【 目次にもどる 】

アテムとソロモン(5)

 少年は、ゴヤのキャンバスの前で立ちすくんでいた。ぬめりけのある黒い画面の奥に、大きな鼻をした異形がいる。
 油ぎって固くなった髪とひげは見るからに不潔で、田舎の祖母の家の納屋に積もった厚い綿ぼこりの層を思わせた。姿かたちは人に似せて描かれているが、ただ開かれているだけの黒々とした目は、何も見ていない。
 落下式便所の穴のような口に、首と腕がもげた人間の子どもを押しこんでいる怪物の表情は、哀しみにあえいでいるようでもあったし、目に見えない脅威に畏れ慄いているようでもあった。
 両親に連れられて童実野美術館にやってきた少年は、早く家に帰りたかった。ここには気味の悪い絵ばかり飾られている。
「こんにちは、ぼうや。ひとりかい」
 いつの間にか、洗いざらされたターバンを巻いた貫頭衣の男が、少年の隣に立っていた。見たこともない肌の色で、落ちついた声をしている。
「この絵の醜い怪物は、サトゥルヌスという。むさぼり喰われている若い少年の、実の父親だ。天空と大地の神の間に生まれたこの男は、父親を裏切ってローマ神話の主神の座を自らのものにした。皮肉にも、肉親から権力を奪った彼自身もまた、息子に殺される運命だ。未来を知ったサトゥルヌスは、死と栄光の喪失を拒絶し、実の子どもたちを喰い殺してしまった。父に飲まれた子の姿を覚えておくといい。可哀想だけれど、ここには君の運命がある」
 少年は怖くなって、怪物の絵の前から逃げ出した。
 男は追いかけてこなかった。少年はほっとして、春の延長の穏やかな日差しが射しこんでくる廊下を歩きながら、やがて訪れる梅雨の前触れを含んだ空気を肺いっぱいに吸いこんだ。
 展示室からひとりで出てきた少年を見つけて、館員の女性がやってきた。彼女は事情を聞くと、心ない大人にからかわれた傷心の子どもに同情する顔になった。
 少年の手をやわらかく掴んで歩き出す。彼女が長い脚を前に出すたびに、タイトスカートが小気味良く揺れ、薄手のシャツの胸元に結んだ、光沢のあるリボンが踊る。
「館内放送でご両親を呼んであげるから、ぼうやのお名前と歳を教えて」
「十代。遊城十代、七歳です」
 少年は、目を伏せて女に答えた。


【12 遠い日】




 高校三年生に進学した遊戯は、放課後になってもゲームやスポーツの話題を持ち出す者は誰もいない、ぴりぴりとしたクラスの空気になじめないでいた。「そんな時期だし、仕方ないね」と杏子が言った。
「来月はもう夏休みじゃない。私、ずっとバイトだろうな」
「大きな声で言っちゃだめだよ。アルバイトは禁止でしょ」
「平気よ。お世話になってる人が、校長に紹介状を書いてくれたの」
 杏子は、いつもの探るような目で遊戯を見た。遊戯はわざと鈍感なふりをした。彼女が求めた面影を見つけることは永遠にかなわないことを、ふたりともが知っていたからだ。
 遊戯は、ひとりで校門を出た。最近は仲間たちともすれ違ってばかりだ。
 今日の亀のゲーム屋は、早々に店じまいをしており、店内に祖父の姿がない。そのかわりに、カウンター横のスツールに、小さな子どもが座っている。
 おとなしそうな男の子だ。泥汚れのないスニーカーと、ハーフパンツから露出した絆創膏ひとつない膝小僧が、外遊びをあまり好まない性質を物語っている。
 店の奥の扉が開いて、双六が顔を出した。
「遊戯。おかえり」
「じーちゃん。この子はどうしたの」
「叔母さん夫婦のところの子じゃよ。いま、奥に来とるんじゃ」
 遊戯と目があうと、子どもは恥ずかしそうに赤い帽子のつばを下げた。双六が、腰をかばって屈みこみ、緊張している子どもの肩を抱いた。
 萎縮しているが、吊り目がちのブラウンの瞳には、年齢相応の快活な興味が光っている。珍しいツートンカラーの髪。
「ほれ、遊戯兄さんに挨拶をせい」
「はじめまして。ぼく、遊城十代っていいます」
 遊戯は面食らった。目の前に現れた小さな子どもに、ペガサス暗殺未遂事件で共に闘った未来人の姿が重なって見えた。
 双六は目じりを下げて、小さな十代の、綿毛のようにふわふわとしたチョコレート色の髪を撫でている。
「十代には絵の才能があるんじゃ。海馬コーポレーションのカードコンテストがあったじゃろ」
 海馬コーポレーションは、デュエルモンスターズに宇宙の意志の波動を与えて、まったく新しいカードを作り出すという途方もない計画を打ち立てていた。世界中の子どもたちがイメージしたモンスターのなかから選ばれたカードが、タイムカプセルに封印されて空の彼方へ送り出される。
「ロケットが打ち上げられるところなんか、見たのは初めてじゃったろう。あれはすごかったのう」
「うん……」
 十代は、うつむいたままだ。
 遊戯よりもずっと大人びていた〈将来の十代〉が、手足のように操っていたモンスターたち。もしかすると彼らは、遊戯が生きるこの時代で、幼い十代が思い描いた正義の味方だったのかもしれない。
「ねえ。キミ、決闘をするんだろう」
 再会の喜びを分かちあうことはまだできないが、十代なら、物心ついたころからデュエルモンスターズを愛していたに違いない。困惑は興奮に変わり、遊戯の心は弾んだ。いったい、どんなデッキを使っているのだろう。楽しい決闘ができそうだ。
 十代は、顔をくもらせてうつむいた。玄関から、若い夫婦の声が聞こえてきた。
「十代。帰りますよ」
「うん、パパ。ママ」
 十代はスツールを飛び降りて、両親のもとへ戻っていった。一度だけ振り返り、両足を踏んばって、遊戯を挑むように見あげた。
「決闘はしません。嫌いです」
 無垢な柔らかさに縁取られた声に、固い決別の意志が込められていた。



