肺を蝕む病が進み、呼吸ひとつままならず、もう終わりかと思ったが。
自分の体は、存外しぶとくできているようだ。
いや、医者の腕に救われたのか。「お褒めにあずかり光栄なのです」と。
確かに貴様の腕はいい。良すぎるほどだ。
治らぬ病にかかり、弱ったところを師に仲間に組織に見捨てられ、無為に死を待つばかりかと思っていた自分を、今なお生きながらえさせている。
貴様はよく自分自身を天才と、厚顔無恥に呼ばわるが、あながち大袈裟な物言いではないのかもしれぬ。
今の自分には天つく富士の山のように、貴様の存在が大きく見えるぞ。ソウゲン。比喩ではない。
「ひどい咳がでて、一時は危なかったのです。しかし小生がサクヤ殿のために調合しておりました新しい薬、実験台も兼ねて飲んでいただきましたらば、なんとか持ち直した様子。小生、胸をなでおろしております」
「しかし強い薬は、それだけ副作用もきついのです。スズラン殿に処方した風邪薬が、滋養強壮効果が強すぎて、可憐な花のごとき御仁が筋骨隆々の大男になってしまわれたのと同じく。殺菌薬を飲んだサクヤ殿の体は──」
一寸ほどの大きさに縮んでしまった、というわけか。
いや、どういうわけだ。まあ、生きているなら何でもいい。自分には病のことは何もわからないから、医者に任せる。
……可憐な花? 毒の強い附子の花でも医者には有用。そういう意味だろうか。
藤堂が、雨の日に見廻りをさせたせいで風邪をひかせたと、気にやんでいたのか。
肺の病のことも、薄々感づいているかもしれぬと。そうか。
先の雨の日に出歩いて、体を冷やしたのが肺に悪かった。それは事実かもしれんが、蝶よ花よと大事にされるいわれはない。自分は掟に従いここにいる。仕事だ。
だからことさら、周りの者たちと扱いを変える必要はない。とくに、真冬でも服の袖を破って庭を走りまわっているような、元気なバカ星と、扱いを変える必要は。
能力よりも健康で、有能無能をはかられてはかなわん。
あれは、自分を飼い殺すのが役目ではない。気にするなと言っておけ。自分が言っても、おそらく響かぬ。
それよりもソウゲン。この薬の副作用とやら、もとには戻るのだろうな。
一寸の虫のような大きさでは、さすがに仕事にならぬ。それこそバカ星のほうが役に立つ。
「咳は止まったようなので、次は体を元に戻す方法を探しましょう」
おい待て。薬の効果がきれたら、戻るのではないのか。
「何分、きつい薬でしたので」
では、しばらくはこのままなのか。
「悪いところはひとつずつ切り離して治していけば、いつかは良くなる。気の長い話に聞こえるかもしれませんが、急いてはいけません。今すぐ完全に肺病を治すような奇跡は、小生でも起こせません。地道に根気強く、病と付きあっていくしかないのです」
ままならぬものだな。
いつ死んでもいいと思ううちは死なず、わずかばかりの心残りができたとたん、死に病が押し寄せてくる。
「おや、黒猫がお見舞いに来ました。あなたのお知り合いなのですか」
そうだ。自分の膝が気に入っているらしく、よく来る。
縮んでいるが、自分のことがわかるようだ。今日は大きさが逆になった。
「たしかに、猫の頭の上に乗って、しっくりとくる大きさ。ちょうどいいので、ご友人と気晴らしに散歩でもされては。小生も調べものが煮詰まったときなど、スズラン殿がお声をかけにこられることがよくあります。外を歩いているうちに、光明が見えましたり、ひらめきがあったりするのです。猫の毛にしがみついていれば、風に飛ばされることもなく、虫や鳥にさらわれもしないでしょう。……ああそうです、しばしお待ちを」
これは、針か。一寸の体でも、取りまわしがしやすい。
「折れた鬼神丸より造りました。小刀は銃剣をあつらえるにあたって、長さを削る際に不要になった氏繁の砕片です。むき出しでは危ないので、覆いもつけましょう。急ごしらえで不格好ですが、いかがか」
斎藤一と永倉新八の魂がこめられた、亡き新選組幹部の刀の破片か。
己の魂を叩き割られ、削られ分割されるのは最悪の気分だろうが、自分は助かる。丸腰で出歩くよりもずっといい。
「その体だと、普段見れぬものも見えるでしょう」
たしかに。不逞浪士が新選組に潜入していた件もある。
間者がいたとして、今の小さな自分の身には気づかぬだろうし、猫相手にまで気を張ってはいないだろう。
それでは、屯所内を改めてこよう。
「仕事熱心な方ですねぇ。ご無理はなさらぬよう」
──さて。まずは八木邸の中の間か。
スズランとバカ星が、卵焼きの味は甘いのがいいかしょっぱいのがいいかと、じつにくだらぬ話をしているようだ。
黒猫は、ふたりの横を素通りして奥の庭のほうへ向かっている。
「あらーっ。なあにあれーっ。キャーッ見て見て一番星ちゃん。ネコちゃんのおでこに、ちっちゃいサクヤちゃんが乗ってるわよっ」
