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アテムとソロモン(6)

【15 無人島へ】




 見慣れない夜空だ。天頂は、暴力的な数の星々の粉をまぶされ、白くけぶっていた。青く燃えている南十字座の真下で、水平線が赤光を帯びて踊る。大きな火事を眺めているような、朝の訪れの気配。
 遊戯は、海原を孤独に突き進む中型クルーザーの後方デッキの手すりにもたれて、闇を凝視していた。さっきからずっと、目には見えない何者かの気配が、濃厚につきまとっている。落ちつかない。
 首に巻いたチョーカーを無意識にいじっていた。パズルはもうなくなってしまったからだ。
 ホットパンツにピンクのスニーカーを履いたレベッカが、痺れるくらいきんきんに冷えたミネラルウォーターのペットボトルを、遊戯の頬に押しつけた。
「怖い顔はダメよ、ダーリン。リラックスして。おじいちゃん、目的地の島にはまだ着かないの。潮気で髪がべたべた。やんなっちゃうわ」
「もうすぐだ、ふたりとも」
 レベッカの祖父のホプキンス教授が、デッキにやってきた。遊戯は頭を下げる。
「船に乗せてくれて感謝しています、教授」
「なんの。こっちも人手が増えて大助かりだ」
 遊戯は、ホプキンス教授の遺跡調査の手伝いを引き受けるかわりに、とある島へ向かうクルーザーに乗せてもらっている。城之内と本田もいっしょだ。ふたりは船のなかで、年代物の機材に埋もれるようにして眠っていた。
 杏子には何も話していない。今回は彼女を巻きこみたくなかった。遊戯がこれから相手にしなければならないのは、ふたりの人間を白昼堂々誘拐するような人種だ。
 雲の端を縁取る濃い桃色の光が、水平線の上に島の姿を浮きあがらせた。あの島の入り江に、海馬コーポレーションのロゴマークが刻まれた船舶が停泊していることを、遊戯は知っている。海馬はあの土地を欲しがっていて、島の所有者にかけあっているところなのだと、ホプキンス教授が教えてくれた。
 島の持ち主は政財界に顔が広く、百歳をゆうに超えているとされる怪人物だ。学会でデュエルモンスターズに宿る不思議な力の存在を主張して、誰からも相手にされなくなったホプキンス教授に興味を持っていた。
 その男は教授の後援者となる条件として、人を寄せつけない南海の孤島に点在する遺跡群と、誰からも忘れ去られた伝説について正しく調査し、価値を証明することを望んでいた。
「島の主、ミスター影丸によると、あの島にはかのソロモン王ゆかりの財宝が眠っているそうだ」
 ──島に伝わる伝説は、今からおよそ三千年前の出来事だとされる。
 古代世界最強の錬金術師と謳われる賢人ソロモン王は、ある日、悪魔たちを使役する力を宿した金の指輪を失ってしまう。今までこき使われてきた悪魔は、ソロモンを追放して復讐し、自らが王になりすまして国をめちゃくちゃにしてしまった。
 ソロモンは、海の果てにある名もない孤島に流れつき、失意のまま寂しく死んでいった──。
「王様は魔法のリングを飲みこんだ魚を見つけて、無事王位に返り咲いたっていうエピソードもあるけど、どっちにしたって子ども騙しのオカルトよ」
 紙の資料をめくりながら、レベッカが胡散臭そうに言った。
 双六と十代は、古代イスラエルの展覧会が開催されていた童実野美術館から攫われてしまった。ソロモン王の名を聞かされたのは、偶然だろうか。
「この影丸って人物は、裏じゃKKKや薔薇十字団ばりの怪しげな秘密結社を動かしてるって噂の、陰謀論の雛形に登場するような男よ。海馬コーポレーションがなにを考えてるのか知らないけど、今回は分が悪いかも。本物の怪物の尻尾を踏みつけたら、ただじゃすまないわ」
 レベッカは、面白いことを思いついた顔でにんまりした。
「あの社長がすごすごと引き下がるところなんて、めったに見られるものじゃないけど」
「なんだなんだ、海馬がどうした」
 城之内が、タオルケットを蹴飛ばして起きてきた。くしゃくしゃの顔で大あくびをする。
「あとで、社長の泣きっ面が拝めるかもって話」
「そりゃ、すかっとする景気のいい話だ」
 調子よくハンズアップ。まだ寝ぼけている。
「おっと、海馬なんてどうだっていいんだっけ。遊戯のじーさんも兄弟も、きっと無事だ。さっさとふたりを助けて、常夏の楽園でバカンスとしゃれこもうじゃねえか」
 城之内がいっしょに来てくれてよかった。友人を危険に巻きこみたくはなかったが、彼はいつも遊戯を元気づけて勇気をくれる。
「そろそろだ。上陸の準備をしてくれ。双六のことだから、何があってもぴんぴんしているだろうが、助けになれることがあったら何でも言ってほしい。しかし遊戯君、彼らの行方は警察もお手上げだ。どこで知ったんだね」
「〈彼〉のデッキが導いてくれたんです」
 遊戯は、徐々に大きくなっていく島の影を見つめる。正体のわからない怪しい集団に連れ去られてしまった双六と十代は、必ずあの島にいる。無事に救い出す──。
「それじゃ、お給料ぶんてきぱき動く。あんたたちはアルバイトよ。半袖じゃ虫に刺されるから、服を着替えなさい。テントと調査機材を任せるわ」
「えーっ。朝飯がまだだぜ」
 空は明るさを増して、闇を追い払っていく。清潔な光に目が眩む。朝が来ていた。
 遊戯が夜どおし感じ続けていた何者かの視線は、白くけぶる星たちとともに空の彼方に消え失せていた。



 おんぼろのクルーザー船が無人島に着いたときには、天気が急速に崩れ、いまにも嵐が訪れそうだ。
 島の大部分は原始のジャングルに占められており、苔に覆われた木々越しに、入り江の反対側にある巨大な活火山がかすんで見えた。
 城之内と本田が歓声をあげた──こんなに間近で、本物の火山が見られるなんて。
「迫力満点だが、いつ噴火するかしれねぇんじゃ、ひやひやもんだな」
「よし、まずはメシだ。本田。バスケットこっちによこせ」
 ふたりがサンドイッチの具についてささやかな揉めあいをしている横で、遊戯は海上をさすらううみねこたちを眺めていた。船を降りてから感じている、違和感の正体に思い当たる。
 この名もない無人島には、あの鳥たちのような生き物の気配が感じられない。人の手の入らないジャングルの奥に息づいているはずの動物たちは、なにかに怯えて口をつぐみ、息を殺している。
「私とレベッカは、これからミスター影丸のところへ顔を出すよ。なにか見つけたら、すぐに遊戯くんに知らせよう」
「その十代って子、ダーリンの弟ならワタシの弟になるし。絶対助けてあげる」
 レベッカがウインクした。

       *

 モクバは、絶海の孤島に突然見慣れた顔ぶれが現れたことに面食らっている。
「兄サマはいないよ。オレがいま、島の所有者とやりあってるとこ。よぼよぼの爺さんだよ。海馬コーポレーションが新しい学校を創るって話は、遊戯にしたっけ」
「強い決闘者を育てる、決闘の学校のこと?」
「この場所は、世界じゅう探したってそうそう見つからないくらいの、とてつもなく強いエネルギーを宿しているんだ。新しい決闘者の伝説が始まる地は、〈神〉と対になる力が眠るこの島をおいて他にない」
 言い伝えによると、流浪の果てにこの小さな島に辿りついた古代の王が、自らの運命を狂わせたとあるカードを恐れて、島の地下深くに封印したのだという。
「そのカードは、三体の〈神〉の影だって言われてるんだ」
 ──〈三幻魔〉。
 遊戯と〈彼〉が使役していた、〈三幻神〉から引きはがされた影。かの存在が地上に放たれるとき、世界は魔に包まれる。混沌が世界を覆い、人々に巣食う闇が解放される。やがて世界は無へと帰する。
 この世を破滅させるほどの力を秘めたカードによって、海原に消えてしまいそうな孤島が、尋常ではないエネルギーで満たされている。
「いまのところ、影丸は島を譲るつもりはないの一点張りだけどな。それから、妙なやつらが島にあがりこんでるんだ。気持ち悪い恰好して、夜中じゅうずっとパーティーやってるんだぜい」
 モクバは辟易した様子だった。
 森の奥には旧い遺跡があって、島に伝わる邪神を崇める狂信者の集団が居座っているらしい。
 十代がそこにいるのだろうか。光をなくしたアテムのデッキは、今は答えない。
 遊戯には、十代がどこにいても居場所がわかった。ただし、夜の闇のなかでだけは。

       *

 双六と十代が消えた日、童実野警察署の警官は、伸びたカップ麺をすすりながら、外国にいる十代の両親が迎えを寄越したのだろうと呑気に言った。
「叔母さん夫婦が気を利かせて、ぼけてきてる双六じいさんを、ちょっと強引に施設に連れて行ってくれたんだ。さあこの話は終わりだ。帰った帰った」
 警官は、不自然なほどに遊戯を相手にしなかった。
 追い出された警察署の入口で、遊戯は、自分がただの無力な高校生にすぎないことを、ひさしぶりに思い知っていた。それでもアテムが遺したデッキケースに目を落とすと、少しだけ勇気が湧いた。半身が確かにそこにいた証だ。亡き主が、今でも寄りそってくれている気がする。
 ケースの隙間から、仄かな輝きが漏れている。不思議に思って指を触れると、突然、遊戯のまわりを、いつか見た星の世界が取り囲んだ。
 〈彼〉のデッキに宿る力が、急速に弱まっていく。
 ──それを待ちかねていた〈悪魔〉が、再び瞼を開いた。
 光にくらんでいた〈ユベル〉の眼が、偏愛する遊城十代の姿を探しはじめた。
 遊戯は口を両手で覆い、黄ばんだ眼球をぎょろぎょろさせながら十代を探し求めるユベルを見守っていた。声を漏らせば、憎悪に狂った精霊は、主を遠ざけた敵を八つ裂きにするだろう。
『キミのぬくもりを感じるよ。そこにいるんだね、十代』
 安堵の溜息。しかしユベルには、十代の姿を捉えることができない。やがて男と女が混ざった奇妙な声は苛立ちを帯び、怨みにまみれていった。
『ああ口惜しい。ボクらの邪魔をするこいつはなんだ。十代、キミの姿が見えない』
 邪悪な精霊が、嫉妬の熱に浮かされながら、憎しみの呪文を唇から垂れ流す。白昼夢から醒めたあとも、世界中の生命を呪う悪魔の絶叫が、遊戯の耳にこびりついていた。