 六月二日。遊戯は、腰を痛めて童実野病院に担ぎこまれた祖父を見舞いに訪れた。母に聞いた病室番号を探して歩いていると、廊下にしゃんと立ち、他人の部屋を覗いている双六の姿がある。
 また好みの女性でも見つけたのかもしれない。遊戯は祖父の悪癖に、呆れと恨めしさを覚えた。双六の腰は、身体の持ち主の性格と同じく虫がいい。耐えがたいはずの痛みも、美女に微笑みかけられたとたんに吹き飛んでしまうのだ。
「じーちゃん。休んでなきゃだめだよ」
 遊戯は語気を強めて祖父をいさめた。
 双六が、目でスライド扉の奥を示した。個室のベッドに、小さな子どもが横たわっている。
 十代だ。全身にひどい火傷を負っている。患者衣の下に巻きつけられた包帯の隙間から、赤く腫れた表皮が覗いていた。
「驚いて、ぎっくり腰どころじゃなくなったわい」
 双六が言った。
「昨日の夜中、急にあの子の身体に火がついて燃えあがったそうじゃ。先生に聞いた話じゃが、そばに火元も見当たらず、原因はわからん」
 人体発火の超常現象。まるでテレビのオカルト番組だ。
「今はよく眠っておるが、うわごとで誰かに謝り続けておるようなんじゃよ」
 グレーのスーツ姿の女性が、ポケットベルを手に病室へ入ってきた。十代の母親だ。遊戯を見ると軽い会釈をして、ボードの前で看護師と話をしている。
「もしなにかあれば、電話をください。私たちは、しばらく童実野に戻れませんから」
 遊戯は耳を疑い、なじみの薄い叔母に食ってかかった。
「そんな。大怪我をした十代くんを、ひとりで置いていくんですか」
「遊戯くん。お仕事だから仕方がないって、十代もわかってくれているのよ」
 叔母は、傷だらけの息子から眼を逸らして言い訳をした。もとは十代によく似た整った造作をしていただろう顔立ちは、頬の肉が削げ落ち、両目の下には色の濃いくまがあった。彼女はとても疲れている。
 叔母は一瞬のためらいのあとで、息子の胸に白い手を置き、「行ってくるわね」と言った。
 意識のない十代が、消え入りそうな声で誰かを呼んだ。そのすりきれた名前を耳にした母親は、得体の知れない恐怖に慄いてあとずさった。
 死人のように痩せこけた女の背中を、双六が叩いた。
「娘や。すこし良いか」
「……ええ、お父さん」
 祖父をともなって病室を出て行くとき、叔母は一度も息子を振り返らなかった。あとには遊戯と、昏睡した十代が残される。
 遊戯は、しばらく孤独な子どもの隣についていた。あどけない寝顔に、大人になった十代の面影を重ねていた。
 やがて、薄いまぶたが開く。意識を取り戻した子どもは、皮膚を蝕む熱感と、包帯の下の潰れた水疱の不快さに顔をしかめたあとで、遊戯の姿に気がついた。
 遊戯はしどろもどろになり、奇妙な罪悪感にかられて目を泳がせた。今から、満身創痍の子どもに、両親が数日は息子の病室へ立ち寄らないのだと、教えてやらなければならないからだ。
 十代は、驚くほど落ちついている。ふたりのほかに誰もいない病室を見回しただけで、自らを取り巻く状況を理解したようだった。
「パパとママは……? お仕事?」
「うん。不安だよね。病院にひとりなんて。パパもママもいなくてさ」
「大丈夫です。ぼく、ちゃんと留守番できるから」
 十代が得意そうに言った。彼は、ひとりで誰かを待つことに慣れてしまっている。多くの大人が今まで驚いたふりをして褒めてくれたように、遊戯もまたこう言ってくれることを期待していた──『ひとりで留守番ができるのかい。なんてしっかりした子なんだろう。寂しいのに我慢して偉いな』。
 使い古された気休めで幼児を言いくるめてやれるほど、十七歳の遊戯は器用な大人になれない。
「キミのパパとママは、あまり家に帰ってこないの」
「はい。忙しいから、しょうがないんです」
「ボクの家も、パパが出張に出てていないんだ。家族が欠けているのって、落ちつかないよね。でもじーちゃんやママがいてくれたから、寂しくはなかった」
「そっか。なんか、遊戯さんの家っていいな」
 十代が唇を噛んで、再会してから初めて笑った。
「ひとりじゃないのは、うらやましいです」
「じゃあボクが、十代くんのお兄さんになってあげようか」
 遊戯は咄嗟にそう言っていた。十代のチョコレート色の瞳が、昼間の猫のようにすぼまって揺れた。
「ボクもひとりっ子でさ。兄弟がいる友達がずっとうらやましくって。もしよければだけど」
 遊戯は照れくさくなって頭をかいた。十代は首を傾げ、「にいさん」と口真似をする。ガーゼを貼りつけられた頬が、徐々に紅潮してきた。
「ほんとにいいの」
「学校が終わったら、すぐにお見舞いに来てあげる。男の約束だ」
 遊戯は重々しく頷き、柔らかい小指同士を絡めた。
「だからはやく元気になるんだぜ。また明日だ、十代」



