか。少しもあぎとをゆるめず、頭を左右に激しく揺らして振りまわす。
 地に打ちつける。大きな獣が体を振りまわしてやるものだから、誰も近寄れない。動けば巻きこまれて潰される。二度、三度、四度。
 あわれ、獣に喰われた仲間の仇を討つと意気ごんでいた役人は、肉も骨も砕けて混ざった血風船のようになってしまって、獣の牙から解放されたときには、もはや人の形をしていなかった。
 獣が人を執拗になぶるのは、狩り遊びか。
 いや──。

「臆病な性質のようだ。加えて粘着質。この場で仕留めねば身を隠してしまうぞ」

 サクヤが刀を抜く。青い光が刀身からあふれた。

「土方さんの魂が宿った和泉守兼定が輝いている。私の……スズランと斎藤一さんの錫杖も同じく」

 藤堂が手に握っている、今は亡き部下のために作られた錫杖の先で、鬼神丸国重の刃先が、サクヤの刀と共鳴するかのように光り始めた。
 「俺のもだ」「拙者も」「オデのも、光る」替え玉たちが口々に言う。
 近藤勇に原田左之助、沖田総司たち亡き新選組幹部の魂が宿った刀が、雑面ノ鬼が使う霊式兵器と相対したときと同じ輝きを宿す。
 人里を荒らす害獣駆除の仕事だと聞いていたが、この人喰いの大狐、ただの獣ではないということか。

「シマ荒らされて人間に怒った、山の神とかかもしんね。お山の神さんは怖いんだって、おっ母が言ってた」

 昔、山で悪さをして、母親に大目玉を食らったときのことを思い出して、一番星が尻ごみをする。
 刀の中の魂たちが、どういう意図かはわからないが──。

「今は助力、感謝する」

 サクヤが跳んだ。
 ニヤけたような細目の獣の鼻面を見据えて、青い燐光ほとばしる太刀を振りかぶる。
 獣が素早く下がった。サクヤが判断したとおり、臆病で慎重な性質で、常に一間ほどの距離をとる。
 つかず離れず。身を低くして、決してサクヤから目を離そうとしない。
 まるでこの場にいる人間たちのなかで、誰が一番強いのかを、一目で見定めたかのように。
 長い尾を腹に巻くように後ずさったかと思うと、横っ飛びに跳ねる。ぐるぐると円弧を描くように、間合いを詰めては離れていく。
 サクヤは舌打ちをした。いつまで経ってもらちが明かぬ。
 そうしているうちに──。
 サクヤの弱った肺が音を上げる。
 雨にうたれて冷えた体を、肺の病が蝕んでいく。
 今のサクヤは、長くいくさを続ける地力がない。闇殺しの師に見限られる所以である。
 咳が出はじめた。一度咳発作がはじまると、しばらくは止まらない。冷たい空気が激しく出入りして、病んだ肺をさらに痛めつけていく。
 とうとうサクヤが、激しく咳こみ体を折った。
 すると獣は、逃げ回っていたのが嘘のように、牙を剥きだしサクヤへ向かって駆けてきた。
 まるで、サクヤの肺の病を知っていたかのように。体を冷やして発作が出れば、もう剣も振るえず手足も出せず、安楽に喰らえると理解していたかのように。

「──斎藤一さん、お願いします!!」

 藤堂が、腰に付けたエレキテル箱を叩いて仕掛けを起動させ、錫杖を獣に向けた。
 藤堂は体が小さいが、大の男がひるむくらいの大きな声が腹から出る。まるで己の名を呼ばれでもしたみたいに、獣はビクリと動きを止めた。
 そこへ斎藤一の魂が宿ったエレキテル錫杖が、電撃を放つ。糸を引くような白い光がはじけて、水浸しになった参道で炸裂した。
 ずん、と重い衝撃。人は殺さぬよう威力は絞ってあるが、獣も人も問わず、エレキテルの痺れ火花がその場にいたものに襲い掛かる。
 雨の日にエレキテル錫杖を使うと、自爆覚悟の道連れ攻撃になる。身に染みたように呟いた前の持ち主の顔が、藤堂の脳裏に浮かぶ。
 自分や仲間まで黒焦げになる。それでも死にはしない。殺生を厭う僧侶のために、ソウゲンが装置に調整を入れていた。

「ボウ、サクヤを連れて、いったん下がれ」

「オマ! サクヤ、だいじょうぶ?」

「面目ない」

 ボウがサクヤを抱え上げて背をさする。
 指示を出した藤堂の左側から、電撃の痺れが解けた獣が、ぬるりと現れ見下ろしてきた。
 人が死なぬ程度の静電気だ。図体のでかい獣を仕留められるような力はない。
 山の中では見たこともないような、未知の脅威にひるむかと思ったが。この人喰い狐は臆病なくせに、火も電撃も恐れぬらしい。
 二度目の電撃を警戒してか、先ほどより彼我の距離が開く。踏みこみ、そうと思えば猫だましのように足元の石畳を前脚で薙ぎ払って、割れた石を飛ばしてくる。
 大きな体の獣にとっては石つぶてでも、人間にとっては小ぶりな砲弾が飛んでくるのと変わらぬ。藤堂が体をひねって避けると、右目で睨みつけた先で、獣はまた離れる。藤堂の欠けた半身のほうへ動いてまわる。
 左目のない藤堂は、常人よりも死角が多い。
 左手足のないぶん、死角からの攻撃をさばくのが難しい。藤堂平助を一目見ればわかる半身欠損の弱みを、淡々と執拗に狙ってくる。
 獣特有の狩りの技というよりも、どこかいけずな人間のようなやり口である。そういうクソみたいな手合いが死ぬほど嫌いな一番星が、怒りにまかせて飛び掛かっていった。

「底意地の悪いことしてんじゃねぇーッ!」

 頭に血が上ったか、刀を抜くのも忘れて、獣の眉間に下駄で蹴りを食らわせる。思わずひるんだ獣の横っ面を、「一番星ぃ!」、ボウがぬかるみから引っこ抜いて投擲した古鳥居が張り飛ばした。
 ぎゃんっ、と甲高い悲鳴を漏らして、獣が倒れて腹を見せた。

「ぐるりよぉざ」

 転がって起き上がり、舌を出して荒い息をつく獣が、奇妙な鳴き声を漏らした。人に良く似た声を出す。
 不思議な文句の意味は知れないが、一番星はその声に覚えがあった。

 ──きれいな声してんだから、デカい声あげて歌やァいいのに。もっと腹から声出せって。

 前に一番星の友達が、モゾモゾと口の中だけで転がすような、変な歌を唄っていたことがある。
 異国の言葉だろうか。腹の底を震わせるような、この国にはなじみのない音の響かせかたをする、知らない歌。

 ──これはね、声に出したら死んじゃう歌なの。大きな声で歌うのは、今から死ぬって決めた時だけ。

 そいつは困ったように短い眉毛を下げて、一番星にそう応えたのだったか。

「おまえ、スズランか……」

 獣は──スズランは、一番星の声に反応しない。また怯えたように尾を巻いて、後ずさっていく。
 唄えば死ぬ歌を、獣は口ずさんでいた。それでは死ぬ気なのだ。
 いや、とっくに死んでいた。
 それでは、なんで死にゆくときの歌を唄うのだ。まるで死ぬ途中の宙ぶらりんで、ずっと留め置かれて苦しんでいるかのようではないか──。
 光がない紫色の目に、ぽかりと口を開けた一番星の顔が映りこんでいる。

「わかんねーのか! 俺俺! 俺だよ!」

 獣の目に、人の理性の光はない。正気を失っている。一番星には興味を示さず、離れたサクヤを執拗に狙って襲いかかっていく。
 一番強い人間をこの場で仕留めておかねば、そのうちに必ず自分を殺しに戻って来ることを知っている。そういう怯えからくる攻撃性だ。
 があん、と轟音。銃声だ。
 獣の後足から、血が吹きあがる。

「おうおう、色男、ハデにヤラれてんじゃねぇか」

 ギャタロウがスペンサー銃を構えて、うずくまったサクヤの横を抜けていく。

「ギャタ兄」

 ボウが嬉しそうに顔を明るくする。
 ギャタロウが足止めをした獣に向かって、ソウゲンが防湿爆薬を投げた。

「スズラン殿。すみません」

 人を相手にするように、火薬量を絞ってはいない。獣の前脚と顔の半分が吹き飛ばされ、飛散した破片が傷口に突き刺さる。芋虫のように横たわった巨体へ、ギャタロウが抜いた氏繁と、ソウゲンの赤心沖光が、宿った魂の光を放ちながら吸いこまれていく。
 獣に繰り出された、とどめの一撃──。
 それが、防がれる。
 墓標の黒い妖刀を手に、一番星の弟のツキトが現れた。ふたりの刃をはじいて返す。

「新選組。お久しぶりですね藤堂平助。またしても立ちはだかりますか」

 ツキトはそう吐き捨てると、満身創痍の獣の首に、己の妖刀を突き立てた。
 獣の喉から、すすり泣くような悲痛な悲鳴が上がる。黒い靄のようなものが──目視できるほどに濃縮された、腐敗が進み悪くなったキリシタン殉教者たちの魂が、獣の体に注がれていく。
 すると奇跡の御業でも見ているように、獣の傷が癒えていく。
 欠損した脚、吹き飛んだ顔の半分が、囚われた魂をそこへあてがったかのように、元の形に戻っていく。
 ほどなく獣は、ふたたび立ち上がった。
 泡吹く口蓋からよだれをダラダラとこぼし、狂ったようにガリガリと地面をひっかいている。
 さらに人の理性から遠くなっていく。
 凶暴なうなり声を、金の杭に貫かれた喉からこぼしながら、獣は跳んだ。鳥居を踏みつけ嵐のごとく一直線に駆け出していき、闇にまぎれて参道のむこうに消えていった。
 獣の姿が見えなくなったころには、ツキトの姿もまた、どこにもなかった。

       8

「ツキト。スズラン。死んだんじゃなかったのか。ふたりとも」

 一番星は呆然と、獣の消えた先を見つめている。
 死んだ仲間が、人を喰うけだものになってしまった。意思の疎通も何もできなくなって、人間を見たとたんに襲い掛かってくる。あれでは化け物だ。

「スズランはなんであんな姿に……。何か言ってた。うわごとは、外国の言葉か」

「オラショです。きりやれんず、ぐるりよぉざ──以前、ひととおり披露してくださいました」

 ソウゲンが嘴を挟んだ。一番星は思わず跳ねあがって、大男の胸倉をつかむ。

「ソウゲン。てめえ! ツキトとスズランに何をしやがった! 俺の大事な弟に。俺の大事なダチ公に。テメェは一体なにをして、あんなふうに変えちまったんだ。なンでだよッ。テメェッそこまでするやつじゃ、なかっただろうがよ──」

「ソウゲンではないといっただろう」

 サクヤはソウゲンに処置をされながら、ボソボソと言った。

「はい。それは知りません。ですが一番星殿の弟君の中身については、スズラン殿のお身内より聞き及んでおります。雑面ノ鬼の首魁・土御門晴雄は、ツキト殿の躯のなかに魂を宿して蘇ったのです」