       *

 森を貫く急流を超えた先に、蛇がからんだウジャト眼が刻まれた、アーチ型の門が見えてきた。噴煙を上げる火山を背に、階段ピラミッドが屹立している。硫黄のにおいが漂い、灰の雪が降っていた。
 ピラミッドまで続く直線の通路には、正方形に切り出された石のタイルが規則正しく敷き詰められており、無数のかがり火が焚かれている。血管模様が浮いた煉瓦の壁に、首と手足を切断された動物の死体が、鉤つきロープで等間隔に吊られて揺れていた。
 肉塊は、表皮に曲がりくねった文字を刻まれていて、ほとんどが黒焦げだ。腹を裂かれて、抜き去られた内臓のかわりに、乾燥した植物や鉱物や昆虫の死骸が詰められているものもあった。
 猿だろうか。原形を留めていないそれらの正体は、おそらく遊戯たちとそれほど変わらない大きさの動物だっただろう。
 溶けた脂が混じった空気に包まれて、原始的な楽器の音色が響いてくる。黒いベールで素顔を覆った人間たちが集まって、遊戯には理解不能の信仰にふけっていた。彼らが、まじないを口ずさみながら闇色のローブを揺するたびに、時代がかった装身具が擦れあって耳障りな音を立てた。黴臭い空間を、熱い狂気が埋め尽くしている。
 かがり火に照らされたやぐらの上で、うごめくものがある。
 骨組みに縛りつけられた、裸の子どもだ。城之内の手が遊戯の口を塞いだ。絶叫は声にならない。
 ──十代。
 十代は、口を千鳥がけに縫われていた。下肋部から斜めにかけて、縫い目が見える。壁に逆さまに吊るされていた肉塊──おそらくどこかから攫われてきて、面影も残さず焼き殺された多くの人間の子どもたちと同じように、腹を裂かれ、内臓を抜き取られて詰め物をされたのだ。
 積みあげられた木材に、火が放たれた。撒かれた油をつたって広がった炎が、まだ生きている十代を飲みこんだ。幼い子どもの影が、鳥のくちばしにくわえられた芋虫のように、激しくねじれて揺れている。
 城之内の腕が一瞬ひるんだ。遊戯は叫んだ。
「十代!!」
 黒ずくめの集団が、いっせいに振り向いた。
 狂信者に頭を殴られて意識が途切れる一瞬前に、赤い服を着た大人びた横顔が、鮮やかに思い浮かんだ。遊城十代。正義の味方。
 ──遊戯さん、オレたちは未来から来たんです。
 親愛に溢れた幻聴が遊戯を呼んだ。あの笑顔は、遊戯が守らなければならなかったはずだ。


【16 疑惑】




 壁から突きだした腕木の上で松明が燃え、不揃いの石壁から剥がれた一抱えほどの石材が、床に転がっている。双六が、心配そうに遊戯を覗きこんできている。
「目が覚めたか、遊戯や。ひどくうなされておったぞ」
「じーちゃん。ここは……」
「影丸の城じゃよ。ワシと十代は、島へ連れて来られてから、この地下室に閉じこめられておったんじゃ」
 そばに、レベッカとホプキンス教授の姿があった。
「森の遺跡を占拠してる、武装集団の集会に踏みこんだって聞いたわ。無茶な真似しないで。影丸のセキュリティ・ガードが助けてくれなかったら、あやうく殺されるとこだったのよ」
 レベッカが遊戯の手を握った。ふたりが祖父を連れてきてくれたのか。
「城之内は、抵抗したときに手首をひねって治療を受けてる。本田がいっしょよ。おかげでモクバは、上機嫌で影丸と商談中。まるで、やくざのゆすりの手口ね。その……十代は……」
 沈黙が落ちた。目の前で十代が殺されたのは夢ではなかったのだと、遊戯は理解した。
 子どものころのように、祖父にしがみついた。双六は黙って遊戯を抱いてくれたが、皺だらけの手のひらがこわばっていた。「しかし奇妙だな」とホプキンス教授が唸った。
「私とレベッカは、ミスター影丸に夕食に招かれたんだ。食堂で十代くんを見かけたよ。遊戯くんが、この地下室へ連れてこられたあとだ」
 遊戯が影丸の城の地下室に運びこまれたころには、十代はすでに遊戯の目の前で焼死している。ホプキンス教授が見かけた子どもが十代に間違いがなければ、この世界に遊城十代が何人もいるということになる。
 六月四日、遊戯の誕生日の夕暮れに、トラックに轢かれて潰れた十代を腕に抱いた感触を憶えている。あの時も、十代は死んでいた。
 幼い命が救われた奇跡を、周囲の人間たちは喜んだ。
 だが、死者が帰ってくるはずはないのだ。
 地下室に、コマンドセーターの集団が入ってくる。「影丸の私兵グループよ」と、レベッカが遊戯の耳元で囁いた。
「ホプキンス教授に、ミス・レベッカ。影丸様がお待ちだ。我々と来てもらおう」
「ワシも行こう」
 双六が立ちあがった。
「遊戯、おまえはしばらくじっとしておれ。頭を打っておるんじゃ。あとで、あの子を連れてくるからの」
 祖父とホプキンス一家を連れて、機械的な半長靴の足音が遠ざかっていく。私兵のひとりが、入口の見張りに残った。頭上で重い鉄の扉が閉まる音が聞こえて、地下室は沈黙に支配された。

       *

 廊下から、ガラスの割れる音がした。見張りの男が昏倒している。
 ねんざした片腕を吊っている城之内が、ワイン瓶の割れ残りを通路に捨てて、遊戯に向かって親指を立てた。
「城之内くん。怪我は大丈夫なの」
「こんなの、屁でもねぇ。それより遊戯、どうもこいつら、よからぬことを考えてる臭いがするぜ」
 地上へ続く扉は閉ざされていた。地下深くまで伸びた階段を、下っていくしかない。風化した燭台に灯った蝋燭の光を頼りに進んでいくと、川のせせらぎに似た水音が聞こえた。
 やがて、漏れだした地下水で、床が完全に覆われた階層に辿りついた。水浸しの回廊の奥の扉から、明かりが漏れている。
 ──誰かいるのだろうか?
 遊戯は、地熱に温められた地下水路に足を踏み出した。生気のない地上の森とは違い、この古城のなかでは、生き物たちの息遣いを感じる。数メートル先で水しぶきがあがった。魚が棲んでいるのだろうか?
 城之内が、壁からもぎとってきた燭台をかかげて、暗闇を照らした。闇色の水面に、オレンジ色の光が揺れる。
 墨色の波紋の上に、見慣れた姿が映っている。
「……十代、なの?」
 遊城十代が、どうしてこんな場所にいるのかはわからないけれど、遊戯は素直に弟の無事を喜んだ。
「迎えにきたんだ、十代。じーちゃんも待ってる。さあ、ボクらの家に帰ろう」
 十代は、黒い水をかきわけて歩み寄る遊戯を、黙ってじっと見ていた。城之内が、大の苦手であるオカルト現象を前にしたときの顔で、遊戯の肩を引いた。
 掲げられた蝋燭の火が、『それ』の全身を照らし出した。
 遊戯は、全身の皮膚が波打つほどの嫌悪感に襲われた。カエルに似た巨大な肉塊だ。愛らしい十代の顔の皮を、ぺちゃんこに潰して背中に貼りつけてある。
 動くものを、獲物だと認識しているようだ。ぬるぬるした四本指の前脚を引きずって、遊戯と城之内のほうへにじり寄ってくる。
 十代の皮をかぶった、かえるもどきの背後に、水中から巨大な黒い影が現れた。
 ゼリー質のいぼを背負った、大むかでだ。こちらも、引き伸ばされた十代の顔が、体表に浮かびあがっている。その薄い唇の部分がひしゃげて、黒い穴が開き、遊戯に迫っていた十代ガエルを、音もなく吸いこんでしまった。
 遊戯と城之内は、どちらからともなく走り出していた。背後から重い水音。十代むかでが、透きとおった胴体をよじって、無数のガラスの足で壁と天井を這いながら追ってくる。
 ぬるい水路をもたつきながら抜け、明かりの漏れている部屋へ飛びこんだ。
 赤茶けた鉄の扉を閉じ、黴臭い本棚を横倒しにして入口をふさぐ。傘型のシェードから落ちる、弱いオレンジ色の光の下で、遊戯はうずくまった。城之内のほうは、壁際で四つんばいになって嘔吐している。
 見たこともない怪物が、十代の顔をしている意味がわからない。
 遊戯が逃げこんだ丸い空洞の中央には、鋼鉄製のボールが据えつけられていた。側面に潜水艦のハッチのようなハンドルがついており、上部から細いパイプが何本も伸びている。
「蒸留釜だな。酒を造る機械だ」
 城之内が、釜を叩いて言った。
「おやおや。騒々しい客人だと思ったら、君か。十代が帰ってきたというのに、浮かない顔だ」
 緑色の貯水槽の前で、古い木の椅子に座った白髪の大男が、遊戯を面白そうに眺めている。
 大徳寺。未来の十代の恩師で、現在の十代にとっての恐怖の対象。
「どうして、大徳寺先生が影丸の城にいるの。もしかして、十代になにかしたのは……」
「あの男は、私の後援者だ。遊城十代君に関しては、ご両親が望んだことだ。我々は遊城夫妻に、死んだ息子を蘇らせてやると持ちかけた。悪魔を宿した子どもの噂を聞いて以来、十代には興味を持っていたのでね」
 死んだ人間を生き返らせる方法など、あるわけがない。大徳寺は、遊戯の疑いの視線をはねつけ、たやすいことだと嘯いた。
「私が錬金術師だという話を、お爺さんから聞いているだろう」
「それって、石ころを金に変えたりするっていう、いんちき魔法じゃねえか」
 城之内が、疑り深そうな半目になった。
「とんだ思い違いだ。錬金術は、君たちの常識を覆す、不可能を可能にする奇跡の学問だ。私は気の遠くなるような長い時間を、すべての錬金術師の悲願である〈賢者の石〉の研究に費やしてきた」
 ──〈賢者の石〉。
 あらゆる金属を金へと変え、持ち主に永遠の若さと不死の肉体を約束する。粗悪な失敗作でさえ、命を失った者を死の世界から蘇らせる程度ならば、造作もないという──。
「冥界から戻ってきた十代には、肉体がなかった。そこで私は、島のあらゆる生物を使って、卑金属を金に変えるように、滅びた肉体に替わる容器を生みだそうと考えたのだ」
 森の昆虫たち、魚の群れ、小型の哺乳類──十代の姿をして動きまわる、ありとあらゆる生き物が生まれた。どれもが意志を持たず、不完全だった。遊城十代という、船底に穴の空いた方舟に押しこめられている幽霊に過ぎない。
 死者の永遠の眠りを妨げることは、誰にも許されないはずなのに、大徳寺は生と死を隔てるラインを平気で踏み越えていく。この男は、十代の魂をもてあそぶことを楽しんでいる。
「死んだ人間が、この世界に戻ってくることは、決してあってはならないんだ」
「かつて千年パズルを所有し、ファラオの魂を宿していたと噂される武藤遊戯なら、古代エジプトで隆盛を極めた錬金術にも造詣が深いのではと期待していたのだが、残念だ。愚かな俗人は、自らのささやかな常識を超える現象を拒絶する。決闘王に問おう。君に憧れていた、罪もない子どもを見捨てるのかね」
 ──遊戯兄さん。
 かぼそい呼び声に驚いて、振り向いた。
 十代が、遊戯を見ている。
 人間の形をしているが、本物だろうか。トラックの下敷きになって死んだ十代や、黒ずくめの狂信者に焼き殺された十代は、偽者だったのだろうか。
 誰が本物で、誰が錬金術によって創造された偽者だったのだろう。
「兄さんもユベルといっしょで、ぼくを裏切るの。パパとママみたいに、勝手に期待して失望して離れていくの」
 小鳥の尾のようなはねのついた髪が、怒りで膨らむ。遊戯は青ざめた。
 いま、遊戯が大徳寺へ向けた反発は、蘇った十代に向かって『おまえは死ぬべきだった』と言い放つのも同じだったと気づいたのだ。
「あ、ち、違うんだ。十代」
「なにが? なにも違わないよね……何を言われてもわかんないふりをして、見え見えの嘘を信じてあげるときの子どもの気持ちってどんなか、大人は考えたことある?」
 十代の小さな手のなかに、一冊の本があった。表紙に、持ち主を闇のゲームに誘う黄金の瞳、失われた千年アイテムと同じウジャトの眼が嵌めこまれ、けぶるような邪悪な煌めきを放って、空間をゆがめている。
「ぼくは、今までずっと痛かったよ。寂しいのはわがままなの。嫌われても傷ついちゃだめなの。正しい道を歩けなきゃ悪い子なの。兄さんになってくれるとか、ずっとぼくを守ってくれるとか夢みたいなことばっかり言って、結局あんたは口だけの男じゃないか。ぼくをわかってなんかくれない、必要としてくれない武藤遊戯なんかいらない」
 十代が生まれて今日まで生きてきた数年間で、何度も殺されてきた本心が、遊戯の肺を刺す。
「十代。ごめん。ボクは、本当にキミを守りたかったんだ……」
「謝らないでよ。ちゃんと話を聞いてよ。言い訳しないで、ごまかさないで、わかったふりなんかイライラするんだよ。ぼくが悪い子だって知ったから、あんただってどうせ見捨てるんだろ……!」
 割れた床の奥から、突きあげるような衝撃があった。石の柱が生えてきて、猛烈な勢いで天井を貫き、地上を目指して恐るべき速度で伸びていく。
 ──崩れる。
 大量の土砂が、地下に張り巡らされた水路を押し潰し、自我のない怪物たちを生き埋めにして、遊戯たちの頭上に降り注いできた。

