ふと気がつけば、知らない屋敷の前に立っていた。
瓦屋根を見上げる。藤堂蔦の紋が入っていた。
すると、このおびただしい数の桜の木が敷地に植わった屋敷は、藤堂家の所有のようだ。
しかし、どうも見覚えがない。
藤堂藩屋敷。
父・高猷(たかゆき)は、神田川のほとりにある上屋敷に家族と住まい、落としだねの私は、一度もそこへは出向いたことがない。
物心つくかつかぬかという子どものころを過ごしたのは、郊外にある下屋敷だ。
そのあたりは染井村と呼ばれており、屋敷の前には植木屋が店を連ねていた。
職人はみな、桜をかけあわせて新しい品種を生み出すことに熱心で、そこで生まれた染井吉野という桜が、大変に美しいというので評判になり、いろいろな国で植えられるようになったのだ。
名を呼ばれ、顔をあげると、門の向こうに女が立っていた。
「お久しぶりにございます。ささ、若さま。こちらへ」
奇妙な女だ。首から上は人ではなく、人の頭ほどの大きさの花が一輪咲いている。
桜の花だった。
何者かと名を訊ねると、花びらをふさふさと動かし、「昔よく愛でていただきました、染井吉野でございます」と答える。
「皆、お待ちしておりました」
うん、とうわのそらで頷いた。どうにも頭がまわらぬ。
屋敷の外から眺めているうちは、敷地に立っているのは桜の木々のように見えたのだが、門の内側へ一歩踏み入れると、頭に花を咲かせた女人ばかりがひしめきあっている。
私が前を通るたびに、白くて大輪の里桜が「永源寺でございます」だとか、薄い紅色の大きいのが「奈良八重と申します」だとか名乗り、挨拶をしてくる。そういう品種の桜なのだな。
父はとくに桜を好んで愛でており、江戸にいくつもある屋敷の敷地には、どこも無数の桜が植えられていた。
それだから、大坂の淀川沿いの、天満川崎にある蔵屋敷のほうへも、かなりの数の桜を移していて、春になると見事に咲くのを、付近のものが見物に来るほどだという。
私は家のことを、近所に住んでいるというだけで何ら関係のない他人よりも知らぬ。桜には無数の種があるというが、庭にどのような花が咲いているのかさえ。
伊勢津藩主の落とし子は、娘であれば姫と呼ばれて家で育つが、家督争いの火種になりかねん男となると話は別で、早々に屋敷を追いだされることになった。
家の中で、いないものとして扱われる子どもは、生きていることを認められぬと同じ。
家の外に出れば、落とし子だということを見下される。そのたびに、かけられる言葉がある。
藤堂家は裏切りの一族なのだ。
いくさの時代には、浅井氏からはじまり、主君を五度もコロコロと変えて成りあがった。
加えてこの血の者は、気に食わぬことがあればとつぜん激昂し、憑き物にでも憑かれたかのように、ひどく相手を害する性質があると恐れるものもある。
歌舞伎や文楽で演じられる「忠臣蔵」のもとになった、赤穂事件がある。
江戸城内にて刀を抜き、吉良上野介に斬りつけた浅野内匠頭は、藤堂家の血の娘の孫にあたる。そういう筋なのだという。
庶子ゆえ家では肩身が狭く、なんの立場もないくせに、当主の父の血ばかり半端に引いている私を、家の者には面と向かって言えぬようなことを言って、突っつく輩がよくいたのだ。
聞いてもおらぬことを、次から次へと言い含めてきよる。
藩主の藤堂高猷は、いまは京の治安を守るために津藩兵を送りこみ幕府を助けているが、裏切りがお家芸の藤堂だけに、いつどうなるものやら知れたものではない。
藩祖・藤堂高虎のごとく、とつぜん寝返り、これからは長州に与すると言い出して、幕府に刃を向けることになっても驚きはしない。
忠も義もない藤堂の血の者に、誠の心なぞありはしない、と。
長男の藤堂高潔(たかきよ)は、新選組発足の年に御所の警備を任せられ、今年の春には近衛府の少将となられた。そのことを面白く思わぬ者が、半端者の落胤をいじめて溜飲を下げていたというわけだな。
序列にばかり執心し、己を省みず、人として侍として生を受けておきながら、為すべきことも知らぬようでは、野の獣と同じではないか。
侍の家に半端者として生まれてきた私は、それだからこそ、心根ばかりは本当の侍たろうともがいてきた。
主は決して違えぬ。仲間を決して裏切らぬ。
それでなければ何者であるのか、自分でもわからなくなってしまいそうで──。
そういうものが、私の誠の根源には、いくらか混じっているように思う。
とはいえ昔は、体が小さく生まれたばかりに弱く、体格の大きい者に舐められ、侮るようなことを言われっぱなしで……。
言い返したいことを、ひとつ飲みこみ、なかったことにするたびに、性根がねじれていくのが自分でわかって嫌だった。
じつの兄弟ばかりではなく、父母を正しく父母と呼べる者たちをうらやみ、僻むようになる。
くすぶっているしかなかったころの、私の貧しい心持ちを叩き直してくださった近藤さんたちには、今でもどれだけ感謝してもしきれん。
ひねたガキでも、侍とはなにか、人の誠の心とはなにか、ひとつひとつを教えこまれれば、やがてわかるのだ。