 ベッドの上で退屈そうにしていた十代は、遊戯が病室を訪れると、携帯型ゲーム機を枕元に置いて顔をほころばせた。遊戯は、お見舞い用の紫陽花の籠を据え置きのキャビネットの上に飾り、場所をあけてくれた十代の隣に座った。
「替えのタオルを持ってきたよ。パジャマと下着もなかに入ってる。ボクのお古だから、大きいかもしれないけど」
「うれしい。ほんとに来てくれたんだ」
「約束だからね。今日は、たくさんゲームを持ってきたよ」
 遊戯は、ぱんぱんに膨らんだ学校のかばんを開けた。教科書は一冊も入っていない。教室の机に置き去りになった辞書や白紙のノートのかわりに、色とりどりの玩具が詰めこまれている。
 十代は、不安そうに遊戯を窺っている。
「でもぼく、決闘はだめなんだ」
「安心して。それはなし。ボクが得意なのは、デュエルモンスターズだけじゃないんだよ。うちの家ってゲーム屋だから、友だちと楽しく遊ぶ方法はいくらでも知ってるんだ」
 昨夜、遊戯は自室の玩具箱をひっくり返し、かつて一時代を築いてふんぞりかえっていた娯楽品の数々を引っ張り出してきた。今は飽きっぽい子どもたちに忘れられて、もう誰にも見向きもされなくなってしまったが、流行した当時は学校に行けばクラスのみんなが持っていた。手に入れられなかった者は友人たちの話題についていけず、悔しい思いをしたものだ。
「触ってもいいの」
「うん。どれも友だちとの思い出がいっぱいつまった、大切な玩具なんだ」
「ねぇ、それ聞かせて」
「いくらでも」
 十代が目を輝かせた。
 遊戯はにっこりした。七つの子どもが、おもしろおかしく遊べる権利を諦めるようなことがあってはならない。
 ふたりで遊びに夢中になっていると、看護師が病室の巡回にやってきた。看護師は怖い顔をして、「カードゲームをしてるんじゃないわよね」と言った。
「あなた、武藤さんのお孫さんで、テレビに出てデュエルモンスターズをやっていた遊戯くんでしょう。十代くんのご両親から、決闘だけはさせないでほしいって、強くお願いされてるのは知ってるかしら」
「決闘ができないのは残念だけど、ほかにも面白いゲームがたくさんあるから」
「それならいいんだけど。いい、絵を描くことは自由だし、遊城さんが買ってきた新品のロムカセットと携帯ゲーム機もオーケーよ。でもデュエルモンスターズに限っては、カードカタログのページをめくることも許しませんからね。あとで文句を言われるのはうちなんだから」
 看護師はベッドの上に積み上がった玩具を一瞥して、とくに害はないと判断したようだった。十代の検温を手早く済ませて、次の仕事に戻っていく。
 制服の裾を、こわばった指先がつかんだ。遊戯は、赤みを帯びた吊り目に涙を溜めている十代の小さな頭を、胸に押しつけて抱いてやった。
「どうしてデュエルモンスターズを嫌うのか、わけを聞いてもいいかな」
「ぼくの決闘は、ひ、人を傷つけちゃうから」
 十代が震え声で言った。
「兄さんも、パパとママみたいに、ぼくが嫌いになるかもしれない」
「ほんとは、決闘が嫌いなんかじゃないんだね」
「ちがうよ。今すぐデッキのみんなに会いたい。決闘をやりたい。デュエルモンスターズも決闘する遊戯兄さんも大好き。いつもテレビを見て応援してたんだよ。でも」
 遊戯は、ようやく子どもらしい感情表現を見せてくれた十代の背中をさすってやった。彼は冬眠をしそこなった直翅目の昆虫のように、静かで虚しい泣き方をする。
「ずっと前から、ぼくにはデュエルモンスターズの精霊たちが見えたんだ。嘘じゃないよ。ぼくの家はいつもパパとママがいないけど、みんながいてくれたから寂しくなかった」
 十代の、ほかの人間の目には見えない透明な存在との談笑を、両親は幼児期によくある空想癖の一種として受け止めていた。周囲を取りまく人々も、コティングリー村の妖精写真を引きあいに出して、夢見がちな子どもが招く無邪気な騒動を面白がっていた。
 人が精霊の存在を信じているかそうでないかには関わらず、十代を介したふたつの世界の関係は良好だった。遊城家に、とあるカードが舞いこんでくるまでは。
「ユベルは、パパがお土産に買ってきてくれたんだ。うちに来た日から、すぐに仲良しになったよ」
 ユベル。知っている。成長した十代の良きサポート役を務めていた、悪魔族の上級モンスターだ。
「ユベルは、パパやママよりずっとぼくのことをわかってくれた。決闘で負けて泣いてしまったぼくを見て、ユベルはきっと、いじめられたと思ったんだ」
 ある決闘のあとで、十代を負かした近所の年長の友人が急に倒れてしまった。主の誇りを傷つけた敵に、ユベルが報復を行なったのだ。
「ぼくと決闘した人は、みんな不幸になる。人間の友だちは、怖がって遊んでくれなくなっちゃった」
 十代のひそやかな告白は、遊戯の友人獏良了のかつての苦悩を連想させた。彼もまた悪しき存在に取り憑かれて、自身の意志とは裏腹に、近しい人々を傷つけてしまう身の上だった。友人たちに避けられて、あるいは自ら孤立を望んで犠牲者の増加を食い止め、心を閉ざしていたのだ。
 十代が患者衣の袖をまくった。ふっくらした伸びかけの腕に巻かれている包帯の数が、昨日よりも増えている。しかし彼は、熱傷の疼きとは異なる胸の痛みにこそ苛まれていた。
「ユベルはぼくが考えたヒーローといっしょに、ロケットに乗って宇宙へ行ったよ。もう地球の上にはいないんだ」
 宇宙の意志の波動を与えて、カードを正義の力に目覚めさせるという海馬コーポレーションの企画を知った十代は、正しい力を浴びれば、ユベルが善悪をわきまえた優しい精霊になってくれるに違いないと考えた。十代は、ユベルを宇宙への旅に連れていってもらえるように、両親を通して海馬瀬人に頼んだ。願いはすぐに叶えられた。
「カードをロケットに乗せたときは、すこしの間寂しいのを我慢すれば、いい子になったユベルとまた楽しい決闘ができると思ってた。でも夢を見たんだ。ユベルが呼んでる。あの子は、光のない夜の間だけぼくを見つけられるんだ。大きな火に焼かれて苦しんでた。ぼくは、宇宙があんなに熱くて痛くて悲しい場所だなんて、知らなかったんだ」
 幼い罪の意識が、十代の未熟な心臓を握りしめている──手の届かない空の彼方へ、大切な友人を行かせたのは間違いだったのかもしれない。たとえユベルの悪意が正されなくても、手元に留めておけば、少なくとも熱の壁に叩きつけられることはなかったのだと。
 遊戯は、十代の濡れた頬を上げさせてやった。
「ユベルは、いい子になって戻ってくるよ。ボクが保証する」
「ほんとに、『絶対』、ユベルは帰ってきてくれる?」
「絶対さ」
 遊戯は言った。十代が手首でまぶたを強くこすって頷いた。
「信じるよ。決闘王が、嘘なんか言うはずないもん」
 ──十代は間違っていない。
 近しい者の未来に光を願って旅立ちを見送る決意が、誤ったものであるはずがない。たとえ、耐えがたい別離の痛みをともなったとしても。