       *

 地下空洞に閉じこめられてしまった遊戯は、眩さに目を細めた。
 指を握りこむ。身体はどこも欠けていない。瓦礫の隙間へ、遠い地表の光が星のように降り注いでくる。石柱と土砂の隙間に入りこんでいたおかげで、圧死は免れたが、階段室が埋もれている。
 闇の中で発光する苔が、大徳寺の細長い顔をぼんやりと照らしだした。
「怪我ひとつないとは、君はよほど運がいい。その目は、まだ私を疑っているな。本当だ。あの夫婦は、息子の代わりを何度造っても納得しなかった」
 遊城夫妻は、大徳寺が創造した『作品』に対して、やれ顔つきが違う、知らない痣がある、精霊が見えると文句をつけてくる。ふたりが求める『普通の息子の十代』など、初めから存在しない。それを知りながら、大徳寺は十代を造り続けた。
「失敗作の処理には、特に苦労をした。幻魔を崇める変わり者たちに〈悪魔の子ども〉を回したが、まだ余る。きちんと潰しておかないと、私の後援者がうるさいのだ」
 大徳寺は朗らかに笑っていた。狂っている。純粋な知的好奇心の輝きを帯びた、熱っぽい赤い目が、見透かしたように遊戯を見据えた。
「この島にいると、こうなる。邪悪なものの影響だろう。君さえも例外ではない。選ぶはずのない選択肢を、何度拾いあげただろう。正解と過ちを取り違えたのも、一度や二度ではあるまい?」
「……そうかもしれない。ボクは、十代に……」
「私の研究は時代遅れだと思うかね、遊戯」
「悪いけれど。それに、残酷だ」
「いいとも。人類が生み出した尊い叡智たる錬金術が、ロートルとされ廃れていく。残念だが、人の心と相容れない学問が消滅するのは道理だ。私もまた時代遅れで、神秘に身を捧げた最後の世代になるのかもしれない」
 永い間、信じた道を歩んできてなお、大徳寺には人の心さえわからないのだ。遊戯は、少しだけ憐れんだ。ようやく、この時代の彼と、初めて出会った気がした。
「私は、君の知人ペガサスとさして変わらない成り行きでデュエルモンスターズと出会い、彼よりはぱっとしない末路を迎えた。本当の私は病魔に肉体を蝕まれ、すでに朽ち果てている」
 旅の果てに倒れた大徳寺は、錬金術によって創造したホムンクルスに、魂を移しかえた。
「今はこうして、血肉の通った人形の手足を動かしている。不老不死を追い求める死人など、笑い話だろう」
「大徳寺先生は、もとの身体に戻りたくて〈三幻魔〉が欲しいの」
「〈幻魔〉による延命など、本当は私にはどうでもいいことだった。だが、恩人がそう望むのだ。命をかける程度の手間は、なんということもない」
 人の心がわからないと告げた大徳寺だが、研究を支えてくれた影丸の存在は、とても大切に思っていた。
「私が初めて会ったときの彼は、純粋な男だったよ。いつからだったか、魂を濁らせてしまった。私は、彼の助けになりたかった」
 影丸老人は、若々しい情熱と力が満ち溢れた青年時代の栄光を忘れられなかった。不老不死の願いを叶える力を掌中に収めようと、〈三幻魔〉が封印された古代の島を探しだした彼は、デュエルモンスターズ史上最強の錬金術師と呼ばれた、とある人物に辿りついた。すべての錬金術師の王たる、古代世界の覇王。
 王にまつわる伝説によると、彼に〈神〉の影である〈三幻魔〉を与えたのは、古代エジプトのファラオとされている。
 〈神〉のカードを扱う決闘王武藤遊戯が世に現れ、その身に古代エジプトのファラオの魂を宿していることを、影丸は知った。〈神〉を従えるファラオという強い光には、〈魔〉を統べる覇王の影が必ずつきまとう。彼らは、現代に蘇った名もなきファラオの影として、再び覇王が歴史に現れるのではないかと考えた。
 呪われし千年アイテムをめぐる動乱が始まって間もなく、影丸が抱える発掘隊が、覇王の遺品とされる聖櫃を発見した。黄金の箱のなかには、エジプト錬金術の秘術を記した、千年魔術書の写本が収められていた。
 七つの千年アイテムを生んだという、闇の錬金術が記されている写しは、錬金術の素養のない人間には解読の難しい代物だ。
 ある日、当時エジプト展を開催していた童実野美術館に展示された写本を、苦もなく読み解く人物が現れる。家族とともに美術館を訪れていた、ひとりの子どもだった。覇王の姿を刻んだ古代の壁画にそっくりの風貌をしており、〈神〉のカードの主、武藤遊戯の近親者でもある。
「私が遊城十代という才能の塊と巡りあえたのは、キミのおかげなのだ。武藤遊戯」
 大徳寺は、遊城十代にたどりついた。
「確信の決め手となったのは、十代に宿った〈神〉を操る素質だ。あの子どもは、グールズが生んだ〈神〉のコピーカードを、難なく扱って見せたのだから」
「そんな危険な実験を、子ども相手にするなんて──」
「あれが本当に世界を統べる覇王となる者なら、どうということもないだろう。素晴らしい才能は、絶えず磨かれ、高められていかなければならない。錬金術師なら自然な考えだ。さて、いつまでも土の中というわけにもいくまい。十代をひとりにはしておけんだろう」
 赤い眼を糸のように細め、大徳寺が蒸留釜の扉を開け放った。釜のなかから、蒸気とともに、感情のない金色の目をした獣が飛びだしてくる。豊かなたてがみが生えており、ライオンに似ているが、顔は猿に近い。
「錬金獣〈鉛のレオーン〉。私のデュエルモンスターズだ。振り落とされないように、つかまっていろ」
 遊戯を乗せた〈レオーン〉は、闇と岩石の雨を潜り抜けて石柱を伝い、嵐を待つ黒い空が見える地上へ駆けあがった。島の磁場に縛られて実体化している〈レオーン〉の、灰色の被毛にしがみついていると、鉄の剣と甲冑のパーツを組みあわせた飛行型の錬金獣が、城之内をくわえて飛んでいくのが見えた。安堵する。無事だったのだ。



