子の刻、野里村の住吉大神宮。龍の池のほとり。
いまはすでに埋め立てられて水もないが、かつてはこの池にささげられた娘が、たくさんいたのだな。
風が生ぬるくなってきた。獣のにおいが濃くなってくる。
サクヤ、知っている匂いだと。前に山で嗅いだ覚えのある臭気?
頭上から大きなものの気配。
降ってくる。地響き。土ぼこりを巻き上げながら影が立つ。
現れたな。
大きい。老いた猿のごとき体。背の丈は七尺八寸ほど。こうも育つと、いやに人に似て見える。
伝承のとおり、狒々か。このような図体のでかい獣が、舟の往来も激しい淀川沿いの、どこに隠れていたのやら。
昼間は山奥で寝ていて、夜になれば降りてくるのかも、と? なるほどな。
しかし一夜官女の伝説によると、岩見重太郎なる侍に、狒々は退治されたのではなかったか。
月明りの下で見ると、淡い紫色の毛色をしているな。
口から吐くくさい息が、霞がかって仄かに発光している。あの輝き、雑面ノ鬼どもが持つ刀に似ているような。
──臭エナァ。血ト鉄ノ臭イダァ。
驚いた。この猿、獣のくせに喋るのか。それとも、単なる鳴き真似か。
鼻をつまむ動作も人をよく真似ている。薄気味の悪い。
──オレト同ジ毛色ノ奴モイルナア。オメエダケ、ナンカ違ウナア。ダガ臭イ、臭イ。獣ト躯ノ臭イガ、プンプンシヤガルゼェ。
「失礼だね、ちゃんとお風呂に入ってるよ」
人を斬る侍と、不殺の坊主の臭いの違いがわかるか。鼻が馬鹿にいいのはわかったが、スズランは人一倍身綺麗にしている男だから、不潔な猿に臭うとけなされれば、それは面白くなかろう。
たしかに紫色の髪の色が、この狒々の体毛と同じ色だが、落ちこみそうなのであまり言ってやらないほうがいい気がする。
アキラが刀を抜いた。
やはり光る。沖田総司さんの魂が、よからぬ妖物の気配を察して目を覚まされているとなると、そういう趣味のあるおじさんなのではないかと疑わしいスズランはともかく、私の恥ずかしい壷装束も見られてしまっているのか。
なんだ平助そのナリはと、笑われているのだろうな、おそらく……。忘れてください。
菊一文字が斬りこんでいく。速い。身が軽いばかりではなく、踏み込みが、相変わらず見事だ。
狒々め、獣の身体能力は人に勝るか。本能的に目を守ろうと、腕をかざす。
それを光る刀が斬り飛ばす。
丸太のような腕が弧を描いて落っこちてきて、後方でスズランが気の抜けた悲鳴をあげている。
アキラ、手足をがんじがらめに制限する壺装束でよくもここまで動けるものだと思うが、そういえば以前に芸妓に変装して大立ち回りを演じておったな。女人とは、大したものだ。
耳元で抜刀の音。サクヤ。貴様はおとなしくしていろ。体の大きさが違いすぎる。
ああ、言っているそばから。狒々が、アキラの返す刀でもう片方の腕まで斬り飛ばされ、絶叫し大きく開けた口内に飛び込んでいきおった、あやつ。
サクヤ、無茶はしてくれるな。
かと思えば、内側から針のごとき刀を振るって面を縦に割り、片方の目玉を蹴り落して眼窩から出てきおる。御伽草子の一寸法師より、やることだいぶ物騒よな。
しかし、さすがだ。私も遅れをとっては──。
ええい、こんな動きづらい格好でいくさができるか。
高貴な女人のお召し物を汚してはかなわん。借り物なのだ。貴様も脱いで戦えスズラン。
どうした。無理? エレキテルの紐が着物にからまった? 動けない?
