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アテムとソロモン(2)
【3 半陰陽】
遊戯の母は週に一度、近所の友人が自宅で開いている料理教室に顔を出していた。ここ数日は、すこぶる機嫌が良かった。十代が同伴しているせいだ。
あの青年は実直で礼儀正しい反面、つかみどころのない気まぐれさを覗かせることがある。不器用な手をしているのに、どうして急に料理を始めるなどと言いだしたのだろう。
「遊戯が旅に出たときに、きちんとした食事をとらせてあげたいんですって」
「ボクのためなの」
「あの子は昔から、あんたに特別なついてたから」
母が言った。セロリの皮を削ぎ、匂いの強い葉を細かく刻んでスズキの身を漬けこんでいる。
「今日も十代ちゃんとデートだったの。若いとか綺麗だとか褒めてくれるから、結婚前に戻ったみたいでとっても刺激的だったわ。遊戯、あんたどうかしら。十代ちゃんを『パパ』って呼べるかしら」
遊戯はコーヒーを喉につめてしまい、読みかけの新聞を握りしめて咳きこんだ。
「勘弁してくれ。歳が違いすぎる」
「パパは家を空けてばかりじゃない。ママだって女よ」
カウンターに立った母は、耳慣れたアイドル歌謡曲をそらんじている。悩ましげなため息は、冗談ばかりでもなさそうだ。
「……ボク、シャワー浴びてくるよ」
恐ろしくなってきて、早々に居間から退散した。
浴室のガラス戸を開けると、脱衣所に流れこんでくる温もった空気の先で、先客が驚いた様子で遊戯を見あげてきていた。小さな水しぶきがはねる。十代は愛想笑いを作って、ミルク色の湯が満ちたバスタブのなかで立ちあがった。
「すまない。キミが先に入ってたって知らなかったんだ」
ばつが悪くなった遊戯は浴室に背中を向けた。そこへキッチンから母の無頓着な声が飛んでくる。
「遊戯、十代ちゃん。もうすぐ夕飯ができるから、ふたりでいっぺんに済ませてくれない」
「ママ。無茶だよ」
「『母さん』。昔みたいによ」
「ボクらもう小さな子どもじゃないんだぜ。うちの風呂はそんなに広くないし……」
冷たい指が遊戯の肘に触った。濡れて首筋に貼りついた暗い色の髪の束の間から、猫のような眼が覗いている。
「そのままだと風邪ひいちまいますよ。オレはもう済みましたんで。お先です」
十代の上腕をつまんだ。細い体躯が震えたような気がした。ろくに温まっていない。仕方なく肩を抱いて、再びバスタブに押し入れた。
「浸かっててくれ。シャワーを使わせてもらうけど、構わないよな」
「すぐに上がりますから」
「いいよ、いいよ」
しばらくの間、細かな水の粒が浴室の壁を叩いて排水溝に飲みこまれていく音だけが響いた。ぬるい湯気がまとわりついてくる。
十代は健康的な肌色をしていた。痩せてはいるが、引き締まったしなやかな筋肉がみずみずしい若さに張りつめていた。不思議な身体だ。肉体の天秤の左右に男と女のきざしが乗り、美しい水平に釣りあっている。
「えーと、背中流しましょうか」
気まずい空気を追い散らそうと、十代が明るい声を上げた。
「ああ、頼めるかな」
「アカデミアでもよくやってたんですよ。友達とか、熊とか」
「え。本物の」
「オットセイなんかもいたっけ」
十代は地熱で温められた湧水と、火山ガスのにおいがする湯煙、火照った肌を冷ましてくれる岩盤の心地良さに思いを馳せて目を細め、本校在学時代に起こった風呂にまつわるいくつもの事件を教えてくれた。
どれもが突拍子もなく、夢か幻でも見ているような不思議な体験だ。楽しそうに語る横顔に、無意識にだろうが、遊戯に向けた演技ではない素の部分が垣間見える。
十代が三年間を過ごしたオシリス・レッド寮の名物露天風呂は、大型の野生動物が何食わぬ顔をして訪れる森のなかの僻地にあったという。本土で暮らしていたころは想像もつかなかった数の星々の乳白色の奔流を仰ぎ見て、波のさざめきを聴きながら天然の温泉に浸かるのは、最高に気持ちが良かった。
本校校舎をはさんで島の反対側に位置する海辺には、墜落した円盤のような形をした温泉施設が建っていた。デュエル・アカデミアの生徒なら誰でも自由に利用することができたが、風呂の底には精霊界に通じるおかしな抜け道が空いている。その向こうの世界で、十代は海馬瀬人にそっくりな精霊に出会ったという。
「負けるのを怖がってくさくさしてたあの頃のオレに、負けて勝てって発破かけてくれたんですよ。世界にはもっともっと強い決闘者がいる、オレがびびって立ち止まっちまってる場所なんて、果てしない決闘の道のまだほんの入口に過ぎないって。〈カイバーマン〉のやつ、まるでテレビで見た熱血親父みたいだったな」
遊戯は既視感からくる笑いをこらえて、かなう限りに平静を装った。初代KCグランプリにおける親友の振舞いを思いだしていた。十代は本当に城之内によく似ている。
「あの男は十代くんが好きなんだ。彼なりにとても気に入っている」
「もしかして遊戯さん、カイバーマンと知りあいなんですか」
サンタクロースの伝説を無心に信じている息子に親がそうするように、遊戯は重々しく頷いた。
「じゃあ伝えてもらえませんか。次は勝ってみせる。そのふざけた仮面を全力でひっぺがしてやるって」
「存分にやってやれ。今のキミならきっとできるぜ」
遊戯はにやりとした。あの男の仏頂面が目に浮かぶようだ。たまには誰かに振りまわされてしまえばいい。
十代はいつもよりもよく喋る。はじめは照れ隠しだっただろうが、記憶の小箱の鍵をそっと開けて、思い出のカードを遊戯に見せてくれているうちに、似合わない気おくれは吹き飛んでしまったらしい。
南海の孤島での学園生活は、十代にとっては輝ける黄金よりもはるかな価値を持った宝になった。かけがえのない道しるべを手に入れたのだ。遊戯は素直に嬉しくなった。まだ少年だった彼にハネクリボーのカードを返し、デュエル・アカデミアの入学試験会場へ無事に送り届けたのが、つい昨日の出来事のようだ。
泡立てたスポンジで遊戯の背中をこすりながら、ふと十代が口をつぐんだ。もどかしそうな沈黙をまとって、ふやけた足の指を閉じたり開いたりしている。
「こういうこと、昔も遊戯さんにやってたんでしょうか。思い出せないんです。よく憶えてなくて」
彼の記憶もまた欠け落ちていて、完全ではない。失くした時間を探しながら、手さぐりで先へ進む人間だ。遊戯には、彼らの胸で不安そうに揺れる赤い蝋燭の炎が見える。かぼそい芯を手のひらで覆い隠して、小さな火を守ってやりたくなる。