 地表から斜めに突き出た赤銅色のオベリスクが、地下水の染みこんだ岩盤を割り、人の手でくり抜かれた数多の空洞を串刺しにして天を突いていた。横倒しになったオベリスクの上に降り立った遊戯たちのもとへ、飛行型の錬金獣〈鉄のサラマンドラ〉が、城之内を乗せて戻ってきた。
「乗り心地は最悪だけど、助かったぜ」
 サラマンドラは、大徳寺のデッキに戻る。
 地下へ押しこめられる前までは豊かだった原生林は、ほんの短い時間に、生命力を根こそぎ失ってしまっていた。裸になった木々の間から、森の遺跡で血なまぐさい儀式にふけっていた、幻魔の狂信者が走りだしてきた。十代の腹を裂いたものと同じナイフを手に、震えている。
 枯れたツタ植物の茂みが揺れた。
 十代が──正しくは、子どもを実験の材料としか思っていない影丸によって、怪物に変えられてしまった十代の死体が姿を現した。
 遊戯の弟は、増殖していた。肉が焼けたものが多く、鼻をつく嫌な臭いを放っている。教団員の手で、儀式の生贄にされた個体だろう。
 十代たちは、自らの分体を惨殺した男に向かって、虫のような無表情で殺到した。自分たちの腹を裂いたように、奪ったナイフで男の腹を切り開いて裏返し、中身を引きずり出し、濡れた温かい臓物を木の枝に刺して吊るした。断末魔の絶叫。
 十代たちは、数が多すぎるせいで力加減がうまくいかず、作業は自身がそうされたときのようにスムーズには進まなかった。狂信者の男が十代の包囲網から抜けだしたときには、一枚の赤黒いシートになっていた。
「やめるんだ。十代。こんなことしちゃいけない」
 震えを隠せないままうめいた遊戯の前に、瞬きの合間に、古ぼけた千年魔導書を携えた意思のある十代が現れていた。
「ぼくが欲しいのはぼくだけの味方なの。誰にでも優しい遊戯はいらない」
 ほかの十代の個体と明確に違う、死に魅了された眼球に、城之内の姿が映りこむ。遊戯は総毛だった。
「遊戯は、みんなに好きになってもらえる決闘王で、寂しい思いなんてしたことなくて、ぼくに無いものを全部持ってるから、ぼくの気持ちをわかってくれないんだ。そのお兄さんが、邪魔をしてるんでしょ。だったら消さなきゃ」
「やめて、十代!」
 城之内は、幼い殺意をぶつけられても真っ向から受け止めて、見ないふりをしない。大股で十代に歩み寄って、胸ぐらをつかみあげた。
「オレを救ってくれた遊戯の弟が、昔のオレと同じ馬鹿だって考えると、それはなんつーか、ひでえことだぜ」
 城之内が怒っているのだと悟って、十代はあどけない瞳を瞬かせた。これまで、とり憑いた悪魔の不興を買うことを恐れて、十代を本気で叱る大人はいなかったのだ。
「おまえさ、十代、まわりの奴がみんな馬鹿に見えてるだろ。違うんだな。誰も信じられないおまえが、いちばん馬鹿なんだ。そんな面倒な馬鹿のことを、好きになる奴なんかいねーよ。ダチができねーのは、おまえが、根暗でひがみっぽいひねくれもんだからだ」
「ぼくにも友だちはいたよ。自分が苦しいときは友だちも苦しむべきで、寂しいからいっしょに死んでくれっていう奴が。ぼくが大事なら、大好きだって言うのなら、ひとりで死んじゃえばよかったのに。あいつが悪いんだ。ユベルさえいなければ、ぼくは普通の子どもでいられたんだ」
「そんなに悪く言うなら、そのユベルって子は、本物のダチじゃなかったんだ。おまえは、そいつに友情なんて感じてなかった。そいつが好きだって言うたびに、おまえは自分がそいつよりすごい奴だって思えて、気持ち良かっただけだ」
「ユベルは人じゃない。人を傷つける悪魔だ」
「本当か? おまえが焚きつけたんじゃねえのか」
「ぼくは、やめろって言ったよ」
「嘘つくんじゃねーよ。十代、おまえ、ほんとはそいつが人を傷つけるところを見るのが楽しかったんだろ。おまえと違って、親が待ってる温かい家に帰っていく奴。おまえをいじめた奴、決闘で勝った奴。おまえが逆立ちしても勝てないような奴を、ユベルがやっつけてくれたらすかっとしたよな。しかもそれって、そいつが勝手にやったことで、おまえは一切関係ない。おまえは止めた。だから悪くない。自分の手を汚さねーで、結果だけ手に入れる。それって、なんていうか知ってるか。偽善者っていうんだよ」
「城之内とか言ったっけ。おまえは、苦しめて殺してやる」
「殺すなんて、簡単に口にするんじゃねえよ」
 城之内は吐き捨てた。機嫌を損ねた十代の群れが、いっせいに城之内を向く。おどろおどろしい幽霊が苦手な城之内は、慌てて遊戯の肩のうしろまで下がった。
「妹の静香に大したこともしてやれなかったオレには、なにも言えねえけど──なあ遊戯、おまえ、十代を持て余してるんだな。どうしたらいいのか、わかんねーんだよな」
 耳のうしろで囁く城之内に、遊戯は戸惑いながら小さく頷いた。どうすれば癇癪を起こした弟をなだめられるのかが、まったくわからなかった。
「そうやってダチに甘えたり、助けてもらうのが当たり前のところが、昔は大嫌いだったけどよ。本当は羨ましかったんだ。兄ちゃんやるのは、自転車の運転みたいなもんで、何度も転んで覚えるやつだ。ようは慣れだ。遊戯って誰にでも優しくて、贔屓もしねー、友だち想いのいいやつだからさ、この世界にテメーの信念の他にものさしになるものがあるなんて、今まで考えたこともなかったろ」
「うん……」
「十代みたいな怪獣の兄貴なんざ、さすがの決闘王でも、そう簡単にはいかねえ。だから、今はオレに任せな。悪ガキの尻ひっぱたいて、全部元に戻させてやる」
 十代は、悪意そのものを具象化した姿に変わり果ててしまっている。孤独に慣れきった心に、一度は諦めた家族という希望を与え、それを奪った遊戯を憎んでいる。
 なにも知らなかった十代に未来の理想を押しつけた責任が、遊戯の肩にのしかかる。その重さが、遊戯を、今までとはどこか異なる生き物に変えていく。怖ろしい気もしたが、心はもう決めていた。一度決めれば、遊戯は揺るがない。
「ありがとう、城之内くん。でも、ボクが向きあわなきゃいけないんだ」
 遊戯は、十代と話をしたかった。


【17 願い】




 未来の遊城十代は、ヒーロー・コミックから抜けだした主人公のようだった。あれは、今日から幾日も何年もの間休まずに歩き続け、進化を繰り返し、辿りついた先に立つ背中だ。
 今は違う。癇癪を起こして何もかも壊そうとする、折れかけた子どもがいるだけだ。
「ねえ十代。千年アイテムは、持ち主の願いを叶えてくれる。キミは、なにを願ったの」
「……何でも思い通りになるなら、ぼくは。決闘者の王国で、バトルシティで、いつだってどんなときにも勝ち抜いて王様になった、決闘王になりたい。誰より強い武藤遊戯に、ぼくはなりたい」
「ボクは、大人になったキミの姿を知ってるんだ。未来から来た十代に会った。キミは大人になったら、ユベルといっしょに、世界中の多くの人の命を守る正義の味方になる」
「それっておかしいよね。ねえ遊戯、ぼくを見て。道具みたいにいろんな姿にされて、大人になんかなれると思う?」
 十代は、自分自身さえ守れない小さな手が、いつか誰かを救うような立派な大人になれるわけがないと信じこんでいた。十代の強すぎる攻撃衝動は、どうしようもない無力感と自信のなさの裏返しだ。
「ユベルなんか、もうどうでもいい。ぼくがこんな目にあってるのは、あいつが助けてくれないからだ。ずっと守るって約束を破って、宇宙へ行ったから」
「キミが自分で選んだんだ。ほかに方法がなかったとしても、ユベルの手を離したのは、十代、キミ自身が決めたことだ。その責任は、キミ以外の誰も背負ってはくれないよ」
「ユベルが宇宙へ行ったのは、ぼくのモンスターのくせに、命令を聞かなかったからじゃないか。ぼくの言う通りにいい子にしてたら、あいつが大好きなぼくのことを、今でも守らせてやってたのに。遊戯だって、ユベルをぼくから遠ざけた。あのとき余計なことをしなければ、ユベルはまだぼくを守ってくれていた。あんたのせいじゃないか」
 十代は事実から目を背けて、自分の脆い心を必死で守ろうとしている。
「ぼくのせいじゃない。なにが悪いっていうの」
 誰かに責任を押しつけなければ苦しい。胸を焼く怒りを、どこかにぶつけなければ痛い。悪意なんて持っていたくない、吐きだしてしまいたい。『悪い子』になることが怖いのだ。
 十代は、不完全さを許さないヒーロー・コミックの、勧善懲悪の世界観でまだ息をしていられるくらいに幼かった。そんな子どもが、自らを悪だと認めてしまったら、彼は家族の愛もなく、友人たちに遠巻きにされて、精霊の加護も失い、人ですらなくなってしまったのは、遊城十代自身に与えられた正当な罰として受け入れざるを得なくなる。
 救いようのない悪党は、正義の力を振りかざす圧倒的なヒーローに叩き潰されてしまうのだ。十代にとって〈決闘王〉の遊戯は、正義を執行する役目を与えられた、架空の物語の登場人物だった。
「遊戯に、ぼくの気持ちはわかんないよ。ぼくは寂しかったよ。憧れてたあんたが兄さんになってくれたのは、すごく嬉しかった。でも、ぼくの言うことを聞かないあんたなんか、ユベルと同じだ。もういらない」
 大徳寺が言うように、この島に満ちた幻魔の力が、十代の心を邪悪なものに変えてしまったのかもしれない。
 それでも十代なら、必ず魂に光を持っている。一際眩い光だ。そうでなければ、あんなに気持ちの良い決闘はできない。
 ──また未来ばかり見あげている。現在の十代は、そんなところにはいない。
 他人を憎んで、自分の罪から目を逸らす十代。これから何度も間違いを犯して大人になっていく前の、不完全な人間。どうすれば話を聞いてもらえるだろう。
 遊戯は子どものころを思いだした。遊戯だって、間違うことは何度もあった。そのとき遊戯には双六がいて、家族がいた。道を外れるたびに、間違いを正してくれた。
 十代はいつもひとりだった。壊れた家族は息子を恐れて逃げた。
 十代を見捨てない。信じるのだ。双六が、驚異的な辛抱強さで小さな遊戯を導いてくれたように。
「パパもママも友だちも、助けてくれなくて怖かったね。寂しかったよね。でも十代、心に鍵をかけてうずくまってても何も変わらない。自分の足で立ちあがって、自分の手を伸ばして光を掴むんだ」
「そんなこと、ぼくにできっこないよ」
 武藤遊戯がなにを望もうと、遊城十代なんかが応えられるはずがないのだと、声にならない声が叫んでいた。誰かの期待を背負わなければならない重圧は、長い孤独に慣れはじめていた十代を押し潰そうとする。
「キミの気持ちはよくわかる。ボクも十代と同じで、ずっと友だちが欲しかったんだ。でも、なにをやってもダメな弱虫で、いつも楽しそうに遊んでるみんなを遠くから見てるだけだった。だけど大切な仲間と出会って、変わることができたんだ。大丈夫。キミも変わる。これから光のなかを歩き出すんだ。つらいときには、ボクが隣にいてあげる」
「うそだ!」
 十代は、憎しみをこめて叫んだ。
「ぼくと遊んでくれるやつなんていない。ぼくといて楽しいやつなんていない。決闘したらみんな壊れちゃうぼくを、好きになってくれる人なんて本当にいるはずがない。ぼくにはユベルしかいない。ぼくをわかって、守って、愛してくれるのはユベルだけだった。でもあいつも、ぼくを裏切ったんだ。平気な顔で、ぼくに死ねって言うんだ」
 遊戯は、正しい意志を持ったアテムと出会った。考え方を変えてくれるたくさんの仲間と出会った。
 しかし、ひとりぼっちだったころの遊戯が、すべての繋がりを断ち切って優しく抱き締めてくれる悪魔と出会っていたら、十代と同じものになっていたのかもしれない。彼は遊戯が選ばなかった未来で、もうひとつの可能性なのだ。
「ボクは、十代が好きだよ。キミの運命にボクは負けない。ボクを信じて。キミじゃ、ボクを壊すことなんてできっこない。十代、キミが何者だって、兄さんが受けとめてみせる」
「……遊戯」
 十代の瞳に、見舞いに訪れた病室のベッドの上で見せた、かすかな期待が再び灯る。
 視界の端で火花が弾けた。すこし遅れて、殴りつけるような銃声。黒いフードを目深にかぶった男が、皺だらけの手で小さな拳銃を握っていた。森の遺跡の邪教徒だ。
 震える身体で狙いをつけたはずだが、鉛玉は奇跡的に十代の肩に食いこんで肉を抉った。悪意は、十代を殺すには至らない。だが、一度与えられた希望を奪われることによって、幼い瞳はいっそう強い憎しみを灯す。
「決闘王なのに……また、嘘ついた。あんたの言うことなんか、信じらんない。大嫌いだ!」
「待って、十代!!」
 無数の十代の分身が、狂信者の男に向かって、蜘蛛のように飛びかかった。自分自身の肉体が、血と骨の重みで潰れても省みない。積み重なっていく肉の層の下から、くぐもった悲鳴が一度だけ聞こえたが、あとは生々しい水音と、骨が砕けるあまりにも軽い音に埋もれて消えた。
 肉塊の山が黒ずんでいく。分身達の肉体はどろどろと溶けていき、得体の知れない粘液はまたたく間に乾燥し、黒い塵になり、島を撫でる熱い風に吹きあげられて大気を穢していく。


