十代へ

 外の世界には途方もなく大きなものが沢山ある。まずはじめに驚いたこと。海の上に出た時に、僕らが見慣れたあの大きくて真っ黒な鯱みたいな潜水艦を、それよりももっとずっと大きな船がやってきて、お腹の中へ飲み込んだんだ。
 僕らはそこからアカデミア行きの小さな船に乗り換えた。船の甲板へ上がると真っ青な空が見えた。まるで天井がないんだ。潮の匂いがする風もとても気持ちが良かった。ただ船酔いだけはたまらないな。港に着いてもしばらく足元がぐらぐらしていたよ。

 昨日の日記に書いた通り、僕はデュエル・アカデミアにやってきた。僕と同じような背格好の子達が沢山いる。僕らの街には大人しかいなかったからとても新鮮だ。
 そうそう、君が昔住んでいたという部屋に今僕はいる。君のベッドを借りているよ。なんだか変な気分だ。君がこんなおんぼろ寮で過ごしていたところを想像するとおかしくてしょうがない。
 今も天井裏で鼠達が大騒ぎをしているんだ。ダンス・パーティでもやっているのかもしれない。

 君に報告がある。ここへ来てはじめての友達ができたんだ。ツトムっていう。
 君に憧れてこのアカデミアにやってきたらしいんだ。彼はどうやら十代のことを漫画のヒーローみたいに思っているそうだよ。
 昔皆を苦しめていた『ダークネス』っていう困った奴がいたってこと、そいつを君が泣くまで引っ叩いて懲らしめたっていう話を彼から聞いたんだけど、本当かな。
 僕はすぐに、十代がこの島や童実野町を駆け回りながら悪い奴と戦っているところを想像してみた。飛んだり跳ねたりしながら、君は元気な声でこう叫ぶんだ。オレのターン、ドロー!
 ……そしたら少し寂しい気持ちになった。

 ああ、なんだか変な話になっちゃうな。書くのやめ。

 ここはとても美しい。明日はもっと沢山探検して、楽しいものが見つかるといいな。
 大徳寺先生も相変わらず元気だよ。夕飯の時に先生の分の牛乳と納豆をくれたんだ。味は嫌いじゃないけど、納豆ってなんだか履き古した靴下みたいな変なにおいがする。
 ファラオも元気だけど、またどこかで沢山蚤を付けてきたみたいだ。痒そうにしている。ここは彼の為に洗ってあげるべきなのかな? それとも彼の意見を尊重して、そっとしておいてあげるべきなのかな? 風呂は確かに嫌だものな。