 病院の公衆電話から、遊戯は武藤家に連絡を入れた。電話口に出た祖父に、今夜は十代についていてやりたいのだと伝えた。
「ふむ。たしかに十代の火傷は、デュエルモンスターズの精霊が引き起こした障りである可能性が高い。じゃが遊戯や、おまえが出会ったという未来の十代は、おまえを知っておったのか』
 双六は、十代を気遣いながらも歯切れが悪い。
『約束したように、おまえを兄さんと呼んだかの』
「ううん」
『のう遊戯。ワシの言いたいことはわかっておるはずじゃ』
 未来を知る遊戯と関わることで、十代の運命に想像もつかない変化が起こるかもしれない。それが良いものであれ、悪いものであれ、もともと繋がるべきではないふたりが固く繋がってしまうのは危うい。
「わかってるんだよ、じーちゃん」
 それでも遊戯は、ひとりで泣いている十代を放っておけない。
 病室に戻ると、十代は静かな寝息を立てていた。遊戯はスツールに座って、枕を抱きしめている子どもの手のひらを両手で包みこんだ。盛りあがった水疱が痛々しい。
 もうひとりの自分が隣にいてくれたら、どれほど心強かっただろう。彼に相談がしたかった。予想もしない形ではあるが、遊城十代に再会できた喜びをふたりで分かちあいたい。
 あるべき未来をねじまげる行為だと知っていても、アテムもまた、親に置き去りにされた十代を、決して放ってはおかなかっただろう。
 幼い身体が寝返りの拍子に蹴飛ばしたシーツを、肩までかけ直してやる。ふと、心地の良いぬくもりが胸に灯った。じわじわと広がっていく。
 弟ができた。
 兄弟ができた、兄さんになった。
 遊戯はもう長いこと、他愛のない夢を見ていた。年下の家族に、無条件の尊敬と愛を向けられてみたかった。それに慈しみで応え、大きな庇護を与えてやりたかった。城之内と海馬のように。
 子どもが大人になった未来で、十代は遊戯をまだ兄と呼んでくれているだろうか。



 遊戯は今まで、童実野病院にいたはずだった。清潔なスチールパーティションに囲まれた部屋で、快適に調整された空気に染みついたアルコールのにおいを嗅ぎながら、瞼を閉じていたのだ。
 それが、夜半過ぎに覆いかぶさってきた強烈な眠気の波に押し流されて、瞬時に消し飛んでしまった。
 遊戯はいつのまにか、計り知れない暗闇に包まれた宇宙のまっただ中に浮かんでいる。目の前には青く光る惑星と、パジャマ姿の十代の背中が浮かんでいた。
 赤い光が弾け、あたりは一瞬で炎に包まれた。どこからか、男と女の声域を合成した不思議な声が呼びかけてくる。
『熱いよ。痛い。苦しい。助けて十代』
 人と竜の特徴を併せ持ったモンスターが、マスターの助けを求めて腕を伸ばしていた。ユベル。廃棄された人工天体とともに星の軌道を巡りながら、鱗に覆われた全身を燃えあがらせている。
 アブレータを用いたカプセルに封印され、宇宙に打ち上げられてなお、ユベルは夜の闇のなかであれば、悪魔の瞳で十代の姿を見つけ出すことができる。夢というかたちで、語りかけることさえできるのだ。
「ユベル」
 十代が、悪夢の再開を予感して青ざめた。炎に怯えて立ち竦んでいたが、憐れなしもべに向かって、おずおずと手を伸ばした。短い指が、空気の断熱圧縮で生じた高温によって、またたく間に炭化する。
 半狂乱の悲鳴が響いた。ユベルは、自らと同じように傷つく主人の姿を、恍惚として見つめている。
『ああ、十代。ボクを連れ戻して。キミはただ、ボクの帰りを願うだけでいい。そうすればボクは、またキミを守ってあげられる』
 ユベルは、妄想に取り憑かれている。たとえ十代が、宇宙を見上げてどんなに手を伸ばしても、星の海を泳ぐフェイバリットには触れられない。この精霊には、十代の心を宇宙へ引き上げて、ともに燃え尽きることしかできないのだ。
 十代の、困惑と後悔の涙がたまった大きな瞳が、遊戯を見つけた。
 途方に暮れた子どもの、片側の手の皮膚は壊死を起こして黒ずんでいたが、神経が焼け死んでしまったのだろうか、彼に痛みを感じている様子はない。遊戯は、十代の無事だった手を掴んだ。
「兄さん。来てくれたの」
「帰ろう、十代。こんなところにいちゃいけない」
 初めて闇のゲームに引きこまれたときの苦痛を、今でもよく覚えている。まるで、かたちのない怪物の顎に、足元から齧られていくようだった。
 当時の遊戯よりも、十代はまだ小さい。幼児の肉体は、最高位のモンスターとは比べ物にならないほどに脆い。現実へ影響を及ぼす夢に、耐え続けることはできないだろう。これからもユベルの干渉が続けば、夜毎の焼死を繰り返す子どもの魂を、朝の輝きが救えなくなる時がくる。
 このふたりには、今は道を分かつ選択肢しか残されていない。
『おまえは何者だ。十代の何だ』
 大きなこうもりの翼を生やした、男女が左右でつり合いをとるような奇妙な体つき。額を穿つ黄ばんだ三つ目。いつか未来から訪れた旅人の虹彩異色症の瞳が、遊戯の姿を映しこんだ。
『ボク以外の誰かが、十代に触れることは許さない。十代はボクだけを見ていればいい。ボクと十代はいつもいっしょ。だから、ボクの痛みは十代の痛みでもあるべきだ。哀しみに胸を裂いて、息もできないくらいに苦しみ、ボクが燃え尽きるときには共に朽ちて死ぬしかないのさ』
「変だよユベル。おかしいよ。なに言ってるのかわかんないよ」
 十代が、湿り気を帯びた声で訴えた。遊戯の腕のなかで、鶏の尾羽のようなはねがついた頭が揺れ、甘ったるく歪んだ猫なで声が押しつけてくる悪意を拒絶していた。
 その精霊には、遊戯が初めて会ったときに大事そうに持っていた、マスターへの深い信頼が欠けていた。妖しい瞳には、強欲を純化した狂気が渦巻いている。おそらく、人にはうかがい知れない何かが、ユベルの身に起こったのだ。
「すこし目を閉じているんだ、十代。いいね」
 遊戯は、かつての半身を光の向こう側へ送り出す決意を込めて組みあげたデッキをかざした。ユベルの眼は、闇をしか覗けない。光を宿したカードの力が、邪悪な視線を遮断する。
 精霊がかかげた悪意と紙一重の狂った愛情と、マスターの未練と寂しさを結んでいた、目に見えない糸が途切れた。繋がりを失った悪魔の姿が、無数の星の残骸の彼方へと押しやられていく。
 十代を求め、そして遊戯を呪う絶叫とともに、四方で踊りあがっていた炎が止んだ。醒めたような浮遊感のあとに、身を切る落下の感覚がやってきた。身体が重力に引かれはじめたのだ。
 無限の宇宙と星々は遥かに遠ざかっていき、気がつくと遊戯は、童実野病院の殺風景な病室にいた。
 ベッドに横たわっている十代の寝顔は、穏やかだ。ユベルとともに負っていた火傷が消失している。
 戻ってきた。悪い夢は、彼の無意識から去ったのだ。
 小さな呼吸を繰り返す唇から、すすり泣くような寝言が零れた。あどけない頬を、涙がつたう。
「──ごめんね。ユベル」
 遊戯は、お下がりのパジャマを着た小さな背中をさすってやった。十代が、どんな思いでユベルのカードを手放したのかを、誰よりもわかってやれるつもりだ。
 ずっと一緒にいた十代とユベルは、『あの時の自分たちのように』今は離れ離れになってしまった。それでも、大切な相手とともに切り開いていく未来を諦めた十代が、『あの時の自分のように』無事に生きていてくれて本当によかった。
 遊戯は、ふと顔を上げた。
 ──今、ボクはなにを?
 窓の外にちかりと光が見える。朝日だ。