【18 死の気配】




 森を切り開いた道路に幌型の黒いジープが乗りつけて、レベッカが飛びだしてきた。
「ユーギ、さっきの地震で火山が活発化しているわ。この島に留まるのは危険。船へ戻るわよ」
 死。島は、あらゆる死に満ちていた。
 ぼろぼろの風体の十代たちは、狂信者を道連れに、ためらいなく魂の入れ物を手放して土に還っていった。亡者の魂が大気に拡散し、魔が実体を得るために充分な濃度の瘴気が、名もなき島に満ちている。
「くそっ。あのタヌキじじい、逃げやがった」
 ジープのハンドルを握ったモクバが吐き捨てた。幌の上を、影丸を乗せたヘリが飛んでいく。火山を迂回して海上にさしかかったところで、砂塵の膜の奥から岩の塊が飛来した。
 岩盤を砕いて現れたのは、〈神〉の一柱〈オベリスクの巨神兵〉に酷似した青い巨躯。
 〈幻魔皇ラビエル〉。
 溶岩のなかからは、〈オシリスの天空竜〉に似た赤い竜が生まれ出た。〈神炎皇ウリア〉は、天空の神の聖なる威光とは真逆の穢れを撒き散らしている。
 荒れた海を裂いて、影の世界の日輪を背負った〈降雷皇ハモン〉が出現した。
 〈三幻魔〉。
 魔を蘇らせる代償として、自らの複製品を生贄にした十代は、魂を食らわれることに抵抗を感じている様子はない。分身たちと痛みを共有していないのだろうか。それとも、見ないふりをするのが天才的な十代は、自分が欠けていく感覚からすらも目を逸らしていられるのだろうか。
「我々が求め続けた〈三幻魔〉が、子どもの玩具に成り下がるとは。あの男が生きていれば興ざめだろう」
 大徳寺が苦い顔になった。この男は、見捨てられたことを気にも留めずに、雇い主を案じている。
 悪人ではないのだ。ただ、人の心が欠けている。
「〈三幻魔〉。おまえたちが、ユベルの代わりにぼくを守ってくれるカードなんだね。最初の命令だよ……武藤遊戯の仲間たちを殺して」
 精霊ユベルそっくりの歪んだ笑みを、幼い顔に張りつけた十代の前に、遊戯は立ちはだかった。
「憎しみをぶつけるのなら、ボクだけにして。ボクが、十代を受け止める」
「それじゃ、意味ないよ。苦しくない。悲しくない。痛くない」
「そんなにボクに怒っているのなら──」
「ううん、違うよ。たしかに遊戯に裏切られて傷ついた。でも、ぼくは、とっても長い間遊戯のことが好きだったんだ。そんな人を嫌いになるのは苦しいよ。だからね、遊戯をぼくの本当の兄さんにする方法を思いついたんだ。ユベルがぼくの友だちにしたみたいに、永遠に眠らせてあげる。喋らなければ、ぼくを責めない。動けなければ、ぼくを裏切れない。遊戯がぼくだけの優しい兄さんになってくれるんなら、もうなにもいらない。あとは邪魔だから、ぜんぶ消えちゃえ」
 十代は、陽気な小鳥が囀るように言った。
 ユベルの身勝手で一方通行の愛情表現は、マスターの十代の心の奥に隠された本性の発露なのかもしれない。ふたりの歪み方は、あまりにも似通っていた。
 ユベルと大徳寺に覚えた違和感と同じものが、十代を前にして湧き起こる。憧れと敬意を抱いている見知った顔が、突然聞いたこともない言葉をまくしたてて、刃を振りかざすのだ。話が通じない。
 十代は、生まれつきそうだったのか、精霊と強く繋がる力が彼をそう変えたのかは知れないが、人と致命的にずれてしまっていた。彼にとっては、狂っているのは自身ではなく、遊戯やこの世界のほうだ。いくつもの問いかけに、ひとつも答えない怪物の巣だ。
 無力な子どもが生きていくには、あまりにも苦しい現実。彼は、身の回りの歪んだ世界を正したいと、幾度も願ってきただろう。
 〈三幻魔〉を得た十代は、望みを叶える力を手にした。
 幼児が振りまわした腕に、大きな力が宿っていたなら、柔らかい手はすべてを壊しつくす。罪の意識も感じない。十代にとっては、おかしくなった世界を、彼の目に映る正しさに沿わせただけなのだから。
 遊城十代にとっての正義が執行され、狂った世界に満ちたあらゆる歪みが矯正されたなら──それは、この世界の滅びを意味する。
「さあ、化け物。ぼくの命令を聞くんだ」
 三体の幻魔は、なぜか、凍りついたように動かない。十代を映した鉱物めいた眼が、ある感情を宿していることに、遊戯は気がついた。
 ──憎悪。
 人の心とは異なるかたちをした巨大な悪意は、糧となった十代の感情が伝染したのだろうか。
 赤茶けた大地を割った大穴から、青い巨腕が突きだした。うるさい羽虫を捕らえるように、とりとめなく十代の全身を掴む。
 もがく小さな身体を見あげながら、遊戯にはどうすることもできなかった。


【19 憎悪】




 塔のような太い幻魔の腕が、十代の魂を握っていた。ぶつけられる恨みは、静かな眠りを邪魔されたためだけではない。
「〈三幻魔〉は贖罪を求めている。十代、覚えておけ。度を過ぎたいたずらには罰が下るのだ。血で贖うほかあるまい」
 大徳寺は、穏やかな笑顔で十代を突き放した。はじめから、十代を利用して捨てるつもりだったのだ。
 島に封印されし、三体の〈幻魔〉。あらゆる抵抗をあざ笑う神の影。十代は、誰に救いを求めればいいのかもわからない。
 巨大怪獣に喰われて消えるなんて、絶対に嫌だ──助けてくれるのなら、誰だってよかった。遊戯の名前を呼んだ。
「……兄さん。遊戯兄さん、助けて!」
「十代!」
 遊戯は、当たり前のように手を伸ばしてくれた。
 純粋な表情は、掛け値なしに家族を助けようとしている。だから、この人は自分とは真逆の人間なのだと、十代は思い知った。
「勝手なこと言わないで。あんたみたいな人殺しが、ユーギの弟になんかなれっこないじゃない」
 十代が遊戯への当てつけに殺そうとしたレベッカが、憎悪を剥きだしに言った。傷つけたものには恨まれるのだと、いつから忘れていたのだろう。
「ぼくの、なにが悪かったの?」
「あんたの存在そのものよ。悪魔」
「わかんない。そんなのってないよ。ぼくがひどい目にあうのは、いつもおまえたちのせいじゃないか」
「せめて、その才能が呼び覚ました幻魔のカードは、我々の研究の役に立ててやる。安心して、闇の彼方で永遠の苦痛を味わいたまえ。下衆には相応しい末路だ」
 幻魔だけではない。家族も遊戯の仲間たちもユベルも、誰も彼もが贖罪を求めて十代を責める。狂っている。なにがそんなに悪かったのか、十代にはまったくわからなかった。話が通じない。
 十代の半透明の精神体の上で、幻魔の炎がホムンクルスの身体を焼きつくした。禍々しい熱が骨までしゃぶりつくし、あとには灰も残らない。

       *

 焼け尽きた十代には、かすかに意識が残っていた。おそらく、ほんのわずかの間だけ、魂のかけらがその場に残留しているのだ。
 幻魔が現れた大穴が地響きと共に塞がり、ただひとり十代に手を伸ばしてくれた遊戯が、放心して膝をついた。そこに祖父の双六と、一組の男女がやってきた。
 両親だ。十代にはふたりの姿が見えていたが、両親はそれと知らず、息子の消滅を知らされると静かに抱きあった。
「──よかった」
 母親がしみじみと言った。十代は、頭を強く殴られたような衝撃を覚えた。
「悪い夢を見ていたようだ。あの悪魔のことは、早く忘れてしまいたい」
 十代の両親は遊戯にとりすがり、化け物から解放してくれたことに感謝の言葉を連ねていた。
 ふたりは、十代という呪いから自由になったことを、心から喜んでいた。遊戯が呆然と首を振る。双六は深い溜息をついて、黒ずんだ土の上にしゃがみこんで胸に手を当てた。
「やめて。十代を、そんなふうに言わないで」
「遊戯くんだって……とってもほっとした顔してるじゃない」
 遊戯は、信じられないように自分の顔を撫でている──その通りだった。
 これが結末か。
 十代は、ようやく認めた。いくら待っても、決闘王は助けに来ない。救いようのない最期を迎えても、しょうがないことだ。
 遊城十代は、悪者だったのだから。


【20 罰】




「みんなは、先に入り江へ向かって」
 遊戯は、幻魔の腕が十代の魂を鷲掴みにして消えていった亀裂を覗きこんだ。十代を諦めきれない。
「あのクソガキ。大人がびしっとしつけてやらねーと」
 城之内も頷いた。十代の両親が息子の死を祝う姿を前に、昔の自分を重ねあわせたようだ。
 大徳寺は、面倒ごとを押しつける相手を見つけたとばかりに、晴れやかな表情になった。
「私の工房に案内しよう。十代のベースが残っている。〈魔〉は、十代の最後の一片までも喰らうだろう。決闘王のお手並み拝見といこうではないか」
 遊戯が三幻魔を倒せば、大徳寺は追い求めていたカードを手にすることができる。錬金術師の旺盛な知識欲が恨めしいが、ほかに方法はなさそうだ。城之内が大徳寺を殴る前に、遊戯は頷いた。
 この無人島の地下には、蟻の巣のような遺構が広がっている。遊戯は大徳寺に連れられて、影丸城の地下にあった部屋よりも、ひとまわりほど小さい錬金術工房に辿りついた。
「遊城夫妻が持ちこんだものだ」
 大徳寺の痩せ細った指が、蒸留釜を示した。火の消えた闇に、白い塊が浮かんでいる。
 骨だ。腰椎の欠片。
「賢者の石〈サバティエル〉。私の錬金術で、遺骨の一部を賢者の石に昇華させ、魂に楔を打ちこんで現世に引きとどめている。ほかのすべての十代は、不完全なホムンクルスに過ぎない」
 大徳寺は、顔色も変えずに外道の実験を語った。骨の欠片は、可聴域を超えた不思議な音を発しながら、小刻みに震えている。音に引きずられるようにして、視界が白く抜ける。
 硫黄のにおいが漂う工房が消えた。どこからか降ってきた夕暮れどきの赤い光が、遊戯の首筋を刺した。
 遊戯はいつしか、亀のゲーム屋の入口に立っていた。
 玄関を開ける鈴の音を聞いて、帽子をかぶった小さな男の子が椅子から立ちあがった。十代だ。無邪気な笑顔を浮かべてカードを差しだした。遊戯は手を伸ばしかけ、止める。
 これは魔物だ。何の心も持たず、誰の想いも理解できない。カードに描かれたモンスターは、泥をこねて造られた神々の贋物だ。
 紙面から乖離した膨大なテキストが、脳裏に流れこんでくる。誰かの古い記憶だ。一人分ではなく、次から次へと波のように生まれ、上書きに次ぐ上書き。波、波、波。呑まれていく。溺れてしまう。自分が誰だったのかすら、見失ってしまいそうになる。
 その一番最初にある記憶を、遊戯は知っていた。半身が命尽きるまで駆け抜けた、三千年前の古代エジプト世界だ。

