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アテムとソロモン(3)
【7 襲撃者】
〈オシリスの天空竜〉、〈オベリスクの巨神兵〉、〈ラーの翼神竜〉──神々のレプリカカードが、来週から童実野美術館で公開される。街じゅうが伝説のモンスターの噂で持ちきりだった。
〈三幻神〉のカードを見世物にすることを嫌うペガサスが今回の展示を許したのは、オリジナルの持ち主がそう望んだためだった。武藤遊戯。決闘者の王国でデュエルモンスターズの創造主を下した初代決闘王だ。
ホテルの客室で、ヨハンはサンドイッチをつまんで口を開けたまま、携帯端末を見つめていた。
「昨夜から、神のコピーカードの行方が知れまセン」
画面に映るペガサスに、普段の品の良い微笑はない。伝説の〈三幻神〉が、何者かに奪われた──研究のために保管されていた複製品とはいえ、人知を超えた力を宿した神の写し身が封印から解き放たれたなら、何が起こるかは分からない。
「なにか手助けをしたい、会長。俺の宝玉獣たちが力になれるはずです。それに、今は近くに十代がいる」
「あの十代ボーイが」
ペガサスが、隻眼に仄白い朝焼けの光を見たような表情になった。
遊城十代。困っている人間を探しながら世界中を飛び回っている、お人よしの正義の味方。事情を話せば、必ず力を貸してくれる。
「神のカードに愛されている十代ボーイなら、心強い助けとなってくれるでショウ」
「え。初耳です」
〈三幻神〉のカードを操れるのは、古の因縁に導かれし決闘者だけだ。武藤遊戯。海馬瀬人。マリク・イシュタール。神に選ばれた錚々たる面々。
ドロップアウト・ボーイに、はたして失われた神官文字が理解できるのか。
ペガサスは数年前に起こった、最高位の神格〈ラーの翼神竜〉の盗難事件の話を聞かせてくれた。〈神〉のコピーカードを盗んだ犯人に決闘を挑んだ十代は、その勇気と澄んだ心でかたくなに閉ざされた〈神〉の心を開いた。あのラーが十代に微笑みかけたというのだ。
「孤高の神のあれほど優しい表情を、私は生涯忘れることはないでショウ」
「十代のやつ、やっぱかっこいい」
ヨハンは親友を誇らしく思ったが、うまくはまらないパズルのピースを見つけたときのようでもある。
精霊たちへの想いの力ならヨハンも十代に負けてはいない。それならヨハンに、あの〈三幻神〉のカードが扱えるだろうか。決闘に敬意を払う世界中の無垢な子どもたちが、〈ラーの翼神竜〉を従えられるだろうか。
──何かがずれていないか?
〈ラー〉は決闘者の不敬を裁きの炎で贖わせてきた、血塗られた伝説を持つ神々の一柱なのだ。神が遊城十代の手を取った理由は、本当に十代の純粋さにあったのだろうか。
日本は、年中太陽の光に恵まれた楽園だと本で読んだことがある。ヨハンは肩を縮めて、薄手のジャケットの袖を握りこんだ。そんなことは嘘っぱちだ。
童実野町は、厚い雪の層に閉じこめられていた。街の中心に腰を下ろした寒波が、交通を麻痺させている。ヨハンは、前を歩くレオンのあとを、餌をねだる野良犬のように辿っていった。はぐれてはたまらない。
「市街地で遭難したなんて信じられない電話をかけてくるのは、ヨハンくらいのものだよ」
レオンが、僅かばかりの怒りをこめた視線を、ヨハンに投げてよこした。
「きみの方向音痴には同情するけど、忠告しておく。決闘のルールテキストやタクティクスよりも、まず地図を読めるようになるべきだ。僕もペガサス会長も、とても心配したんだからね」
「助かったぜ。レオンが見つけてくれてなきゃ、俺は危うくあこがれの聖地で凍死するところだった」
「もういいよ。本当を言うと、決闘王に会える口実ができたのは嬉しい」
レオンはゴアテックスのフードの下のぶどう色の髪をいじって、そばかすの浮いた頬を赤らめた。ヨハンの友人のうちでも、レオンハルト・フォン・シュレイダーの決闘王崇拝は、特に処置のしようがない部類に入る。
ヨハンは携帯を開き、留守番電話に何度目かの伝言を入れて、前の夏の旅行写真を登録してある待ち受け画面を睨んだ。ヴェネツィアの船着場に立ったヨハンの隣で、親友が笑っている。
「その子が、ヨハンの自慢の日本人の友だちかい」
レオンが、ヨハンの携帯を覗きこんできた。
「本物のヒーローさ。かっこいいんだ。いつも俺を助けてくれる」
十代に電話が繋がらない。今日は鉄道が使い物にならないから、迎えにきてもらおうと考えていたのだ。
宙を舞う氷の粒が、ヨハンの両目を叩いている。小さな刺激は、微弱な電流に変わっていく。
いやな予兆だ。異世界から戻ってから、時折、誰かの虹彩のかけらを透かして俯瞰したような世界に誘いこまれることがあった。
雪の層が、石灰岩の大地に変貌した。ヨハンの前に、二体のすずの兵隊人形がやってきて、玩具の剣で決闘を始めた。影がスライドする。動きは単調で、どうも右手と左手の喧嘩ごっこのように見える。
人形たちの闘いに決着がつかないうちに、幻は風船がはじけ飛ぶように消え去った。レオンが、不思議そうに振り返ってきている。
「どうしたの、ヨハン」
ヨハンにもわからない。ただデッキがざわめいていて、何かが起こるのがわかった。
吊り天井に似た雪雲に、一筋の線が入った。凍りついた空気が踊りだす。しけった冬を切り裂いて熱い風が吹き、鮮やかな青と濃灰色のマーブル模様の空が、視界いっぱいに広がっていく。錆びた歩道橋のむこうに、金色の光の柱がそそりたった。
ヨハンのデッキが怯えている。
輝きの中心に、宝玉獣を圧倒するほどに強大なモンスターの気配がある──。
「双六さんのお店がある方角だ」
レオンの声はかすれていた。溶けた雪でぬかるみはじめた歩道を、ヨハンは駆けだした。
