こんばんは、ギャタロウ殿。
いまは居酒屋の大将と呼べ? はあ、そうですか。
スズラン殿は、酔いつぶれた藤堂殿をお部屋に送っていったと。
なるほど。では小生も、お酒をいただきたいのですが、よろしいでしょうか。
ふむ。こちらが、藤堂殿に出されていたお酒ですか。
おや、大将殿。これはいつも藤堂殿がたしなまれている酒ではなく、焼酎のようなのです。
酒の強さがまるで違うでしょう。今夜、酔いがまわりやすかったというのは、このせいかと。
あの方、八割六分二厘、明日は二日酔いになるのです。先に薬を用意しておきますか。
いいえぇ、小生はこちらの酒でかまいません。酔いたい夜もあるのです。
珍しいことを、という顔なのです。大将殿。
酔っぱらいが不遇をかこつ姿は、大将殿ならば見慣れているでしょう。小生も一度は、そういうことがしてみたいと興味があるのです。
ギャタロウ殿とスズラン殿のおふたりが、お酒が入ったところで、阿吽の呼吸でなにかはじめられるときの、生き生きとした姿を見るのは大変楽しく……しかしながら、最近はそればかりではないのです。
小生、悋気の起こし方というものを、スズラン殿に教えていただきましたァ。
最初は興味深く、己の胸の内のざわめくようなこの心地を楽しんでおりましたが……。
あまり深く浸りすぎますと、気が付けば食事も喉を通らず、ため息ばかりこぼしてしまうのです。
今もそうなのです、居酒屋の大将とその奥方の役を演じておられるお二方の姿が、あまりに様になっておりますので、小生は悋気を起こしているようなのです。
スズラン殿のお隣に立ち、以心伝心で楽しくはしゃがれる大将殿が、小生はうらやましいのですね。
天才的なこの頭脳以外は、面白味のない、大した取柄のない男ですので。
スズラン殿は、小生とつがった先で、幸せになれるのでしょうか……。
とつぜんそんな弱気なことを言い出すなどと、小生らしくもない、逆に何かあったのか、と。さすが、大将殿は目ざといのです。
そうですね、信じていただけるかはわかりませんが……。
聞いていただいてもよろしいでしょうか。小生が先日体験した話です。
市中見廻りの仕事が終わり、夜になっていつもの研究室に帰りついた小生が、室内へ一歩足を踏み出したとたん、穴に落ちました。
なぜか、床に大きな穴が開いていたのです。
小生、出かける前のことを思い返してみました。今朝は、穴なぞなかったはずなのですが。
穴は深く、底につくまでにどのくらいかかったものか、覚えておりません。
よほど深い穴ならば、着地の衝撃でこの身が潰れてしまうはずなのですが……。
夢でも見ているのでしょうか。気が付けば小生は、日の明るい外に出ており、道の真ん中に立ち尽くしておりました。
頭上から、カンカンカンカン、と奇妙な音が聞こえます。何の音かはわかりません。
すると遠くから、何か大きいものが寄せてきます。
あれはなんだろう、と小生がボンヤリとそれを見ていると……。
小さな紫色のカタマリが、勢いよく小生にぶつかってまいりました。
腕をとられて引きずっていかれると、今まで小生のいた場所に、車輪のついた大きな鉄の箱のようなものが、見たこともない速さで押し寄せてきて、あっという間に過ぎ去っていきました。
手を取られていなければ、小生はあの鉄箱の下敷きになっていたでしょう。
「あっぶな! 何やってんの!? 飛びこみ自殺!? 命を大事にして!」
聞き覚えのある声が、そう叫ばれました。
血相をかえて小生の腕をつかんでいるのは、スズラン殿です。
いえ……。面差しは同じなのですが、雰囲気が異なりました。
なんとも説明しがたい、奇妙な仮装をしておられたのです。
それにいつものスズラン殿よりも、どことなくしっかりされているような……。
スズラン殿ですか、と小生がたずねると、そうだよ、と頷かれます。しかし……。
「お兄さん、なんで僕の名前知ってるの? あと変わった格好だね。何かのイベントのコスプレ? まあいいけど、無事でよかったよ。どこから来た人? あ、僕はあやしいもんじゃないよ。学校が夏休み中だから、ボランティアで来てるんだ。この先の八木邸のガイドしてるの。お兄さん、せっかくだし聞いていきなよ」