     *

 異形の神を祀った祭壇の上に、遊戯にそっくりな褐色の肌の青年が、眠るように目を閉じて横たわっている。『アテムではない』。
 あきらかに死んでいる。防腐処理を施されてはいるが、砂漠の高温とむせ返るような湿気のなかで、腐敗を完全に遠ざけることは不可能だ。
 その〈遊戯〉の死体が起きあがった。血まみれの儀式刀を手に立っている、十代にうりふたつの青年の指を、蘇った〈遊戯〉は優しくほどいて刃を取りあげた。
 奪った刃で、〈十代〉の腹を深々と刺す。
 ──汚らわしい白肌だ。蛮族の頭領が、エジプトのファラオの兄弟なものか。
 ごみのように突き飛ばされた〈十代〉を、傷だらけのセトが受け止めた。非難の目つきで、震えはじめた〈十代〉の耳をふさぐ。
 ──聞くな。貴様の王はすでに死んだ。
 〈遊戯〉が〈十代〉の血で濡れた刃を振り下ろした。銀の光、血しぶき。
 童実野美術館で見た石板に描かれていた光景だ。十代と海馬にそっくりな古代人たちを殺した男は、蜘蛛のような鎧をまとった〈遊戯〉だ。
 ──聞け、隣国の王よ。
 セトが〈十代〉にかける言葉は、呪いだ。
 ──再び私が蘇る未来まで、この哀しみを繋ぐのだ。
 命を奪われたセトの皮膚はなめされ、血は文字へと形を変える。大いなる砂の王国の危機を救いながら、滅びの始まりとなった〈千年魔術書〉の写本が装丁される。
 闇の錬金術の秘儀は、歴史の闇に葬られた〈真理〉を語り続ける。

     *

 賢者の石から、黒い蒸気が吹きだした。影の粒子は一冊の本の姿を作った。
 〈千年魔術書写本〉。
 いつの時代にも使われたことがなく、どこの国にも存在しない、妄想と暗号で編まれた奇妙な言葉が、紙の上で踊りはじめた。文字の霧が黒い羽虫に化けて拡散し、その身にウジャトの眼を刻んだ人の似姿になった。
 胸に空っぽの石版を抱いた人形だ。面影は十代の母親に、そして核となった十代に似ていた。
 光属性の天使族モンスター、〈マアト〉。



 かつて、闘いの儀がとりおこなわれた地下神殿に安置されていた石版をもとに、ペガサスは〈真理〉の名を持つモンスターを創りあげていた。
 古代エジプトにおいては秩序を司る正義の女神であり、〈概念〉が神格化された存在だった。本来なら、神聖な黄金の輝きを放つはずのこの〈マアト〉は、人の悪意に穢れて黒く染まりきっている。
 七つの穴が穿たれた石板人形は、本能に従って、欠けた身体を満たす千年アイテムの生成を開始した。
 〈マアト〉は、寄生した十代の未熟な人格を侵食し、染みついた記憶をたどり、執着や心残り、渇望、おおよそ悪意にかかわる事象を伝って広がっていく。
 千年アイテム。この不思議な装飾品は、人の遺体を材料に生まれる。愛し子たちにふさわしい素材として、武藤遊戯にまつわる決闘の記憶が最も強い地で暮らす、遊戯に近しい人々に狙いを定めた。
 ──〈マアト〉の身に、童実野町の光景が映し出される。気のおけない友人の絶叫が、苦手な教師の断末魔が、顔なじみの少女の悲鳴が、遠く離れた絶海の孤島に響いた。



「静香」
 城之内が、犠牲になった妹の名前を叫んで、人形につかみかかった。憎悪は、そのまま投げ返される。届かない。城之内の肉体が、金色の光に侵食されていく。
「城之内くん──」
「遊戯の弟は、利用されてるだけなんだってわかってる。……でも、やっぱりオレは、許せねぇよ」
 遊戯に力なく向けられた目には、憎しみを抑えきれなかった自分自身への悲しみがこめられていた。
 とりすがった遊戯の指の間をすり抜けて、黄金に溶けた親友は、闇の底に滴り落ちていった。
 〈マアト〉は、触れるものすべてを黄金に融かす触手を伸ばしていった。世界じゅうから人の姿が消えてしまうまで、水をくみ続ける魔法使いのほうきは終わりを知らない。
 入り江に停泊した船に逃げこんだ、怯えきった十代の両親。優しい祖父、遊戯の友人たち。人形に同化した十代の魂が、遊戯の大切な絆を次々に砕いていく。
 大切な仲間の命を奪う者への敵意を抑えきれないのは、遊戯も同じだ。
 弟ができてうれしかった。
 だけれど今は、その弟が敵だ。
 遊戯の大切なものを奪う〈マアト〉が、遊城十代が憎い。デッキケースに手をかけた。
 〈破壊竜ガンドラ〉を召喚。
 ──攻撃だ。
 〈マアト〉の、磨き抜かれた甲冑に映る自身の表情に、遊戯はぎくりとした。
 裏切り者の遊戯を憎む十代と、同じ顔をしている。
 一瞬の悪意が、武藤遊戯の強烈な自制心の壁に杭を打ちこんだ。心の部屋に入った罅から、闇が覗く。
 長い間、遊戯は、それがどんな形をしているかも知らなかった。見ないふりを続けてきた。自分自身の心の声が、耳の後ろで囁く。
 ──『彼』を殺しておいて、自分だけ幸せな未来へ向かうの?
 『彼』は、感謝の言葉とともにこの世を去った。
 杏子は、『彼』を殺した殺人者の遊戯を責めなかった。
 子どものころから憧れていた杏子が、初めて好きになった人を、遊戯が殺した。
 あのふたりの想いは、永遠に重なることがない。そのことは少しだけ、ほんとにちょっとだけ──。


 ──よかった、って思ってた。


 杏子か、『彼』か、どちらに嫉妬をしているのかもわからない。どちらにも、なのかもしれない。
 最低だな、と遊戯は呟いた。
 〈マアト〉が、歓喜の不協和音を奏でた。寄生主の十代が執着する、遊戯に潜む闇を待っていた。
 生まれるたびに殺され続けていた、遊戯の悪意を引きずりだした〈マアト〉は、それをピースに、最後の千年アイテムを生み落とした。
 ──千年パズル。
 遊戯の手に馴染んだパズルと、同一でも模倣品でもない、この世で二つ目の千年パズルだ。
 〈マアト〉のすべての欠落が埋まったことで、人形は、簡易的な冥界神殿の役割を果たす。
 金属の肢体が、まっぷたつに割れた。生者と死者の世界を繋ぐ扉にかけられた閂が抜かれ、大いなる門が開いていく。境界の門の向こうから、絶望に満ちた瘴気が吹きだした。
 『それ』と対峙したときの絶望を、憶えている。
 闇を統べるもの。天をつくほどの漆黒の巨体を持つ、大いなる闇の大邪神。
 死闘の果てに倒したはずの〈ゾーク〉が、天敵なき地上世界に蘇った。


【21 宇宙】




 〈ゾーク〉が、雄叫びをあげた。
 すべてを壊す──生命あるもの、色のあるもの、人の手が生んだもの、光がその優しい手で撫でたものを全部夜に飲みこんで、穢して汚して砕いて、壊しきってもまだ形の残っているものすべてを壊し尽くす。
 壊すことしか知らない闇の叫びは、幼児の泣き声に似ている。
 ──十代と、おなじだ。
 〈ゾーク〉の腐った指先に触れるそばから、カードの精霊たちの魂が干乾びていく。
 〈ゾーク〉を相手に、さすがの幻魔も分が悪いように見えた。三体の力を重ね、〈神〉がそうしたようにひとつに融けていく。
 光の創造神とは似ても似つかない合成生物、〈混沌幻魔アーミタイル〉が生まれた。
 〈ゾーク〉と激突する。
 大邪神を現世へ送りだした、黄金の門が砕けてゆく。黒い風が、冥界の門へ向かって渦を作りはじめた。古代遺跡の瓦礫も、枯れた森も、生命の痕跡を印すなにもかもが吸いこまれていく。
 このままでは、島ごと冥界へ呑みこまれてしまう。抗いようのない存在を前に、遊戯の手にパズルはない。
 内臓が浮きあがる不快感。見えない手で、全身をぐちゃぐちゃに振りまわされながら、死の境界線に呑みこまれていく。誰かへの謝罪が口をついた。誰への言葉だったのかは、遊戯自身にもわからない。
 遊戯の後悔に──なにかが応えた。
 大邪神の巨体が震えはじめた。崩壊と再生を繰り返しながら、見あげる程に大きかった影が収縮していく。闇は、ひとりの人間の姿をとった。
「アテム……?」
 〈ゾーク〉だったものが、冥界の門の彼方にいるはずの半身そのものの形をしている。