 すべてを星にゆだねて他人を信じぬ土御門は、万一に備えて、生前から養子の羅生丸の体に仕込みをしていたのであろう。
 人間は死ぬ。悲願である安倍晴明復活の儀を成就させる前に、土御門の命が潰えるかもしれぬ。老いた身が先に終わった瞬間。それとも憑代の裏切りにあい、殺された瞬間。
 羅生丸の体のなかに宿った土御門晴雄の魂が目覚め、若く美しく強い体で復活する。すべては晴明を蘇らせて、日本の未来を守るために──。
 土御門は養子の晴栄の名で、再び長州藩に取り入っている。
 咎人だった新選組の替え玉たちの心の強さに、一度滅ぼされたことから考えついたのか、今度は死すべき咎人たちの魂を利用して、この国に混乱をもたらさんとしている。
 新しく生まれた霊式兵器は、キリシタンの強い祈りの心が動力源だ。
 キリシタンの信仰はしなやかで折れない。隠れて祈るために柔軟に見立てをして工夫を凝らし、拷問に屈しない純粋な、あるいは狂った心を持っている。
 生前のスズランが命をかけた大切な祈りが、人を殺める武器の動力へと転化させられて、今も穢され続けている。

「小生が咎人となったのは……安楽死の薬を作るに至ったのは、患者の死の間際の苦しみがあまりにひどいさまを、何度も目にしてきたからなのです。死ねばもう感じません。しかし死にゆく瞬間の苦しみは、耐え難いもの。スズラン殿をもとに戻す術は思いつきません。霊式兵器に関しては、小生の理解の範疇外なのです。このままでは、あの方はずっと死にきれぬまま留め置かれてしまう。殺生を厭う僧侶が人を殺めさせられ、肉を喰らわされて生かされる。スズラン殿の言い方ですと、地獄としか」

「ソウゲンは、マブダチのこと、殺せんのか」

「救いたいのです。そのあとであれば一番星殿にならうようですが。小生、切腹でもなんでもさせていただきましょう」

 ソウゲンの緑色の目が、一番星を真摯に見すえる。大切な者を救いたいと願う者の瞳だ。一番星は鼻先をこすりながら、うん、と頷いた。

「わかった。スズランを助けてやろうぜ。ダチ公が困ってんなら、何とかしてやんねーとなぁ」

「かたじけない、局長。感謝するのです」

 ソウゲンがほっとしたように顔をゆるめ、大柄な背を曲げた。

「しかしよォ、スズランが土御門に操られてるってェのなら、逆に何かの理由があって動かされてるはずだァ」

「鴨川で、足跡が消えてるマァ」

 ギャタロウとボウが、雨足の強まる中、増水しはじめた鴨川の下流を向いて顔を見合わせる。

「……大坂城」

 藤堂が、静かにつぶやいた。

「川の果てには大坂城がある。あそこは長州征討にむけた江戸幕府軍の本陣だ。十四代将軍・徳川家茂公が入城したのは、昨年の春のこと──」

 鴨川は桂川を経て淀川に至り、平野川へ注ぎこみ、大坂城の東側の外濠に通じている。
 日は沈んだばかりの、暮れ六ツ。伏見港から大坂までは、川を下れば子の刻には舟が着く。気まぐれな狐の泳ぎでは、いつになるやら知れないが、荒れた川の水は否が応でも獣の体を押し流してくれるだろう。
 政変において帝をかどわかそうと目論んだ長州藩に、霊式兵器を提供し支えた雑面ノ鬼の長の、次なるたくらみとなると、最悪の予想が藤堂の脳裏によぎる。

「死にぞこないの土御門めは、今度は徳川家茂公を暗殺しようと企てているのか」

「えっ。徳川の、将軍様を殺そうってか……もしかして、バチクソにヤベェんじゃねーのかよ、それって」
「そうだ、バチクソにヤベェのだ馬鹿者。すぐに土御門とスズランを追うぞ」

 藤堂はいまひとつ事態をわかっていない一番星にゲンコツを落とし、昨今は気が弱っていたのが嘘のように駆け出した。
 逃げた獣を捕らえなければならぬ。スズランが、江戸幕府そのものに牙を突き立てる前に。

       9

 淀川沿いにある、野江刑場。
 かつて豊臣の残党が処刑されたという、大坂城をのぞむ刑場焼き場のまわりには、無情に打ち捨てられた遺骸に野犬がむらがる凄惨な光景がひろがる。
 そこに、隠れた信仰が露見し、今にも処刑されようとしているキリシタンの一族の姿があった。
 磔にされたキリシタンたちは、うっすらと笑顔を浮かべて──それは偶然にも落城寸前の原城で、総攻撃を開始した江戸幕府軍を天守閣から見下ろす天草四郎の表情と酷似していたが、「あんめんりゆす」とハッキリと大きな声を出す。
 信仰が他人に知れれば命を奪われるキリシタンが、大声を出して祈りを唱えられるのは、人生で一度きり。殉教の瞬間だけであった。

 ──きりやれんず きりすてれんず きりやれんず ぐるりよぉざ。
 Kirye eleison. Christe eleison. Kirye eleison. Gloria in excelsis deo.
(主よ憐れみたまえ。キリストよ憐れみたまえ。主よ憐れみたまえ、いと高きところには神の栄光)

 オラショ。
 ラテン語で祈りという意味の、キリシタンのお題目だ。日本に渡来したのち、言葉の訛りと民謡の響きを帯びて土着した、グレゴリオ聖歌の「あわれみの賛歌(Kyrie)」である。
 キリシタンは死を恐れない。迫害と殉教こそが己の信仰の証明であり、神が与えたもうた尊い試練であると思いこんでいる。だから笑顔を浮かべて祈り、歌を唄いながら死んでいく。
 死を前にした祈りの声に引き寄せられたか。荒れた淀川から、異形の獣が上がる。
 濁流に揉まれるうちに体毛が土色に染まり、もとは何だったかもわからぬ汚泥のかたまりのような生き物だが、これが見上げるほどに大きい。
 目つきに狂気の光を宿し、口からあぶくとよだれをダラダラとこぼしながら、泥酔したような、たよりのない足取りで近づいてくる。放置された咎人の躯を食い漁っていた野犬の群れが、怯えて散り散りになっていった。
 処刑人は驚いて刀を放り出し、罪人のことも忘れて、野次馬にまじって逃げ出した。
 なかには獣に刃を向ける勇敢な侍もいたが──獣はそこに、かつて己を殺めた武士、肥後細川藩士の陣佐左衛門の幻覚を見て、おびえて振り払う。
 集ってくる羽虫の群れを払うように、前脚を振りまわす。まぼろしのなかの陣佐左衛門の首が飛び、血しぶきをあげながら有明海へ落下していった。
 本当のところは、それは死罪人の体を使って刀の試し斬り係を務める山田家当主、御試御用の浅右衛門なる役人だったが、淀川の泥水に沈んでいく見知らぬ男の首を目に映しても、恐慌と狂気に陥った獣には何もわからない。
 刀を握ったまま膝をついた首無し死体を、獣は恐怖に突き動かされて、なおも執拗に攻撃する。人の躯が潰れて、焼き場の灰と混じってぬかるみに成っていく。

「ぐるりよぉざ」

 ふ、と獣が止まる。
 座りこんでオラショの一節を呟くと、死肉のにおいのするくさい息をはきかけながら、十字架の上のキリシタン信徒に鼻先を近づけてうごめかした。
 足元で、ひ、と悲鳴を上げて腰をぬかす役人を踏みつけて、頭を砕く。

 ──無事な人がいた。

 獣が見ているまぼろしの原城のなかで──。
 襲ってきた幕府軍に虐殺された民衆のなかに、奇跡のような生き残りの人の姿を、天草四郎は見出した。
 かわいそうに、イエス・キリストのように、ぼろの十字架に磔にされていた。助けてやると、みなは天草四郎に向かって手をあわせて、天主へ祈るように頭を垂れた。

「お救いください。お守りください。デウス様のつかわした、我らキリシタンの救世主様」

 そうだぼくがこのひとたちを守ってあげなきゃ、と天草四郎だったころの夢を見ている獣は思った。逃げてばかり、守られてばかりの、お飾りのままじゃだめだ。
 神にすがるしか生きる術を知らぬ、役立たずだった己は、新選組に拾われて都の守り人に生まれ変わったのだから。
 己の手に刀を握って戦わなければ、守るべき者の命を取りこぼすだけだと、ひたむきに生き抜いてきた若者たちに教えられたのだから。

 ──直していれば、いつかは元通りになる。

 ──そのまま行けって。行ける、ブッコむぞ。

 いつか己の心の琴線に触れた、誰かの横顔を思い出す。誰かの言葉がよみがえる。
 いくつもの綻びを繕うように生きていれば、彼の言うとおりに元通りに──人々が異国の歌を口ずさみながら、自由にクルスをかかげて天主への祈りを捧げて生きた、今は滅びた故郷の都が元の姿を取り戻すのだろうか。是。
 往く道を間違ってはいないか。振り返らずに、このまま進んでいいのだろうか。是。
 本当に、これでいいのか。是。
 何も考えられなくなっていく。自分の頭で考えないで、ただただ大きい波に流されていく。
 それって人の、尊い魂の、正しいあり方かしら。是。是。是。
 それならば──守るのだ、と獣は体を震わせた。顔も思い出せぬが大切な、どこかの誰かに教えられたように弱い人を救うのだ。
 悪鬼のごとく残虐無慈悲な江戸幕府軍から、あの日殺されてしまった仲間たちを守る。
 すべての殉教者の祈りを。守り人に生まれ変わった己は、逃げずに立ち向かって、神のごとく、とりこぼさずに守らねば──。
 獣が毛を逆立てて威嚇する。江戸幕府軍に──死罪の咎を与えられた己を救って、斎藤一に生まれ変わらせてくれた愛すべき新選組を擁する、長州征伐の命に従って集った江戸幕府軍に向かって。
 牙をむき出し、おおおおおおおおおおん、と長く尾を引く不気味な咆哮をあげた。

「神様みたい」

 恐ろしい牙と鋭い爪に磔台からおろされた子どもが、獣を見上げてそう呟いて、手をあわせる。
 キリシタン宗信徒の誰彼ともなく、幼子に倣ってキリスト教の祈りの形に手を組んで、大きな口をあけてオラショを唱え始めた。
 唱えれば殺される、禁じられた祈りの言葉を、獣に捧げはじめた。
 この獣は今まさに、殉教者の命を救った。迫害者の処刑役人は喰い殺すのに、神に祈りを捧げるキリシタンだけは襲わない。
 キリシタンたちの信仰を認めた天主デウスの遣わした、慈悲の獣にほかならぬ。