悪癖だ。彼らの運命を憐れむ資格など、はじめから持っていない。
「無理もないぜ。とても小さかったんだ」
「どうかされたんですか」
十代が遊戯のかすかな異変を悟って、心配そうに首を傾けた。さすがだ。鋭い。内心舌を巻きながら、楽天家の笑顔を作ってごまかした。
「いいや。それよりも、キミは自分の身体の扱いは雑なんだから。きちんと洗えてるのか。背中は。ほらうしろを向いて」
「いや、遊戯さんにそんなことしてもらうわけには」
「いいから、スポンジを貸して」
あぶくだらけの手を肌の上に滑らせると、十二年前の十代はくすぐったがって甲高い笑い声をあげていたが、今は七つの子どものような無邪気な反応はしなかった。
羞恥から口を覆う仕草は、両脇に手を入れてバスタブの中から引っぱり上げてやった幼子のものではない。うなじと耳が赤く染まっている。閉じた歯列の隙間から、抑えられた呼気が零れていく。
遊戯はやりきれなくなって横を向いた。
「十代くん。あの、声」
「──す、すみません。ちょっと、くすぐったくて」
「そ、そうか。はは……」
いつもはあんなにうまく嘘をつくのに、下手なごまかし方をする。ふたりはぎくしゃくしたまま、バスタブのなかに座りこんだ。十代の薄い胸にふと手が触れたとき、綺麗な顔がかすかに歪んだ。
「どうしたんだ。痛むのか」
「なんでもないですよ」
「嘘は駄目だと言っただろ」
「ほんとに、平気ですって」
十代が怯えるように身じろいだ。こわばった笑顔。歪んだ水面の下で、ユベルの半陰陽を映した肉体が、ゆらゆらと揺れている。力強い線が、角ばった骨に沿って男の姿を描きだしている。膨らみかけの優しい未熟さを宿した女の形が隣りあって、左右非対称に融けあっていた。
傷や腫れは見つからなかった。思春期にさしかかった女性特有の成長痛かもしれない。
──遊城十代のなかの女が育ちはじめている。
十代は遊戯の困惑を知らずに、向かいあった硬い腹をもの問いたげに見ていた。前鋸筋のあたりからみぞおちの上にかけて、一本の線がはしっている。
「この傷が気になるのか」
十代は、臆面もなく傷痕を凝視していたことに、後ろめたさを感じているようだった。
「若いころの手術の痕さ。これだけはなかなか消えないんだ」
遊戯は、バスタブのふちに肘をついて微笑んだ。
なんでもないふうに聞こえていればいい。十代の指が、引き寄せられるように湯の中を泳いでいる。縫合痕に触れられるかと思ったが、そうはしなかった。
「母さんのお供は楽しかったかい」
遊戯は穏やかに尋ねた。十代はきょとんとしていたが、満面の笑みを浮かべた。
「とても。おばさん良くしてくれますから」
「そのうち、キミの手料理が毎日食べられる日が来るのか。楽しみだ」
十代は、なんとも言えない表情ではにかんだ。ぎこちなく立ちあがった彼に、湯冷めをしないよう忠告してから、ひとりになった遊戯は湯船のなかに鼻先まで沈んだ。
──もしもキミが、何の関わりもない普通の女の子だったら、この気持ちをボクにもわかる言葉にできたんだろうか。
十代は大人の身体に成長し、色づいた頬や耳や決して口にはしない本音を隠した寂しげな微笑が、彼を見守ってきた遊戯のなかに、思ってもいなかった感情の乱れを生んだ。
まるでこだまのように似通った思いつきをする十代も、今頃同じことを考えているのかもしれない。
もしも武藤遊戯が自分と同じ道を選んだ異物だったら、胸の中にわだかまる正体のない感情に、もっと簡単に答えを出せたのにと。
【4 友達】
亀のゲーム屋の店先から、ポーチライトと看板の灯りが消えるころ、〈アジアの決闘女王〉の異名を持つ昔馴染みが訪ねてきた。ヴィヴィアン・ウォン、初代KCグランプリではレベッカに敗退したが、最強の決闘者のひとりとして海馬に選ばれるほどの実力を備えている。
「会いたかったわ。離れている間も、ずっと遊戯のことを考えていましたのよ」
ヴィヴィアンはふたつのシニヨンを飾った頭を遊戯の胸に預け、露骨な媚態を作ってしなだれかかった。ファーコートの合わせ目から、縁取りつきのチャイナドレスが覗いている。
今期の予選大会に出場する決闘者のリストに名前が登録されていたから、何を望んで遊戯のもとを訪れたのかは見当がついた。過去に遊戯は双六をだしにされ、彼女と非公式の決闘を交わしたことがある。
「わかってると思うけど、ボクは今は闘わないよ」
「相変わらずつれない人」
ヴィヴィアンはそう残念そうでもなく密着させていた身体を離し、使いこまれた庭箒で歩道を掃き清めていた十代のほうへ興味を移した。
「かわいらしいアルバイト君を雇ったのね。ぼうやのお名前を聞かせて」
「十代です。遊戯さんの知り合いなんですか」
「私の顔を知らないようじゃ、まだまだね。あなたの雇い主のお友達よ。それも、とても親密な間がら」
ヴィヴィアンは、若い青年の手の甲を指でくすぐった。過去に双六に施した、狙った獲物に近しい人間を籠絡するやり口だ。遊戯は十代の肩を引いて、性質の悪い誘惑から遠ざけた。店じまいを待って武藤家に押しかけてきたレベッカが、玄関先に宿敵の姿を認めて甲高い罵声をあげた。
「なにしにきたの、アンタ。ユーギはワタシのダーリンよ。年増女にはなびかないわ。あんまりつきまとうと承知しないから」
「おちびちゃんったら、性懲りもなく遊戯にまとわりついてるの」
膨れっ面のレベッカに、ヴィヴィアンも舌打ちで応える。ふたりの女は、初めて相対したときから折りあいが悪く、顔を合わせれば衝突は避けられない。
女のむき出しの独占欲をぶつけあう闘いが始まった。遊戯は唾を呑み、十代も恐ろしそうに首をすくめている。
弱りきっていると、店のなかからだらしなく顔を緩ませた双六が飛び出してきた。若いころは名うてのギャンブラーとして世界中を渡り歩いていたそうだが、不純なにやけ顔に伝説の面影はない。
「ワシが呼んだんじゃ。ヴィヴィちゃんのマッサージは絶品じゃからの」
「じーちゃんって、本当にこりないよね」
年とともに自制心を失い、女癖の悪さと助平心だけが残った双六を見ていると、昔の祖父にそっくりだと言われている遊戯は気が重くなる。数十年後の自分が同じ轍を踏んでいないことを、心から祈った。
遊戯は殺気立ったふたりの女の間に割って入り、店の扉を指した。
「外で立ち話もなんだし、家に入って。このままじゃ風邪をひくぜ」