 じゃあまた明日。ばいばい、おやすみ。

◆◇◆

 トメさんは僕を見るなり、「助かるよ」とにっこり笑った。年配の優しそうな女性だ。
 先生でも生徒でもない僕がここでしばらく世話になるからには、それなりの役割を果たさなきゃならない。お客さん扱いは僕としてもうんざりだったし、ここは学校なのだ。デュエルをやらない人間を養ってくれるほど親切な場所じゃない。
 そんな訳で僕は今日からアカデミアの購買の手伝いをすることになった。パンのケースを運んだり、カード・パックを並べたりするのが仕事だ。昼時は沢山の生徒が押し寄せて、地獄のように忙しくなるんだとトメさんが教えてくれた。
「仕事は大体そんなとこだね。アンタ、カードには詳しいかい?」
「モンスター・カードには結構詳しいと思うよ。他はあんまり知らない」
「そうかい、そりゃ助かるよ。あたしゃ何年経ってもサッパリでねぇ。毎年新しい子達に聞かれる度に困っていたんだよ」
 トメさんは嬉しそうに顔を綻ばせて、パンが沢山入っているかごをぽんと叩き、僕に向かってパチンとウインクした。
「さぁて、まずは腹ごしらえをしとくといいよ! アンタその様子じゃ、まともに朝ごはんを食べてないだろう? さっきからぐうぐうお腹が鳴ってるよ。ちゃんとごはん食べないとここじゃもたないし、大きくならないよ」
 確かに、皆まだ眠っているような時刻から寮の部屋を飛び出してきたものだから、今日はまだ朝食を取っていない。購買の朝は早いのだ。僕は顔を赤らめて、トメさんの好意に甘えることにした。かご一杯に積み上げられているのはドローパンと言うらしい。
「このパンはデュエル・アカデミア名物でね、中に何が入っているのかわかんないんだよ。開けてみないとねぇ。アンタ、知ってるかい?」
「話だけは聞いたことあるんだ。僕の友達がね、たまに発作みたいなのを起こすことがあったんだ。お腹が減るとたまに、いきなり手とか足とかをバタバタさせて言うんだよ。『腹減ったぁ、エビフライとかドローパンとか食いてー!』って。これがそうなんだね」
「おやおや、その子、相当のドローパン中毒だね」
 トメさんはおかしそうに笑った。僕もくすくす笑いながらかごの中に手を突っ込み、ひとつ取り上げて封を開ける。たまにひどいものが入っているって聞くけれど、僕が引き当てたのは普通のパンだ。具はタマゴ。
 トメさんがそれを見るなり目を丸くして「おやまあ!」と叫んだ。僕の背中をばんと叩き、「やったよ、ユウキちゃん!」と言う。
「黄金のタマゴパンじゃないかい! 一日一個限定の、とっておきのとっておきなんだよ。ユウキちゃんアンタ、購買の手伝いよりもデュエルをやる方が向いてるんじゃないかねぇ!」
「そんなにすごいの? ほんとに!?」
 トメさんがあんまり誉めてくれるものだから、僕は嬉しいのと恥ずかしいので、真っ赤になってにやにやしてしまった。トメさんが「アンタは可愛いねぇ!」と言いながら、僕の頭を撫でる。子供扱いをされても、不思議と嫌な気分にはならなかった。


 今日一番はじめの『お客さん』がやってきた。驚いたことに、このアカデミアで僕が唯一知っている顔だ。短い黒髪にダークブラウンの目、サイズの少し大きい赤い制服を羽織っている。
 昨日おんぼろ寮に度胸試しに来たツトムだった。僕の初めての同年代(だろう、たぶん)の友達だ。
「やあツトム、いらっしゃい。カードを買いに来たの?」
「ユウキじゃないか。 うん、そんなとこ。少しでも強くなりたいからね。きみは購買の手伝い?」