 ──万事に適いたもう 天地を創りたまいて 御親デウスの そのお一人子
 ──我らが御主 ゼズキリスト 信じたてまつる

 すると、『デウス』を『ダイウス』と発音するキリシタンたちが祈るのを、「大きな臼(ダイウス)」を拝んでいる変わり者たちだと馬鹿にしていた迫害者たちまで、恐ろしい獣の牙を逃れるありがたい呪文として、禁じられたオラショを聞きかじって唱えはじめた。
 日本語ではなじみのない、腹の底を震わせるような発声をする祈りの言葉が、集まって波になる。音の半分は、デウスに捧げる感謝と畏敬。もう半分は、恐怖にまみれた命乞い。
 空の彼方から黒い羽虫の大群が去来するときのような、わあああああん、と震える不気味な響きが、雨の平野の空気を振動させる。
 祈りの声が高まるごとに、獣の体にさらに力がみなぎっていく。人間の信仰を喰らって、糧にしている。
 祈りは、人の魂を捧げるに値する行為だ──獣がかつて人だったころに、人生をかけてそういう答えに行きついた。
 死を前にしてひとつも臆さず祈る者の声は気高く、殉教者の魂は死してなお尊い。
 とても純度の高い、理想的な動力源である。敗軍の兵の無念を、あるいは刑死者の慟哭を喰らった獣を、何百年も生きながらえさせるほどに。
 何万何十万のキリシタン殉教者。そればかりでは飽き足らぬ。獣の舌は、祈りの味で肥えていく。
 仏教神道キリスト教、祈りの五味を覚えた獣は、救われなかった水子や遊女に咎人に、いくさに敗けて虚しく躯をさらされた侍や、どこの誰とも知れぬまま命を落とした無縁仏を、ときに仏僧の姿で、ときに神主に姿を変えて数多の神の名で弔い──その実は魂を横からかすめて喰らって、体内に膨大な動力源をためこんだ。
 そこにあるのは、目に見えぬものたちの、目に見えるものへの怒りと嘆きが集って、形を為したものだ。
 人の信仰が集まって獣の姿を成した、祈りのための偶像のごとく誰も救わぬ、意志なき霊式兵器であった。

 遠く吠える獣が見上げた天を遮って、江戸幕府軍の大本営、今は天守閣なき大坂城がそびえたつ。
 そこに仇が『居る』のだと、獣に連なる血が言っている。祖父の血が父の血が兄たちの血が、憎き徳川家末代への怨嗟をこめて叫んでいる──。
 仇を滅ぼせ。
 悪魔を打ち砕きて、虜を救い放てば主は来たらん。
 獣は悪夢にとらわれて、何百年も昔の敗戦の日の記憶を、幾度も巻き戻し繰り返して見る。救いと赦しを乞い願うオラショを口ずさみながら、決して祈りに救われることはない。
 落雷の音は、自陣に撃ちこまれる恐ろしい大砲の音に聞こえる。人々の悲鳴は、総攻撃を開始した江戸幕府軍の鬨の声に聞こえている。
 またひとつ、雷が落ちた。
 獣は見えない何かに追いたてられるように、獣毛を逆立たせて、春の雨の夜のなかを孤独に走りだす。
 そこには、純粋な恐怖があった。

       * * *

 血と獣のにおいに馬がおびえて、使い物にならぬ。長州軍は不満そうに徒歩で進む。
 慣れぬ武器を持ったキリシタン宗信徒が、そこに付き従っている。

「本当に、いくさに助力すれば、キリシタンの信仰を認めてくれるのか」

 長州軍の侍は、ああ、とうわの空で頷く。お前たちは今から神ではなく、この国に命を捧げるのだと、胸の内で吐き捨てながら──。
 キリシタンならば何人犠牲になろうが、どうせ死ぬ命なのだ。

       * * *

 生まれたときに、ふたつ予言を受けた。
 ひとつめは、キリシタン宗の外国人宣教師ママコスが授けた予言。

 ──天人のごとき姿の十六歳の少年が、キリストの教えを信じる者たちを救うだろう。

 もうひとつは、京の都からやってきた高僧の予言。

 ──この赤子は狐の子じゃ。徳川の終わりを、獣の目で見とどけるだろう。

 どちらの予言も、祈りなんか無意味だと教えてはくれなかった。
 ただの捕食行動だとは、教えてくれなかった。
 魂は獣を生かす贄。己は人の苦しみを喰らって育つ、魔物だったのだ。

       10

 大坂城。徳川将軍の城。
 日本語に堪能だった英国外交官アーネスト・サトウは、公使に随行して大坂城に入城した際に、「江戸城よりもいっそう堅固で美しく、清潔で、賞賛に値する」と記録した。
 塔のごとく積みあがる石垣に、はるか地の底に流れる地下水脈まで届く深い堀。見るものを圧倒する巨大な城塞である。
 諸藩の屋敷に、武器弾薬、金銀財宝をおさめた蔵が立ち並ぶ。
 天守閣は落雷によって焼失していたが、本丸には将軍の住まいとして、本丸御殿が建造された。
 しかし御殿が『有事』の役目を果たしたことは、およそ二百三十年のあいだ一度もない。それは、徳川将軍が治める江戸幕府の権威が、その間、正しく機能していたことを示している。
 徳川の十四代目、十九歳の青年将軍・家茂は今、この大坂城を長州征伐の大本営とするために、陣羽織をまとって本丸御殿に留まっている。
 とうとう、『有事』のときがきたのである。

 二の丸の北の端の、伏見櫓。廃城となった伏見城の櫓を移築したことから、こう呼ばれる。
 金奉行元屋敷と呼ばれるこのあたり一帯は、焔硝蔵などが建つほかは空地も多く、人の出入りがほとんどない。
 なみなみと水の満ちた堀から、雨のつぶてを全身に受けながら、何かに導かれたように獣があがる。
 石落としの穴を足がかりに、石垣を跳びあがった。人への仕掛けは、獣の足を止める役にも立たない。櫓の上から本丸の方角を眺めると、糒櫓のそばに立つ大木がのぞいて見える。
 かつて、いくさに敗けた豊臣秀頼がそばで自刃したと噂される、いわくつきの松であった。
 グルルル、と獣が喉の奥で唸る。
 紫の目が、天守閣なき大坂城の本丸御殿をとらえている。

       * * *

 ──大坂城の地下深く。そこにはすべてがあると、聞かされて育った。
 豊臣家が全国各地からかき集めた黄金は、今も大坂城の地下深く、土に埋もれて眠っている。それが、いくさが起こったあとも、本当に命が危なくなるまで亡父がこの城を離れなかった理由である。
 獣は大坂城を見あげる。天守閣はない。豊臣の血の名残はない。
 徳川大坂城の外観から、豊臣時代の名残は徹底的に消されている。
 焼けた豊臣大坂城は、土の下に埋められた。その上から、さらにひとまわり巨大な徳川大坂城が、上書きされて造られたのである。今は落雷で焼失した天守閣の位置さえも、かつての豊臣大坂城とは異なっている。
 天守台の本丸御殿からは、仇の末期の血の匂いが細く香ってくる。病の匂いが混じっていた。放っておいても死んでゆく。
 祖父秀吉を、父秀頼を、裏切った男の子孫を、憎いと思うか。
 否。とくに何とも思わない。
 はなから人間には期待していない。この世は不平等だ。裏切るのも、利用するのも、かすめとるのも、殺して奪うのも、すべての人の業だと思い知っている。
 祖父も父も同じように、騙しつつ殺しつつ生きてきて、最後に己が生まれた。
 だから人に生まれることが、すでに呪いなのだ。
 誰かへ向けた怨みなどない。ただ平等な死を望むだけ。
 それならば、なぜここへ来たのだろう──。
 父が見た夢の残骸に、まだ温みが仄かにあると信じていたのかもしれない。
 なぜそれが、己を救ってくれると信じたのか。
 わからない。なにもわからぬ。ただ、咎人になった子は神に、父に、救ってくれと叫ぶのだ。
 応えがなくとも叫び続ける。父よ、なぜあなたは子を見捨てたもうたのか、と──。

       * * *

 青屋口の見張り役人は、北の蔵のあたりに何かを見た。
 寝ぼけた鳥か何かと思ったものの、場所が『ばけもの屋敷』と呼ばれるあたりであるので、嫌な予感がする。
 幽霊や妖怪なぞという非科学的な存在が、この世にいるわけもない。同僚に馬鹿にされるのも癪なので、さっさと見て回ろうと歩き出した矢先に、櫓と櫓のあいだを縫うようにして、なにか黒い塊のようなものが跳んでくる。
 激しい風雨に音が掻き消され、気づくのが遅れた。
 空から大きな雨粒とともに、汚泥の塊のように汚れた獣が、役人の頭の上に降ってくる。跳んできた巨体に潰されて、役人は圧死した。
 ぺちゃんこになった躯は、石畳の上にしばらく張りついていたが、しばらくすると、ぴくぴくと動き出した。弾けた体そのままを、引きずって動かして、肘から先だけがきれいな腕で刀を握る。
 城内のそこここで、同じ運命を辿ったしびとが立ち上がって、本丸のほうへ向かって押し寄せはじめる。

 騒ぎがおこったのは、青屋口のあたりだ。未曽有の巨大な獣の出現に驚いた大番衆の目が、そちらへ集中する。
 その一瞬のあいだに狐面をつけた連中が──城代の記録には『過激ノ輩』と記される不逞浪士たちが、玉造口のほうから大坂城二の丸内部へ突入してくる。
 ようやく大番屋敷から出てきた守り手が襲撃に気づくころには、すでに大手門のあたりまで敵の侵入を許してしまっていた。
 賊の身なりは長州軍のもの。京を追われたのち、近くに潜伏していた長州藩士が、征伐を前に討ち入りにきたかと思えたが──。
 様子がおかしい。
 先の禁門の変において、長州軍と戦った者は、斬った相手の顔を覚えている。
 城になだれこみ、動いて斬りかかってくるのは、すでに命なくしたはずの、しびとの侍であった。
 明確に化け物である。いくさは人と人でやるものだ。敵は人ではない。
 しびとが起き上がって襲ってくるなどというのは、弱気と罪悪感が見せる夢の中だけの話であり、あるはずのないものに対処する方法は誰も知らない。
 肉の体をもって、触れることのできる怨霊を相手に、あたりは瞬時に恐慌におちいった。

       11

 このころ、禁門の変で焼けた京の治安維持に奔走していた新選組は、孝明天皇が過激な攘夷運動を嫌って命じた長州征伐には向かわず、将軍警護のために阿治川周辺に百名ほどの隊士を展開。
 京都守護職の命を受けて、将軍の命を狙う雑面ノ鬼の残党と、土御門が操る伏見の人喰い大狐の討伐に当たることになった。

「スズランのやつ、正気を失ってやがった。なんとか元に戻してやれねーか」

「坊主の状態に、自分は思い当たることがある」

 サクヤが、闇殺しに拾われ、育ての親のもとで人を殺す仕事に手を染めていたときのことだ。
 母くらいの年の女を殺したときに、とつぜん光に包まれるような感覚に襲われる。気が付くと己は、今まさに父を殺して母を死なせた瞬間に立ち返っている。幼い子供の姿と心に戻っていて、記憶に焼きついた惨事を、何回も追体験することになった。
 毎度、現実へ戻ってくるのに時間がかかるので、効率が悪い。

「女を殺すと駄目になる。使い物にならないから、師はその仕事を回してこなくなった」

 闇殺しには、珍しくもない狂気乱心の類だという。親殺し師殺し子殺し友殺し、数をこなせばどれかが心に罅を入れる。同胞のうちで、そういう過去へ向いた目をする者を、サクヤも幾度か見かけたことがある。
 二の丸の雁木坂小屋のあたりで、大坂加番に躍りかかっていく獣の姿を見つけた。
 腹に隠すものを持たぬ動物ならば、人より感情はわかりやすい。
 濃紫色の目には、敵意も恨みもない。あるのは恐慌と怯えだ。親子に師に友人のような、己の身よりも大切に想っていた誰かの無惨な死を前にした人が、よくそういう目をする。