「じゃあオレ、温かい飲み物でもいれてきます」
ほっとした様子の十代が、箒とちりとりを片付けて軽い敬礼をする。左右対称に整えてやった赤いエプロンのリボンが、ジーンズの尻の上で揺れながら裏口へ消えていく。レベッカが眼鏡のレンズの向こうで、訝しそうにまばたきをしている。
「今の男の子、この間も家にいたよね。誰なの。どこかで見た気がするんだけど」
「良くも悪くも最近の子って感じ。なよなよしてて頼りないわ」
ヴィヴィアンが興味もなさそうに言った。
「ボクのいとこなんだ」
「物腰も落ちついてるし、どこの国の王子様かと思っちゃった。さすがは遊戯のいとこね」
遊戯に追従するヴィヴィアンを無視して、レベッカは不審そうに遊戯のセーターを引っ張った。
「レベッカも十二年前に会ったことがあるよ。ハネクリボーのマスターだ」
レベッカの顔が、みるみるうちに歪んでいく。見開かれた淡い色の瞳に、彼女らしい率直な怒りを浮かびあがらせていた。
「十代くんは悪い子じゃない。ボクが保証するよ」
「なに言ってるの。どんな調子のいい嘘を並べたか知らないけど、危険すぎるわ。すぐに追い出すべきよ。あの化け物が改心するような殊勝なやつなんかじゃないこと、ユーギが一番知ってるじゃない」
レベッカが叫んだ。モクバと同じで、十代の無害さを信じられないでいるのだ。蚊帳の外に置かれたヴィヴィアンが憮然としている。
ドアベルが鳴った。訪問客に気を取られて、店の入口にクローズの札をかけ忘れていたようだ。祖父が書いた童実野町のガイドブックを携えた外国人が、わずかな逡巡の気配とともに、亀のゲーム屋の店内を窺っていた。
「すみません。まだ開いてるのかな。誰かいますか」
流暢な日本語を話す青年だった。ケーブル編みのセーターを着ているきりで、真冬の夜にはずいぶん心もとない恰好だ。ショーケースに展示された数々のレアカードに目をとめると、宝石を思わせる不思議な色の虹彩を輝かせた。
双六が愛想よく青年を迎えに出た。
「いらっしゃい。外人さん、どこから来たんじゃ」
「俺、欧州デュエル・カレッジの生徒なんだ。ガイドブックに載ってた武藤遊戯の実家って、ここかな」
「そうじゃよ。せっかくはるばる日本まで来てくれたんじゃ。気の済むまで見ていくといい。お茶でも飲むかの」
「ほんと。ありがとうお爺さん」
青年がはにかんで笑った。双六は面食らったようだった。彼の笑い方は十代にそっくりなのだ。
「ねぇ、お爺さんが〈童実野町デュエルガイドブック〉を書いた双六さんなの」
「いかにも。ありがたいことに、その本を読んだ学生さんが、よく家を訪ねてきてくれるんじゃ」
「さすが決闘の聖地だけあって、この街は伝説だらけで感動したぜ。サイン欲しいんだけど、いいかな」
青年が観光ガイドブックを差し出した。快く引き受けた双六を、色めきたって飛び出したヴィヴィアンがつきのけた。
「宝玉獣のヨハンじゃない。ヨーロッパ大会の表彰式で、あなたの顔を見たわ」
「そうだけど」
双六のうしろから青年をしげしげと眺めていたレベッカが、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。初対面から彼女のお眼鏡にかなう決闘者は、そういない。
「へえ。ヨハン・アンデルセン。アンタがペガサスにひいきされてるっていう男の子なの。幽霊なんかがワタシのダーリンと並ぶ決闘者だなんて、十年早いのよ」
「レベッカだね。知ってる、きみの全米チャンピオン時代の映像を見たことがあるんだ。堅実でぶれない戦略はさすがだった。きみのデッキと俺の宝玉獣、どっちが強いか試してみたいな」
ヨハンが言った。レベッカの瞳に挑戦的な光がきらめく。
彼女の性格では、決闘大会の裏方役にはそろそろうんざりしているはずだ。公式戦においてはまだデータが少ないヨハンの実力を、手ずから試してみたいと考えたのだろう。
ヴィヴィアンは、獲物へのアプローチをことごとく台無しにするレベッカが腹に据えかねたようだ。金髪頭に毒づいてから、猫なで声を出してヨハンを誘惑しはじめた。
「おちびちゃんなんて脇へどけて、私たちは現実的な話をしましょう。ヨハン、お姉さんとタッグを組みましょうよ。あなたみたいに将来有望な美青年なら、うんとサービスしちゃうんだから」
「おばさんはここの人なの。それなら、レオンってやつ知らないかな」
ヴィヴィアンが嬌態を凍りつかせた。ヨハンはくもりのない目をしている。
「そうそう。みっともない真似はやめて。年を考えてよ、おばさん」
面白がったレベッカがはやしたてた。ヴィヴィアンの眉間に深い怒りの皺が浮きあがり、真っ赤な唇が攣って犬歯がむきだしになる。
「私が、おばさんですって」
「あいつって、ちょっとびっくりするくらいのお坊ちゃんでさ、いろんなものを珍しがってふらふら歩くから、いつもはぐれちゃうんだ。ここへ来る途中まで道案内をしてくれてたんだけど──」
容赦のない平手打ち。
「いってぇ!」
「なにが宝玉獣よ。ちょっと周りにちやほやされてるからって、いい気になってんじゃないわよ。話も通じない子どものお守りなんて、こっちから願い下げだわ」
ヴィヴィアンが肩をいからせて、夜の童実野町へと消えていく。双六はヴィヴィアンの色仕掛けにも眉ひとつ動かさないヨハンに、驚愕の表情を浮かべている。
「ねえヨハン。アンタの言うレオンって、ヨーロッパ大会で二位だった、シュレイダー社の副社長のことかしら」
「そうだよ。幼なじみさ。あいつのほうがちょっと年上なの。俺は十九。カレッジの一年生」
「ほう、レオンくんと仲が良いのか。ヨハンくんはうちのと同い年なんじゃの。アレもまったく色気より決闘でな。ワシが若いころには」
「じーちゃん、その話は長くなるから」
双六を押しとどめて、遊戯はヨハンの神秘的な光り方をする瞳に微笑みかけた。
「ヨハン・アンデルセンくんだね。レベッカやボクの仲間から、キミの噂はよく聞いている」
「決闘王。お会いできて光栄です」
ヨハンは急にかしこまって背筋を伸ばした。興奮とリスペクトの意思が、痛いほどにぶつかってくる。
「サインください。ぜひ俺と決闘を……と言いたいところだけど、遊戯さんとの対戦権はグランプリ優勝者のものだ。しばらくおあずけです」
「勝ち残るつもりかい」
「もちろん」
ヨハンは確信をもって頷いた。彼の自恃の根拠は、共に闘うデッキへの深い信頼にある。好ましい姿勢だ。遊戯は目を細めた。