「そうだよ」
 ツトムは笑って「頑張りなよ」と僕の肩を叩いた。
「ユウキはデュエルやらないのかい? その、良かったらあとでぼくとデュエルしない? ルールが分からないなら教えてあげるよ。……ぼく弱いから、誰も相手にしてくれないんだ」
 ツトムがちょっと恥ずかしそうに言った。そこで僕らの話を聞いていたトメさんが、誇らしげに僕の両肩に手を置き、「この子はすごいよ!」と言う。
「何たって生徒でもないのに、初日からタマゴパンを引き当てちゃう猛者だからね。新入生ちゃん、アンタもうかうかしてらんないよ」
「え、本当?」
 ツトムがびっくりして僕の顔をしげしげと見ている。僕は気恥ずかしくなって、「いやぁ」と後ろ頭を掻いた。
「えーと、うん……でも、僕はデュエルができないんだ。デュエルってすごく体力を使うから、身体に負担が掛かるとかで、大と……病院の先生がね、ダメだって言う」
「そっか……残念だな」
 ツトムが見るからに残念そうな顔になる。僕はなんだか悪いことをしたような気分になってしまって、慌てて弁解した。
「デュエルは相手になれないけどさ、話し相手にはなれるよ。今日島でこんなことがあったとか、天気の話をしたり、一緒にご飯を食べたりさ。それじゃ駄目かな」
「駄目じゃない! まさか、充分だよ。すごく嬉しいよ」
 ツトムが勢い良く頷く。僕はほっとして、「良かったよ」と言った。
「じゃあまた話を聞かせて欲しい。聞きたいことがあったんだ。君は遊城十代のことを良く知ってるみたいだったから、あの人のことをもっと詳しく聞かせてよ」
「この学園じゃ誰に聞いても知ってると思うけど。いいよ。……あっ、いけない、もうこんな時間だ」
 ツトムがちょっと焦ったように言う。そこに「こら、ちょっとそこ!」と僕らを叱責する声が聞こえた。
 振り向くと声の主は女の子だ。ブルー寮の制服に身を包んだ、真っ直ぐなブラウンの髪と、ちょっと気の強そうな黒い瞳をした子だった。
「アンタ、オシリス・レッドのツトム君だったわよね? 入学式はあと五分で始まっちゃうんだから、お買物は後になさいよ。明日香先生に迷惑を掛けたら許さないんだから!」
 女の子はすごい剣幕で、ツトムはたじたじだ。知っている子なのかと聞くと、「受験の時に番号が近かったんだ」という。
「それで顔と名前だけ……筆記も実技も成績は僕とそう変わらないけど、女の子は例外なくオベリスク・ブルーと決まっているんだ。だから……あ、痛い!」
 女の子が大股で歩み寄ってきて、ツトムの右耳をぎゅうっと摘み上げた。これは痛そうだ。彼女はそして僕の方もじろっと睨み付け、「アンタも……」と言い掛けて、急にはっとした顔になった。
「……え!?」
 女の子はひどく驚いた様子で、ツトムを放り出して一歩後退り、僕の顔を穴が空きそうなくらいに凝視している。僕は困惑して、「僕の顔になにかついてる?」と聞いてみた。でも返事はない。
「……この子……『王子様』だわ……!」
 微かな声でそう呟くなり、女の子は急にきゅっと口唇を引き締めて三度深呼吸し、ツトムに向けていた怖い顔とは打って変わって朗らかな表情でにこっと微笑み、胸に手を当てて、
「私、枕田マリカって言います。マリカって呼んで下さぁい!」
 ――と、優しい猫なで声で言った。
 それからすぐに踵を返して、おどおどしているツトムの襟首を掴んで壁際に連れていき、小声でぼそぼそと何事かを話し込んでいる。