 童実野駅のホームに、ベルが鳴り響く。夕方の物寂しい赤い光を浴びて、列車が滑りこんできた。
 十代を迎えにきてくれた母は、大火傷の痕が綺麗に癒えた息子の姿に驚いたようだった。また気味悪がられるかもしれないと十代は心配したが、母はただ息子の早い退院を喜んでくれただけだ。
 十代は勇気を出して、母に夢の話を切りだした。
「ねぇ、ママ。ユベルが夢に出てきたんだ。火に焼かれながら、ぼくを呼び続けてた」
 ユベルが鱗の腕を伸ばして十代を宇宙へ連れ去ろうとしたこと、そこに遊戯が現れて助けてくれたこと。ユベルの泣き声が途切れると、不思議なことに身体中の火傷が消えてしまったこと。
 悪魔の呪いは、十代から遠い空の彼方に旅立ってしまった。だから、もう家族の前でカードの話をすることは怖くない。
「ぜんぶ終わったんだ、ママ。ぼくまた新しい友だちと遊べるよね」
「そうね。これからは、普通の男の子よ」
 母が、ずいぶん久しぶりに十代を抱きしめた。まるでユベルが家に来る前まで時間が巻き戻ったようだ。
「今までごめんね。十代」
 落ちついていて、柔らかい声だ。決闘がなければ、母は昔のように十代に優しかった。平凡で居心地のいい、素敵な家族の顔をしている。
 十代には、身の周りで起こる不幸のせいで、家族の心が日ごとにお互いから離れていくのがわかっていた。両親の鼻の先に、呪われた息子を捨てて遠くへ逃げてしまいたいという誘惑がぶら下がっているのが見えたのだ。
 双六は、十代の話を信じられないような表情で聞いていたが、物悲しい目はこう言っていた。『大好きなものを嫌うふりをするのは、しんどいもんじゃろう』。
 でも平気だ、と十代は思った──パパとママが昔みたいに仲直りしてくれたら、ぼくは決闘なんか、もう一生できなくたっていいや。
 十代は、普通でいたいと切望する。ユベルと一心同体の化け物にはなりたくない。星たちの間で人知れず炎にくべられる、誰からも愛されない透明な怪物には。
 三人で武藤の家への帰途につく。商店街の花屋に立ち寄り、あじさいの花束を買った。今日は遊戯の誕生日だ。母が祖父に目配せをして、十代を覗きこんだ。
「十代。武藤の家は好き?」
「大好き」
「パパとママは、またお仕事へ行かなければならないの。私たちが帰れるまで、お祖父ちゃんの家で暮らしてみるのはどう」
「ほんとに?」
 十代は驚いて母の顔を見あげた。
「また悪魔が十代を探しにくるかもしれない。私たちの力では守ってあげられないけど、遊戯くんならそれができる。ユベルからあなたを救ってくれるわ」
 住宅街の手前にある児童公園で、いっぱいに咲いたあじさいの花壇を背に、遊戯が待っている。名前を呼ぶと、同じ高校の制服を着た人たちの輪の中から、花と同じ色をした優しい目を投げかけてくれた。十代は駆けだした。
「十代。だめよ、急に飛び出さないで──」
 十代は、息をはずませてアスファルトの上を走っていった。花束をたずさえて『ハッピー・バースデイ』の歌を口ずさもうとしたところで、大きなクラクションが鳴った。
 遊戯の笑顔が凍りつく。十字路の角から、中型のキャブオーバートラックが滑りこんできた。ブレーキの甲高い絶叫と虚しい衝撃、鈍い光のなかに舞いあがる、紫色の花びら。
 遊城十代少年の短すぎる人生は、すす色の分厚いゴムタイヤにあっけなく轢き潰されてしまった。