「頑張ってね。ボクもぜひキミと決闘してみたいと思ってたんだ。ただ、今回のイベントで闘えるかはわからないけど」
「どうしてですか」
「そりゃあワシの孫が参加しとるからじゃよ。ふたりめのな。滑りこみじゃが、今回の本戦に出るようじゃ。あの子は強いぞ」
双六が言った。ヨハンは意外そうに目を丸くする。
「遊戯さんに弟がいたんですか」
「妹夫婦のところの子でな、コレのいとこになる。アカデミア本校を卒業したばかりじゃよ」
「本校にそんなすごいやつがいたなんて聞いたことないけど。なかなか興味あるな。その子、どんなデッキを使うのか楽しみだぜ」
ヨハンがにやりとした。未知の相手との決闘に心からの喜びを見出す性質もまた、十代と重なるものだ。
カウンターの奥から、甘い香りが漂ってくる。キッチン用のエプロンをつけた十代が、トレイに赤いマグカップを五つ載せてきた。
「どうぞ。ホットレモネードを作ってみました」
柔らかい湯気が頬をくすぐり、冷えた身体に甘酸っぱい熱さが染みこんでくる。蜂蜜のやさしい舌ざわりが懐かしかった。子どもの頃に幾度も飲んだ味だ。
「おいしい」
「今、おばさんに作り方を教えてもらったんです。レモンと砂糖と蜂蜜が、スプーン一杯ずつ」
「アンタ。いい子ぶったりして、どういうつもり」
十代は、レベッカに隠そうともしない敵愾心を向けられて、接点の少ない彼女に突然嫌われた理由を知らずに面食らっている。しかし新しい来客に目をとめると、チョコレート色の髪が空気を含んで嬉しそうに膨らんだ。
「ヨハン。驚いた。日本に来てるならそう言えっての」
「十代こそ、旅から戻ってたなら、ひと言よこしてくれよ」
「なんでもいいさ、またおまえに会えて嬉しいぜ」
十代の横顔が柔らかく緩んでいく。ヨハンからもまた、彼が心の表面に下ろしたおとぎ話の舞台の幕ごと、よそ行きのマスクと台詞が剥ぎ取られていく。
ふたりは外を駆けまわったあとの子どものように頬を紅潮させ、お互いの右手を強く握った。
「どうしたんだ。ほっぺたに痛そうな手形がついてるぞ」
「理由はわからないけど、チャイナ服を着た女の人にひっぱたかれたんだ。ちくしょう、遊戯さんの実家でアルバイトだなんて、羨ましすぎるぜ」
ヨハンが、カップから立ちのぼる湯気を吹いて冷ましながら、熱いレモネードを一口飲んだ。
「これ、うまい。おまえがいれたのか」
十代が、かすかな悪意を含んだ得意そうな表情で顎をそびやかした。ヨハンの腕をとって、双六の前へ引いていく。
「じーちゃん。こいつ、オレの親友のヨハン。アカデミアでいっしょだったんだ。すっげー強いんだぜ」
「そうか、そうか。ヨハンくんや。これからも十代と仲良くしてやっとくれ。この子がうちに友だちを連れてくると、ワシも遊戯も嬉しいんじゃ」
双六は十代に友達が増えたことを心から喜んで、目が細くなっている。
十代は電飾看板を店内のショーケースの脇まで引きあげてマットを上げ、帳簿を確認して店の明かりを落とした。
「ヨハンを宿まで送ってってくる。こいつ、ひっどい方向音痴なんだ」
「夜の童実野には気をつけるんじゃ。観光客を狙う不埒な輩が多い。ましてや、ヨハンくんは有名人なんじゃろう。きちんと守ってやるんじゃぞ」
「わかったぜ、じーちゃん。大丈夫だよ」
「早めに帰るんじゃよ。ママが心配するからの」
レベッカは十代と、彼と親しくしているヨハンをあからさまに軽蔑している。
「あんたたちなんか、オカマ野郎のくそったれホモだわ。どこかへ行って。二度と帰ってこないでよ」
「レベッカ。あまり汚い言葉を使わないほうがいいよ」
「知らない。ダーリンはいつも、そいつばっかりひいきしてる」
レベッカは完全に臍を曲げてしまった。遊戯から顔をそむけている。
「じゃあ、十代を借ります。双六さん」
楽しそうにじゃれあいながら住宅街を早足で歩いていくヨハンと十代の後姿は、まるで仲の良い兄弟だ。闇の向こうで、ヨハンが少女のようなトーンの高い声で笑った。
「旅の話を聞かせてくれよ。十代のことだから、また楽しい決闘をたくさんしてきたんだろ。しばらくは日本にいるのか」
「今は、遊戯さんの家で世話になってるんだ」
「いいなぁ。さっきの十代とあの人たちってさ、まるでほんとの家族みたいだったぜ」
十代は喉が詰まったような声で、「うう」とも「ああ」ともとれない奇妙な返事をした。かすかにまじりこんでいる罪悪感の気配が、星のない冬の夜の空気に溶けて立ちのぼっていった。
【5 レベッカ】
レベッカ・ホプキンスが赤いクーペから降りたとき、灰色のまだら模様の雲が、潮気を含んだ雪を地表に吹きつけていた。
目当ての建物は、凍りついたアルミのプレートが外壁に掲げられている。〈国際考古学研究センター〉。
オフィスに入ったレベッカを、電話口で聴いた声の男性研究員が迎えた。
「お待ちしておりました。ホプキンスさん。お目にかかれて光栄です」
名刺と無遠慮な目つきを押しつけられ、我慢がならなくなって睨むと、男は凍てついた愛想笑いの顔のままで詫びた。
「すみません。まさかこんなに若い方だとは思っておりませんでしたから。娘さんと聞いていたので」
「アーサー・ホプキンスの孫よ」
レベッカはそっけなく答えて、耳当てに付着した雪を払い、おろしたてのコートが濡れていないかどうかを念入りに確認した。泥のついたブーツを履いていたとしても、自分が充分に魅力的であることを知っていたが、ホプキンス家の女はどんなときでもはりねずみのように注意深くなければならない。
「あなたのお祖父様より、中東へ向かうと連絡があったのが最後です。調査隊は消息を絶ちました」
古代遺跡の発掘調査に出かけた祖父が行方知れずになった。三十分前にセンターから連絡を受けたばかりだ。
「よくあるの。祖父はいつも何食わぬ顔をして帰ってくるわ」
ハーフリムの位置を指で直して、レベッカは言った。『グッドバイ』を言わなければ祖父は必ず帰ってきたから、ふたりの間の暗黙のルールを信じて、レベッカは冷静だった。少なくとも意識の上では。
「もっと詳しく教えて」
「遺跡から北西八キロメートルのところにある町で、教授を見かけた者がいます。モニタールームにお越しください。現地の担当者にお繋ぎします」
レベッカは入館許可証に名前を書きこんだ。研究員はそれに〈T.O〉と刻印された万年筆でサインを入れて、ボードを脇にはさんで歩きだした。空気が動いたとき、彼はレベッカの金髪についた硝煙のにおいに気がついて、用を足したあとに手を洗わない人間を軽蔑するような目をした。かちんときたが、誰かに不満をぶつける気分ではない。