「ちょっと! エメラルドグリーンの髪、物憂げな灰色の瞳……あの半端ないイケメン王子はなに? 受験の時にはあんな格好良い子いなかったじゃない! アンタ今仲良さそうに喋ってたわよね。あの子の名前は? 血液型は? 好きなタイプはッ!?」
「そんなのぼく知らないよ……あ、でも新入生じゃないらしいよ。購買の手伝いやってるんだって」
「じゃあカードを買いに来る度にあのイケメンが見れるって言うの? デュエル・アカデミア! 最・高! ジュンコ姉さん、私入学式初日から運命感じちゃってますっ!!」

 ――何を言っているのかは良く聞き取れなかったが、どうも仲良しの友達って感じじゃない。僕はツトムの友達として、ここは止めに入ってあげるべきだったのかもしれない。でもそこで僕らの後ろから、凛とした鋭い叱責が飛んできた。
「こら、あなた達! 入学式がもう始まってしまうわ。急ぎなさい!」
「あ、はぁい! ごめんなさい明日香先生! ツトムくんがモタモタしてるから、早く来なさいよって言ってやってた所なんですよぉ!」
 どうやら先生に叱られてしまったようだ。マリカがほんとにしょうがないという感じの顔で返事をして、一度振り返り、僕にウインクをして、「じゃあまたね、イケメン君!」と言いながら慌しく会場の方へ駆けていく。僕は苦笑いをしながら二人を見送った。
 『いけめん』って何だろう?
「……ふう、教師っていうのは思ったよりも大変そうね。……ねぇ、今年の新入生はどうかしら?」
 気軽い調子で肩に手を置かれて、僕が驚いて振り向くと、すぐ後ろにすごく綺麗な女の人が立っている。まるで天使みたいに整った造作をしていて、ぴんとした姿勢が気高く、美しい。
 見覚えはなかった。
 彼女は振り向いた僕の顔を見て、一瞬驚いたように目を見開き、「あら?」と訝しげな声を上げた。
「ごめんなさい。人違いだったようだわ。――それにしてもエメラルド色の髪、顔立ち、とても似ている……貴方、お兄さんがいない?」
「僕は一人っ子だよ。兄弟はいない。ここで先生をやってる親戚が一人いるけれど……ああ、いた。あの人だよ。――大徳寺先生~!」
 誰かを探しているらしく、きょろきょろしながら廊下をうろうろしている大徳寺先生を見付けて、僕は手を振りながら大声で呼んだ。先生もすぐに僕に気付き、手を振り返してくれた。
 女の先生は大徳寺先生の姿を見付けるなり、ひどく驚いた様子で口元に手を当てた。
――亡くなったハズじゃなかったの……大徳寺先生!?」
「……の、親戚ですにゃ。良くそっくりだって言われますのにゃ。いやぁ~、あれはホントにいたましい事件でしたのにゃ~。それはともかく天上院先生、入学式が始まっちゃいますにゃあ。急ぐのですにゃ」
「え、ええ……」
 大徳寺先生がいつもの気の抜けた笑顔を浮かべ、天上院先生(と言うらしい)を促す。彼女は何だか腑に落ちないという表情だったが、曖昧に頷き、コツコツと靴音を立てて会場の方へ向かっていく。
「ユウキ君も頑張ってるにゃ? お仕事ご苦労様ですにゃ」
「うん。大徳寺先生、あの女の先生のこと知ってるの?」
「そりゃ知ってますにゃあ~。彼女は北米のデュエル・カレッジを首席で卒業した、超エリート・ロードを爆進する天才デュエリストですにゃ。ここじゃ彼女を知らない先生はモグリにゃあ~」
「……あの人、僕を誰かと間違えたみたい」
「まあそんなことも良くあるにゃ」
 大徳寺先生は、そう言って僕の頭にぽんと手を置いた。


 シャッターを降ろし、明日の準備を終えて購買を閉めると、トメさんが売れ残ったドローパンを山ほどくれた。抱えた両腕からすぐにぼろぼろと零れてしまうくらいだ。
「ほら、持って帰りなよ。もっとも良いのは昼に出ちゃったろうから、くさやパンやら納豆パンやらしか残ってないだろうけどねぇ」
「くさやも納豆も好きだよ。いいの?」
「勿論だよ。いっぱい食べて早く大きくなるんだよ。今日はありがとね。困ったことがあったらすぐにおいでよ。いつでも力になるからね」
 トメさんが自分の胸をどんと拳で叩いて頷いてくれた。
「ユウキちゃんを見てると、あの子を思い出すねぇ。何年か前にウチに留学して来てた子なんだけどね、アンタみたいに好き嫌いのない良い子だったよ。その上かなりのイケメンだったねぇ」
「ふうん。ねえ、今朝女の子にも言われたんだけど、『イケメン』って何なの?」
「やだよ、この子ったら」
 トメさんは口元を押さえて片手をヒラヒラさせ、「顔が良いとか、格好良いとか、そういう意味だよ」と言った。僕は赤くなる。人に誉められると、僕はいつも恥ずかしいようなくすぐったいような気分になる。