立て板に水のごとく言葉を投げかけられて、小生が唖然としておりますと、またツンツンと袖を引かれます。
「あ、後ろから車来た。轢かれちゃう。はしっこ寄ろう」
今度は先ほど通り過ぎたものよりも小さな四角い鉄の箱が、道の上を滑るようにやってきました。
人力車のようですが、引き手はおりません。ふと思いついて、スズラン殿に確認しました。あれはエレキテルで動いているのですか、と。
「エレキテル? 電気。うん、EVだね。電気自動車。エコだわ」
当たり前のような顔をしたスズラン殿が、よくわからないことをいわれました。
詳細を尋ねると、EVというのは電動車のことで、ガソリンを使わずに電気だけで動く車であり、そのため地球環境に優しいのだと、めりけんの言葉よりも難解な答えが返ってまいります。
どうやらここは小生の知っている壬生屯所ではなく、以前スズラン殿とギャタロウ殿が迷い込まれた異世界のような場所らしいのです。
籠や人力車のかわりに、車という鉄の箱がところせましと走り回っており、そのために車道という専用の通り道まで整備されております。
ここへ来てまず見た、車よりも大きな鉄の箱の連なりは、「嵐電」と申されますようで。正式には、京福電気鉄道といいまして、京の町の要所をつないで、多くの人を乗せて運ぶ、「電車」なる乗り合いの籠のようなものだといいます。
先年、えげれすの蒸気機関車が長崎に持ち込まれて試験走行を行うところを見物したことがありますが、別物ですね。あれよりいくらも洗練されており、静かで無駄がないのです。
「嵐電」が走る場所には鋼鉄でできた溝が二本引いてあり、この「線路」なる場所で立往生していた小生は、電車の通りを妨げており、あやうく引きつぶされてしまうところだった、と。
いやはや、道をふさいでお邪魔をしてしまったようなので、申し訳がなかったのです。
小生の知っているスズラン殿とは微妙に異なる、こちらの世界のスズラン殿は、小生の袖を引きながら線路を離れて、広い車道と反対側へ歩いてゆきました。
たどり着いたのは、目と鼻の先にあります屋敷です。
壬生屯所、八木邸。
しかしながら、小生たちが生活をしておりますこの場所にあるような、活気やにぎやかさがありません。
入口には「京都鶴屋・鶴寿庵」と書かれたのれんがかかっており、どうやら菓子屋のようでした。
そう、屯所が菓子屋になっているのです。大将殿。
そりゃ藤堂の旦那もアキラも大喜びだ、と。たしかに。
ではうどん屋台に居酒屋ときて、次は菓子屋でも始められますか。甘味は脳にも良いので小生は歓迎です。
さて、スズラン殿は菓子屋のおかみ殿たちと一言二言話をすると、味見用に置いてあった琥珀糖をご自分と小生の口に放りこみ、鶏卵素麺なる南蛮渡来の菓子の箱を「これ珍しいのよ。おすすめ、カステラより甘いやつ」とこちらのふところに押し込みます。
お代は、というと、おかみ殿は「なにいうとるん、あんたはスズちゃんの友達なんやろ。いらんよいらんよ」と受け取ってもらえません。
菓子屋の通路を通って奥の出口から出ますと、見慣れた八木邸の長屋門があります。
常のように人の行き来はなく、静まり返っておりました。スズラン殿はそんなうら寂しい屯所の石畳を、勝手知ったる顔で歩いてゆきます。
「今日は珍しく人が少ないね。雨降りそうだからかな。お兄さんラッキーだね、ゆっくりまわれるよ。夏休みの時期だし、普段は混んでるんだ。この八木さんのお宅って、昔は新選組が屯所に使ってたんだよ。お兄さん。新選組を知ってる?」
知っているもなにも、小生です。
そう言うとスズラン殿は、「やっぱりコスプレの人じゃない。気合い十分って感じ〜」と、ケラケラと笑われました。
「僕がここで何をしてるのか、って? 京都の観光に来るお客さんの案内してるの。ここで昔、いろいろあったんだよって教えてあげる役ね。新選組はねぇ、僕のご先祖様なんだ」
スズラン殿はそう言って胸をはり、得意そうに鼻息をこぼされます。