研究員は作り物じみたモンステラの鉢の前で一度足を止めて、レベッカに振り向いた。そこで相手の顔を初めて見た。まだ若い。進学したての大学生にも見える。
彼の目は嘘つきの目だとレベッカは直感した。あといくつか年を取れば、木々が実をつけるように、陰湿さと姑息さが顔じゅういっぱいに生るだろう。
今のところは神経質に櫛を入れた前髪を柔軟な面の皮の上に垂らして、いかにも生真面目そうな微笑を浮かべていた。経験豊富なペテン師の目つきだけが、宙に浮いている。
「教授のことは大変残念でした。お悔やみを申しあげます」
「おじいちゃんは無事よ。どいて、ファッキン・ニップ。あんたにもう用はないわ」
レベッカは喉の奥で低く唸って、相手を押しのけた。モニタールームは、事務机が玩具の組み立てブロックのように隙間なく並び、薄暗い闇の中でリースのパソコンが無機質な明滅を繰り返していた。
キーボードをまさぐって回線を開く間にも、指に染みた火薬の臭いがした。レベッカは本社の射撃訓練場に足しげく立ち寄っている。子どもをひとり撃つ覚悟とともに。
──ううん、あいつはもう子どもじゃなかった。
遊城十代とかいう名前の、反吐が出そうなくそったれのハネクリボーのマスターが、何食わぬ顔をして再び遊戯の隣に現れた。
海馬モクバが十代を赦しはじめていると言ったのは、遊戯のいつものオプチミスティックに違いない。それとも、悪名高きボルジア家の人間が数年がかりで敵にカンタレラの粉を盛ったように、十代が海馬コーポレーションの副社長に得体の知れない小細工を用いたのかもしれない。
レベッカは親指の爪を噛んだ。祖父が帰ってきたら必ず十代の企みを暴いて、遊戯を騙した報いを与えてやる。
レベッカは無人の小部屋にひとりで立っている。そばにいた研究員の姿が、物音のひとつもなく、空気に溶けたように消えてなくなっていた。
突然肩の後ろから腕が伸びてきて、レベッカの口を塞いだ。全身のうぶ毛が逆立つ。男の腕だ。色が黒くて太く、筋肉質で、毛むくじゃらだ。
レベッカをこの部屋へ案内したひよわな研究員の腕ではない。唇に触れている手のひらが、かすかに汗ばんで濡れていた。レベッカは恐慌に叩き込まれた。肩から先の腕だけが、病的な青い光を放つモニターから突き出している。
昼過ぎになって遊戯が起きだしてくると、母親はちょうど昼食の準備に取りかかるところだった。十代も隣に立って、まだそう身に馴染んでいない味噌汁の湯気を嗅ぎながら、フライパンの上でハムエッグを動かしていた。油がはねる音。母親がいつまでもベッドにしがみついていた遊戯を睨みつけた。
「いま何時だと思ってるの。あんたが家を出ていってもう随分経つけど、普段からこんな時間に起きてくるわけ」
「オフの日なんだ。寝かせてくれよ」
「遊戯さんって、昔から朝がだめなんですか」
「ぜんぜんよ。十代ちゃん、火を止めて。卵はそのくらいの固さが好きなの」
「はい」
母親は冷蔵庫から昨日の夕食の残り物のマカロニサラダを出し、十代とふたりにしかわからない料理教室の話をはじめた。当てつけだ。のけ者にされた遊戯は肩をすぼめて、くるみ入りのブレッドを切り分けてトースターに並べた。
「昨日、学校のお友だちが訪ねてきたんだって?」
母が言って、大きさがまちまちなマグカップを十代にまわした。
「ええ、偶然。ヨハンって言って、アカデミアの留学生だったんです」
十代は電気ポットの湯でカップを温め、遊戯がミルで豆を挽いている間に砂糖壷とコーヒーフレッシュをテーブルに用意した。
「なあんだ。男の子か。てっきり彼女ができたのかと思っちゃった」
十代が笑った。
「ないですよ。そういうのは」
「本当かしら。十代ちゃんは年上の人が好みなんじゃないかって、ママ思うな」
「母さん」
遊戯は猫なで声を出す母親をたしなめた。うっすらと頬を赤くした十代が、ほんの一瞬だけ遊戯のほうへ視線を投げかけてきた気がした。
三人でテーブルを囲んで手をあわせる。何十年も昔から、この穏やかな営みを繰り返してきたかのような気分だった。
「そのお友だちはどこの国の子なの」
「ヨーロッパにある分校から来たんです。なんでもできるしっかりしたやつですよ。あいつには初めて会ったときから世話を焼かれっぱなしで、まるで双子の兄貴ができたみたいな気がするときがある」
「負けてられないわね遊戯」
遊戯は渋い顔で、一昨年のビンゴ大会で当てた海馬コーポレーション社製のステンレスのコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「十代ちゃんから見てどう。ヨハン君はイケメンなの」
「母さん。悪い癖だよ」
十代は頷いた。
「オレ、写真持ってますよ」
十代は携帯を開いて、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレの船着場の前で、鉛筆のような鐘楼とドゥカーレ宮殿を背景に、色違いでお揃いのシャツを着た親友と並んで立っている画面を見せた。どちらも半袖だった。前の夏に起こったペガサス暗殺未遂事件の前後に撮ったものだ。
「きれい」
遊戯の母親は、無垢な生命を宿した西洋の美術彫刻を思わせるヨハン青年を、一目で気に入ったようだった。
「待ち受けにしてるのね」
「お守りに。あいつ、いつもオレのこと助けてくれるから。初めてできた親友なんです」
「いいことだ。友だちは大切にするんだぜ」
十代が機嫌を良くしてはにかんだ。
遊戯のポケットの奥で、携帯電話が震えはじめた。誰だろう。ディスプレイが薄緑色に発光し、知らない番号が浮かびあがっている。
回線を繋いだとたん、悲鳴に似た風の音が鼓膜にぶつかってきた。派手なノイズだ。時折、メトロノームのように規則正しい、かちかちという車のワイパー音が混じる。
『武藤さんですね』
聞いた覚えのない男の声が、遠くから響いてくる。
『こちらは童実野病院です。レベッカ・ホプキンスという女性をご存知でしょうか』
「ええ、よく。レベッカがどうかしたんですか」
『彼女、先ほど当院に運ばれてきたんです』
遊戯は窓の外の、猛烈に冷えこんだミルク色の世界をあおいだ。
『レベッカさんはあなたを必要としています、武藤遊戯さん。今すぐに。お待ちしていますよ』
音が引きちぎれるようにして途切れた。