 今夜島にある三つの寮ではそれぞれ、新入生が集まってパーティーをやっているらしい。オベリスク・ブルーはまるでお城の晩餐会みたいなことになっているそうだし、ラー・イエローでも美味しそうなごちそうが沢山振舞われているという話だ。
 僕はそれをツトムから聞いた。彼が在籍しているオシリス・レッド寮の夕食は昨日と同じく貧相なもので、庭先でめざしを炙りながら「負けないぞ。いつか絶対昇格してやろうな」と仲間同士で誓い合うという、少々寂しげなものだった。負け組って言葉がぴったりくる光景だった。
 いくらなんでもヒーロー・遊城十代が在籍した寮にしては生徒の扱いが酷過ぎる。……と思っていたら、どうやら十代は筆記試験はてんで駄目、留年寸前の落ち零れだったらしい。なんだか僕までやるせなくなってきた。学生時代のあの人が、ブルーやイエロー生にいじめられていなかったことを祈る。
「お前が遊びに来てくれて良かったよ購買少年……レッドはお前を歓迎するよ。これからもドローパン余ったら是非持ってきてくれな。うちの晩飯じゃ腹が全然膨れないんだ。俺達成長期なんだもん。食い物を持ってきてくれる奴は神だ」
 レッド生の少年がぼそぼそ言う。彼が引き当てたのは比較的まともな野菜パンだったが、焚き火を囲んでいる数人の生徒の一部が悶絶しているところを見ると、トメさんが言った通りろくな具が入っていなかったようだ。僕の取り分はめざしパンだった。今晩はめざし尽しだ。
「そう言えばよぉ、職員室で話してたのを聞いたんだけど、来週卒業生の同窓会があるんだって。有名人が沢山天上院先生に会いに来るらしいよ。天上院先生美人だよな……俺達レッドの新入生のこと、他の先生みたいに差別しないもんな。エンジェルだ」
「なあ、天上院先生と同い年のDA卒業生って言ったらさ……」
「そう、俺も同じこと考えてた。あの武藤遊戯さんと肩を並べる伝説のデュエリスト、遊城十代さんも来るかもしれねー! 運が良ければレッドの後輩ってことでサイン貰えたり、あわよくばデュエルしてもらえるかも……!」
「うおお、レッドで良かったー!」
 十五の男の夕飯にしてはものすごく簡素な食事にしょげていたレッドの男子たちが、十代の名前を聞いた途端ぱっと顔を輝かせ、両腕を振り上げた。
「そんなに有名なの? その、遊城、十代って」
 僕はなんとなく周囲の熱気に取り残されたような気持ちになって、気後れしながら尋ねてみた。途端頭に拳骨が降ってきた。
「馬鹿野郎、十代さんを呼び捨てにするな! 十代さんはなぁ、ホントにすごいんだ。ヒーローデッキ使いのリアル・ヒーロー。世界を何度も救ったすごい決闘者なんだ」
 男子が唾を飛ばしながら熱弁する。先輩に憧れる後輩というよりも、アイドルに熱を上げているファンクラブの会員という感じだったけれど、下手に口を挟んではいけないような雰囲気だったから、僕は黙って苦笑いするしかない。
 それにしても十代は本当に人気者だ。僕は十代のことが好きだったから、あの人の良い噂を聞いていると嬉しくなる。
 そこでふと思い付いた。もしかしたらデュエル・アカデミアの卒業生だった十代の写真か何かが、今もこの学園のどこかに残っているんじゃあないだろうか?
 そう尋ねると、僕の隣に座っていた角刈りの男子が教えてくれた。
「ん? ああ、そりゃあると思うぜ、卒業アルバムとかさ。先生に聞けば見せてくれるんじゃあないかな。つーか、俺も見たい」
「そうなんだ」
 僕は頷いた。期待で胸がざわざわした。