小生が話をしているこのスズラン殿の血をさかのぼると、新選組の山南敬助と、その妻の明里に行き着くのだそうです。
明里。聞き覚えのない名前です。
妻は鈴蘭という名のはずですが、と小生が訂正すると、こちらのスズラン殿は、なにやらぬるい微笑みを浮かべられました。
「僕の遠い遠いおじいちゃんの山南敬助さんは、遠い遠いおばあちゃんにゾッコンのメロメロでさ。普段は寡黙で生真面目なお人だったそうなんだけど、お嫁さんに「鈴蘭ちゃん」なんてかわいいあだ名をつけて、大切にしてたんだって。お侍さんなのにホッコリした逸話でしょ。この話すると、みんな喜ぶんだよねぇ。僕の名前も、そこからもらったのよ」
少々気恥ずかしい気もしましたが、なるほど、と小生は得心しました。
この方の姿を見ると、スズラン殿の血に連なる方だとは、すぐにわかりましたので。
さすがに男の斎藤一と子を成したとなると、子々孫々は困惑するものでしょうから、あの方は後世では異なる名で逸話となっているのかもしれません。
ううむ。はたして男と男のあいだにやや子が生まれるものだろうかということは疑問なのですが、そこは天才の小生か、一見不可能だと思われることでも、不思議となんとでもしてしまわれるスズラン殿のどちらかが、なんなりとうまくやったのでしょう。
近くの光縁寺に、祖先の山南敬助が眠っていると聞き、「すぐそこ。いっしょにお参りする?」とスズラン殿が誘って下さりましたので、小生も同行させていただきました。
己の墓を眺めるのは、さすがに妙な気持ちです。
南天の木の下に、小生が替え玉となった、山南敬助殿の名が刻まれた墓があります。
墓の下に眠っているのは、小生か。
それとも今は藤堂殿がたてられた仮の墓で眠る、本物の山南敬助殿なのかはわかりませんが……。
ふと気になることがありまして、小生が知るスズラン殿のしぐさそのもので手をあわせているこちらのスズラン殿に、遠いおばあさまのお墓は、ここにはないのでしょうか、と聞きました。
「あ、遠いおばあちゃんね。お墓はないのよ。旦那さんのおじいちゃんが亡くなってお墓に入っちゃうと、行方知れずになっちゃったんだって」
「お兄さんが信じるかはわかんないけど、うちのご先祖様の明里おばあちゃんね、じつは狐だったっていう話があるのよ。狐が人に化けてたってね。ちょっと面白い話でしょ。どこかのお山にこもって、おじいちゃんのために念仏唱えてたのかもしんないね」
「遠いおじいちゃんが亡くなるときに、「またあなたに会いに行く」って、おばあちゃんに言い残して亡くなったから。おばあちゃんはその言葉を信じて、それまでは不真面目でいいかげんで、修行も面倒がっちゃうダメ狐だったけれど、まじめに僧侶の修行にうちこんで、神通力を高めて立派な稲荷神様になったそうよ。おじいちゃんがいつ生まれ変わっても飛んで会いにいけるように、長生きするぞーって決めて待ってたの」
「明里おばあちゃんをお祀りしてる鈴蘭大明神ってお社が、この近くにあるんだけど、見に行く?」
もちろん、お願いします、と小生は答えました。
スズラン殿に案内された稲荷社は、きれいに整えられていました。
こちらのスズラン殿は、小さな社に花を供えながら、滔々と喋り続けられます。小生が知っているスズラン殿と同じようにです。
「戦前はね、もうすこし大きなお社だったの。でも京都空襲で焼けちゃってねぇ。今はこんなこぢんまりとした感じだけど、毎日ちゃんと身内の人たちにきれいにしてもらってるから、おばあちゃんはけっこう快適じゃないかしら」
「あらお兄さん、待ちぼうけを食わせられたおばあちゃんが、かわいそうだって思ってる? 待つのはねぇ、意外と苦にならないんだよ。どっちも気が優しい人同士だとさ、しんどいのは待たれるほうだよね」
「おばあちゃんもその辺、わかってると思うのよ。おじいちゃんはまじめな人だったっていうから、きっとおばあちゃんとの約束を守ってくれるでしょ。焦らなくてもゆっくりでいいし、なんなら来ても来なくても、どっちでもいいのよ。気にすることないのよって、そう言うと思うねえ」