遊戯はすぐに壁にかけていたダウンコートを羽織った。しばらく使っていなかった防水トレッキングブーツに足を突っこむ。
吹雪の日に街をうろつくなんて正気じゃないと非難する母親を受け流して、玄関の扉を開けた。白くけぶった道路から乾いた雪が舞いあがり、肺が凍りつきそうなほどに冷たい風に運ばれて、ホールに忍びこんできた。
昼食の片付けを中断した十代が、エプロンをつけたまま遊戯のあとを追ってくる。
「どちらへ。お供します」
「童実野病院から連絡を受けた。レベッカになにかあったようだ。十代くんは家にいてくれ」
「オレがお役に立てることはありますか」
「すまないが、母さんを頼む」
遊戯は十代の肩を叩いて、武藤家を出た。
慣れない雪道を、向かい風に顔を叩かれながら歩くのは、思った以上に骨が折れる。半端ではない寒さで、視界はミキサーの中で踊るバナナジュースのように濁っていた。遊戯が童実野病院にたどりついたころには、フードの裏側まで真っ白になり、全身に重い湿り気がまとわりついていた。
病院の屋内駐車場で、見覚えのある赤いクーペが、無人の車に囲まれて孤独なうなり声をあげていた。レベッカがデッキの次に大切にしている車だ。エンジンを掛けたまま放置されている。しかも、キーを突き刺したまま。
遊戯はクーペのキーを抜き、エントランスでコートを脱いで雪を払った。
院内は静かだった。いつもきびきびと歩き回っている医師たちの姿が見えない。受付の若い看護師が、パイプ椅子に座ってうたた寝をしていた。
よほど深い眠りに落ちているようだ。何度声をかけても目を覚まさない。死体みたいだ。
遊戯は諦めて、かび臭い廊下を歩き出した。
童実野病院の関係者を名乗る人間からかかってきた電話は短く不明瞭で、レベッカになにがあったのかを、うかがい知ることはできなかった。
レベッカが今すぐに遊戯を必要としていると、抑揚のない声で教えてくれた男は誰だったのか。名前すら聞いていない。彼女はどこへ運ばれたのだ?
とある病室の前にさしかかったとき、子どもがいたずらを企むときによくする、空気を引っかくようなささやき声が扉の奥から聞こえてきた。
三〇二号室。病室の扉は僅かに開いていて、蛍光灯の明かりが細く漏れている。
プレートに『レベッカ・ホプキンス』の名前が記されていた。
「いるのかい、レベッカ」
扉を引いた。
蠅が羽を震わせるのに似た低い音がして、ポップコーンマシンの中心で踊るとうもろこしのように世界が弾けた。眩暈がする。病院の白い天井と壁が、こねまわされる粘土さながらにねじれて伸びていく。
蛍光灯の弱々しい点滅音が、原始の木々が体を揺さぶるざわめきに変質する。空気はかすかに塩気を含み、遠い汽笛の音が聞こえてきた。
まばたきをする間に、童実野病院は跡形もなく消え去ってしまった。
遊戯は苔が生えたぼろぼろの城のなかに立っていた。何千年も前に住人に放棄され、これから消え逝く化石の胎内に。
穴の空いた天井から降り注いできた砂粒が肌を叩き、この見知らぬ世界が白昼夢やソリッドビジョンシステムが生んだまぼろしではないのだと教えてくれる。
わずかに風が動いた。空へ飛び立ったうみねこたちが、一斉に鳴き声をあげた。
すぐそばにレベッカがいる。遊戯が探していた彼女は書架の前に立ち、古い本を手に、長い金髪を鬱陶しそうに耳にかける仕草を繰り返している。
彼女はいつもどおりに見えた。顔色はよく健康そうで、どこにも怪我は見当たらない。緊張がほどけていく。
「レベッカ。無事で何よりだ。何が起こったのかわからないけど、すくなくともキミに会えて安心したよ」
レベッカが振り向いた。
彼女は凍った卑屈さに顔を歪ませて、まるで初めて出会った日のように、悪意をこめて遊戯を睨んだ。
「まったく、おまえの顔を見あげる日がくるとは」
赤い唇からこぼれた声は、見知らぬ老人のしわがれたうめき声だった。
「驚かせたかね。レベッカ・ホプキンス女史に関しては、この肉体が正真正銘そうだ。中身は私の与り知るところじゃない。おっと、決闘はなしだよ。世界最強の決闘王に闘いを挑むようなリスクは、二度とごめんだ」
レベッカの姿をした誰かは、毛を逆立てた猫をなだめるような声を出した。
「誤解しないでほしいが、この女をはめたのは別の人間だ。私ではないよ。女の肉体を嫌がったんだ。あの男は女性蔑視の気概が強くてね、困ったことに。同性愛者ではないかという噂もあったくらいだよ」
「キミは誰だ。どうしてレベッカの姿をしている。本物はどこだ?」
「さて、いまごろは零と一の世界を永遠にさまよっているんじゃないかな。そう怖い顔をするな。私は、おまえにゲームで関わるべきではないと、骨身にしみて理解しているんだよ。病人が格闘家に挑んで腕を折られるようなものだ。しかし、そこにひとつの真実がある。武藤遊戯は決闘のほかには無用の長物だ。とある近代の啓蒙思想家の言葉を借りると、いわゆるカードの問屋、飯を食うルールブックに過ぎない」
レベッカのなかの誰かは、長くかぼそい息を吐いた。
「無力なおまえを痛めつけてやりたいのはやまやまだが、残念ながら手が出せない。そういう取引なんだ。それでもおまえをいたぶる方法は、いくらでも見つけられるがね」
石の壁に、童実野町の雪景色を映した光のパネルが浮かんだ。やまない風雪の底に佇む武藤家を、様々な角度でとらえている。空っぽの子ども部屋。黄色い光があふれる窓。
グルメもののバラエティ番組を見ながら談笑する、遊戯の母親と十代の姿。
「近しい者が苦しむ姿は、人間に多大な痛みを与える。驚くべきことだが、あの冷血な海馬瀬人でさえそうだった。私はおまえが奴に与したせいで、本当にひどい目に遭わされたんだ。うさばらしをさせてもらうくらいは、誰にも咎められんだろう」
「家族に手を出したら許さないぜ」
遊戯は言った。自分でも驚くほどの冷ややかな声だった。
レベッカの中の誰かは、わずかにたじろぐ素振りを見せたが、涼しい顔を取りつくろい、武藤家でくつろぐ二人を不憫そうに見つめた。
「連座する羽目になったおまえの家族は辛いだろうが、恨むなら愚か者と分けあった血を恨んでもらうほかにない。胸のすくようなみじめな末路を迎えることになる身内を、指をくわえて見ているがいい」
言葉の端々に、肉のあるものへの異様なまでの嫉妬が滲み出ている。
実体がないくせに、誰よりも肉体の檻に心を捕らえられている。彼はおそらく、身体を失くして初めて、持たざるものの痛みを理解したのだ。それは、干上がった沼地に取り残された魚の悲哀に似ている。甘ったるくやるせない、嘔吐をもよおさせる腐敗臭だ。