「十代君の卒業アルバムですにゃ? あ~、確かにどこかにあったような……見たいのにゃ?」
「うん。写真が見たいんだ。できればお守りに欲しいんだけど、駄目かな」
 僕がおんぼろの幽霊寮へ戻るなりそう切り出すと、大徳寺先生は顎に手を当てて、「うーん」と唸っている。
「見るだけなら構わないけれど、お守りとなると、学校のものを勝手に持ち出すわけにはいかないにゃあ。そうですにゃ、おチビさん、ちょっとそこで待ってるにゃ」
 大徳寺先生はそう言うなり、スーツケースを開けて腕を突っ込み、ここでもないあそこでもないと言いながら中を掻き混ぜている。僕が首を傾げて見ていると、先生は積んであった実験機材をひっくり返して生き埋めになり、悲鳴を上げた。相変わらずこの人はあまり要領が良くない。
「ああ、あったあった、ありましたにゃ!」
 先生が嬉しそうな声を上げた。彼がようやく鞄の中から引っ張り出してきたのは、何枚かの写真の束だった。無造作に輪ゴムで止められている。放られたのを慌てて受けとめた僕は、その瞬間息が止まりそうになった。
 ――それは、十代が写っている写真だった。
「あの子は写真を撮られるのが苦手だったにゃ。今はそれだけしか見つからないにゃあ」
 先生が申し訳なさそうに言う。僕は首を振り、恐る恐る、写真を捲っていく。指が震える。心臓がどきどきする。
 ファインダー越しの十代は、あの陽だまりのような笑顔で僕の方を見つめてきていた。青空と十代と十代の頭の上に乗っているファラオ。写真の中にはそれきりしかない。
「……カラー・コンタクトでも入れているのかな。それとも光の加減なのかな? 十代の瞳の色がいつもと違うよ」
 写真の中の十代は、あの宝石みたいな、焦点がどこかぼわっとした、互い違いの色味の瞳ではなかった。僕は訝しく思って大徳寺先生の顔を見上げた。先生はにこにこしたまま僕と僕の手元の写真を見て、「そう、楽しそうですにゃあ」と言った。
 僕も頷く。確かに十代はすごく楽しそうだった。
 写真は数えてみると十枚あった。表の一枚以外は、背景は薄青いほのかな光がゆらゆら揺れている、僕も良く知っている場所であるようだった。僕が過ごした街のどこかなのだろう。
 居眠りしているところ、大きなエビフライが乗ったカレーライスを食べているところ、そしてはっとしたような顔で大きく目を見開いているところ、目を尖らせているところ、そしてこちらに向かって指を突き付け、怒ったように、何かを言い掛けて口を大きく開いたところ……きっと『写真を撮られるのが嫌い』らしい十代は、カメラに気付いて、『ああっ、なに勝手に撮ってんだよ、もぉ!』と撮影者に向かって文句を言っているのだろう。
 一枚目の写真を撮影した時は、きっと十代の機嫌がすごく良かったのだろうなと僕は考えた。
「これ、先生が撮ったの?」
「先生じゃないにゃ。十代君のお友達が撮ってあげたのにゃあ。先生は当時、ちょっと訳あって、カメラを持つことができなかったのにゃ」
「手を怪我していたの?」
「まあ手を使えなかったことには変わりないにゃ」
 何か含みのある言い方だ。大徳寺先生は良くこういう喋り方をする。本当でも嘘でもないことを、のんびりした口調で、のらくらはぐらかしながら言うのだ。その度に僕は頭がこんがらがってしまって、脳味噌が爆発しそうになる。
 先生は「君のものにゃ、好きにするといいにゃ」と一言言って、暖簾の奥に引っ込んでしまった。僕は返事をすることも忘れて、そのまま穴が開きそうなくらい、食い入るように十代の写真を見つめていた。
 ふいにぽつっと上から水が落ちてきて、僕は慌てて服で写真の表面を拭った。雨漏りでもしているのかもしれない、大事な写真を濡らしちゃ大変だと考えたんだけれど、そうではなかった。
 僕は泣いていた。いつのまにか、涙が後から後から零れて止まらなかった。いつから泣いていたのか、僕自身にも良くわからなかった。
 ただ僕は写真の中の十代の透明な笑顔を見ていると、胸が苦しくてたまらなくなった。喉が熱くなり、声が出ない。僕は、もう二度と本物の十代の笑顔を見ることができない。
『クリクリ~……』
 ハネクリボーが僕を心配して、ふっと姿を現し、小さな手を伸ばして僕の髪に触った。
 僕は目を閉じ、頭を振って、「十代だよ」と言った。
「ありがとうハネクリボー。大丈夫だよ。ちょっとほっとしちゃっただけなんだ。……僕は僕のやるべきことを忘れないようにしなきゃならない。泣くのも悲しむのも全部後回しでいいんだ。いつだってできることなんだものな」
 そして膝の上で右手をぎゅっと握り込んだ。爪が手のひらの肉を抉り、鋭い痛みが訪れ、それが熱くなった頭を少し冷やしてくれる。
 僕は口の中だけでぼそぼそ独り言を言った。
「探し物をしなきゃ」



<< >>