言葉を尽くさずともいい。馬鹿野郎と怒鳴ってげんこつをくれれば、まだ人にも成っておらぬ稚気の者には、それで十分だ。少なくとも、まじめに話を聞く気にはなる。
試衛館に出入りするようになって、私が学んだのはそういうことだ。
それなので、皆さんのやり方をなぞってみたが、我ながら似あわんことこのうえない。
とはいえ、少しは効果があったらしい。
替え玉連中で一番の問題児だった一番星の奴めが、あんなにいい目つきをするようになったのだ。
初めて会ったときは、人でなしの猿同然だったあやつが、誠を知り、新選組を預けるに足る侍に成ってくれたのではないかと思う。
そうだな、私の役目はここまでのようだ。
徐々に頭がハッキリとしてきた。私は、羅生丸に斬られたのだ。
一太刀受ければ、傷つくのは肉体だけではない。魂がほころび、やがては死に至ると、くわしく調べたソウゲンから報告を受けていた。
となると、ここはあの世か。
桜頭の女人たちに導かれ、藤堂の血の者たちが眠るところへ向かっている最中なのか。
亡き新選組幹部の皆さんと再会できることを期待していたが、あの人たちの魂は、いまだ現世で替え玉たちとともに戦っておられる。
ひとり置いて行かれたはずの私が、皆さんよりも先にこちらへ来ることになるとは……。
まだ不安は多々あれど、替え玉たち皆に、教えることは教えたつもりだ。
あやつらならば、私が倒れても乗り越えて先へゆけるだろう。
その果てにあるものを、私も見てみたかったというのは、少々欲張りか。
ん。なんだ。
道の先を藪から藪へと、蛇が横切った。薄緑色をした体の細長い蛇だ。
毒のあるなしは知らぬが、二股の舌を口から出し入れしながら、私の前を歩いていく桜頭の女人が気に食わぬのか、しゅうしゅうと不気味な威嚇音を出しておる。
女人は蛇に噛まれてはたまらぬと、私の袖をつかんで早足になり、桜並木を進んでいく。
すると、前方で道をふさぐように、ぼうと火が上がった。
枯葉を集めたのが、勢いよく燃えている。桜頭の女人は、花だけに火をとくに恐れるようだ。
立ち止まってまごまごしたあと、横道へ避けて、大回りをして玄関のほうへと向かうことになった。
ああも激しく燃えていては、屋敷まで延焼しかねんのではないか──。
心配になって振り向くと、紫色に光る妙な火が幻のごとく消えて、尾の生えた影がサッと横切った。
あれは、本物の火ではないな。狐火なるもののようだ。
狐狸に化かされたのか。そう思うと、こんこんくわくわと、どこか遠くで鳴き声がした。
鳴き方が、なにか、合図を送るようだったな。
どーん、どーん、と地響きが鳴りだした。
目に見えぬ透明な相撲取りが、大きな体で四股を踏んでいるような音がする。
私の足元の地面に亀裂が入り、土の中の桜の根がむき出しになる。庭の隅々にまでびっしりと、太くごつごつした管が行きわたり、埋め尽くしていたのが見えた。
なまぬるい風が吹き、あたりに硫黄のにおいがたちこめはじめた。
金属のこすれるような音。銃の手入れをしているときによく聞く音だ。
そして、発砲音。
桜頭の女人が、いくさの気配を恐ろしがって、つんざく悲鳴をあげた。
花でできた頭を抱えて地に伏せたところへ、藪から駆け出してきた兎が、がぶりとかじりついた。
頭の花を見て、餌だと思ったのか。異形ではあるが、こうも踏んだり蹴ったりだと、すこし可哀想だな。
ほかの花頭の女人が、こちらへ寄ってきた。
染井吉野はもう駄目だとあきらめたのか、かわりに私の案内役をすることにしたようだ。羽織りの袖を引こうと、細い手を伸ばす。
にゃおう、と低くうなるような、猫の鳴き声がした。
どこからともなく黒猫が現れて、私に触れようとした花頭の女人に飛び掛かっていく。
相手をひるませ、退散させたところに──。
後ろから、聞きなれた声がした。
「なぁ、みんな。藤堂がいないうちに、あいつが大事にとっといた水あめ、全部食っちまおうぜ」
一番星の、にやついた声だ。
背筋がぞっとした。瓶の中に隠しておいた水あめのことを、なぜあやつが知っている。
「それは絶対に許さぬ!」
私が大声で怒鳴りながら、振り向くと……。
頭上に、驚いた顔のソウゲンが見えた。
私は、あやつの研究室の解剖台に乗せられている。躯と間違えられて、今から解剖されるところだったのかと、一瞬ひやっとしたが。
聞けばソウゲンは、羅生丸に斬られて昏倒した私の命を救うために、夜じゅうそばについていてくれたそうだ。かわいそうな勘違いをしてしまった。
では私は、こちら側へ、またもどってきたのだな。死にぞこなったのか。
それとも、おかしな夢でも見ていたのか。
蛇に狐に、大男の気配。火薬のにおい。兎に黒猫……。最後は、食い意地のはった一番星の声。
色々な姿に変じて夢に出てきたあやつらに、命をつなぎ止められたのだろうか。
それはいいとして、最後は食い気で一命を取り止めるなど、武士として一生の恥。
このことは誰にも言わんでおこう。