       *

 三千年の歴史の果てに目覚めた名もなき王は、大邪神の闇を内包していた。
 〈アテム〉であり〈ゾーク〉でもあった頃の彼は、『悪』への裁きの名のもとに、多くの人々を傷つけた。遊戯とともに、強敵たちとの幾多の闘いを経るうちに、強まっていく光の意志によって、闇はいつしか掻き消えていた。
 ゾークの一部にもまた、アテムの正しさが融合していた。それは生前の若きファラオが、死の際に闇の神を刺し貫いた、剣の切っ先だったかもしれない。
 ゾークの中の幽かなアテムは、今にも消えてしまいそうだ。禍々しい赤い眼が、不気味な光を帯びている。力強かった魂は劣化し、実体を保つこともままならないほど脆い。
『相棒。オレは、おまえに出会うまで、自分が誰なのかわからなかった。王、それとも邪悪な神。どちらが本当のオレなのかを知らない間、オレたちは、本当にひとつだった。いま、おまえは十代を救いたいと願い、正しい者であってほしいと祈った。それは、オレの願いで祈りだ。再び生まれた千年アイテムは、持ち主の願いを叶えるだろう』
 アテムの影が、カードを引いた。
 三体の神が主に応えた。幻魔──意志のない神の影が、反転する。
 〈神炎皇ウリア〉は、〈オシリスの天空竜〉に。
 〈幻魔王ラビエル〉は、〈オベリスクの巨神兵〉に。〈降雷皇ハモン〉は、〈ラーの翼神竜〉に。
 〈魔〉が光に転生した。輝く三幻神が顕現する。
 アテムが、ゾークに踏み潰された〈マアト〉から零れた心臓を──十代の骨の欠片を拾いあげた。
 それは、もはや人とは呼べない存在だったが、アテムは敬意を表していたし、仲間として扱っていた。
 アテムの手が、優しく十代を撫でる。遊戯にはできなかった仕草だ。別れ際に、半身にもらったと言ってくれた優しさという強さが、遊戯のどんな言葉も届かなかった十代の心に染みこんでいく。
『冷たい』
 十代が、音を震わせない声で呟いた。
『さむい。暗い。じめじめしててお墓のなかみたい。いつも感じてたこれが、この闇が兄さんだったんだ』
 闇は、十代にとてもなじんだものだ。暗い部屋にひとりぼっちでいるのは、寂しいことだと遊戯は思う。十代の心に光を望むのは、遊戯の思い描いた理想を押しつけることにしかならないのだろうか──。
 アテムが、カードをひらめかせた。見たこともないクリボーを召喚する。
 〈ハネクリボー〉。
 純白の小さな精霊が、十代の魂を濁らせている悪意を吸いこみはじめた。幼い子どもには手に余る十代の闇が、姿を現した。
 何千年もの数えきれない年月蓄積された、腐敗臭のする心の闇だ。十代として生まれる前の、幾人もの『十代』の慟哭が、〈ハネクリボー〉の身を黒く穢して、封印されていく。
 アテムは、己を見るように十代を眺めていた。
『たとえ、この世に生まれてはならない悪だとしても、幼い子どもが未来を夢見ることを諦めるなんて、あっちゃならない』
 大いなる闇を宿した小さな肉体の優しさを信じて、未来へ送り出す。間違いを犯した大人だけができる、子どもの導き方だ。
『おまえたちを、いつも見ている。あとは頼む』
 アテムが、遊戯の目をまっすぐに見つめた。それが限界だっただろう。勢いを増した闇の大渦に、アテムの人格の残滓は飲みこまれていった。
 大邪神ゾークが、還ってくる。
 光の神々は、再び影へと貶められる。
 〈ゾーク〉は、神々にひれ伏した幻魔を嘲笑するように喰らった。闇の力を消化し、大邪神はさらに成長していく。現世の破滅と悪が栄える新世界の到来を謳う魔が、島を覆いつくした。
 〈ハネクリボー〉が鋭く鳴いた。
 岩の上に散乱する、城之内のカードを示している。拾いあげたそのカードは、〈時の魔術師〉だ。
 百年の時を飛び越えて、未来と出会うカード。
 アテムは言った。遊城十代が悪であれ、未来を夢見る権利はあるのだと。信じよう。カードをデッキに触れさせた。
 〈タイム・マジック〉が発動する。十代の残骸が、変わる。
 短い手足が生まれ、伸び、体を編み上げる。両の瞳は、悪魔と同じ色に輝き、赤い服がひるがえった。
 時を超える魔法の力が、遠い未来を生きる、大人になった遊城十代を召喚した。
 デュエルディスクから、カードをドロー。
 召喚されたのは〈ユベル〉だ。主への愛に歪みはない。何者の悪意も寄せつけない無敵の盾が、大邪神と呼ばれる〈魔〉の波動を霧散させた。
 再びドロー。〈ネオス〉が出現する。数多のヒーローたちが駆けつけ、最後に、虹色に輝く竜が顕現した。パラドックスと対峙したときに一度見た、神の一柱だ。
 〈究極宝玉神 レインボー・ドラゴン〉は、十代に欠けているすべてを持っていて、十代に満ちているすべてが欠けている。まるで半身だ。闇を滅ぼす七色の光が炸裂する。
 圧倒的な裁きの光にさらされた〈ゾーク〉のかたちは、縮み、乾いて罅割れ、無力だった。苦悶の雄叫びをあげながら、恨みをこめた眼窩で十代をねめつけた。
『なぜだ……同じ闇から分かたれし半身よ。連なるもの、兄弟よ。なぜ、闇が光に与するのだ?』
「ごちゃごちゃうるせぇ。オレの大切な人に手を出すやつは、誰だろうとぶったおす」
 ヒーローは闇を軽やかに切り捨て、〈ゾーク〉の遺骸を踏み砕いた。邪悪な影の集合体が解けて風化し、塵へと還っていく。
 細身の剣のようにまっすぐに立つ十代は、千年の時を駆け抜けてきた老人のようにも見えた。素手で抉りだした大邪神の心臓を、池の鯉に餌をやるときのとりとめのない仕草で〈ハネクリボー〉に与えた。
「こいつは、あの人にお返しします」
 十代の手の中で、〈マアト〉が分解していく。人形が抱いていた七つの千年アイテムが浮かびあがり、夢から覚めるように消えていった。金色のシャワーが、大地に優しく降り注いだ。
 雨粒は、名もない島じゅうを打った。生命の恵みを与えて、千年アイテムの原料として生贄にされた人々が、もとの形を取り戻していく。
 十代は、強者の責任を当たり前のように背負っている。人知を超えた万能の力に、振りまわされることはない。遺灰の砂の山からカードを引き抜いて遊戯に跪き、この島に満ちる瘴気の元凶〈三幻魔〉を差しだした。
「世話をかけてすみません。ガキの頃のオレは、あなたと仲間にひどいことをした」
 息子から逃げていく途中に魂を喰われた十代の両親も、息を吹き返したようだ。今は安らかに眠っている。
「十代。叔父さんと叔母さんはキミのことを、その」
「望まない力に振りまわされた、可哀想な人たちです。ふたりとも、いつかオレとは違う普通の子どもと、ありふれた幸せな家庭を築けるでしょう」
「十代……」
 慰めでも口にしようとしたのだろうか。わからない。意識が薄れていく。遊戯よりも大人になった十代の腕が、危なげなく受け止めてくれた。
 温かい。心の中に、大人になった十代に訊きたかったことが、思い浮かんだ。
 ──今でもまだ、ボクになりたいの。
「ええ。だけど、ほかの誰かにはなれない。オレは、憧れの決闘王武藤遊戯にはなれない。あなたの心が、全部オレのなかに入って、オレのものになったらどんなにいいかって、何度夢を見たって決してかなわない」
 ──キミはボクにはなれないけれど、欲しいなら、ボクの記憶でも魂でもなんでもあげるよ。
「あなたのそういうところが、大好きですよ。でも心配です」
 降ってくる声は、金色の雨のように優しい。楽しそうな、いたわるような声は、とても近しい誰かによく似ている。
「未来で待ってますからね、遊戯兄さん」
 ──まだ、兄さんと呼んでくれるんだね。
 そう呟いたのが、声になったかどうか。視界が暗転した。


【22 十代】




 きっと、心の深いところが繋がってしまったせいだ。
 遊戯は、割れた鏡の欠片が散乱する、十代の心の部屋を垣間見た。
 真っ暗闇に、一筋の光が射している。ブラウン管のテレビが置かれていて、画面にはペガサス島で、あるいはバトルシティで、様々な時間と場所で決闘をしている武藤遊戯の姿が映っていた。
 幼い十代は、電気もない部屋で頭から毛布をかぶり、拳を握って、真剣に映像に見入っていた。あまりに眩しいものを見るまなざしをしていた。
 テレビに向かって、抱擁を求めるように両手を差しだす。両親は家に帰ってこないし、友人たちはみんな逃げてしまったから、彼を抱き締めてくれる者は、もう長い間なかった。
 モニター越しの遊戯は、十代の存在を知りもしない。それを理解しながら、ひとりぼっちの子どもは、救いを求めて何度も繰り返してきた。
 ──ボクらは、どうしてもっと早くに出会えなかったんだろう。
 十代は、とても近くまで来ていた。遊戯が、小さな十代の孤独に気がついていれば、悪意が幼い魂を腐らせる前に、引きあげてやれたはずだ。


 遊戯が目を覚ましたのは、実験用具がひしめく錬金術工房の簡易寝台の上だった。そばに大徳寺がいて、本心のうかがえない微笑をたたえて遊戯を見下ろしていた。
 歴史のテキストを読み聞かせる教師のような、眠気を呼ぶ静かな声が降ってくる。
「武藤遊戯──あなたは、名もなきファラオの魂を冥界へ送り届ける使命を終えた。後悔はなかったが、それは、半身から現世での未来を奪う殺人にほかならない。時が経つにつれて、あなたの心はかたくなになっていった。本当は、彼と共に生きたいと強く祈っていたのに、叶わぬ願いを無意識下に押しこんで、何食わぬ顔をして希望に満ちた未来を語り続けていた。
 そんなとき、かつてのあなたがたに生き写しのような選択を迫られている、十代とユベルが現れた。十代とあなたは、同じ穴のむじなだ。それでいて、あれは親がこっちを向いてほしいだとか、友だちに構われたいといった程度の願いはするが、まだ強くなにかを求めたことがない、未熟な魂だ。手に入れるのは、造作もなかった。
 あなたは、優しさを餌にして十代を取りこみ、望んだ未来へ導いていこうと考えた。なにせ彼なら『亡き半身を継ぐ者』、いや、彼よりも正しく武藤遊戯の半身に──弱くてずるい、『もうひとりのあなた』になってくれるかもしれないのだから」
 遊戯の祈りは、十代を化け物に変えた。アテムに還る前の『もうひとりの武藤遊戯』のような、ふわふわとして実体のないまぼろしに。
 彼に、その身を捧げてもかまわないとまで思いきらせたのは、武藤遊戯のたった一言の囁きだった。
 ──じゃあボクが、十代くんのお兄さんになってあげようか。
 兄を名乗る資格なんてない。だけれど、遊城十代の運命を狂わせた罪は、償わなければいけない。
 すべての死者の還るべき場所は、未来を夢見る子どもには似合わない。永遠の眠りは、十代のための選択ではない。
「十代を取り戻す方法を教えてください、先生」
 遊戯は、淡々と呟いた。大徳寺の赤い眼が、糸のように細くなった。
「肋骨をいただきます。子ども一人分の肉体を造るには、今は一本で十分です。人体の一部をベースにホムンクルスを生成し、魂を閉じこめる。十代の血に近しいあなたなら、うまく適合するはずだ」
 『今は』ということは、いずれは他のなにかが必要になるということか。
「生き物になるということは、完全な存在を目指して進化を繰り返すということなのだから。あの『十代』も、例外ではない。いつか十代は、自分自身に欠けた理想として、武藤遊戯を欲しがるようになる。喉から手が出るほど、痩せこけた飢えた狼のように、すべてをかけてあなたを求めはじめるだろう。そうでなければ、彼は人になれない」
 ひどく眠い。遊戯は瞳を閉じた。