遊戯の記憶の世界にも、同じ臭いのする人間が幾人かいた。彼らの顔を順繰りに思い浮かべていくうちに、レベッカに寄生した相手の正体に思い至った。
その男は、かつて海馬コーポレーションの重役グループに所属していた。海馬瀬人に見捨てられた〈ビッグファイブ〉のリーダーを務めていた。企業買収を得意とし、『妖怪』の異名を持つ男。
名前を大下幸之助といった。
「〈ビッグワン〉だね。キミは。覚えている」
遊戯は若いころに、はげ頭と不自由な足を捨てて、モンスター〈深海の戦士〉の姿を得た彼と一戦を交えたことがある。くだんの事件では、わがままな子どものおもちゃにされた挙句に、データ化した人格を消滅させられたはずだ。
目の前にいる大下が、肉体への執念で生き延びた当人の魂なのか、複製された思念のかけらなのかは知れない。彼個人の真贋はどうあれ、向けられた逆恨みに限っては本物だった。
「まだキミのところの社長を恨んでるのか。あれから、とても長い時間が過ぎたぜ」
「我々は、おまえたちのような忘れっぽい脳みそを失った。おかげであれから忘れたものは、忘却という言葉ひとつだけだ」
大下が言った。遊戯は心の底から同情した。
「それは大変そうだ。ボクには、忘れたいことがたくさんあるからね」
「肉の重さに引きずられているよりは、ずっと快適だよ」
そう言いながら、男はもの欲しそうな目で遊戯をじろじろと見た。
「では、すばらしいショーを観賞してくれたまえ。私は失礼するよ。取引先との契約を果たさねばならんのでね」
大下はレベッカの腕をかざして、彼女が祖父から誕生日に贈られた、金細工つきの腕時計を覗いた。
「知っているかね、遊戯。人は、その過ちの形を観察することで本質を知ることができる──中国春秋時代の哲学者はそう言ったそうだよ。愛情が強すぎて間違いを犯すものもいれば、生来の残忍さで罪を重ねるものがいる。武藤遊戯がどちらのタイプなのか、私がここで言うまでもないな」
大下が、腐敗した魚の臭気とともに吐き捨てた。
「身の程をわきまえない殺人者め。あの方にかわって、我々がおまえを裁く」
雨が降り始めた。青臭い水のにおいが徐々に濃くなる。大地そのものがうごめいているような鳴動が、靴の裏に伝わってくる。
レベッカの姿をした老人は霧のむこうに消え去り、遊戯は古城にひとりきりで取り残された。
【6 心配】
水滴がついた童実野町の雪景色に、黄みを帯びた光が灯りはじめた。
遊戯はまだ帰らない。十代は、つけっぱなしのバラエティ番組から流れてくるにぎやかな作り笑いを背中の後ろで聞きながら、濡れた窓ガラスに額をつけた。
「ソファに座って、お茶でも飲んだら」
伯母が二人分の熱いほうじ茶をいれて、窓の前から動かない十代に優しく声をかけてくれた。
「遊戯が出かけたきり戻らないのはいつものことだから、気にすることないわよ。おじいちゃんに似てるでしょ。小さいころからおじいちゃんっ子だったから」
「じゃあ、いただきます」
十代はテーブルにつき、お茶請けのかりんとうの袋をあけた。遊戯の幼少期の話を聞くと、不思議な気持ちになる。
「遊戯さんも誰かに守られて、子どもから大人に成長したんですね」
十代には、それがとてつもなく驚くべきことのように思えるのだ。伯母がおかしそうに笑った。
「十代ちゃん、昔からお兄ちゃんを買いかぶりすぎよ」
「小さいころのオレって、どんなだったんですか」
「聞きわけがよくておとなしい子だったわね。遊戯も飽きっぽい性格にしては珍しく面倒見がよくて、そうそう、あの子、十代ちゃんのおしめを替えてあげたこともあったっけ」
「お、おしめ?」
動揺するあまり、うっかり湯呑みを倒してしまった。こぼれた茶がトレーナーに染みこんで、十代は熱さと羞恥にもだえる。
「大丈夫? やけどしてないかしら。すぐにタオルを持ってくるから」
「い、いえ、すみません。大したことないんで。それよりおばさん、おしめってあの、赤ん坊が使うおむつのことで合ってますか」
十代は、顔を引きつらせながら訊ねた──なにかの比喩だろうか?
「そうだけど」
彼女はあっさりと頷いた。
「いったいどういう状況なんです。そこのところ詳しく」
「七つのときに事故に遭って、童実野病院に入院していたことは覚えてる?」
「え。オレが」
「忘れちゃってるわよね。あのときの十代ちゃん、とっても小さかったもの。頭を打って大変なことになってたのよ。トイレもひとりで行けないくらい」
──事故。頭を打った。入院。
高いところから落ちたのだろうか。それとも車にでも轢かれたのか。まるで覚えがない。どこまでも欠陥品の記憶力だ。
「恥ずかしがらなくていいわよ。心配しなくても、ママも遊戯も仲良しのヨハンくんに言いふらしたりしないから」
伯母はそう言って、取り乱す十代を慰めてくれた。しかし十代にとっては、憧れの決闘王の前で取り返しのつかない醜態を晒したことになる。泣きそうだ。
電話が鳴った。伯母が立ちあがる。
「もしもし。あらモクバくん。ごめんね、遊戯は出かけてるの。こんなひどい天気の日にどこへ行ったのやら」
海馬モクバは、殺人的なスケジュールの上を綱渡りで歩くような生活を送っている。彼が遊戯の家に電話をかけてくるのは、十代が知る限り初めてだった。
気まぐれや雑談が目的だとは思えない。十代は遊戯の母親から受話器を譲り受けた。
「おばさん、かわります。──モクバさん。オレです。なにかあったんですか?」
電話口に吹きかけられた吐息に、思案の気配があった。
『おまえか、十代』
モクバが、初めて会ったときよりはいくらかやわらいだ声で言った。
『レベッカがそっちに行ってないか。連絡が取れなくなったんだ』
「さっき、その人のことで童実野病院から遊戯さんに電話があったらしいですよ」
『なんだって。事故にでも遭ったのか』
十代は、強い向かい風に逆らい、傘を諦めて家を出て行った遊戯の背中を思い浮かべた。
「わかりません。遊戯さん、かなり急いでるみたいだったけど」
『聞けよ、レベッカのじーさんがすこし前から行方不明になってる。レベッカは、見た目は平気そうなふりをしてたが、じーさんにべったりの彼女がショックを受けてないわけがない。一番に遊戯に相談するかと思ったけど、そうはしなかった。なんでか知らないが。十代、遊戯に連絡はつくか?』
「すぐにかけてみます」