【13 空白】




 城之内は舌打ちをして、自転車を止めた。いつまでも生温かい唾を吐きかけてくる、昼さがりの雨雲を口の中で罵った。しけった磯臭さに混じって、遠雷のイオンの匂いが雨粒の間を漂っていた。
 童実野埠頭に鳴り響くフェリー船の汽笛の合間に、犬の鳴き声が聞こえる。本田だ。
 倉庫街の前で、飼い犬のブランキーにリードを引っ張られている。ゴーゴーストアの買い物袋を肘にさげており、目が合うとビニール傘を軽く振った。
「よう、城之内。雨なのに精が出るな」
「勤労少年に天気なんて関係ねぇのさ。おまえこそ、ずぶ濡れじゃねえか」
 本田が、舌を出して頭をすり寄せてくるブランキーの鼻先をくすぐった。
「こいつの餌を切らしちまったんだよ。外は雨だってのに、聞きゃしねえ」
 ブランキーが鼻声をあげて、買い物袋の底に噛みついた。ビニールが裂け、こぼれ落ちたアルミの缶詰が、港湾倉庫のシャッターの前を甲高い音を立てて転がっていった。
 飼い主があげた罵声を気にも留めずに、ブランキーは濡れて黒光りのする鼻をうごめかすと、静まりかえった倉庫に向かって喉の奥で唸りはじめた。
 かすかな物音。転がっていった缶が、四角く口を開けたシャッターのなかに吸いこまれて消えてしまった。
「野良犬かなにかが棲みついてるのかもな」
「いや、手を使ったんだ」
 城之内は自転車のスタンドを立て、あちこちのくぼみに水がたまったレインコートを揺さぶって水滴を落とし、黙して佇む倉庫のシャッターを持ちあげて身体を滑りこませた。
「猿みてぇに小せえのがいた」
 屋内は打放しで天井が高く、ナトリウムランプが陰気なオレンジ色の明かりを落としている。雨の滴がトタン屋根を叩いて、雨どいを滑り落ちていく音。ブランキーは鳴くのをやめない。
 積み上げられているコンテナの陰で、なにかが動いた。
 ──子どもだ。
 小学校に上がって間もないだろう年頃の少年が、裸で、短い手足を折りたたみ、壁際にうずくまっている。冷や汗が染み出し、胸のあたりがしこってきた。
 幽霊か。思わず顎を引いた。
「おい、城之内」
 本田が上ずった声をあげて、子どもが胸に抱いている犬の餌の缶詰を指さした。ブランキーが、恨みがましげな低い声で一度吠えた。



 童実野港湾署に呼び出された双六に付き添って、遊戯は古ぼけた交番に駆けこんだ。スチールのデスクの前に、城之内と本田が並んで立っている。ふたりともびしょ濡れだ。
「武藤双六さんですな」
 応対したのは、濃いくまの浮いた強面の警察官だった。仏頂面をした城之内と本田を、嫌な目で睨んでいる。
「この不良ども、港湾倉庫で保護された、おたくのお孫さんの知り合いだと言い張るんですよ」
 椅子の上に、ツートンカラーの小さな頭がある。遊戯は何度も目を擦った。信じられない。
「じゅ、十代……?」
 タオルケットにくるまった遊城十代少年が、ブロック栄養食を一心不乱に頬張っていた。
 手を伸ばすと、チョコレート色の瞳が怯んだ。それでも掻き消えてしまうことはなかった。荒れた髪の感触は本物だ。幽霊ではない。
「十代」
 ──いったい、どうなっているんだ?
 一月前の遊戯の誕生日に、双六や、遊戯を祝うためにひさしぶりに集まってくれた仲間たちの目の前で、十代は交通事故に遭って命を落とした。トラックの下敷きになった幼児を、遊戯は確かに抱いたのだ。すでに肉塊だった。
 今ここにいるはずのない十代は、知らない大人たちを前にしたような、よそよそしい態度で黙っている。
「ブランキーが埠頭の倉庫で見つけたんだ。遊戯もじーさんも人が悪いぜ。その子が無事だったなら、一言教えてくれればよかったんだ。ともかくオレたち、その子を家族のところに連れてってやろうと思ったんだ。それがなんでか、誘拐魔と勘違いされちまってよ」
 本田がもどかしそうに言った。
「まずは、この子を家に連れて帰ろう。十代。立てるかの」
 双六が十代の肩を抱こうとするが、冷ややかな眼をした警官が立ちはだかった。
「不良どもの仕業でないとすると、お爺さん、我々はあんたが育児放棄を行なっとると考えざるを得ないわけでして」
「なんと。まさか」
「十代君は学校に通わせてもらっている様子がないし、満足な食事を与えられているとも思えない。なんでも暗い倉庫のごみの山の中、裸で放置されていたというじゃないですか。この子は、ひとまず福祉事務所の方で預かります。いいですな」
 双六は唖然としている。
「おまわりさん、ワシは誓ってそんなひどいことはしておらん。本当じゃ」
 デスクの電話機から、無感情な呼び出し音が鳴る。手垢まみれの受話器越しの短いやり取りが終わると、警官の態度は一変していた。申し訳がなさそうに双六に頭を下げる。
「とんだ勘違いだったらしい。この子は、病院から逃げ出してきたそうなんですな。事故で頭を打ったせいで、錯乱しているんだとか」
 ──頭だって?
 遊戯には、わけがわからない。
「これから担当医がお孫さんを迎えに来ます。署ではとくに大したことはしてやれんですから、家へ戻る方がいい。書類におたくの住所を書いておいてください」
 警官はそう言って、双六にクリップボードとボールペンを渡した。