「今が見えていない者とは、ちょうどあのような目だ。頭が壊れている」

「壊れてんなら何とかしてやんなきゃな。ぶっ叩いて直してやらぁ」

 一番星がサクヤの横に立ちどまって、手についた癖で前髪を直し、腹に力をこめた。

「ぶっ叩いたら、ふつうは壊れる」

「何でも叩いたら直るんだよ。ソウゲンのエレキなんちゃらも、この前直ったろ」

「偶然だ」

「やるだけやってみよう」

 藤堂が言った。
 坊主の替わりは性に合わぬ。読経は意外と疲れる。いくさ場に立っているほうがしっくりとくる。
 手には、ソウゲンが非力な人間の護身用に作ったエレキテル錫杖がある。

       * * *

 爆薬はしけって点火しない。砲撃は、敵の動きが早すぎて追えぬ。
 大番衆が槍で囲んで突き刺すと、傷を受けた獣は、狐面をかぶった人を喰ってしまう。
 すると、みるみる血が止まる。癒える。
 面の者たちは、獣に捧げられた復活の供物たちなのだ。

 ──パードレ。お祈りください。お救いください。あなた様が道しるべ。どうか我らの祈りを、天主デウス様に届けてください。

 キリシタン殉教者たちが、オラショを合唱しながら進む。

 ──スズタロウ、おい、どこだァ。また嘘ォついたか。お宝なんざどこにもねぇ、おめぇの口は嘘ばっかりでねぇか。この穴ば暗い、道もグルグル巡ってようわからん。迷って死ぬのか、出られん。腹ァ減ったァ。なぁスズタロウよォ、おれが悪かった、助けてくれぇ。

 昔、大村の山中でミサを行っていたキリシタン宗の信徒たちを襲って殺し、身ぐるみを剥いだ夜盗の魂である。
 キリスト教のお題目を唱えていた坊主が、これが面白い話を滔々と語って聞かせるので、頭目が気に入って、喋る間は生かしておいてやろうということになった。
 ミサを行っていた場所が、かつてキリシタンを閉じこめていた大村の鈴田牢のあたりだったので、スズタロウと名前をつけてやった坊主が、話のさなかで、昔の大名のお宝の在り処を知っていると口を滑らせた。
 夜盗が脅して黄金が眠る山に案内させると、坊主は気づけばトンズラしている。前も後ろも上も下もわからぬ、蟻の巣のようなほら穴の中に取り残された夜盗は皆、迷って飢えて渇き、仕掛け罠にかかって同士討ちをし、外に出られぬまま死んでしまった。
 穴のなかを迷っていた魂が、死にたての新鮮なしびとにとり憑いて、嘘つき坊主に助けを求めてウロウロとさまよっているのだ。

 狐面をかぶって歩くのは、しびとばかりである。
 死罪にされた咎人とか、客死した身寄りのない人間、殉教したキリシタンたち。寄る辺なきしびと達は、オラショを口ずさむ獣に惹かれてついてくる。
 もう何もわからぬような動く死肉が、獣の気配に寄っていくのは、そういう身元のあやしい者たちを弔うような物好きな聖職者は、人だったころの獣くらいしかいなかったからだ。
 先に死んだ仲間たちが、スズランという男に弔われるところを生前そばで見て、同じような境遇のくせに丁重に扱われる遺体が羨ましく思って、記憶に焼きついている。
 しびとは祈ってほしいのだ。弔ってほしいのだ。喰らってほしいのだ。
 獣が狐面の人肉を食う。器ごと魂を喰らっている。
 魂は古いものが多いが、憑依された容器は、死後まだそれほど時間の経っていない死体ばかりだ。
 いくさの世で名をはせた古兵たちを、この世に呼び戻し、霊式兵器として運用する。そのための実験に使われた、長州藩士の犠牲者たちの躯であった。

       * * *

 糒櫓のそばに立つ、秀頼自刃の松の上。
 金の髪が異人の混血を思わせる、女のように優しい顔をした男が、紫水晶のごとく透き通った目で、獣が人を蹂躙するさまを見下ろしている。
 土御門には、獣の居場所は、手に取るようにわかる。殺された者の躯は、魂を喰われて空っぽになっているからだ。獣糞で動物の痕跡を探るように、地上に縛られて苦しんでいるはずの魂がなくなっている遺体があれば、近くに『いる』証拠になる。
 その空いた死体に、弔われたい、救われたいと願う者が寄っていく。とり憑いて動く。人喰い狐を拝んであとを追う、信徒のごときしびとたち。
 城代が、混乱の鎮圧に出てきた。顔を知っている。長く生きれば顔見知りも、交流のある者も増えていく。気の置ける相手はいなくなる。
 善い人間は皆、早死にする世の中だ。悪ほど栄え、善は淘汰される。
 己のような男が、この歳までつつがなく生きながらえているのが証だと、土御門は考える。
 時代が求めているならば、応えねばならぬ。すべては星の導きのままに。

「さあ早く、すべて殺さなければ、あなたの民が死に続けますよ」

 いまだ、落ちた原城地獄で慟哭する天草四郎の魂に、土御門は甘ったるくささやく。

「天下を取り戻し、徳川へ復讐をなせば、あなたの御父君も喜ぶでしょう」

 父の傀儡、血の操り道具。息子とはこうあらねばという、理想のごとき姿である。
 羅生丸もこれほどに御しやすければと考えて、詮無いことだと思い直す。彼の失敗あってこその、新たな霊式兵器の完成だ。
 キリシタンの命を、使い捨ての動力源とすれば、誰の胸も痛まない。
 異敵の神の獣が、異敵の命を無限の動力源と変える。
 それは海の向こうの列強すらも寄せつけぬ、日本の守護者となって、この地を守る。
 誠の信仰の国の成就だ。同じ獣の子として、土御門は誇らしく思う。
 血にまみれた獣が咆哮した。
 呼び声に応えるように、徹底的に痕跡を拭い去られて、盛り土の下に封じられていた豊臣の亡霊が、石垣の下から湧き出してきた。
 恨み、慟哭、無念の想いが、獣が殺した江戸幕府の役人の躯に宿る。肉を得た豊臣の怨霊が、死肉を動かして起き上がり、皆で這いずるように同じ方向へと向かい始める。
 本丸御殿。仇敵の徳川末代、青年将軍家茂のもとへ。

 異敵を排除するために、土御門は手段を選ばない。己の望みのためならば、何でもやる男だ。
 かつて雑面ノ鬼は、大坂湾沖に停泊した黒船を奪って、日本の民を攻撃した。
 外国が攻めてきたと思いこんだ民衆が混乱に陥ると、長州藩に提供した霊式兵器で迎え撃って黒船を沈め、民衆の間に外国勢力との戦争の気運を高めた。
 浪士に浪士をぶつけて京の都を守るために、新選組は設立された。
 同じように──異敵には異敵を。外国勢力を排除する目的で、同じ神を信じるキリシタンの魂を集めて、安倍晴明の代替品を生み出したのだ。
 晴明の憑代ツキトのように、人の心を取り戻し、己の意志をよみがえらせて機能停止した失敗例とならぬよう、次に生み出す霊式兵器の部品に使う人間は、何も考えられぬ獣の姿に貶めて──。
 キリシタン宗の信仰が生み出した奇跡の獣が、徳川家茂公を喰らい殺せば、すなわち異敵の侵略となる。雑面ノ鬼に奪われた黒船が、日本を攻撃したように。
 徳川と江戸幕府を滅ぼした獣を長州軍が討伐、あるいは懐柔すれば、民衆は日本国の守護者を諸手をあげて迎え、その後は新たな統治が始まるだろう。
 異敵を寄せつけぬ、土御門陰陽道の霊式兵器で武装した、新たな日本の夜明けが来る。
 ──赤いきらめき。来たか、と土御門は視線をすべらせる。

「土御門ォォ。ツキトを返せェ!」

 近藤勇の魂が宿った虎徹が光を放ち、闇を斬り裂く。
 土御門はツキトの腕で、それを受ける。本物の新撰組局長・近藤勇の気高い魂ひとつでは、到底救いきれぬほど、数多の血を吸った妖刀で。
 命乞いをし、おりもしない神に祈り、死してなお魂をゆがめられて苦しみ続ける魂たちが、ひとつ、ひとつと消費されていく。闇が輝く。
 一番星は不慣れな剣を引き、体をこまのように回転させる。しなやかに足をふりまわして、下駄を叩きつけてきた。
 我流の蹴り技など、侍の戦い方ではない。童の喧嘩技である。
 しかし、兄を殺そうとした弟の腕が、ひきつけを起こしたようにビクリと止まる。
 刀の軌跡がぶれる。
 糸を掛け違えた操り人形のように始末が悪い、不良品の肉体だ。

「ツキト」

 妖刀が一瞬止まったのを、一番星は見た。ためらうように。傷つけたくないように。
 ツキトの身体能力に、正直をいうと一番星はかなわないと悟っている。喧嘩が弱かった弟が、ここまで強くなった。争いごとが嫌いな弟が人殺しの訓練を重ね、血のにじむような努力を重ねてきたはずだ。
 そのツキトが一番星と対決したとき、剣が鈍る。
 それは子が親を殺すのを決して赦せない体に、同じく染みついた本能だ。
 本能があるなら、心があるということだ。まだ生きているということだ。
 ツキトの魂はまだ安らかに眠ってなんかいない。肉体の奥底に囚われている。
 土御門に操られ、このクソみたいな世界にごまんといる、ずる賢くて悪い奴に食い潰される途中にいる。
 それならば助けねば兄ではない。

「俺を殺せねェなら、生きてる。弟は生きてる。わかんぞツキトォ」

 一番星が叫ぶ。獣よりも獣のような、野人である。

 ──愚かな。

 土御門は口の中で呟いた。
 こういう手合いは、人の営みが積み重ねてきた歴史を壊すのを、なんとも思わぬと知っている。
 祈りも信仰も必要とはしない。己自身の信念が、己の心の神であるからだ。
 星の巡りに背いてあがく、破壊者である。
 十代の若者のなかには、よくいる輩だ。やがて年を重ねれば、己の浅慮と蛮勇に気づいて恥じて、そういう習性は消えていく。
 かつて若者だった老人にはわかる。泡沫の夢のごとき男である。
 だからこそ、恐ろしい。
 人は夢を見ていなければ、生きてはいけない。人ではあれない。
 だからこそ、目を開いたまま夢を生きている、こういう手合いが一番恐ろしいのだ。

       12

 獣は長州軍の兵を襲わない。やはり、クルスを身に着けている者は喰らわないのだ。

「おお、デウスがつかわした、信仰の獣よ。今こそ我らが救われるとき──」

 長州軍残党に加えられたキリシタンが、手を組んで拝む。
 大坂城の加番が四人、なお獣と争っている。一人食い殺された。犠牲者が出るほどに、獣は力が増していく。
 スズランが死者へ祈りを手向けていたのは、本能的に人の死に引き寄せられていたためだろう。
 人の魂を食らって動き続ける、霊式兵器のごとき命。
 いつからそういう性質だったのかはわからないが──。