〈亀のゲーム屋〉は、以前にヨハンが訪れたときとは変わり果てていた。
緑色の屋根の一部が崩れて梁が丸見えになり、店の床は割れたガラスに覆われていた。希少なカードが、泥水を吸ってタイルに貼りついている。
「誰かいませんか。双六さん、遊戯さん──十代、どこだ?」
ヨハンの呼びかけに応える者はいない。乾いた熱風がデュエルモンスターズのカードを攫い、散った花びらのように降らせている。見覚えのあるカードを捕らえた。
──〈エレメンタルヒーローネオス〉。
氷の手で肺を撫でられたような心地だった。背中を預けるに足る相棒として、あるときは手ごわい好敵手として、何度もそのモンスターと決闘を共にしてきたヨハンが見まがうはずがない。ネオスは世界に一枚しか存在しない特別なカードで、遊城十代のデッキのエースだ。
「ネオス、おまえたちのマスターは。十代は、どこへ行ってしまったんだよ」
ばらばらになった十代のデッキからは、あるべきはずの精霊たちの気配が消えていた。
くずれた廊下の先から、かすれたうめき声が聞こえる。ヨハンはレオンと顔を見あわせた。
小さな居間に、日本人の年齢は一目ではよくわからないが、四、五十代ほどに見える女性が倒れていた。焦げた毛布でくるまれた肩を抱きあげると、うっすらとまぶたを開いた。
ヨハンの顔を見ると、驚いたようだった。
「ヨハンくん」
「俺を知っているんですか」
女性の意識は定まらす、触れた身体が熱い。命に別状はなさそうだが、早く病院で診てもらうべきだ。
「道路は使いものにならない。救急車は呼べないから、背負っていくしかないね」
レオンが言った。
【8 0の世界】
眩い世界に落っこちていく夢を見た。そこは、あたり一面に清潔な光が溢れていて、触れたところから身体が泡のように溶けていく。おとぎ話のひよわな悪魔みたいに、自分が消えてしまう。
いやな夢だ。
ベッドの上で目を開いたとき、しばらく呼吸ができなかった。上半身を起こす。頭がずっしりと重い。今日この世界で、悪夢にうなされて気だるい朝を迎えた人間は、どのくらいいるだろう。
シーツをめくると、薄っぺらいパステルカラーの下着をつけているだけだった。前開きで、レースの縁取りがくすぐったい。たしか、ベビードールというのだったと思う。ひどい違和感が頭をもたげた。
ヘッドボードとサイドテーブルは、家族の愛で満たされた子どもが迎えたクリスマスの朝のように、リボンつきのギフトボックスでいっぱいだ。まどろみと夢の重力を受け止めてくれた天蓋つきのベッド、窓の木枠にからみついたのうぜんかずら、ぬいぐるみと猫脚の家具と赤いカンナの一輪挿し、マシュマロとキャンディでいっぱいの藤かご──ここは誰の部屋だ?
たとえば、少女という生き物に甘い幻想を抱いた何者かが組みあげた、ままごとのための家だ。
扉がノックされた。廊下に、背広を着た中年男が立っている。
熟練のフットボール選手を思わせる広い肩幅と浅黒い肌をしていた。几帳面にひげを整え、前髪を額の上でにわとりの尾羽のように反り返らせている。えもいわれぬ懐かしさがこみあげてきた。
「父さん?」
反射的に、言葉が口をついて出た。しかし、すぐに人違いだと思い直した。
「私はお父さんに似ているのかね」
男が優しく言った。
「わからない。覚えてない」
思考がまとまらない。頭が鈍く痛む。自分が、誰なのかも思い出せない。
「かわいそうに。きみはアイドルなのだよ。朝食はとれるかね。話はそれからにしよう」
男は首を振り、悲しそうに目頭をおさえた。
ひげの男はテラスのテーブルに手際よく食器を並べた。ストレーナーごしに熱い紅茶をカップに注いでいく。
「目を覚ましてくれてほっとしたよ。具合はどうかね。私が見たてた洋服は気に入ってもらえただろうか」
「これ、あなたが用意したんですか。えっと……」
「私は大門という、お嬢さん」
大門は大皿のパンケーキを切り分けて、チョコレートシロップをたっぷりかけてすすめてくれた。甘い香りがしたが、空気のかたまりを食んでいるみたいに、味がしなかった。
紅茶に口をつけた。やはり何の味もしない。色水を飲んでいる気分だ。
「花やらぬいぐるみやらプレゼントボックスやら、キャンディやらマシュマロやらそういうものを、年ごろの女の子は大好きだろう。もちろんリボンつきの洋服もだ」
大門が用意したレースとリボン飾りがついた黒いワンピースは、女子小等生のピアノの発表会にはぴったりだろう。着なれたジャケットとジーンズが恋しかった。
目が覚めてからも、記憶の混乱が続いていた。紅茶の香りの湯気に包まれて、ヒントも解答欄もないクロスワードパズルに挑んでいる──名前は遊城十代。次の夏で二十歳になる。デュエル・アカデミア卒業生。今は決闘王の実家に居候をしており、家の玄関を出ていく遊戯の背中が最後の記憶だ。
「この家は、童実野町からどのくらい離れてるんですか。急いで戻らなきゃなんない気がするんです」
「可哀想だが、もう帰れないよ。私は雇い主に騙されて、ここへ閉じこめられてしまった。昔はまっとうなサラリーマンだったんだ」
「悪い会社があったもんだな」
「信じていたものに見捨てられたという点では、我々は同じだよ」
大門は、ローマの万神殿を連想させる造りの屋敷を力なく仰いだ。のどかな景色に見えるが、地獄だと彼は吐き捨てた。変わらない暮らしは、記憶を少しずつ崩壊させていく。
「大門さんが見ず知らずのオレに親切なのは、同情してくれているからなのか」
「見ず知らずなどであるものか。きみは大切な友だちだ」
大門は、不健康に落ちくぼんだ目を細めた。
「だから厚意からの忠告だよ。外は危険だ。我々を喰うやつがうろついている」
「熊か虎でも出るみたいな言い方だな」