 遊戯の母親は、息子が連れ帰った薄汚れた子どもの姿に言葉をなくしていた。
 死んだはずの十代が、小さなくしゃみをする。幻を疑うように見開かれていた母の目つきが、柔らかくなった。
「風邪をひかせるわ。お風呂に入れてあげなさい。あがってくるころには、なにか用意しておくから」
「おまえも温まってこい。雨にあたったからの。叔母さんには、ワシから知らせておこう」
 十代は、風呂にいれてやる間じゅう口をつぐんでいた。膝にのせてバスタブにつけてやり、チョコレート色の髪の間にそっと指を差しこんだ。とくに傷は見当たらない。
 六月四日。一月前の誕生日、遊戯は、満開のあじさいの花々が香る児童公園で、祖父たちを待っていた。名前を呼ぶ十代の声に振り向いた遊戯は、曲がり角から飛び出してきた中型トラックの下に吸い込まれていく細い肢を見た。
 すぐに鞄を放って駆けだしていた。通学路の真ん中に、血だまりができている。腹が潰れ、手足がひしゃげ、びっくりしたように見開かれたうつろな目を曇天に向けて、七歳の十代は、あおむけになって死んでいた。
 この一か月の間に、彼の身に何があったのかは想像もつかないが、奇跡が起こったのは間違いない。口がきけず、ふとした物音にさえ震えあがっているものの、十代は五体満足で遊戯のもとに帰ってきた。
 母が、脱衣所に遊戯のお古のパジャマを出してくれていた。居間では祖父が、暗鬱な顔をして遊戯を待っていた。
「十代には可哀想じゃが、ママのPHSに繋がらんのじゃ。また外国を飛び回っておるのかもしれん」
「ポケットベルにも返事がないのよ。居所すらわからないわ。これってネグレストっていうんじゃないの。まったく」
 遊戯の母親は、幼い一人息子を顧みない義理の妹夫婦に腹を立てている。遊戯は、最後に見た叔母の姿を思い出していた。若い女の顔とともに、事故に遭った十代を抱こうとしたときの感触が蘇ってくる。
 ──遊戯の指の間から、黄色い脂肪の膜に覆われた腸が、ぬるりとはみだしていく。腰椎が砕けている。眩しいほどに白くて、乾いた貝殻のようだ。
 叔母が、遊戯から死体を奪って抱きしめた。そのとき彼女は、にわか兄貴の遊戯よりもうろたえていた。息子の名前を叫んだ。凍りついた唇は応えない。
 水滴が樋を叩く音に混じって、玄関の呼び鈴が鳴り響いた。遊戯は我に返り、陰気な雨の宵に武藤家を訪れた客を出迎えた。
 童実野港湾署の警察官は、十代が病院から逃げ出してきたと言っていた。連絡を受けて十代を迎えにやってきた担当医は、かかしを思わせる長身の男だった。大ぶりの傘の下で、赤い眼が不気味に光っている。
「遊城十代くんを預かりにきました」
 彼はまるで、宅配便を引き取りにきたような言い方をした。目を糸のように細めて微笑んだ。すると、意外に人の良さそうな印象になる。遊戯は、その顔を知っていた。
「十代くん。ご両親が、とても心配されていたよ。病院へ戻ろう」
 十代が、遊戯を見あげてくる。ここへきて彼は、初めて意思の在り処を見せた。怯えている。のっぽの来訪者が怖いのだ。救いを求めている目に、遊戯は頷いた。
「悪いけど、うちで様子を見ることってできないかな。この子は、他の人をとても怖がるんです」
「しかし……」
「お願いします。大徳寺先生」
 まっすぐに男を見あげた。大人になった十代の傍らにいた、奇妙な喋り方をする幽霊を。
「私の名をご存知なのですか。貴方とは、初対面だったはずですが」
 大徳寺が、探るように遊戯を見つめてきた。眼鏡のレンズが白くきらめく。
 成長した十代に、誰よりも誠実だったユベルの狂気を目の当たりにした遊戯は、十代の未来の仲間を無条件に信じることができない。この時代の大徳寺は、はたして十代の仲間なのだろうか?
「ワシも、あんたに十代は任せられんよ、大徳寺とやら。理由はわかるじゃろう」
 双六が遊戯と十代の前に出て、大徳寺の前に立ちはだかった。
 意外だ。普段の祖父なら、店を訪ねてきた人間には穏やかに接したはずだ。
「それでは、ご両親には私から連絡を入れておきましょう」
 大徳寺は、あっさりと引き下がった。飄々として、雨がやむ前に姿を消す。



「遊戯がまだ生まれてもおらんかった大昔、ワシがエジプトの国境近くで見かけたあの大徳寺という男は、別の名前を名乗っておった」
 大徳寺が帰ったあとで、双六は遊戯に教えてくれた。
 一九六〇年代、現役時代の双六が、世界中の古代遺跡を荒らしまわっていた頃のことだ。当時の大徳寺は、背後に巨万の富を持つ後援者をつけて、かつて失われた文明とともに眠る不老不死の秘密を探していた。
 前世紀に絶滅したはずのイアトロ化学派に属し、錬金術に精通すると嘯くいかがわしい山師だ。理想主義の学究によくあるように、底無しの知識欲を満たす為ならば、どんな犠牲もいとわない。彼は、ゲームに対して払うべき敬意を、持ち合わせてはいなかった。
 大徳寺の消息は、ある時期に突然ぷっつりと途絶えた。
「もちろん、人違いかもしれんぞ。あれから何十年も経っておるというのに、やつはひとつも老いぼれておらなんだ」
 大徳寺は、〈三幻神〉と対をなすという、とてつもない災いを呼び寄せる魔の力を求めていた。それが妄想の産物なのか、今もどこか暗闇の彼方でまどろんでいるのかは知れない。