       *

 工房の水槽のなかで、管に繋がれた魂の器は、白くふやけた水死体に似ている。構築されている最中の十代が、目を開けた。新しくできた両目には、正気の光が宿っている。
 遊戯は、分厚いガラス板越しに、輸血の管で繋がった十代と向きあっていた。どうしても訊ねたかったことがある。
「キミは、頭のいい子だ。影丸に利用されているだけだって、気がついていたはずだ。なぜ、あの男の言いなりになったのかを教えてほしい」
『利用されているのでもいい。相手をしてくれるってことは、ぼくに価値があるってことだから。……あなたの言う通り、本当は何の意味もないって知ってたんだけど』
 腕に刺された管から伸びる血の糸を通って、遊戯の頭の中に、声を伴わない十代の答えが響いた。
『ふたつ頼みがあるんだ。叶えてくれるかな。優しさにつけこむみたいだけど、ぼくはずるいからね』
 遊戯は頷いて、できることならなんだってする、と念じた。十代はふやけた唇の端をあげて、酷薄な笑顔にも、疲れて諦めきっているようにも見える顔になった。
『ユベルがいい子になって戻ってきたとき、こんなぼくを必要としてくれたのに罰を与えてごめんって伝えてほしい。あの子は悪くない。わがままばかり言って、困らせたのはぼくだ。あと、できたら、友だちになってあげてほしいんだけど』
「約束する。ほかにあるかい」
『今は、とても頭のなかが静かだ。でも、さっきまでは、世界中のみんなを消してしまったっていいって、本気で思ってたんだ。ぼくは、いつまたあの黒いものに飲まれてしまうかわからない。たくさんの人を傷つける前に──』
 人ではない者へ変わらざるをえなかった弟は、透明な管に虚ろな視線を向けた。遊戯が、ほんのわずかの力をこめて管を引き抜けば、死ぬ。
「十代は、いい子になるんだろう」
『もしかして、まだぼくの兄さんでいるつもりなの』
「キミのことが好きなんだよ」
 十代は、昔を懐かしむ老人の顔をして嗤った。遊戯に呆れたのか、自嘲したのか。
 今の彼は子どもでありながら、かつて同じ顔と声をして生き、歴史に埋もれていった多くの他人の人生を、自分の記憶のなかにしまいこんでいた。死者たちの知性が、幼さを拒絶している。
『あなたは、綺麗だなぁ。それに、とっても重い荷物を背負っているんだね。もしもぼくが大きくなって、本当にヒーローになれたら……』
 ──遊戯兄さんの荷物を、いくつか預かってあげるよ。
 今は、心までひとつに繋がっているように、十代の考えが遊戯にはわかった。
『おなかの傷痕が残らないといいけど』

       *

「すごいもんだな、ホムンクルスって」
 海馬コーポレーション本社のラボで、モニターに映った十代の寝顔を眺めていたモクバが、なかば呆れの混じったため息をついた。
 大徳寺の錬金術によって、遊戯の肋骨から培養した組織で作られた人形は、皮膚も内臓のつくりも、まるきり人間と見分けがつかない。加えて、万物に変化する〈賢者の石サバティエル〉の性質が、見た目の形こそ異なるものの、十代をもうひとりの遊戯自身に造りかえていた。
「感情表現だけが、すこし作り物っぽい気がするけど。変なずれがある。魂が身体を動かすのに、すこしだけタイムラグがあるのかな」
 モクバは、畑違いのオカルト術が生成した人体には素直に感心していたが、中身の魂にはまったく興味がないふりをしていた。幼い自分勝手さで世界中の人々を滅ぼしかけ、なにより彼の兄を傷つけようとした遊城十代には、向ける憎悪すら惜しいのだ。
「最悪なサマーバケーションだったけど、アテムの記憶の世界でユーギたちを散々苦しめたっていうゾークを継ぐ者を、芽が出たばかりのうちに摘むことができるのは幸運よ」
 レベッカが、冷たく吐き捨てた。
 大邪神の干乾びた心臓は、本来は白かったハネクリボーの身体を、真っ黒に汚すほどの穢れを蓄えていた。十代の闇と癒着し、徐々に再生をはじめている。
 時が満ちれば、名も姿もゾークとは別の形をとった次代の闇の支配者として生まれ変わり、すべての生命に滅びの息を吐く。
 ──遊城十代。
 世界の終わりの予兆がいま、遊戯達の目の前で静かに眠っている。
「貴様の考えなしの介入のせいで、世界を滅ぼすものが生まれたということか」
 遊戯を見下す海馬は、あいかわらず何を考えているのかわからない。
「ボクは、それを見きわめなければならない。十代が大人に成長したとき、本当に世界を滅ぼす悪になったなら、ボクがこの手で倒す」
「だめだよ兄サマ。一生シェルターに閉じこめておけば、少なくとも犠牲者は出ない。兄サマを傷つけない」
「好きにするがいい」
「兄サマ!」
 海馬は、軽く肩をすくめただけだった。
「ただし、これから奴の未来へのロードが繋がるまでは、ただの傍観者として長い年月を孤独に過ごせ。できるはずだ」
 遊戯は頷いた。
 ──あなたは、遊城十代のそばにいないほうがいい。
 大徳寺の忠告が蘇る。
 今の十代は、遊戯の血を錬成して生まれたホムンクルスだ。分身の身体に流れる血は同じもので、触れあえば、傷口を塞ごうと肉の癒着が始まる。肉体に引かれて魂も融合する。揺れ動く柔らかな魂は、すでに組みあがった遊戯の自我に型抜きされて、完璧な複製品になり下がる。
 ──十代の肉体と精神が、ひとりの人間として完成するまでは、会わない方がいい。
 初めての成功作品を前に、大徳寺はそう告げたのだった。


【23 まだなれない】




 兄弟とはどういうものなのかを、遊戯の友だちは知っていた。
 遊戯は知らなかったから、うまくやれなかった。
 双六は、いつものように店の扉の前を箒で掃き清めながら、久しぶりに弱音を吐いた遊戯を、「そういうこともあるもんじゃ」と慰めてくれた。
「誰もかれも、なにもかも自信を持って決断できるもんじゃあない。ときには、後悔を引きずることになる。じゃが、そこですりきれてしまうか、引きずって歩いていけるかが、強さを決める。おまえは、強いか弱いかどっちじゃ、遊戯」
 生りかけの十代を前に、大徳寺が語ってくれた錬金術の話を思いだした。強いも弱いも同じことだと、あの男は言っていた。ミクロとマクロの関係。
 遊戯は自分自身を強いとは思えない。十代は強くなるだろう。
 幼い遊城十代の心は、大邪神ゾークが滅び際に撒いた、次世代の闇の種子を宿している。アテムを送る剣が必要だったように、ゾークにもまた、次の過程へ歩き出すための儀式が必要だった。闇を受け継ぐものがいなければ、邪悪な神は滅びられなかったのだ。
 十代は、闇の支配者が繋げた破壊衝動に負けないくらい、人でないくらいに、強い戦士に成長しなければならない。
 自分で自分の責任を取るという、人なら当然のあり方が、生まれ持った運命が特異であればあるほど難しい選択になる。遊城十代は、人を脅かす異物の責任として、生きる代価を己の力で人類に払わなければならないのだ。
 いつかそれが果たせず、十代が人を食らって生きる悪魔のような道を選んだ時、遊戯はその心臓を取りあげなければならなくなる。
 ミクロとマクロ。人を超えて強くなっていく十代を倒せるくらいに、遊戯も強くならなければならない。

       *

 十代は、自分のなかに息づいている怖ろしい力のことも知らず、また決闘をはじめたらしい。
 デッキには、みんなの力を合わせて強くなっていく融合のカードを入れているという。友情を大切に思い、仲間とともに歩んでいきたいと願う心のあらわれだ。
 甘えだと海馬は短く切り捨てたが、遊戯は嬉しかった。決闘のなかで十代は、やっと本心をさらけだすことができたのだ。
 海馬は、いつものやぶ睨みの目で遊戯を睨んでいる。
「貴様は、オレが考えていたよりも傲慢だ。これから少なくとも十数年の間、玉座にしがみついているつもりか」
「今までは、アテムの居場所を守ることだけ考えてた。今は違う。ここにいればボクは、もう一度十代と向きあうことができる」
 海馬は、十代をどう思っているのだろう。
 モクバがいなければ、彼自身がそうなっていただろう、愛を知らない破壊者の姿に興味を抱いているのかもしれない。それとも、アテムが認めた類まれな決闘者を、手ずから育ててみたいと考えたのかもしれない。
 いずれにせよ、デュエル養成機関アカデミアの設立に猛進していた彼には、大きな力を持ちながら律する理由を持ちえなかった十代が、更なる起爆剤になったらしい。遊城十代に、決闘者としての本能が目覚め始めたとき、学校のかたちをした試練が彼を待ち受けるはずだ。
 奇妙な縁の連鎖を見ている。褐色の肌の神官セトと、十代にうりふたつの青年。遊戯にそっくりな古代人が、ふたりを殺した幻影を見た。古代には、千年アイテムにまつわる神官たちの絆のように、今を生きる人々が知りえないなにかが起こっていた。
 当時の真実を、遊戯が知る日は来るのだろうか。


 ──八月三十一日。十代の誕生日。
 遊戯は、病院のベッドの脇のテーブルに、ひまわりの花瓶を飾った。十代はよく眠っている。
 海馬コーポレーションの医療技術によって、遊城十代のデュエルモンスターズにまつわる記憶は封印された。ユベルという不思議な友だちがいたことも、決闘王の武藤遊戯との関わりも、自分自身が何度も死を経験してきたことも、全部忘れてしまった。
 まっさらになった十代は、見違えるほど元気になった。
 記憶操作を受けた彼の両親は、前にもまして家に戻らず、家庭に無関心だ。息子への恐怖心を奪われてしまったら、遊城夫妻には何も残らなかった。
 十代は、新しくできた友だちとふざけあいながら、無邪気に遊んでいた。誘拐されていたときのことを訊ねられると、「なにも憶えてないんだけど」と前置きをしたうえで、少し舌ったらずの明るい喋り方で言う。
「怖い人が出てくる夢を見てた気がする。おっきくて強くて優しくって、遠すぎて手を伸ばしても届かなくて。でもオレは、その人のことが大好きなんだ」
 遊戯は、十代が目を覚ます前に病室を出た。
 初めて兄貴面をした時みたいに胸を張れる日なんて、きっと二度と来ないけれど、武藤遊戯は、あの日の遊城十代を倒すほどに──大人になった十代を守れるくらいに、うんと強くならなくてはならないのだ。
 ──じゃあボクが、十代くんのお兄さんになってあげようか。
 遊戯は、約束をしたのだ。

【 (5)にもどる  ・  目次にもどる  ・  (7)へつづく 】

この小説は二次創作物であり、版権元様とは一切関係がありません。無断転載・引用はご容赦下さい。

-「アテムとソロモン」 … arcen・azmix 12.05.19→ -