「きっとおばあちゃんは自分の気分で、待ちたいからそうしているだけなのよ」
人でないものが、己よりも短い寿命の人間に添い遂げると決めれば、つがいが死んだそのあとは、永くひとりにさせるのだと理解しました。
では、もうよいのです、と言うべきだったのでしょうか。
しかし「気分で待っている」というのなら、小生がなにを言っても、このお方は待っていてくださるのでしょう。存外、頑固な方なのです。
小さな社に閉じこもり、かなわぬ口約束をかわして帰らぬつがいを、いつ会えるかもわからぬというのに、ひたすら待って下さっている。
スズラン殿の明るい声を聞きながら、小生が冷ややかな心地で手をあわせますと、かすかな声が聞こえてまいりました。
──あら、ソウゲンちゃん。迷いこんできちゃったのねえ。
ここは君の来る場所じゃないよ。送り届けてあげるから、目を閉じていてね。
ふと視界が暗くなりました。
我に返ると、いつのまにやら小生は、自室へ戻ってきておりました。
部屋へ一歩踏み出した足は、開いた大穴へ落ちていくことはなく、それが奇妙でつり合いがとれず、思わず尻もちをついてしまいます。
呆然として見慣れた天井を見上げ、ふところを探りますと、鶏卵素麺の箱が出てまいりました。
あちらの世界のスズラン殿に押し付けられた、菓子の箱です。
夢であればよかったのですが、夢ではなかったようなのです。
──ああ、スズラン殿ですか。藤堂殿を寝かしつけて、戻られたのですね。
今の話を、どこから。途中くらいから聞いていた? そうですか……。
おや、大将殿、どこへ。明日の仕込み? ふたりきりで話せ? はあ。
「ギャタロウちゃんたら、気をきかせてくれちゃって。鶏卵素麺、すこし残しておくからね。かすていらよりも甘くておいしいのよ。お酒のアテにいただこう」
はい。では……。……。
ふむ。すこし、しょっぱいのです。
「おやおや、泣いちゃった? だいぶ酔ってるねー、珍しい。よしよしソウゲンちゃん。よしよしよ。元気出してよ」
「今日ね、昼寝してたときに夢で見たの。立派な稲荷大明神様みたいになっちゃった僕が出てきてさ、君は優しくて、こちらの世界で見聞きしたことを気にするだろうから、戻ってきたらよしよしって慰めてあげてって」
あの世界のあなたは、なんとおっしゃっていましたか。
己と愛する男のあいだに生まれた子らを見守りながら、待つ時間はひとつも苦にはならぬ、と。
そうですか……。
しかしながら、小生はどうも納得がいきません。
生まれ変わって再会するなどと、そのような未知の現象を、己の裁量で自由にできるはずもなく。それと知りながら、スズラン殿を縛りつける約束事を口にする……。
かなわぬ約束など、あなたに私はしません。
たとえ約束を果たしたとしても、どれだけの年月、孤独のままに相手を待たせることになるかを、考えぬわけでもなかったでしょう。
死んだ先まで、好いた方の行く末を己の情念で思い通りにしようなどと、あさましい限りなのです。考えたくはありませんが……あちらの小生は年を取り、よほど耄碌していたのでしょうか。……いや。
おそらくあちらの世界の小生は、ここにおります小生とは、異なる性分なのでしょう。
ふむ。考えるだに、小生やはり、そのような約束はしないのです。
そもそも、生まれ変わりなどというのは、実現性に乏しいと思うのです。
この命があるうちに、スズラン殿に添い遂げる方法を探しましょう。こちらから番ってほしいと言い出したことですので、そのくらいは成すべきでしょう。
ええ。そこは不可能ではないのです。小生は天才ですので。
どうされました、スズラン殿。苦笑いなどされて。
だいぶ酔っている? 二日酔いの薬は二人分必要そうだと。そうかもしれません。
しかし小生とて、たまにはこうしてあなたがするように、酔ってくだをまいてみたいのです。
「そうねえ、たくさんお酒のんで、嫌なことは忘れちゃおう。パーッとやっちゃお、ソウゲンちゃん。きっと君はねえ、いじわるな狸のやつに化かされたのよ」
はいぃ。そうであれば、よいのです。ひっく。