「よしよしよし、いいぞいいぞいいぞ、殺せ化け物、殺せっ」

 獣が──雑面ノ鬼の残党より新しく納入された霊式兵器が、江戸幕府の役人を喰らうのを、長州軍は離れた場所から眺めて笑っている。殺し尽くせと歓声があがる。

「スズランはいい加減な男に見えるが、祈りの心は本物だった。仲間の心を操り、罪なき人々を傷つけさせる外道を、到底許せる道理はない」

 アキラは、静かに怒っている。

「神さんも神さんで、自分を好いてくれてる奴にすることギャあねえ」

 ギャタロウがボヤく。
 キリシタンが祈る神──なんだって『大きな臼(ダイウス)』だかを拝むのか、気は知れないが、もしも実際にその神様とやらが存在するのならば、逆に心の弱い者たちを利用する、雑面ノ鬼の首魁・土御門そっくりの、性根の腐ったクソ野郎に決まっている。

「どう出る、ギャタロウ。拙者は見当がつかぬ。人間がケダモノに変わってしまうところなど、初めて見たのでな」

「おうよ! オジさんに任せときなさいって」

「どうせ策も何もないのだろう」

「つれないねェ」

 獣が歩いてくる。口をうごめかせて吐き捨てたのは、柔らかく舌に甘い脳をすすったあとの、人の頭の残骸だ。

「破戒坊主め、本物のけだものになり下がったか」

 獣の首の杭に、雷が落ちる。いや──藤堂が投げ槍のように飛ばしたエレキテル錫杖の、出力を上げた静電気が、獣の体に電気を走らせる。
 全身を稲光に包まれた獣に向かって、ボウが火薬を詰めた空き樽を投げつけた。
 爆音。雨のなか、あたりの蔵もろとも獣の体が炎上する。獣毛も肉も焼け落ちて骨組みが露出し、それでもまだ生きて動く。顎を大きくカチカチと上下させて、荒い息をついている。
 狐面どもをアキラとサクヤが斬り倒し、土御門の足は一番星が止めている。動力源の供給はさせない。
 獣の体内に貯まった魂がほどけていく。
 動力が散る。悪食を繰り返して膨れあがった体が、しぼんでいく。

「神さま、侍なんかに負けないで」

 キリシタンの輪の中から、子供たちが叫んだ。
 少年兵である。信仰が何かも知らぬような幼さ。
 父と母が、キリシタンの聖戦に殉じて自分たちを道連れにしようとしていることも理解せず、ただ家族を守ってくれる獣が味方だと、あまりに無垢に信じている。
 伏した獣が、声に応えて立ちあがった。 
 「そりゃ立ちあがる」とギャタロウはぼやいた。
 アレも性根が守り人なのだ。生まれ変わってそうなった。
 仮にギャタロウだったとしても、立ち上がる。声を枯らして求められたら、大人は子供を守るために立ち上がるしかない。
 獣のうしろから、祈りしか持たぬ弱い者たちが新選組を睨んでくる。大切なもののために『巨悪』に立ち向かう親たちの目に、一瞬ひるんだ。
 新選組の替え玉たちは、それが昔の己に見えた。
 頼りなく佇むキリシタンたちの姿は、ギャタロウに京の町の仲間たちの姿を思い起こさせた。「ギャタ兄」と呼んで慕ってくれた、あの子どもらの姿が重なる。
 それではこれが、スズランの守りたかったものなのか。
 荒事に向かぬ非力な坊主が、慣れない武器を手に戦ってきたのは、祈る者たちの守護者になりたかったからなのか。
 いい加減でだらしなく、何を考えているやらわからなかったスズランにも、守りたいものがあったのか──。

       * * *

 ギャタロウとスズランがサシ呑みをするとき、ふたりきりになると、スズランはいつもとは違う顔を見せる。
 スズランは、女みたいなかわいい顔をしているくせに、外面を取り繕っていたのがはがれると、そこらへんにいるタチの悪い、つまりギャタロウと同じおっさんであった。
 お天道様みたいなピカピカ輝く笑顔は、ろうそくを吹き消すように消えて、半分目をすがめた気だるげな半笑いが浮かぶ。
 昼間は草とか花とか甘い木の実しか食わないような優しい顔をしているが、よく見ると案外歯が鋭くて、盃を傾けてエイヒレだとかアタリメだとかをガジガジと齧る。
 キセルの煙を吐きかけようとすると、匂いがつくからやめてぇ、と嫌な顔をする。

「おっさんから煙のにおいして、逆に何がおかしいってんだコラァ」

「かわいくないから嫌。かわいいって思われたいじゃない」

「誰に」

「誰って」

 スズランは、自分でもよくわからないように迷って口ごもる。女の子たちに?
 逆に、ちょっと悪くてかっこいいと、ギャタロウはモテている。うーん、と唸って。

「ソウゲンちゃんかしら。煙草が嫌いなのよ」

「お医者のおっさんが坊主のおっさんにかわいいとかねェしょ。それこそ地獄だ」

「おっさんじゃないし。ソウゲンちゃんも、そういう感じでもないような。たまにソウゲンちゃんのこと、幼子みたいに見えるのよねえ。純粋すぎて。守ってあげたくなっちゃう」

 スズランが、いつもソウゲンになんやかやと世話になって、外で荒事になったときも守ってもらってばかりのくせに、でかい口をたたくのがおかしい。
 それにしてもこの男、ソウゲンを当たり前のように幼子呼ばわりするとは。

「オメェさんよう、ホントはいくつよ」

「十六」

「嘘つけ」

「ほんとよ」

 口をとがらせて目をすがめるスズランの言葉のとおり、見目は本当に十六で通りそうな、まだ幼さの残る顔に体つき。馬鹿正直な一番星あたりなら、本当だと信じるかもしれない。
 ただ、「年の話はやめて」と目が言っているから、うさんくさいものである。
 胸を張れる年の取り方をしていたら、己の歳なぞ口にしても恥ずかしくもなんともないのだが、普段のスズランを見ていると、恥ずかしい大人の自覚はあるのだろう。それに驚く。自分でわかっていたのか、こいつ。
 答える気がないならまあいいや、とギャタロウは話題を変えた。どうでもいいし。確実におっさんだし。

「殺生が嫌いな坊さんよ。オイラたちみたいな犯罪人は、死んだら地獄に落ちるかい」

「どうかな。地獄なんて、生きてる人が恨みの想いで描いた絵空事だからね。憎くて嫌なやつが、そこで苦しんでくれればいい。そうあってほしい。手も足も出ないくらい強い相手を、想像の中でだけ殴って負かして泣かせてやれるのと同じことだよ」

 サクヤのこと言ってんのかなと、ギャタロウは思った。実感がこもっている。
 坊主のなりをしているくせに、この男、真実は神も仏も信じてないとギャタロウは踏んでいる。

「逆に、なんで信じるんだろうねぇ。いい歳ィした大人が、子供でもわかるおとぎ話なんざ」

「わかりきってる嘘にだってすがりたいほど、生きることが苦しいんだよ。そういう人の苦痛が和らぐなら、何でもいいじゃない。神でも仏でも、教えも祈りのお題目も、すべて人の心が救われるために生まれたものだから」

「そういうもんかね」

 スズランの祈りは、しびとに向ける弔いだけだ。この坊主は、苦しいときに「神様助けてくれ」と唱えない。何も願わぬ。期待をしていないのか。
 スズランに信じる神はなかったのか。

「案外、近くにいたりして」

 ふとスズランが、整った顔をあげる。
 『マジでクソみたいに全部ダルい』と全身で表していた末期の酔っ払いが、『やだ、すこし酔っちゃったみたいだわ』と奥ゆかしく恥じらう、上品なお嬢さんになっている。
 「イヒヒ」「けけけ」と春本広げてニヤニヤしあっていたおっさん仲間が、歯も見せずにうふふと笑うお嬢さんに変身するさまは、何度見てもおぞましい。

「スズラン殿」

 低い声が上から降ってきた。
 しびとみたいな白い顔が、はりついたような笑顔で、暗がりにぼうと浮かんでいる。幽霊と見間違えそうな不気味さ。
 夜の海を漂う巨大なクラゲのようにゆらゆらと、ソウゲンが立っている。
 足音もさせず、今日は頭を鴨居にぶつけたわけでもないのに、どうして迎えが来るのがわかったのか。

「神さまみたいだよね。優しいの。めんどくさい酔っ払い、わざわざお布団に運んでくれるの」

 くふくふと笑うスズランは、急にずいぶんと機嫌がよくなっている。
 こいつ、お医者先生のこと好きだなと、ギャタロウはぴんときた。
 スズランは聡い男のくせに、自分では気がついていないみたいだ。いつも隣に並んで距離が近すぎるから、己の心の動きも見えていないのか。
 仲間の姿は俯瞰して、細かいところまでハッキリと見えているのに。
 老眼か、とギャタロウはこっそりとつぶやいた。おっさんあるある。

       * * *

「こいつは、神様なんかじゃねぇや。オイラの呑み仲間だ。若い奴には坊主の良さァ、よくわかんねえかもしんねえけどよ──」

 キリシタンの子供と獣を交互に見て、言い含める。
 スズランは明るくて人懐っこい性格だが、一番星、サクヤ、アキラに藤堂、若者たちの集まりに混じるとなると、けっこう浮いてしまう。

「おっさんが若者のふりして、本物の若者連中に混ざって遊ぼうとすると、無理があってギャっぱ痛いなこいつってなっちゃうだろ。おっさんなりの友情ってことさ」

 朝起きた時に枕が臭うと切り出せば、くしゃみが出たときにちょっと漏れると返しがあり、局長ということになった悪戯小僧に、開けた衣紋の内にダンゴムシを入れられたという愚痴を聞けば、広い世の中にはサソリや芋虫を漬けた昆虫酒なるものも存在するようだし、ダンゴムシは酒になるか否かで喧喧諤諤。そういうダサい悩みや何の役にもたたぬ無駄話に花を咲かせて、一晩酒が飲める友情が世の中には存在する。
 年若い連中は、格好をつけたがってばかりで、あと十年、それとも二十年は理解できないだろうが──。

「悪い奴に捕まって、こんな姿に変えられちまったが、人殺しが大嫌いな優しくていいギャツだァ。オイラァ仲間を助けてぇんだよ」

 友達を取り戻したい、新選組の斎藤一を救いたいと念じた想いに呼応して、ギャタロウの銃剣が輝きを増した。
 雨の闇夜に輝いた、まぶしい光が目を焼く。
 しかし、それでも獣は引けぬようだった。背後には、死を待つキリシタンたちの姿。最後の力をふり絞って、襲ってくる。

「南無三!」

 ギャタロウは叫んだ。祈りの意味も知らないが、お題目などなんでもいいと、いつだかスズランは確か言ったか。
 引き金を引く。コイツが切り札だ。
 ソウゲン特製の弾が、獣のドタマをぶち抜く。だが止まらない。ぶっ飛ばされる。

「ギャタ兄ィ!」

 ボウが筆を投げ捨てて、駆け寄ってきた。

「起きて」

 ギャタロウがしくじったときのガキどもの顔と、そっくり同じ顔で体を揺する。馬鹿力のボウがやるから、骨の一本二本は折れそうだ。
 ふわふわ、と──よく知った匂いが、鼻の先で香った。
 酒の匂いだ。
 見上げると獣は四つ足を突っ張って、それでもうまく体を支えきれずに、グラグラと全身がふらついている。