【14 美術館】


 今日から夏休みだ。遊戯は、館員のアルバイトをしている杏子に招かれて、久しぶりに童実野美術館を訪れた。
 チケットブースの前に並んだ人々の黒い頭が、底知れない深い海の表面を滑る小波のようにうねっていた。一緒にやってきた双六と十代は、あちこちで人にぶつかり、押し潰されて、窮屈そうにしている。
「こりゃたまらんのう。遊戯、ワシと十代はすこし休んでおるよ。杏子ちゃんによろしくな」
「わかった。あとでね」
 双六は、十代の小さな手をはぐれないように強く握って、売店のほうへ歩いていった。
 ふたりと別れたあとで、受付から杏子が迎えに出てきてくれた。案内嬢の制服がよく似合っている。
「すごく混んでるんだね、この展示」
「大岡裁きを知ってるでしょ」
「たしか、ふたりのお母さんが、ひとりの子どもを取りあうって話だったっけ」
「そ。今回は、あのエピソードの元ネタになった、ソロモンっていう偉い王様の財宝を展示してるの。もっとも、彼のほうは大岡越前よりも過激で、子どもを平等に取り分けるために剣でまっぷたつにしようとするんだけど」
 杏子が足を踏み出すたびに、紺色のタイトスカートのスリットから白い太ももがのぞく。遊戯は目を泳がせていた。
「め、目玉はなんなの」
「〈聖櫃〉ね。神様が人間に造らせたっていう、不思議な箱」
 天井から垂れているポスターに、くだんの〈聖櫃〉の写真が大きく使われている。金箔が貼られた、宮殿のミニチュアのような形だ。底に、持ち運ぶための二本の棒が取りつけられており、祭りの神輿に似ている。
「中には、なにが入ってるの」
「残念だけど、見つかったときには空っぽだったんだって」
 杏子がしばらく前から遊戯に会わせたがっていた、イシュタール家のイシズが、レクチャールームで待っていた。童実野美術館は今回の企画展のために、かのソロモン王にゆかりのある品々を、エジプト考古局から借り受けているそうだ。
 墓守の役目を終えた彼女は、静かに再会を喜んでくれた。
「それにしても、どうして外国の王様の遺産がエジプトにあるの」
「かの王国とエジプトは、はるか古の時代より手を取りあい、また争ってきた隣国同士なのです。三千年前の世界を統一したソロモンは、優れた王でありながら、エジプトの忠実な臣下でもありました」
 イシズに連れられて、アトリエ室へ向かった。冷ややかな小部屋に、表面が荒れて罅が入った赤い壁画が飾られていた。遊戯は息を呑んだ。
 壁画には、遊戯が見間違えるはずもない、かつての半身の姿が刻まれている。
 ──アテム。
 しかし、何かが引っかかる。ファラオを守護する〈三幻神〉と〈魔術師〉の姿がどこにも見えない。壁画のアテムは、毒蜘蛛のような奇妙な鎧を着て、〈神〉に酷似した三体の魔を使役している。
「『彼』にそっくり。別人とは思えないくらいだ」
 遊戯は言った。杏子も、遊戯の反応を注意深く窺いながら頷いている。
「この壁画に刻まれているのは、あの方亡き後のエジプトに襲いかかる、隣国の若き王。そして千年アイテムを手に、外敵を迎えうつ次代のファラオの姿です。向かいの壁画をご覧ください」
 イシズが示したもうひとつの壁画は、さらに損傷が激しかった。そこには、神の加護を一身に受けるファラオにへりくだる、若い男の姿が描かれている。
「当時のエジプトは、支配下にある王国から幼い王子を集め、エジプト流の教育を受けさせていました。ファラオの意思のままに振舞う、傀儡の王を作りだそうとしたのです」
「この子どもも、その王子のひとりなの」
「ええ。彼は、先の壁画にあった古代イスラエル王。少年時代のソロモンだとされています」
「こっちのは、ぜんぜんあの人に似てないじゃない」
 杏子が、拍子抜けした様子で呟いた。
「そうね、別人に決まってる。何よりも大切に思っていたエジプトに剣を向けるなんて、あの人にはできない。子どものほうは、どこかで見たような気もするけど……」
 エジプトに囚われたもうひとりの少年王の頭部には、ツートン・カラーを思わせるラインが彫られている。遊戯は困惑して、アテムにつき従う子どもの姿を凝視していた。
 ──この子、十代にそっくりじゃないか。
 悠久の死に浸りきった石の塊は、冷たい沈黙を続けている。イシズが、落ちついた瞳を遊戯と杏子へ向けた。
「ご存知ですか。この異人の王は、雅歌を遺しています。そこで彼は、后への愛を切々と綴っているのです。まるで感じやすい少年のように」
 遊戯は背筋に冷たいものを感じた。今となっては、彼らが本当は何者だったのかを誰も知らない。名前も、顔も、本当に生きてそこにいたのかさえ。



 本当は十代は、早く家に帰って遊戯とゲームがしたかった。紀元前の人々が使っていた家具や装飾品を眺めているのは、恐ろしく退屈だ。双六が会場の外へ連れ出してくれたのが嬉しかった。
「ワシはベンチで休んでおるから、売店で冷たいものを買ってきてくれんか。おまえも、好きなものを買いなさい」
 双六が、目を細めて優しい声を掛けてくれた。
 十代は、がま口の財布を抱いてレジのショーケースの前に立ち、遊戯が美味しそうに口にしていたコーラの缶を、あこがれを込めて指差した。
 背後から、太い腕が伸びてきた。無地のポロシャツを着て観客にまぎれていた男が、軽々と十代を抱きあげる。悲鳴を上げる前に、生ぬるい手が十代の口を塞いだ。
「なんじゃ、おまえらは。うちの孫に何をするんじゃ」
 双六がすごんだ。すると別の男が現れて、祖父を羽交い絞めにした。薬品が染みこんだ布を口に当てられて、ずんぐりとした小柄な体から力が抜けていく。
 ──じーちゃん。
 十代は身をよじり、足をばたつかせたが、相手はびくともしない。十代を脇に担いだ大男は、駆け寄ってきた警備員をのして美術館を飛び出した。
 ワンボックスタイプのバンに押しこめられ、十代は恐怖の叫び声を上げた。助手席に座った男の、赤い眼が覗きこんできていた。鋭い眼だ。アタノールの足元で燃える炎の色だ。
「いけない子だ」
 大徳寺が、ゆっくりとした口調で言った。
 十代と、深い眠りに落とされた双六を乗せて、バンが動き出した。童実野美術館が遠ざかっていく。

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この小説は二次創作物であり、版権元様とは一切関係がありません。無断転載・引用はご容赦下さい。

-「アテムとソロモン」 … arcen・azmix 12.05.19→ -