屋敷のまわりは深い森に囲まれていて、屋敷と森を隔てる真鍮の門扉はかたく閉ざされている。
「正しくは我々の記憶を喰う魔物だ。食い殺される者にとっては、熊も魔物も同じだろうがね。目が覚めたときの記憶の欠落を思いだすんだ。きみは危うく化け物の餌になるところだった。身の安全は私が保証するから、余計なことを考えずにおとなしくしているんだ。いいね」
大門は、洗濯機のセールスマンのような笑顔を浮かべた。
午後になって、十代は文化財ものに風格のある屋敷をさまよい歩いた。無数にある部屋を覗いていくうちに、応接室の壁に飾られている色褪せた写真を見つけた。
ポロシャツ姿の中年男が、ゴルフのトロフィーを掲げて写っている。見覚えがある顔だ。幼い頃にテレビで訃報を聞いた、海馬コーポレーションの前社長だ。海馬瀬人の父親。
この男が大門を利用したのか。
灰色の光が射しこむ格子窓の外を、わたぼこりに似た黒い影が横切っていった。ちょうど腕に収まるくらいの大きさで、短い手足をして、羽根を生やしている。
──ハネクリボーだ。
パートナーの精霊は主の姿に気がつかず、閉ざされた門を越えて黒い森に滑りこんでいった。
森はつくりものめいた草木が並び、古ぼけた影絵とくすんだ光で満ちていた。虫の羽音や鳥のさえずりさえ、録音された環境音に聞こえた。
茂みに溶けこむように消えてしまったハネクリボーを追っていくうちに、鮮やかな赤い光が見えてきた。
森の奥で、黒のBMWが太い蔦に宙吊りにされて炎上していた。密集するミズナラの木々の下に、気を失った女が倒れている。赤い光に照らされた顔に、十代は息を呑んだ。
真崎杏子。武藤遊戯の愛する女性。こんなところでなにをしている?
バングルで飾った杏子の手首をとった。目立った傷が見当たらないことに安心した。ただ焦げて縮れてしまった黒い髪には、あとでいくらかはさみを入れなければならないだろう。
「杏子さん。しっかりしてください」
暗い色のアイシャドウが乗った瞼が震えた。
「……車」
「はい?」
「私の車ってどうなっちゃってるかしら」
頭上でBMWの燃料ポンプが爆発した。炎が乾燥した森を喰い荒らしはじめる。
「ご覧のとおりです。すみません、諦めてください」
「ついてない。今のは買ったばかりで、すごく気に入ってたんだ。道路を走ってたらいきなりペンギンが飛び出してきたの。私、苦手なのよペンギンって」
「はあ。ペンギン」
「それより、あなたが助けてくれたのね。おかげでなんとか生きてるみたい。感謝するわ。えーと……」
杏子は、公道を歩くペンギンと同じくらいにありえないものを見たように目を丸くした。
「カンナよね、あなた。神月カンナ」
十代は、大門が用意した少女趣味のワンピース姿のままだったことに思い当たった。
杏子は、モクバが作ったアイドル少女の着ぐるみの中身が、武藤家の居候だとは気付いていない。遊戯の大切な女性に、特殊な趣味の人間だと思われるのは耐えられない。本当のことを言えるわけがなかった。
「うれしいわ。ずっと会いたかった。あなたと話をしたくて、この国へ戻ってきたんだ」
「オレとですか?」
落ちついた青い目が軽く見開かれた。十代は慌てて言い直した。
「わ、わたしと」
「そう。遊戯とモクバくんがグルになって、私をカンナちゃんに近づけないようにしてるみたいなんだけど。知ってるでしょ、武藤遊戯。決闘王。理由はなんなのかな。例の騒動のせいってわけでもなさそう。そんな話、今に始まったことじゃないし」
「騒動って」
「ゴシップ誌やワイドショーじゃ、遊戯とあなたが熱愛発覚って噂になってる」
「ね、熱愛発覚!?」
声が裏返ってしまった。夢のような話だが、遊戯の耳に噂が届いたら、あの人はどんな顔をするだろう。青ざめた十代を、杏子が面白そうに見ている。
「あなたの気持ちのほうは本物みたいね」
「へ? べ、べつにそういうんじゃ。ないです、はい」
「嘘が下手ね」
杏子のくすくす笑いが耳にむず痒い。人の心を食い物にする悪魔が、人に弄ばれている。口をとがらせて、エナメル靴の先で地面をひっかいた。
「もしかして変な噂のせいで、遊戯さんを取られたと思って怒ってますか」
「大人をからかうもんじゃないわ。まあ、妬いてないって言いきれないのはくやしいかな。でも誤解はしないで。昔、全力で好きになった人がいたの。彼は今の遊戯にそっくりだったわ。似すぎているから、私は遊戯をあの人の代わりにしようとしてしまう。お互いどこへも行けなくなるの」
「誰かの代わりって、そんなに悪いことでしょうか」
「どちらにも失礼だわ」
杏子は十代から目を逸らした。遊戯にもそうされたことがある。
答えにくい質問を何度も繰り返す子どもに対して、大人はそうするのだ。
「ごめん。あなたって綺麗ね」
杏子が言った。
森の果てにそそり立った崖の上には、童実野町へ続く道路が伸びている。十代は、ミニスカートを穿いて崖を登りはじめた杏子の勇敢さに感心した。柔らかい曲線を描く後姿に、アカデミアの女王と呼ばれていた友人の姿が重なる。杏子は明日香にどこか似ていた。
ちらめく雪のように、空からガラスの粒のようなものが降り注いできた。肌に刺さり、身体の内側へ染みこんでいく。それは杏子から零れ落ちた心の闇の欠片だ。無防備な思考が流れこんでくる。
──私はカンナと仕事の話をしにきたはず。遊戯のことは関係ないじゃない。いい大人が、十代の子どもに本気で妬いてるっていうの。
抑圧と否定で包んだ嫉妬は、おあずけが辛いくらいだ。杏子が振り返った。心臓が止まりそうになる。
「カンナちゃん。おなかすいてるの。飢え死にしそうな顔してる」
「いえ」
顎を伝っていたよだれを袖で拭く。泣きだしたいくらいに恥ずかしかった。