「どうだィ。こりゃあ。酒飲みの手向けにゃふさわしいじゃねーか、ははっ」

 強い酒精を混ぜた、ソウゲンお手製の弾薬が、獣には眠り薬のように聞いている。スズランは酒が好きなくせに、てんで弱かった。図体がでかくなっても、まわりやすさは相変わらずか。
 相変わらず何もかも、どこもかしこも格好つかねぇなあ、ダチ公よ──ギャタロウは呟く。
 人に「かわいい」と思われたい割には、ずいぶんとゴツく毛深くなっちまったようで。
 酔いがまわった獣の体は深い堀に倒れこみ、落ちていく。 

       * * *

 ──お酒。お酒は好き。好きなのはなんでだっけ。

 獣は考える。
 思い出そうとする。ふわふわする。あたまがグルグルする。
 飲みこむと、のどがカッと熱くなって、ぽかぽかが体中に広がっていって、気持ちがいい。
 そういうのじゃなく、なにか理由があった気がする。なんだっけ……。
 宴会だ。
 独特の甘い匂いが満ち満ちて、みんな笑っている。唄うものがいる。踊っているものもいる。
 子どものころ、過ごした城のなかで、みんなが酒を呑んでいた夜だった。いつもしょぼくれた顔をして、大人になった己とソックリの、情けなくて意気地がなかった父は、お酒が入ると、そのときだけ、うれしそうな顔を見せた。
 「おまえにはまだ早い、よせよせ」と。己が、きれいな毒の花を知らずに差し出したときよりよほど喜んで、はにかんだように目を細くしていた。
 そのときに、心配させたし悲しい顔をさせたけれど、父は本当は跡継ぎの男が生まれてうれしかったのだと、わかったから──とても安心した。
 覚えている。思い出してきた。

『おーっ、よい飲みっぷり。さすがは豊臣の血、秀頼様のせがれ殿!』

『血じゃな。酒好きは血じゃあ。うまいか、どうじゃあ』

 わあわあわあわあと、叫びながらみんなが己をもみくちゃにして。褒めてはやして喜んで、初めての酒の味はからいし苦いし、もうなにがなにやらわからないし。

『いまにうまくなる。甘くなる。おまえが大人になれば。のう、綱よ。おまえが酒をうまいと思うたときに、父はこの世におるかわからぬ』

 父の声が、頭のなかを、たわんで歪んでグルグルまわる。天気雨みたいにいいかげんに、光の中を降り落ちてくる。

『ここにおる者らを、おまえを信じてついてきてくれる者らを、おまえは強いから、守るのだ』

『なに、難しいことはない。好いて、大事に想ってやればよい。おのずと心からわかる。どうすればよいのか』

『人を愛せ。スズラン殿』

 父が、ついぞ呼んだことのなかった名で己を呼んだ。
 これは、過ぎて返らぬ昔の記憶ではないのか。
 違和感。なにかおかしい、ずれている。そんな感じ。
 己はいったい、いままで、なにをしていたのだろうと、獣は……スズランは、ようやく疑問に思った。

 ──なつかしいにおいがする。知ってるにおいだ。ちちうえ。父上?
 お薬とお酒と……しびとの匂い。

「スズラン殿」

 いつのまにか鼻先にたたずんでいた、ひょろりと背の高い男が、己を呼んだ。
 誰だっけ、とスズランは考える。
 わからないのが、とんでもなくいやな感じがして、焦る。今すぐにわからなくては駄目な気がする。

 ──誰だ。父上? 魂のいろが同じ。そうか、父上だっけ。
 でもぼくをよぶ声は、ちょっと違う。若いし、やさしくて、あと父上よりかっこいい、ような。
 ほんとに父上だっけ? 死んだ父。天国の父上、天の父。父と、子と、精霊の御名において。
 ああ。そうなのね。ここにいた。ほんとにいらしたんだ。

 ──かみさま、だ。

 祈り。すぐにいのらなきゃ。しなきゃいのらないとおいのり。あれ、わかんない。
 ことばでてこない。
 おいのりのことばいっぱいおぼえたのになにもでてこない。どうして。いみがなかったからかしら、くちだけのことばなんて。ただのおだいもく。
 ぼくはなんびゃくねんもいのりつづけてきたのにかみさまにとどくことばさえしらずに。となりにいるひとのこころに、とどくことばさえ。なにも……。
 ばかねえ。
 やだねえ、くるしいねえ──。

「喰ってくださらねば、効かないでしょう」

 かみさまは、困ったようにそう言った。

「あなたという人は、いつも苦い薬がお嫌いで。もういい大人でしょうに、子供さんのように服薬させるのに難儀しました。ですから小生のことも……喰ってはくださらぬのですね」

 ざんねんそうなお顔でふところを探って、紙の包みをつまみだす。
 かみさま。なにそれ?
 そういえば、誰? あのこ。知ってるきがする。あかいこ。まぶしいこ。
 おほしさまみたいな。ほし。
 一番星ちゃん。
 あ、そうだ。そうだった、そうだった。そうだっけ。ツキトくんもいる。
 ボウちゃんのつくったあの人形みたいに。ちゃんとみんなそろっている。
 ぼくは。あのにんぎょうすごいすきなの。みんないて、ぼくもいて、わらってるの、あれすき。むらさきいろのぼくのとなりいつもみどりのにんぎょうがあって。おまえらはいつもニコイチでいるからな、って。ギャタロウちゃんがうごかして。
 ぼくそれねえうれしくてねえ、だってぼくそのひとのことだいすきなんだもの。
 ぼくは──。
 声が出ない。口を開けたらこぼれる音は、喉が潰れた獣のうめき声。
 なだめるみたいな緑の目が、みあげてくる。お酒を飲みすぎた夜に、背中をさすってくれてるときと同じ目だ。

「寂しい思いはさせません。小生も、すぐにおそばにいきますゆえ──」

 なになに。なんでそんなこというの。寂しそうなのそっちじゃない。だめよそんな顔しちゃ、僕は、僕が、いるでしょどうして──。
 かみさまがふしぎなかたなを僕にむけて、その切っ先がぼくの──。

       * * *

「以前、あなたはおっしゃいました。花に、決して触れてはならぬと父に言い含められたと。鈴蘭の毒なのです。あなたの毒です」

 ソウゲンは薬の包みを開いて、抜いた赤心沖光をぬぐう。注射針のように、頭を垂れた獣の眼窩に突き入れる。
 花を煎じた毒を、獣の体に注入する。
 鈴蘭は花にも花粉にも、茎葉に根、実に至るまで全草に猛毒をもつ。花と実は、とくに強い毒がある。
 毒物は処方によっては薬にもなるが、スズランの毒は強すぎて、体に入れば心臓を停める。どこまでも毒のままである。薬にはなりえない。

「小生が、安楽死の薬……鈴蘭毒の薬を作っていたところに、鈴蘭の名を持つあなたと出会ったのは、偶然なのでしょうか。これが、小生の医術の目指すところでありました。願いの行きつくところ──あなたの言葉で言えば、信仰と同じ意味なのやもしれません。この薬を人に使うのは、初めてなのです」

 毒を塗った刀で眼球を刺されて、切っ先が、脳へずぶずぶと沈んでいく。とても優しい手触りの死だ。スズランは獣の頭で、それが介錯だと理解した。

「目を調べたのです。あなたの目、生きているときも死んだときも、何の変哲もない普通の眼球でした。あなたはどのように人の魂を見ているのでしょうか。見えると思えば見えるし、見えぬと思えば見えぬ。非科学的極まりないですが、小生あなたを観測して思うに至りました。信じるものが救われるなら、鈴蘭の毒に触れれば死ぬとあなたが固く信じておりますれば……それはあなたを殺す、信仰になりはすまいか。死ぬと思えば死ぬし、死なぬと思えば死なぬ。毒花に触れてはならぬ死んでしまうと、お父君がそう信じこませたならば……それが唯一あなたを死なせる、薬なのではないでしょうか。スズラン殿」

 寝物語のように滔々と紡がれるソウゲンの声に、スズランは毛むくじゃらの長い耳をかたむけている。神の言葉を、ひとつも聞き漏らすまいとするように。
 まもなく、うつらうつらとするように、頭が揺れる。瞼が落ちる。

『お医者様。死ねば無になるんじゃなかったの?』

『それはそのとおりなのです。しかし、あなたの存在が消えてしまうのはあまりに虚しいと、最近はよく考えるようになりました』

 いつか、スズランと交わした言葉を思い出す。
 悶え苦しみ死にゆく患者に、安楽な死を。
 それがソウゲンの、命を賭した理想であった。
 死を乞い願う獣に、安楽な死を注ぐ。
 己の咎、己の望みを果たしたときに、日々の知識欲が満たされたときのような高揚や、喜びはなかった。むなしく悲しい。だが、やらねばならぬ、誰かがやらねばならぬと──ひたむきに突き進んできた末の、これが報いか。
 案外、神はいるのやもしれないと、今になってソウゲンは思う。
 非科学的で興味もなかった祈りの言葉だが、そばで聞く機会は多く、それは摩訶不思議な呪文ではなく、神へ語り掛ける言葉であると気づいた。
 信じるに足る心根の者と、対話がしたいと望んで自然に口をつく言葉。純粋な祈りとは、そういうものならば──。
 現れるはずのなかった友。通うはずのなかった想い。生まれるはずのなかった、また返ってくるはずのなかった好意。
 目に見えて、観測可能な、いくつもの奇跡の御業を起こす人と出会った。
 スズランが、ソウゲンに与えてくれた人の温みが祝福ならば。己が対話を──祈りを返す先で笑む、かの人こそが神のようだ。
 その人を、己の手で終わらせる。
 神は人に殺されて死ぬ。これ以上の無為な痛苦を与えぬようにと──。

       13

 禁教を破った咎人は死罪。この決まり事は、覆らせることはできない。
 神の使いの獣が毒に倒れてしまった。キリシタンたちは目に見えて動揺し、士気が下がっていく。江戸幕府軍に投降する者が出てきた。おびえ震えて泣くだけの者もいる。
 幕府軍の兵たちが、無力な信徒に刃を向ける。
 男に女、子供にまで刀を向けて、死にたくなければ考え方を改めよと迫るやり方は、新選組の替え玉たちをかつて一度殺した、腐った世界そのものだ。