貴様、本当にそういうとこだぞ馬鹿者。
私の刀は私の魂しかこもってはおらぬが、獣の両の足首を斬り飛ばす程度ならばたやすい。
──さて、腕も足も失い木偶人形のごとく動けぬ、根性なしの獣が一匹。
答えろ。野の獣が、なぜ伊勢津藩の姫君を生贄に欲しがった。
「イデエ。イデエ。アア、オメエ、オ姫サンジャネエ。騙シタナ。サテハ狐ダナア。オ姫サンニ瓜二ツダガ、化ケル時ニ、左右ノ傷ガ逆ニナッテイル」
確かに。容保公が私に、姫君の身代わりを申しつけたのは、私の容姿が伊勢津藩主の娘によく似ていたからだ。
あのお方の病でただれた顔や、白濁した目に、欠けた手足までも、雑面ノ鬼との戦いで傷ついたこの身と、逆さに映したようにそっくりだろう。男の私は傷なぞ気にとめたこともないが、娘盛りの女人には、さぞかし残酷なことなのだろうな。
なんだ、スズラン。言いたいことがあるような顔をして。からまったエレキテルの紐はほどけたのか。
「たしか、伊勢津藩主って、藤堂家宗家の十一代目のお方だったよね」──知らんな。
「では」「姫君はお主の……」──知らん。誰も落とし子を身内とは呼ばぬ。
容保公は度量の広いお方だ。私なぞの立場を慮ってくださったのだろう。では、不足なく応えねばならぬ。
山の獣が人のつがいなぞ欲しがるでない。腹が減れば喰らってしまうのだろう。
人の言葉を覚えて喋り、どれほど猿真似がうまくとも、人心を解さぬあやしい獣と契って、先に未来のある人の娘が幸せになぞなれるわけがなかろう。
お家には関わりのない身でおこがましいが、私には許せぬ。
「嫌ダ嫌ダ。人間ガイイ。人間ガイイ。人間ガイイ。人間ガイイ。人間ガイイ。人間ガイイ。人間ガイイ。人間ガイイ。嫌ダ嫌ダ。人間ガイイ。人間ガイイ」
なんだこやつ。悪あがきにジタバタしよって。
人間の童のように泣き叫んでいる。欠けた手足のあった場所から黒い血液が吹き出し、汚らしい。
「アア、オレノ手ヲ落トシタオメエ。鉄臭クテ気ガツカナンダガ、雌ジャネエカ。モウ、オメエデイイ。臭イガ我慢シテヤル。人間ノ雌、オレノ嫁ニシテヤル。贄ニナレ」
臭い雌とはもしかして、アキラのことを言っているのか。
二度と下卑た口を利かぬよう、首を落とさねばならんな。
スズランが、エレキテル錫杖を狒々の口の中に突き入れた。
装置を起動させる。バリバリと雷が発生し、狒々を体の内側から感電させている。
周囲に、耳をつんざくような獣の悲鳴が響く。
「女の子に向かって、くさいけど我慢してお嫁にもらってやるなんてのは、最低の口説き文句だよ」
女狂いの破壊僧に、すべてにおいて同意する日が来るとは。
しかし真実だ。うちのアキラは貴様のごとき野の獣にはやらん。津藩の姫君も、貴様のものにはならん。
サクヤ。お主がやるというのか。……わかった、とどめを。
一寸法師のごときお主が、その針のごとくちいちゃく細い刀で、よくも大狒々の首を落とせるものだ。
なに。妹が世話になったようなので、と。……。
そ、そうか。そうなるか。う、うむ……。
スズラン。この狒々の躯を弔ってやってもいいか、だと。
お主は敵対する雑面ノ鬼どもの躯も、斬りあい命を落とした新選組の仲間と等しく、いつも真摯に弔っておるな。人を苦しめていた獣にまでも、手をあわせてやるのか。
さきほどは狒々めにアキラを侮辱されて怒っておっただろうに、わからんやつだ。坊主の本能というやつか。
好きにしろ。止めはせぬ。
「口説き方には問題しかなかったけれど、自分じゃどうしようもない理由で、みっともなくふられちゃった男を見てると、他人事って気がしなくてねぇ」
どうかしたのか。スズラン。
……あやつ、少し様子が変だったな。