理由は知れないが、中央線の道路の上をペンギンの群れが行進していた。杏子の話は冗談や比喩ではなかったのだ。
「ペンギンって、親子の仲が良いんですよね」
十代が子どものころは、仕事で忙しい両親はなかなか家に帰ってこなかった。ふたりが顔をあわせたら喧嘩ばかりだったから、水族館で見た仲睦まじいペンギンの家族を羨ましく思ったものだった。それを聞いた杏子は、なぜか鳥肌をたてている。
「ねえ、海馬ランドにペンギンは必要だと思うかな」
「〈青眼の白龍〉にペンギンは釣りあいませんね。パンダのほうがまだましかも」
「安心したわ」
無邪気な黒い目をしたペンギンたちの行列は、十代と杏子をどこかへ導いているようにも見えた。
「最悪にいやな予感。カンナちゃん、遊戯と連絡がつかないかな。私の携帯電話は車と一緒におしゃかだし。ああ見えて遊戯って、こういうとき頼りになるんだから」
「携帯はオレも……あ、わたしも持ってません」
「いいわよ。それが本当のあなたの話し方なら、私は気にならないわ。私は今、カンナちゃんとできるだけいい関係になりたいって思ってる。映像や写真じゃわからない、本当のあなたを知りたいの。だから気を遣うことなんかないよ」
「連絡はできませんけど、遊戯さんは童実野病院へ向かったはずです」
「風邪でもひいたの?」
十代は杏子に、童実野病院からかかってきた電話の話をした。友人に何かがあったという内容だったらしいこと、それを聞いた遊戯が顔色を変えて吹雪のなかを一人で出かけたこと。
「妙なことばかりね。不思議といえば、カンナちゃんはなんであんな森の奥にいたの」
「どうも記憶が曖昧なんですけど、魔物に襲われたオレを、大門って人が助けてくれたんです。背広を着ていて髭が生えてて、ラグビー選手みたいにごつい──」
「とさか頭のおじさんじゃなかった?」
十代はまばたきをして、杏子の渋面を見つめた。
「二度と関わりたくない知りあいのひとりよ」
杏子は頭を抱えている。
ペンギンたちの鳴き声が止んだ。〈大寒波〉に〈猛吹雪〉。デュエルモンスターズが展開される気配。
道路が恐るべき速度で凍りついていった。罅割れた地面から氷山が生え、濃い緑色の森と人工的な道路が消失した。あたりは一瞬のうちに、太陽に見放された南極の光景に変わり果ててしまった。
サーカスの興行師のいでたちの四つ星モンスター、〈ペンギン・ナイトメア〉が現れた。シルクハットをかぶって、子分のペンギンたちを従えてふんぞりかえっている。
「神月カンナ十六歳、きみをずいぶん探しました。真崎杏子二十九歳もいっしょとは、都合がいい」
杏子が、見た目にそぐわない下品なうめき声をあげて舌を出した。
「ペンギンを見たときから嫌な予感はしてた。あんた、もうずっと昔に消えちゃったはずよ、スケベオヤジ」
「杏子さんの知りあいなんですか?」
「女の子に下品なことばかり言う最低なやつ。あなたが会った大門とグルよ。自分からゲームを吹っかけておいて、負けて身体をなくしたのが私たちのせいだって逆恨みしているの」
〈ペンギン・ナイトメア〉の姿をしているのは、元は〈ビッグファイブ〉と呼ばれた海馬コーポレーションの重役のひとりで、大瀧という人間の男だという。
今から十数年前、〈ビッグファイブ〉は自分たちを放逐した海馬瀬人を恨んでいかさま勝負を挑み、返り討ちにされて実体を失った。どこにもいない存在になってしまった彼らは、海馬瀬人とその仲間たちに復讐するために、若い肉体を奪おうとバーチャル世界へ引きずりこんだ。
海馬家のお家騒動に巻きこまれた杏子は、大瀧にゲームを挑まれたことがある。決闘に敗北してなお、力ずくで身体を手に入れようと襲いかかってきた卑劣な男だが、最後は彼らの憎しみを利用していた者の手で消滅させられた。
ここにいるはずのない〈ペンギン・ナイトメア〉は、つぶらな肉屋の目を杏子と十代へ向けた。肉体のパーツごとに値札をつけていく視線。杏子に向かって鼻を鳴らし、十代には揉み手をしながら相好をくずした。
「真崎杏子二十九歳。そんなに鼻息を荒げない。歳相応のふるまいをなさい。そして神月カンナ様。大門から、外へ出ないよう、きつーく言いつけられていたでしょうに。不肖この私、海馬コーポレーション元取締役兼人事部長、大瀧修三永遠の五十五歳、愛の鞭を振るわせていただきます」
「なに、その態度の変わりよう。海馬くんや乃亜の次は、カンナちゃんの太鼓持ちになろうって魂胆ね。させない。私はこの娘をアメリカへ連れてく。ブロードウェイには、彼女がもっと輝ける未来があるんだから」
「え?」
アメリカもブロードウェイも、晴天の霹靂だ。大瀧の黄色いくちばしの端が吊りあがる。
「真崎杏子二十九歳。相も変わらず、自分の意見を他人に押しつけてばかり。もしカンナ様が、ごく普通のお嫁さんになりたいと夢を見ていたらどうです?」
「それがなんなの。カンナちゃんが仕事を辞める理由にはならないわ」
「このお方は、暖かい家庭に憧れている。何不自由なく育てられたきみとは違うんです」
大瀧は、自分には何もかもがわかっているんだという口調だ。星四つの低レベルモンスター〈ペンギン・ナイトメア〉に、人の心を読むほどの力はない。半人半精の異形の者にしては、中身の混ざり方が半端だ。どこかの悪趣味な誰かが、人と精霊を遊び半分にこねて作った粘土細工というところか。
「真崎杏子二十九歳、きみは挫折を乗り越えて強くなった自負を誇りと呼んでいますが、カンナ様ときたらオーディションの苦労も知らないんです。圧倒的な経験の差があるのに、なぜ未熟なはずの彼女は、きみに無いものを、欲しくて仕方がないものを全部持っているんでしょうか」
ペンギンの群れが、尻を振りながら杏子を囃したてた。