 まもなく、欧米列強からの強い非難を受けて、日本の地ではキリシタンへの弾圧が解かれることになる。
 諸外国からの圧力という、より大きな力によって、純粋な信仰からはほど遠いところで、彼らの祈りは成就する。
 今は江戸幕府に組みこまれて弾圧者の特権を享受する仏教も、数年後には廃仏毀釈運動がおこり、排斥される側になる。
 天上を見上げて拝んでも、祈りの形は人の心の形、地を這う人の心の似姿に違わない。
 人は、生まれてすぐに肉親という、全知全能のごとき庇護者に出会う。成長して、それが絶対者ではないとわかってもなお、大きな者の庇護を受ける安楽が忘れられず、空を見あげる。
 楽園に帰りたいと乞う人の祈りは、赤子のころに刷りこまれた、虚しい錯覚なのか。それが本当の信仰の正体なのか。
 自分の頭で考えることをやめ、人間であることから降りた者たちが、為政者に便利ないくさの道具として利用されているにすぎないのか──。
 少なくともそれは、人の心を見失った獣には何の関わりもなく、触れることができるものではない。
 人の心があって、そこから生まれ湧く信仰である。
 獣には神がわからぬ。人だったころから一度も信じたことがない。
 無始無終に創世、天地開闢、どれもただのおためごかしだから、それが何でも、どうでもいい。
 ただ手を合わせる相手は、しびとだけだ。そこにある、確かな平等と永遠の平安を愛している。
 最も慈しむべき人の感情は、何のごまかしもきかない純粋な、親しい者との永遠の離別を惜しむ哀しみの感情。
 獣にとって本当の信仰とは、死へのあこがれであり、弔いは苦痛に満ちた生から解き放たれた魂の、死路への門出を祝う福音である。
 本当の信仰を、獣はずっと昔に見つけていた。
 すべての人に平等な死こそが、唯一の神にして誠の信仰。しかしこの世にあらざるもの。
 だから本当の信仰を見つけて、それに触れることはかなわなかった。はじめから、死ぬ方法などなかったのだ。『母は子の死を受け入れぬ』。
 いや、一度きり──。
 獣は神を信じた。目の前に立つこの痩せた男を、神ではないかと疑った。
 父によく似た男が与えた慈悲が、ようやく獣を楽にする。
 「神様みたい」と口ずさんだのは、生まれついた不思議な感性で、予め、わかっていたのかもしれない。この男こそが「死なず」を殺す男だと。己の安楽な死だと。
 幼い日に父に手から払い落とされ、毒がある、触れてはならぬと言い含められた花の毒が、獣の体を優しく蝕んでいく。
 己の名の花から、神が生みだし与えたもうた毒で、祈りの在り処を探してさまよい続けた信仰の獣は死んでゆく。

       * * *

 目を閉じた獣の顔に、ぱたぱたと、赤いしずくがこぼれていく。
 ツキトの刀が不安定に震えながら、ソウゲンの背中を突いていた。
 親を子の前では殺せぬ体が、獣の前でソウゲンを斬る。ツキトの肉体に残っていた魂の気配が、薄くなっている。生きていた痕も何も残らず、もうじき消えるだろう。

「これはこれは……」

 ソウゲンは膝をつき、うっすらと笑んだ。
 ともに逝けるのならば本望だなどと、冷えた自意識が心から思える相手と、この人生で出会うことがあるなどとは、いまだに信じがたい奇跡である。
 薄汚れた獣の頭蓋に、手のひらをすべらせる。
 小さくて丸く、かわいらしく手におさまる感触だったのを覚えている。形は変わってしまっていても、愛した人には違いない。

「それでは、ともに参りましょうか」

 いつものように、と──緑の目が清らに輝く。殉教者の目であった。

「豊臣最後の血の残りかすが、この国の守護者に生まれ変わった獣──それを傷つけた不敬、命を捧げて贖っていただきましょう。あなた様の魂ならば、注げば今一度使い物にはなるやもしれぬ」

 死に絶えたはずの種を見つけて憐れむような表情を、ツキトの顔が浮かべ──ソウゲンへ再び刃を向ける。手の震えが、止まった。
 獣の躯が動いた。
 急にはねあがって、ソウゲンにとどめを刺そうとするツキトの体に、スズランが噛みついた。
 そのまま大きな体をひねって、堀の水中に引きずりこむ。
 闇のなか、水柱が高くあがり、大きな生き物が腕でかき混ぜるがごとく、荒れた水面がうねる。人の心をとりもどした獣と、青年の体にとり憑いた老人は、ともに冷たく深い水底へ落ちていった。

 ──本当は全身を水につける。お風呂とかでもいいんだけど。

 そう、誰かに語ったのは、いつだったか。どこだったか。
 思い出せないが、スズランはツキトの脚に牙をからめて、どこまでも沈めていく。

 ──水につかるのは、今までの自分の死をあらわし……。

 ──水から出ることで、新しく生まれ変わったことをあらわす。

 濁流に揉まれながら、抜き身の妖刀が振り下ろされて、眼窩から赤心沖光を生やしたスズランの眉間を貫いた。
 顎がゆるんだところを、黒い水底に向かって蹴り飛ばされる。

 ──意志なき獣風情が……!

 土御門が、ツキトの顔をゆがめて忌々しげに睨んだ。
 浮き上がっていく男の体に、スズランはなおもしつこく、諦めずに喰らいついていく。
 逃がさない。殺させない。絶対だ。もうおしまいだ。ここまでだ。
 老人がかたくなになった心で見ている、若人たちの未来を食いつぶすばかりの夢になぞ、祈りも、願いも、福音も──。
 もう要らないのだ。
 この男も。
 己も要らぬ。
 魂を喰うほど深くにまでは、獣の牙は届かない。だが、チグハグな肉体と魂の結び目がほころんで、緩くなっていくのを舌に感じる。

 ──私をも喰らうおつもりか。無意味ですよ。
 ──すべて露と生まれて、露と消えゆく。夢とは、見果てぬからこそ夢なのです。

 無数の雨粒に顔を叩かれて、いつのまにか水面に浮かんでいることを知った。
 ぱっ、と白い光がひらめいた。
 ソウゲンが作り出したエレキテルの比ではない落雷が、スズランの頭骨に突き立った妖刀に直撃した。雷光は、スズランが執念深くとらえたツキトの体をも貫き、大坂城の堀になみなみと満ちた水面を、星のごとく発光させる。

「ツキト!」

 兄が、弟の名前を叫んだ。
 今にも堀の中へ飛びこんでいこうとする一番星を、サクヤとアキラが取り押さえている。
 あれは死人だ土御門だ、おまえの弟は死んだと言い含めても、あいかわらずの利かん坊。ひとつも耳を貸さない。

「そうじゃねぇ、わかんだ、あれはツキトだ弟だ」

 叫ぶ。名前を呼ぶ。

 ──洗礼名をつける。名前を呼んであげるの。

 そうして死者を、生まれ変わらせる。
 それは人が、信仰を抱いて生きると決めた証明だ。
 洗礼は正しく成されたのか。祈りに神は応えたか。せめて一度くらいは、デウスが人を救うさまを見たか。
 わからない。静かだ。暗い。見えない。もう何ひとつ。
 若々しい青年の体から、ほつれて離れた老人の魂に、歯を立てて噛みついたまま道連れにして。スズランは深みへ沈んでいく。黒い水の底へ。冷たい。息も苦しくなくなっている。意識が薄くなっていき、やがて消える。

       * * *

 今までしてきたことが間違いだとわかっても、過去は変えられる。
 考え方ひとつで、悪い昔だって、良かったことにすることができる。そのためには、壊れたら直し続けなきゃならない。
 祈るのはあとだ。助けがいる。壊れたものを見て何を言っても変わんねえ。
 壊れた町で一番星は、身に染みついた癖で躯に手をあわせてしまうスズランを、そう言って引っ張っていったことを覚えている。
 祈るものは、諦めすぎているのだ。もうどうにもならないところで、人は最後に祈る。祈るしかなくなる。
 命ある限りどうにもならないことなどない。そう思うのは強い者の傲慢だと、坊主はまた諦めた顔をして諭すのだろうか。
 一番星にも、どうにもならないことはあった。
 父と母が殺されたとき。弟を腕の中で失ったとき。
 一番星は祈らない。神など知らぬ。このクソみたいな世界を作った神がいるのなら、そいつこそが一番クソみたいな神に決まっている。
 みんなのことを助けてくれと大真面目に祈る坊主を、いじめてもてあそんで喜んでいるクソ野郎だ。到底許せるものか。
 それでも、祈らざるをえない時は来る。
 そういう時に、目に見えない神に向かってどうか助けてくれと叫ぶときに、一番星の脳裏に思い浮かぶのは、優しく微笑みよりそいあう、亡き父と母の姿だった。
 祈る、願う、すがる術は、神頼みしか残っていない。おっ父、おっ母、頼むから、俺の命をかわりにこいつにくれてやるから、どうか弟ばかりは助けてくれ──。

「──ツキト!!」

 一番星の腕の中で、ツキトのまぶたが震えた。
 濃い紫色の瞳が、兄の顔を映す。
 弟を探しにきた兄は、まるで自分のほうが迷子みたいに、ぐちゃぐちゃの泣き顔だ。
 昔から──子供のころからそうだった。

「……ただいま」

 ──ずいぶん久しぶりに、口のなかでその言葉を転がす。
 父も母も、もういなくなってしまったけれど。

「兄さん」

「ツキト……! よかった……!」

 泣き顔を下の者に見せることはできぬと、空元気も元気の内と自分に言い聞かせ、知らず近藤勇になりきってはりつめていた兄は、弟を抱きしめて、一番星に戻って泣いた。

 抱きあう兄弟を背のうしろに、深い傷を負ったソウゲンが、失血のせいで常よりもさらに青白い顔で、雨粒が叩きつける大坂城堀の水面を見下ろしている。

「スズラン殿」

 痛みにもなにも頓着せずに、呼びかける。スズランは応えない。浮かんでこない。
 最期の力を振り絞ってソウゲンの命を救ったあの獣は、たしかに人の心を取り戻していた。
 安楽死を選んだ己の選択は、正しかったか。
 もしかすると、治してやれたのではないか。元の姿に戻すことができたのではないか。
 また、あの人と隣同士に座って、他愛のない話をできる未来があったのではないか。
 ソウゲンはスズランが本気とも冗談ともわからぬ調子で呼ぶような神などではないから、死んだ生き物を呼び起こすことはできない。
 「もしも」の夢想は飛沫のように湧いて出る。これからずっと悔やむ道だ。
 堀の底に横たわる、黒こげの無残な躯を思って、呼びかけているそのうちに──ソウゲンの頬に、あたたかな湿ったものが流れていく。
 しびとを悼んで涙をこぼすのは、ソウゲンは生まれて初めてだった。
 人のくせに、医者のくせに、他人の死を嘆くという感情を、殺めた獣に初めて教えられたのである。

「スズラン殿」

 ソウゲンは、また名前を呼ぶ。応えはない。
 獣が帰ってくることは、ついぞなかった。

       * * *

 雷が落ちた本丸御殿が、激しく炎上している。
 朝焼けの光に溶け出すように、大坂城のあちこちから無数の魂たちが、青白い光を放ちながらたちのぼってきた。
 獣に喰われ、霊式兵器の動力源にされていた者たちが解放され、天へと昇っていく。
 そのなかには、桂にとりついていた芦塚も、かつての姿でいた。新選組の年若いつわものたちに、慇懃無礼に感謝を告げて、老人は消えていった。

 ──神は、我々のために死んでくださる。教えを捨てて生き延びるのだ。絵を踏むくらい、なんとも思わぬ。本当の信仰は心の中にあるものだ。生き延びて、いつかは訪れる、自由に大声でオラショを唱えられる、楽園のような地上の到来を待とう。

 朝もやのなかで、穏やかにキリシタンを諭す声が響く。
 それは生きた人間か、天に召されゆくしびとがあげたものかはわからない。
 焼け跡にキリシタンたちのすすり泣く声が響き、ひとり、ふたりといなくなるにつれて、泣き声もやがて消えていった。