「えっ、マジだ。なんでちっちゃいの、あいつ。それにしても、スズラン目ぇ良いな。黒猫に黒い毛のちびサクヤだぜ。普通気づかねーよ」
「やだぁもう、お屋敷の見廻り中かしら。かわいーっ」
スズランがバカ星の肩をつかんで、ガクガクと揺さぶっている。
なぜスズランは、興奮すると市井の年増女のような口調になるのか。
「スズランからたまに出る娘言葉って、若い娘さんじゃなくて、おばさんのそれなんだよなぁ」
「えー。それ、一番星ちゃんには言われたくなーい」
バカ星は、地元の年かさの女たちの井戸端会議に自然に混ざれる男だ。「おばさんのそれ」というのは、確かに己に返ってくるだろう。
自分は喋るのが苦手だが、喋るのがうまいということが、このふたりのようにかしましいおばさんに寄っていくということなら、今のままで問題ない。
「サクヤちゃん、それソウゲンちゃんのお薬の副作用でしょ〜。わかるよー、僕もこの前さぁ風邪薬の副作用で、二条城みたいにむっきむきの大男になっちゃってさ、かわいくないのなんの」
「あの姿、頼もしくて俺ぁ好きだったけどなぁ。むっきむきのスズラン」
「やだやだ、かわいくなぁーいっ。それにしてもサクヤちゃん、ちいちゃくなっちゃったもんだねぇ」
「ひひひ。何してくれよう。敵の弱ってるトコ狙うのは、喧嘩の定石なんだよ。「甘いこと言ってんじゃねぇ」って、サクヤ本人がいつも言ってるじゃねーか」
「一番星ちゃん、ここぞとばかりな顔してるね。サクヤちゃんが困ってるときにイタズラしちゃだめだよ。悪さしたら藤堂ちゃんに言いつけちゃいまーす」
「おっ母……じゃなくって、藤堂のゲンコツなんざ怖くねーしぃ。あ、いった! 引っかかれた猫に。サクヤ猫は卑怯だ猫は、この野郎」
自分は何も。ただ、自分によからぬことをしようと考えた輩の顔をひっかくくらいには、自分はこいつに慕われているようだ。
「ひゃー、爪のあと痛そう〜。ほらねぇ一番星ちゃん、悪だくみなんかしてもロクなことになんないんだから。獣の爪って案外鋭いし、ほっとくと腫れたり熱が出たりしちゃうよ。ソウゲンちゃんとこ行こー」
「大げさだって。こんなん、ほっときゃすぐ治るし」
「局長さんが猫の爪痕つけてお顔腫らしてちゃ、平隊士の子たちに「うちの頭ダサい〜」ってガッカリされちゃうかもじゃない。ほら行こ行こ。サクヤちゃん、そんだけちいちゃいと色々難儀するでしょ。ほかの組長の人たちにも知らせとくから、困ったことあったら僕らを呼んでね」
「おお……。酒クズのクソ駄洒落おじさんが、ちゃんと大人してるじゃん……」
「ちゃんとしてるだけでひどい言われよう」
「冗談は置いといて、サクヤぁ、なんかやべーことあったら、デカい声出して誰か呼べよ。近くにいるやつが向かうからよ」
承知した。
黒猫は奥の間を抜け、庭に面した縁側についた。
火薬のにおいがする。ギャタロウが銃剣の手入れをしている。
「おーう。副長さん。チマチマとギャわいい姿になってるじゃねぇか。藤堂の旦那はお偉いさんのところへ出かけているが、今のちいちぇえおめえさん見たら、また目玉かっぴらいて悲鳴あげると思うぜぇ」
「階段側の部屋ん中は入るんじゃねぇぞ。ボウの野郎が畳の上で昼寝をしてんだ。鼻息ひとつでおめぇさんは内玄関の向こうまでブッ飛んでくし、寝返りうったらペッタンコよ。逆におとなしくお医者先生の部屋で安静にしてろい」
余計な世話だ。
しかし、土方歳三に生まれ変わってからというものの、面妖なことが起こっても、もはや誰も驚かないのが、逆に驚きだ。
「逆の逆にな。ギャハハハ」
八木邸をひとまわりして、前川邸へ戻ってきた。
この黒猫、自分について屯所へやってきて、いつのまにかいついたと思えば、縄張りのなかに蔵まで入っているのか。
天井裏へ上がっていく。このようなところまで。もはや立派な住人だな。バカ星などより、よほど見廻りに熱心で感心する。
自分もふだんは、ここまで立ち入ることはないが……。
隅のほうになにか見えるな。
札の貼られた肉の壁のようなものがある。
蜘蛛の巣のように肉色の糸を体のまわりにめぐらせて、蠢いている。目、鼻、口はないが、左右に巨大な耳がついている。
どう見てもあやかしの類だが、さて。
上背は、今の自分が三人ぶん。すると三寸ほど。
この壬生屯所は、バカ星が酒を飲めば大声で歌い、鍛錬でも腹の底から気合を叫んで、むくつけき男どもがそれを真似て、うるさいことこの上ない。
あの騒音に辟易したか。ジメジメと湿った暗い場所を好む性質とみえる。気持ちは理解できるが……。
鬼神丸と氏繁が反応している。どうやらよからぬものらしい。
家賃を払わぬ間借り人か。それとも屯所に忍びこみ盗み聞きをしている、雑面ノ鬼どもの間者か。
試し斬り相手になってもらう。
こちらの黒猫も威嚇をしはじめた。やる気のようだぞ。