「カンナ様には未来がある、まったくそのとおり。名声がある。今や決闘王の寵愛さえ彼女のもの。逆にきみときたらもういい年で、そろそろ家庭に入って、良い妻、良い母親になりたいと考え始めているころだ」
「それって、時代劇みたいな考え方ね」
「きみと考え方が違う相手の考えを、尊重したことはありますか。きみは強引すぎます。だから遊戯やモクバは、若くてかわいいカンナ様の味方をする。学生時代の友情なんて、社会に出たら何の役にも立ちません。あの日、役を取るために身体を売ったあなたに、友だちは手を差しのべてくれましたか?」
ペンギンは得意そうにつるつるの顎を撫で、蝶ネクタイを引っぱって整えた。傍観していた十代は、杏子の顔を覗きこんだ。青ざめて、拳を握りこんでいる。
「未遂よ。結局断ったんだから」
押し殺した声。大瀧は杏子の反応に満足し、退化した翼を羽ばたかせた。
「でも、一瞬でも思ったんでしょ。今、ほんのちょっと我慢すればいいだけだって。それは売ってしまったことと同じです。きみは遊戯に一番近いカンナ様にも、同じ真似をさせるつもりでいる。ぽっと出のアイドル、苦労して培った土台もないくせに、きみの居場所を奪った小娘への復讐として──」
「杏子さんはそんな人じゃない。遊戯さんが恰好良いって言ったんだ。あの人の憧れを馬鹿にするな」
十代は、杏子を見下すふりをしているものの、本心では強い興味を抱いているペンギンのお喋りを遮った。気晴らしの邪魔をされた苛立ちで、平べったいくちばしが楽器のように鳴った。
「やれやれ。海馬家の子どもたちよりはましですが、まだまだ生意気ざかりだ。神月カンナ十六歳。そういうことで話をすすめましょうか。私も、かわいいギャルを相手にするほうがいいですからね」
杏子が鼻白んだ。認識がずれているが、大瀧が十代の正体を黙っていてくれたのは都合がいい。
大瀧が、腹に生えた柔らかい毛をふくらませるとともに、地中から氷柱が突きだした。透きとおった塊が花のように開き、ささくれた壁になって杏子と十代を引き離す。
十代は薄青いドームの内側に、奇妙なペンギンと共に取り残された。
「スケベオヤジ。あんたの相手は私がするわ。今すぐカンナちゃんを離しなさい」
氷の壁を隔てて、杏子のこもった声が遠く響いた。心配はないと言い置いて、十代は大瀧に向きあった。
人間世界を上滑りした目は、子どものころの十代と同じだ。その目をしている人間の末路を、よく知っていた。大丈夫だ、引きあげてやれる。この男は、〈ペンギン・ナイトメア〉のカードを大切に想う心を持っているじゃないか。
デュエルモンスターズを愛する決闘者同士なら、必ずわかりあえる。十代には決闘王が与えてくれた確信がある。どんな時でも、遊戯に胸を張れる道を選べばいい。
「あなたはいい子よ」
杏子が叫んだ。
「だけど、誰もがみんなあなたみたいに綺麗な生き方はできないのよ」
折り合いをつけることを覚えた大人が、譲らない子どもを諭す声は、青い氷山に吸いこまれていった。
十代の前に、銀色に輝く無数のカードの奔流が現れた。四十枚のカードを選んで、デッキを組む。手になじんだ仲間たちの姿も見えたが、精霊たちの気配はなく、ユベルの囁きも聞こえない。
ユベルは、今も十代の心の奥底にいるはずだ。次元さえひとつにする〈超融合〉のカードで結ばれた魂は、二度と離れ離れになることはない。半身は、存在を感じ取ることもできないほど疲れているのか。
十代も、今朝目が覚めてからは身体が重く、とても腹が減っている。眠りの闇のなかで、いったいなにがあったのだろう。悪夢か。悪夢は毎夜のことだ。
昨晩の自分は遊戯を見送ったあとで、どこでなにをしていただろうか。
──まあいい。今はペンギン男との決闘に集中しよう。
「カードを選んだよ、おじさん」
「よろしい、では決闘開始です。私の先行だ」
大瀧が、つるつるの手でドローをした。
「きみの愛らしい少女の姿は偽りで、本名は遊城十代十九歳。まぎれもない男です。海馬瀬人が出資したデュエル・アカデミア学園の卒業生で、入学から卒業まで一貫して落ちこぼれの巣窟オシリス・レッド寮に所属。なんとも頼りない。ふむ、三年次にアメリカへの集団留学を行う──アカデミアのデータベースを覗くなんて軽いもんです」
「集団留学か。そんなになってんだ」
カードを確認した。〈ネオス〉。ヒーローたち。本物は手元にないが、彼らとの絆は欠けてはいない。
「友だちが行方不明になっちまってさ。どうしても探しにいかなきゃならなかった」
「くだらない。勉強が学生の本分です。友だちなど放っておいて、きみは自分の役目を果たすべきでした」
「したよ。たくさんの決闘をして、いろんなことを学んだ」
「ありきたりの友情。しょうこりもない達成感。大人になったらごみ同然の錯覚だ」
最初こそ十代を持ちあげていた大瀧だが、人からずれた存在になっても、若者に一言言ってやりたくなる癖がおさまらないようだ。くちばしを振りまわして唾を飛ばしている。
「モンスターの姿をけっこう気に入ってるようだけど、ペンギン山の大将を張るのがおじさんの使命なのか」
「仲睦まじい父親と母親が、大切に子どもを育てるペンギンたちは、本当の愛を知っています。私はこれまでの人生で数えきれないほどの動物を見てきましたが、幼いころに水族館で見たペンギンほど、家族の絆の素晴らしい生き物はいなかった」
「そうかな。オレが遠い国に留学したって話だけど、そこで学んだことがある。愛を信じて誰かの助けを待ち続けた子どもが、みんな助かるわけじゃない。ペンギンの家族が本当におじさんの理想かどうか──」
十代は悪魔の瞳をきらめかせた。眼球に闇色のフィルムが貼りつく。宝石のレンズが焼けつく地獄の底を覗き、この世に隠された真理を映す。