       * * *

 悲鳴がやんだ。
 断末魔が聞こえなくなった。砲撃の音もしない。泣き声も。
 祈りの声まで急に途絶えて、すべての音が消えた。

「天草四郎さま」

 何度も繰り返す絶望の日のはじまりに、幕府軍の総攻撃の知らせを持ってくる千束善右衛門が、城の外を覗き見て歓声をあげた。
 待ちわびていたポルトガルの船が来たか。
 それとも、この国に潜伏している仲間のキリシタンたちが、助けに駆けつけてくれたか。
 天草四郎は、かすかな希望を抱いて立ちあがる。
 原城の門が開いた。
 外には、城を取り囲んだ江戸幕府軍の姿はない。城を囲んだ有明海もない。
 濃い金青の空の下に、一面の花畑が広がっている。いくさ場からはあまりにも遠い、この世ならざる光景であった。
 白い花弁が優しい風に吹き流されて、雪のように舞いあがる。
 鈴蘭。毒の花だ。
 手折ろうと手を伸ばして、幼いころに、父に差し出して叱られたことを思い出してやめた。
 青く、涼やかな匂いが鼻先をくすぐる──。

「ああ」

 思わず声が漏れた。やっと思い出した。スズランだ。
 この花は、長いあいだ囚われていた過去の記憶よりも、はるか未来で呼ばれた己の名前だ。
 己の毒だ。
 『スズラン』を殺したことを、この花が咲くのを見るたびに、あの人が思い出してくれるのだから──正しく毒なのだ。
 あの人に、己がつけた傷があるのが、こんなにも喜ばしいとスズランは思う。祝福のようだ。
 この感情の名は、ついぞ知れなかった。想いを寄せる相手の心に傷をつけて喜ぶ感情が、愛であるはずはない。
 しかし度し難く、愛ではないはずのこの感情が、スズランには、祈りのごとくいとおしい。
 祈るばかりしか能がなく、だから何も成せず、誰も救わなかった無為な己の命が、あの人の心がきっとおそらく初めて負った、生々しくていたましい傷になれたことが──。

「天草四郎様」

「ああ、行こう」

 生は不平等。死は平等。等しい死こそがたったひとつの赦しで救い。
 ようやく救うことができた。やっと救われた──なにもかもが終わった。
 天草四郎は歩き出した。
 地上に縛りつけられた魂たちのくびきを解き放ち、数千数万数十万、あるいは八百万、あらゆる祈りで弔ってきたものたちの魂を、導いていくために。
 祈りを理由に迫害されず、苦しみも痛みもない、いくさなきパライソへ向かって──。

       * * *

 谷間の花畑に、女が立っている。
 天草四郎の夢に立ち、お告げを授けて近しい人を彼岸に連れてゆく、青い冠の聖母マルヤだ。
 その顔は──一六三七年、島原の乱が起こり原城が落ちたあの日に、死にぞこなったスズランが出会った女のものだ。
 当時は、人魚の肉を食らった八尾比丘尼かと疑っていたが──稲荷神と同一視されて崇められたイエス・キリストの母親ならば、息子と同じく狐だということだろう。
 葛葉という名の、齢八百の古狐であった。
 天草四郎が生まれてすぐに亡くなったと聞かされていた、顔も知らない生母だ。
 デウスの呪いの正体が、いまになってわかった。
 どこの母親も、子に生きてくれと願う。それが呪いと変化して、子を苦しめることになっても、母は子がただ生きていることが尊いのだ。
 母の深い愛が何よりも強い呪いとなって、子を霊式兵器に変えた。
 生まれて今日まで二百四十三年のあいだ、苦界に繋いで生かし続けた。
 本当の信仰を見つけて死した天草四郎は、鈴蘭畑に跪いて、全き聖女に頭を垂れた。

「お願いがございます、母上。僕は──」

 父の慈悲にようやく殺された子を、母は、マルヤは葛葉は、相も変わらず能面のような、仏像のような、静かな微笑をたたえて見つめている。

「花に生まれ変わりとうございます」

 ──小生、あなたは、花だと。

 死なずの生に終わりをくれた神さまが、そうたとえてくれた優しい姿に──。

       * * *

 大坂城の堀にあがった、正体不明の巨大な怪物の死骸の話は、すぐに町人たちの知るところとなり、『人のうわさ』『幕末風聞書留』などの文書にくわしく書き残された。

 ──朝明方大坂、御城内御堀ヨリ如此之モノ出ル、早々、御城代江申上候之事。
(朝の早くに大坂城のお堀より、このようなモノが出ましたので、早々にご城代にご報告いたします。)

 この不気味な怪物のうわさは、遠く江戸の須藤由蔵という男の耳にも入り、江戸を中心に様々な風説や事件などを集めた『藤岡屋日記』にも記述がある。
 日記を書いた由蔵は、この大坂城の怪物のことを、豊臣秀吉の側室である淀殿が飼っていたヤモリのなれの果てであろう、と推測している。
 時代の変わり目には、妖しいものが出るという。
 城堀に出た怪物の一件が、どれほど堪えたのかは知れないが、若き将軍・徳川家茂は、二年後にこの大坂城で、いくさに破れて失意のうちに命が尽きる。
 二百余年前に天下を争った宿敵と、奇しくも重なる死にざま──天草四郎の父・秀頼と同じ末路、同じ滅びをむかえることになる。
 敗者となった父の跡を継いだ息子が、しもべを見捨てて城を逃げ出し、その後は誰の記憶からも忘れられて、露のごとく消えていくところも同じく──。

       14

「くどい。山南敬助、貴様の切腹は認めぬ」

「そこをなんとか。藤堂殿」

 三日三晩床について、ようやく顔を出したソウゲンは藤堂に、約束通りに腹を切ろうと申し出たが、上役はとりつくしまもない。

「斎藤一に、これ以上の道連れは不要だろう。非力な男だ、重みで潰れる。自害でもするなら貴様の勝手だが、自ら命を断つことはキリスト教では大罪らしい。再会の期待は持てぬだろう。会えたとて、合わせる顔があるとも思えぬ」

 大切な者たちに死にわかれた藤堂が、初めて出会ったころの事務的な口調で言う。子どものような姿の男に諭されては、言葉もない。ソウゲンは溜息をついた。

「藤堂殿は、小生の叱り方がスズラン殿に似てきたのです」

「寺に連れこまれて、アレに毎朝毎晩しごかれていたのだ。貴様の扱いが似てもくる」

 さて、これが償うということかと、初めてソウゲンは知った。
 今まで生きてきて、罪を罪とも思わなかったのは、罰をロクに知らなかったからだ。
 スズランのいない世界は、色がなくなったように味気ない。そこで生きねばならぬという。これが罰というものかと初めて知って、心の底から恐ろしいと思った。
 親類縁者に赤の他人。どれが欠けても、ソウゲンは心を動かされることがなかった。
 書だけが心のよりどころで、生きた人に興味はなかった。スズランに出会って、初めて人に興味を持ち、初めて人に向ける愛を知って、初めて大切に想う人を失った。

「こんなにも虚しいのならば、いっそスズラン殿に出会わなければよかったとも思うのです。しかし、あの方に出会わなかったもしもなど、退屈すぎて考えたくもありません」

「まるで、思い人のように言うのだな」

「小生は生まれてこのかた、恋も情も知りませんが。あの方を慕うこのような気持ちを言うのでしたら、相違ないのです。隣にいなくなっても、スズラン殿は新しい気づきをくれます。思い出をたぐって生きるには、人生は少々長いですが。あの方の眠りを守れず無駄に苦しませて、この手で殺めた報いと思えば耐えられましょう。しかし、つまらない。死者と話す方法でも探しますか」

 心配して様子を覗きにきた一番星に苦笑いをされて、「人とかに迷惑かけない方法で頼むな」と釘をさされる。

       * * *

 先のいくさで出たしびとたちの墓をまわって歩きながら、最後に訪れたのは、三日前に建てられた、スズランとも斎藤一とも刻まれていない無銘の墓だ。
 土の下には、焼き棄てられた獣の死体が埋められている。
 ほかに人の目のあるところで、大坂城の堀に浮いたおぞましい怪物の骸を、人として弔ってやることはかなわない。仲間の遺体を前にして、キリシタンたちのように隠れて、安らかに眠れるようにと祈ってやることしかできないのが歯痒い。
 誰からともなく、墓の前で手をあわせた。その足元が盛り上がる。

 ──ぼこっ。

 墓の土がモコモコと動いて山になって、地中から細い手が伸びてきた。
 一番星と藤堂が、喉奥で小さい悲鳴をあげて、サクヤの背中にひっついた。アキラは固まっているし、ギャタロウは腰が抜けた。そのうしろに隠れようとしているボウは、体がデカすぎるので、うまく隠れられていない。
 新選組組長が遠く輪を作ってるなかで、腕はそのままジタバタと手首から上を振り回す。
 非力だから、自分で土の下から出られないのだ。
 みんなに背中を押されて、ボウが恐る恐る近づいていき──「オマ!」大根みたいに引っこ抜いた。

「うらめしや~~~~~~~~~~~~っ!!」

 ボウに両手をつかまれて、両足をプラプラと宙に浮かせたまま、お化けが日輪みたいな笑顔で、元気よく「ばあーっ」と叫んだ。
 『うら「めしや」』と『救世主(メシヤ)』とをかけた、渾身の駄洒落であった。
 皆、ゴミ虫を見るみたいな死んだ目で、それを見る。

「えっ! そんなスベる!?」

 三日も墓の下にいたので、泥人間みたいになっているスズランが悲鳴をあげる。

「スズラン殿」

「ソウゲンちゃん!」

「まったくあなたという人は。駄洒落はともかく面白い。飽きるということがありません」

「駄洒落はともかくなのね……?」

 ソウゲンはボウにぶら下げられたままのスズランの汚れた顔を、手ぬぐいで拭いてやりながら、笑っているとも泣いているともつかない顔で言った。

       15

 ──こうして、ド寒い冗談がダダすべりした坊主と、腹を切り損ねた医者は、今日も京の治安を守る新選組の替え玉として、ふたり並んで市中見回りに出かけていく。
 三番隊組長、斎藤一。
 いつでも明るく、非力でうるさく、駄洒落が寒い。
 相方の山南敬助総長と、鴨川沿いをそぞろ歩きながら、ぽっかりと口をあけて、天を見あげる。スズランは、頭の上の高いところを見上げようとすると、隣にいる背の高いソウゲンの顔を、ちょうど見上げることになる。いつもどおりに。神様みたいに。

「ねぇ、ソウゲンちゃん。僕はいろんな神様に、みんなの魂が安らかに眠れるように祈りを捧げてきたけれど……。僕自身のための祈りかたを、まだ知らないんだ。遠い天の彼方におわす、目に見えない誰かに声を届けたいわけじゃない。僕はソウゲンちゃんに、どう祈ればいいのかな?」

「小生、祈るのはわかりません。スズラン殿とこうして楽しい話ができれば、それでよいのです」

「ソウゲンちゃんとの楽しいお話が、僕の祈りで信仰の形。うわあ! それはなんだか、ずいぶんワクワクする祈りだねえ! うふふふ! すてきだねえ」

「ええ。そうですね、本当に……。──すてきですねぇ」

 ソウゲンの目が細くなる。やわらかく微笑みながら、長い指で優しく頬をさわられて、スズランの頬が赤く染まっていく。

 これは、信仰か?
 それとも──。

──終わり──


制作:紫鈴堂(旧gokamoka)」
著者:えしゅ
初めて書いたソウスズのお話です。

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