携帯電話に登録してある遊戯の番号を呼び出そうとした十代は、激しい眼球の痛みに襲われた。熱い。かがり火にくべられたようだ。手のひらで覆った瞼から、煮えたった涙が溢れだす。
暗闇に、腐った肉の色をした血管が張り巡らされていく。硫黄のにおいが漂いはじめた。鱗の型がついたスクリーンが網膜をスライドし、観客がひとりきりのシアターが組みあがっていく。
半身の悪魔の瞳がもたらした、体感幻覚に囚われたのだ。
石灰岩の洞穴のようになってしまった武藤家の居間に、輝く銀色の塩柱に変化した携帯電話と伯母がそそり立っていた。足元に、埃と脂でくもった鏡が投げ捨てられていた。表面を袖でぬぐってやると、赤いガラス玉を両目にはめ込んだおもちゃの兵隊人形が、滑稽な敬礼のポーズで映りこんでいる。
予兆は明確な意味を結ばないまま、家具が砕ける大きな音に中断させられた。キッチンから、伯母の悲鳴が響く。十代は居間を飛び出した。
『今の音はなんだ。おい、馬鹿、十代──』
見捨てられた電話機から、モクバの声が虚しく漏れ出していく。
十代が駆けつけると、武藤家のキッチンは徹底的に破壊されていた。柱が天井からぶら下がっている。泥を抱きこんで変色したカーペットの上で、テーブルは裏返り、鉢植えのドラセナはばらばらで、毎日磨きあげていた窓が念入りに割られていた。
伯母が、生気を失った絶望の表情で腕にすがりついてきた。
「マイホームが。返したばかりのローンと、悠々自適の年金生活が」
「おばさん、しっかりしてください」
白目をむいて卒倒した伯母を、十代はあわてて抱きとめた。
壁が破られたときに大きな破裂音がしたが、近隣の住民が騒ぎだす様子はない。雪が音を吸いこんだせいか。それとも別の理由があるのか。
鎧をがちゃつかせているのが三人、キッチンの周りを取り囲んでいる。襲撃者か。十代はちぐはぐの色に瞳を光らせた。
ねじきれた換気扇の下にひとり。ふたりめは亀のゲーム屋の店先に陣取っている。玄関に佇んでいる最後のひとりは女だ。全員がデュエルモンスターズの精霊だ。実体化している。
換気扇の近くにいた、派手な甲冑をつけた浅黒い肌の男が動いた。穴の空いた壁とコンロを飛びこえて斬りかかってくる。
デュエルディスクを展開し、ネオスを召喚。甲虫が飛び立つような低音を立てて降ってくるスペードの剣を、手刀ではじく。宝石飾りのついた盾に肩を当て、敵の突進を押しとどめた。
碧眼と視線が合った。星五つの絵札の剣士、〈ジャックス・ナイト〉。ネオスと同じく、光属性の戦士族だ。
攻撃力は十代のエースが勝っている。剣士は力で押しきられ、自らがへし折った柱に叩きつけられた。
「下がれ、〈ジャックス・ナイト〉」
割れた窓の外から、若々しい男の声がした。
十代は、童実野病院へ出かけていった遊戯が帰ってきたのだと思った。声質がそっくりだったからだ。
砕けた窓枠をまたいで侵入してきたのは、武藤遊戯よりもずっと小さい背格好の少年だった。トランプの〈近侍〉のカードを退かせ、主のもとへ駆けつけた〈王〉と〈女王〉を左右に侍らせた。
「精霊使いか。アカデミアの関係者に最強の錬金術師がいると聞いている。おまえがそうなのか?」
──その呼ばれ方をしたのは、一度だけだ。
少年のシーツお化けの仮装じみた白いマントに、欠けた円が真円を包む、血の色をした印章が縫いこまれている。アムナエルのマーク。
雲隠れした恩師と、久しぶりにゆっくり話をしたい気分になった。手段はどうあれ。
「おいにわとり頭。おまえ、名前は」
「十代」
「十代。十代か、おもしろいぜ。いつまでも子どもみたいな名前だな」
少年は柔らかいフードを深くかぶりなおして、読みかけの本のページに気に入ったフレーズを見つけた小等生のように、十代の名前を声に出して繰り返した。
「ゲームをしないか、十代。おまえ強いだろ。それとも番犬気取りのくせに臆病者かよ」
「オレはにわとりでも犬でもねぇし、人の家を壊しておいてゲームはないだろ。何者だか知らないけど、ここが決闘王武藤遊戯の家だと知ってモンスターをけしかけたのなら、どうかしてるぜ」
楽しむためのカードの力を破壊の手段に変えて、決闘者たちの聖地に振りかざしたこの名前も知らない少年は、悪魔の瞳を平然と受け流す。感情の色も味もぼやけていて、やりにくい相手だ。彼の心はよほど強い力に護られている。
それほどの男が、なぜデュエルモンスターズの力を悪用するのだろう。
ぶかぶかのフードの下で、薄い唇が動いた。つむぎあわせた音のかけらが、高く低くこぼれだす。歌だ。それとも迷信深いまじないのたぐいか。いけすかない聖句かもしれない。
絵札の剣士たちの姿が消えた。三体のしもべを犠牲に、高レベルモンスターの召喚を狙うつもりだ。
風がやんだ。ぶあつい雪雲に、鋭利なナイフでなぞったような切れ目が生まれた。
鮮やかな蛍光色をした天空がのぞく。旅のさなか、熱風に肌を揉まれながら砂の丘陵から見あげた真昼の空と同じ濃さの青だ。地べたに這いつくばって枯死を待つ、運命に見放されたみじめな生き物を嘲笑う死者の色だ。
音を失くした童実野町に、黄金色の輝きが降りそそぐ神域が出現する。
光の彼方から、いかずちをまとった赤い体躯が飛来した。天地の境界線をまたいで君臨するその姿を忘れるはずもない。
〈オシリスの天空竜〉。
デュエル・アカデミアを巣立った日、真の卒業決闘の果てに、十代に死の体感をもたらした二つ口の竜だ。天空の神の重圧は、あの日と同じに十代を射竦める。まぼろしではありえない。
得体の知れない魔法の鎖で縛りつけられた、かつてのラーを思いだした。白装束の少年もまた、力に溺れたフランツと同じ過ちを犯してしまったのか。
──そんなカードを、いつこいつが発動したっていうんだよ?
四肢から力が抜けて顎が上がり、天を仰ぐ格好になる。大きな光に押しつぶされてしまいそうだ。十代は、笑いはじめた膝を地に繋ぎとめるために必死だった。
怯えている場合か。闘って伯母を守るのだ。
ただでさえ留守を任せてくれた遊戯の信頼に背いている。これ以上、あの人に失望されるわけには──。
街じゅうに悪魔の臓腑を縮ませる咆哮がとどろく。神は揺るぎない正義の名のもとに、敵に牙をむいた。
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(3)へつづく
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