「おじさんが語る本当の愛が、どれほどのものか見せてくれ。ただし、おまえがおまえだという認識はもういらない。そんなものがあったら、結局それは人間のおまえだ」
「年長者に向かっておまえとはなんです。礼儀知らずにもほどがある。これだから最近の若者は……」
「そっちのほうが、オレよりずっと小さいじゃないか」
十代の目の前には、小さなペンギンがいた。
精霊ではない。本物のペンギンの幼体だ。愕然として周囲を見回し──本物の南極の光景、クイーンモードランド、ウィルクスランド、ヴィクトリアランド、マリーバードランドに囲まれた三千万年来の氷の大地の中心に立って、ピョートル一世島を西に、真北にスコット島を望み、恐る恐る十代を見あげてきた。
大好きなお喋りをするくちばしは、もう滑らかに動かなかった。
ただのペンギンだ。絆という人の言葉を知らない、短い寿命を精一杯生きる、野のけだものだ。
「弱肉強食の世界で、誰にも守られずに生きぬけ。牙も爪もなくそれができると思うなら」
十代は言った。
それからペンギンは逃げ続けた。
子どものころのペンギンは、親の帰りを待ち続けていたが、のたのた歩きの両親は、いつになっても戻ってこなかった。同じ境遇の雛たちが死んでいくところを見たペンギンは、群れを離れた。餌を求めて、氷の上をさまよいはじめた。
もちろん、三千万年の間氷漬けになった最果ての地に、ペンギンの子どもの餌になるものは見つからなかった。やがてペンギンは、爪も牙もなく、やわらかい身体をして足の遅い自分こそが、もっとも〈それ〉に近いことに気がついた。
天敵のあざらしに氷上を追いまわされ、海に潜れば、仲間がシャチの群れに捕まる光景を何度も見た。大きな黒い口の化け物たちは、ペンギンの遺骸をバスケットボールに見立ててゲームに興じた。
仲睦まじい家族は、絆も優しさも肉体も、簡単にばらばらにされた。
その世界ではペンギンは、奪われる側の生物だった。死ぬまで、そして死んでからもだ。ペンギンの家族の仲睦まじさに憧れを抱いていた人間の会社員が、大切に守るべきだと考えていた自然は、容赦なくペンギンから奪い、喰らい、与え、また奪い続けた。
生きるために逃げ惑うペンギンにも、両親の怒声に怯える人間の子どもにも、ある老人が生涯求め続けた愛はなかった。愛は幻想の内側にだけ存在し、まぶたを閉じてまどろんでいる間だけ、頭上の遠いところで星のように輝いている。
目を開くと、あっさりと消えてしまった。
ペンギンは、ひとりで海際を歩いていたときにあざらしに攫われた。身体を食いあさられて死のふちにあるペンギンを、冬の南極大陸の夜空に光る、一対の悪魔の〈眼〉が見下ろしていた。
「戦う術もない生き物は、どうやって守りたいものを守ればいい。答えは見つかったか」
ペンギンは憐れっぽくくちばしを開いたが、喉が破れて声は出なかった。
子どものころは、水族館のプール型水槽のなかに愛があると信じていた。嘘だ。短いくちばしで愛は守れない。力がなければ愛は食い物にされる。力こそが愛で、正義だ。
人の手で小さな生き物の楽園を造り、そこに彼らの愛を見出すことで、愛を制御できると信じたが、実際は老人には何のかかわりもないことだった。そこで暮らすのがペンギンだろうが、いつか憎い誰かが言ったように、白黒のパンダだろうが変わりがなかったのだ──。
数えきれない言葉を散りばめて、家族愛を語り続けてきた老人の言葉に、愛は一度もなかった。
「子どものおまえを、親は愛してくれなかった。それが最初の痛みが生まれた場所だ。なかったことにしてやりたいと、何度考えたっけ。だけど、羨ましかったペンギンの姿になってみても、あんなに欲しがっていた愛は手に入らない。ずっと胸を張って、後悔しないやり方でやってきたのに、何が悪かったんだろう」
奇妙に優しい形に歪んだ〈眼〉は、ペンギンに同情と共感を示しながら、敵意と食欲を向けていた。〈眼〉と共感するところがひとつでもある子どもだったものには、その心の闇が、いやでも伝わってきた。
〈眼〉は、いつかの時代にどこかの街にいた孤独な子どもを殺し、消してしまい、いなかったことにしたがっており、しかし、愛が溢れた光の家に暮らす他の多くの子どもたちよりも、その孤独な子どもを愛してやりたがっていた。
何のことはない、自分自身が助かりたがっていた。それが来ないことを知りながら、救いを待っていた。〈眼〉は、孤独な子どもたちにだけ通じる寂しいひとり遊びを、十何年も、大人になった今でさえ続けている。
ペンギンはいつしかペンギンではなくなり、人間の子どもになっていた。凍りついた夜に、子どもは、老人になった未来の自分と向きあっていた。老人は小太りで、髪は脂と整髪料が混じってぎとぎとだった。
老人が息をするたびに、たるんだぶよぶよの肉が上下に揺れた。子どもは老人を見あげて悲しくなった。
「ほんとはペンギンになりたいわけじゃなくて、ペンギンみたいに仲がいいパパとママが欲しかった」
「言うな。そんなものは、手に入らなかったんだ」
老人は、いらいらしていた。怒った顔が、喧嘩をしているときの両親にそっくりだ。
「私は、いがみあってばかりの両親に、なんとか仲良くしてもらおうと努力を続けた。でも、なにを言っても届かなかった。言葉が通じない。気持ちもすれ違ってばかりだ。そんな家族は、いないと同じではないか」
「でもパパとママは、ちゃんと迎えに来てくれたじゃないか」
子どもは光の先を示した。
今日まで子どもは、ペンギンが聞いたこともないような物音のなかで育ってきた。食器が割れる音、金切り声、怒鳴り声、殴打の音、テーブルがひっくり返る音。毎日休みなくだ。
だから笑顔のパパとママが迎えにきてくれて、優しく手を握られても、肺の奥まで根付いた恐怖心は消えない。ふたりはなぜ喧嘩をはじめないのか?
