【 目次にもどる 】
少年は、ゴヤのキャンバスの前で立ちすくんでいた。ぬめりけのある黒い画面の奥に、大きな鼻をした異形がいる。
油ぎって固くなった髪とひげは見るからに不潔で、田舎の祖母の家の納屋に積もった厚い綿ぼこりの層を思わせた。姿かたちは人に似せて描かれているが、ただ開かれているだけの黒々とした目は、何も見ていない。
落下式便所の穴のような口に、首と腕がもげた人間の子どもを押しこんでいる怪物の表情は、哀しみにあえいでいるようでもあったし、目に見えない脅威に畏れ慄いているようでもあった。
両親に連れられて童実野美術館にやってきた少年は、早く家に帰りたかった。ここには気味の悪い絵ばかり飾られている。
「こんにちは、ぼうや。ひとりかい」
いつの間にか、洗いざらされたターバンを巻いた貫頭衣の男が、少年の隣に立っていた。見たこともない肌の色で、落ちついた声をしている。
「この絵の醜い怪物は、サトゥルヌスという。むさぼり喰われている若い少年の、実の父親だ。天空と大地の神の間に生まれたこの男は、父親を裏切ってローマ神話の主神の座を自らのものにした。皮肉にも、肉親から権力を奪った彼自身もまた、息子に殺される運命だ。未来を知ったサトゥルヌスは、死と栄光の喪失を拒絶し、実の子どもたちを喰い殺してしまった。父に飲まれた子の姿を覚えておくといい。可哀想だけれど、ここには君の運命がある」
少年は怖くなって、怪物の絵の前から逃げ出した。
男は追いかけてこなかった。少年はほっとして、春の延長の穏やかな日差しが射しこんでくる廊下を歩きながら、やがて訪れる梅雨の前触れを含んだ空気を肺いっぱいに吸いこんだ。
展示室からひとりで出てきた少年を見つけて、館員の女性がやってきた。彼女は事情を聞くと、心ない大人にからかわれた傷心の子どもに同情する顔になった。
少年の手をやわらかく掴んで歩き出す。彼女が長い脚を前に出すたびに、タイトスカートが小気味良く揺れ、薄手のシャツの胸元に結んだ、光沢のあるリボンが踊る。
「館内放送でご両親を呼んであげるから、ぼうやのお名前と歳を教えて」
「十代。遊城十代、七歳です」
少年は、目を伏せて女に答えた。