父親が座りこんで、息子の顔を覗きこんできた。目があう。息子と同じ色の瞳をしていた。
今日はとても静かで、凪いでいる海のように穏やかで、名前を呼ばれても心臓が縮むことはなかった。子どもは、今なら嵐が来ても生き残れるような気がした。なにか正体のわからない暖かなものが、胸のなかに生まれていて、今はそいつが護ってくれている。
「つらい想いをさせて、すまなかった。ママとゆっくり話しあって、私たちが間違っていたと気がついたんだ」
子どもは、身のまわりのもの全部を疑ってかかった。どうかしている。誰かが『ドッキリ大成功』って、僕を罠にはめようとしているのかも。
母親はレースのハンカチを目に当て、赤い唇をすぼませて震えながら、子どもの肩を抱いて泣いた。細い髪の束が夕陽の赤い光を吸いこみ、発光していた。眩しい。眼球が光に犯される。
「寂しかったでしょう。ママは、あなたがいつもペンギンばかり見ていることを知ってた」
「パパもだ。おまえがどこか遠くに行ってしまいそうで、本当は不安だったんだ」
父と母の顔は、憎しみといらだちと後悔で歪んでいない。大きな声を出さない。手をあげない。
今なら、なによりも欲しかった本物の家族が手に入るかもしれない。醒めていた心が、一度大きく脈打った。ひさしぶりに心臓が動いた、息をした。
──今こそ、世界が変わる最後のチャンスじゃないのか?
これまでだって、さんざん努力をしてきた。でも駄目だった。思いつく限りの手段を試してもうまくいかず、怒声と罵声のオーケストラは、月が星のまわりを一周して太陽が昇るまで毎晩続いた。
今だ。飛べもしないまぬけな鳥の親子に関わっている場合じゃない。夢に見ていたごく普通の家族を、どうすれば自分のものにできるのかを考えろ。
両親は魔法のように、子どもの苦悩をすべてわかってくれた。それが人間の親で家族なのだと、ふたりの微笑みは語っていた。
「さあ、家へ帰ろう」
父が言った。
「うんパパ、ママ」
──ペンギンなんて、どうでもいいよ。
子どもは震える両手を、高いところにある両親のほうへ差し伸べた。
学校の帰りに公園を通りかかった幼い大瀧修三は、ブランコを揺らしながら泣いている、同じくらいの歳の子どもを見つけた。悪魔が憑いていると噂されて、いつもひとりでいる、ツートン・カラーのにわとり頭だ。
〈にわとり頭〉に話しかけることに、怖さは感じなかった。悪魔に呪われていたって構うもんか。ひとりぼっちがどれだけつらいことなのかを、誰よりも知っている。
「よう、親が帰ってこないって寂しいな。わかる、僕のところもちょっと前までそうだったし。でも、元気だせよ。きみの家族だって、僕のパパとママが僕にしてくれるみたいに、きみのことが大切なんだ」
自分でも驚くほどに、言葉がすらすらと出てきた。涙をこぼしていた〈にわとり頭〉が顔をあげた。
それは、十九歳の青年が化けた女の姿になった。公園の砂場は青白い氷山になった。ぎいぎい揺れる錆びついたブランコの音は、贋物の南極を切り裂く風の音になった。
そこに大瀧修三はいた。〈ペンギン・ナイトメア〉の姿で無数のペンギンを従えて、先行ターンで召喚した赤い海蛇〈シーザリオン〉を操り、氷のフィールドでデュエルディスクを携えて遊城十代と対峙していた。
心の欠落を満たされた子どもは消え、子どもの帰りを待つ母親は消え、学校も友達も、背広を着た自分と同じ目の色をした父親も消えた。
「寂しい子どもは、おじさんだけじゃない」
十代が言った。
大瀧は返事をしなかった。その心は、いまだに幼年時代を過ごしたぬくもりに満ちた街に留められていて、このフィールドにはなかったからだ。
「ここはどこだ。優しいパパとママは、どこへ行ってしまったんだ?」
「そんなものは幻想だ。欲しがっても手に入らなくて、みんな苦しんでる。この世界は、とても寂しい所なんだ」
十代の答えは酷薄だ。カードを引き、攻撃力二千五百の銀色の巨人を召喚。〈シーザリオン〉を破壊する。
夢の余韻から醒めた大瀧は、自分がいつの間にか、あまりにもわけのわからないものに相対していたことを知った。
「あんたは、ぬくもりを求めて、何十年も人生をさまよってきた。人間だったころも、そうじゃなくなってからもだ。見つけられたか? 無駄だったろ。誰かの手を取って一緒に暖めあえないなら、世界中荒らしまわったって、そんなのはどこにも見つからないとは思わないか」
十代は大瀧に向かって、大人が子どもをさとすような口のきき方をする。彼こそが子どものはずではないか。理想の世界を目指して努力を続け、何十年もかけて導きだした答えを否定するつもりか。
腹の底から怒りが湧いてきた。ペンギンの平たい腕で、何度も氷原を叩いた。たとえ神であっても赦すものか。十代は微笑に似た形に顔を歪め、少女のものに見せかけた指をペンギンの手に重ねる。
「誰かに見捨てきられるなんてできない。悪いやつだって、いいことしたっていいんだって、オレは『留学』で学んだんだよ、大瀧さん。公園にひとりでいたオレに話しかけてくれたみたいに、あんたなら、寂しい仲間の凍った心を溶かしてやれる。心の闇の象徴を、子どものころの痛みを大切に持ってるあんたにしかできない」
「冗談じゃありませんよ。ほかの子どもの家庭事情など知りません。私は若いピチピチギャルの肉体を渡り歩いて、優しいペンギンたちの世界で永遠に生き続けるのです」
「だめだ。あんたの子どもでいていい時間は、もう終わったんだ」
十代がぴしゃりと言った。まるで子どもを叱る父親のようで、まるで子どもを諭す母親のようだ。
大瀧には、見あげた十代が、今にも焼き尽くされてしまいそうな輝く炉の火に見えた。だから誰が相手で、どんな手段を使い、たとえ束になってかかろうと、おそらくはあの現在の『契約主』でさえも──十代に勝てるはずがないということを理解した。
氷のフィールドが消え去り、味気ない高速道路と青い樹海が戻ってくる。真崎杏子が十代に駆けよった。
「さすがデュエル・アルカディアの生徒。決闘はカンナちゃんの勝ちね。さあ、童実野町へ戻ろう。遊戯が心配してるわ」
杏子に手を引かれた十代は、ふわふわしたツーテールを揺らしながら、大瀧に背中を向けて歩いていく。不意打ちを受けても、相手が敵にすらなりえないと考えているのだろうか。それとも──。
「待て。どんなに歩いたところで無駄です。きみらが童実野町へ帰ることはできません」
大瀧は十代を呼び止めた。隣で杏子が緊張に顔をこわばらせる。
「また往生際の悪い真似をするつもりなの、スケベオヤジ。ただじゃすまさないんだから」
「ここは、すべてが贋物の電脳空間なのだ。きみらの身体はここにはない。……現実世界へ戻りたいなら、この先にある非常口をお使いなさい」
十代が軽く目を見開いた。救われた、という感情の揺れが映る。
「ありがとう、大瀧さん。助かるよ」
「え。こいつが他人に道を教えてくれるなんて、罠に決まってるでしょう」
杏子は面食らって、十代と大瀧を交互に見ている。
「『カンナ様』。私にはもうなにがなんだかわかりませんが、教えておきましょう。仲間が、我々を苦しめた海馬瀬人に関わりのある人間を襲っています。武藤遊戯や城之内克也、やつら共犯者もね」
「遊戯さんになにかしたのか!?」
十代は、対峙していたときの泰然とした態度が嘘のように動揺している。
「私は管轄外ですよ。しかし、とくに遊戯を目の仇にしている仲間も確かにいる」
「まずいです。急ぎましょう、杏子さん」
「え、ええ」
大瀧は虚空を見あげて座った。ペンギンたちが心配して、まるで本当の家族のように集まってきた。
「最後に、ひとつだけ教えてくれませんか。私がやってきたことが間違いだったなら、この人生はいったい何だったというのです?」
「自分で考えろよ。それって、人に教えてもらうことじゃないだろ」
十代は突き離すような言い方をして、そこですこしだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
「って、ばかな子どもだったオレは言ったろうけど。もう捨てちまったんだから、何だっていいじゃないか。今日からあんたの貴重な時間を、栄光の日々を重ねていくんだ。がんばれよ大瀧さん。大好きなペンギンデッキはあんたを愛してる。それに、オレも手を貸すからさ」
十代が駆けだした。今度こそ振り返らなかった。そして大瀧も、もう彼を呼び止めなかった。
*
さっきよりも身体は軽くなっていて、頭も冴えている。それが〈ペンギン・ナイトメア〉の心の闇を食らったためだということを、もう十代は忘れてしまっていた。
高速道路に面した崖の陰に、不可思議な扉がはまりこんでいる。大瀧が教えてくれた非常口だろう。杏子は、まだあの男への不信感をぬぐえないでいるようだ。
「あのスケベオヤジ、ほっといて大丈夫なの」
「あの人は、痛みを見ないふりはしていない。オレたちが手を貸す必要も、きっとないでしょう」
「私の心配は、仲間を呼んで襲ってこないかってことなんだけど。あれが改心するとは思えなかったから、ちょっと驚いたわ。何を言ったの」
「決闘しただけですよ。面白いデッキでした」
杏子は、さっきまでペンギンの群れがいた場所を眺めて溜息をついた。気おくれした微笑みを浮かべ、首をすくめた。
「あーあ。キミって天使みたいね」
半身が起きていれば、神話の上での商売敵にたとえられたことに大笑いをしただろう。
岩壁の四角い扉の向こうは、見覚えのある広い空間に続いている。童実野駅前にできた大型商業施設だった。デュエルスペースが充実したカードショップが入っていて、一度遊戯に連れてきてもらったことがある。
通路には人の姿がまったく見えず、ダークネスに世界中の人々が攫われたあの日の童実野町を連想させた。この先にあるのは、本当に現実世界なのだろうか。大瀧の目は嘘をついていなかったが、消えない違和感が空気を濁らせている。
十代の背後で扉が閉まった。振り向くと、入口の扉と杏子の姿が消えている。
「杏子さん。どこですか?」
十代は、ひとりで吹き抜けのホールに立っている。スピーカーから流れてくる音楽が、自分の作り声でできた歌に変わった。
*
大瀧の目の前に、金髪の女が音もなく現れた。遊戯の仲間の、自らを天才だとうそぶいている眼鏡女だ。本物はすでに魂を抜かれ、今ごろ瓶詰めにされた人格が電脳空間をさまよっているはずだ。
「貴様の失態は、あの方に報告をさせてもらうぞ。大瀧。我々の連帯責任だと言いだされてはかなわないからな。せいぜい言い訳を考えておけ」
女の唇が、中に入っているしゃがれた老人の声を吐く。失望と怒りの視線が突き刺さった。
大瀧は頭を抱えた。無数のペンギンが、リーダー〈ペンギン・ナイトメア〉の傷ついた姿をとりかこんで、不安そうにさざめいている。
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