「三幻魔を手に入れたか」 操縦士の男が言う。特に感慨も無さそうだった。彼はいつもそういうところがある。職業柄仕方のないことなのかもしれないが、基本的に愛想や愛敬とは無縁の男なのだ。 ヘリの上から遠ざかるデュエル・アカデミア本島をじっと眺めていたヨハンは軽く頷き、跳ね上げ式のサングラスのミラーを跳ね上げた。そこにあるのは、晴れた日の透き通った海面のような、鮮やかなエメラルド色の瞳だ。 ヨハンは億劫そうにサングラスのチタンブラックのフレームを外して、背中の後ろに放り投げた。そしてくたびれたふうに深い息をひとつ吐き、「これでようやく材料の半分は揃ったよ」と言った。 「皆にも会った。ジュニアも元気そうにやってたよ。悪いな、本校の同窓会、お前らも興味あったろうに」 「ごめんだな。急ぐぞ」 ヘリが速度を上げ、急激に下降を始める。向かう先は、あの海の底にある白い遺跡のような街だ。 街はいつでもヨハンに、いくつもいくつも古い記憶を思い起こさせる。どれも鮮やかな思い出だ。ヨハンはどこまでも続く黒い海をぼんやりと見つめながら、じゅうだい、と呟いた。 ――俺は今も何も変わらない。君がたとえどんな姿になろうと、君のことを。 ◆◇◆ これは記憶の戸棚から引っ張り出されてきた古い思い出だ。 「おわぁ!」 「うえぇ!?」 ヨハンが校舎のエントランスに差し掛かった辺りで、いきなり階段の上から十代が降ってきた。ヨハンは両足を踏ん張り、何とか受け止めようとした――が、なにせあまりに急だったから、十代を抱えたままバランスを崩してひっくり返ってしまう。今しがたまでヨハンの両腕を塞いでいた資料の束が、踊り場に散乱してしまった。なんだかつい最近同じようなことがあった気がする。 「あだだだ……十代、無事か」 「いててて……わりー、また助けられたな。あーオレどんくせぇの……」 十代は階段から足を踏み外したらしい。寿命を迎えた甲虫みたいな格好で、仰向けに倒れているヨハンがクッションになり、十代の身体に怪我らしい怪我はないようだった。ヨハンはそのことにほっとして、この偶然のタイミングに感謝したが、触れ合っている胸に微妙な感触が当たっていることにふと思い当たり、一瞬頭の中が真っ白に飛んだ。 (……こいつ、なんかまた胸が大きくなってないか?) 妙なことを考えてしまって、ヨハンは慌てて思考を打ち消した。そんなことは今は関係ない。ラッキーでも役得でもない。軽い自己嫌悪に陥りながら、「どうしたんだ」と十代に尋ねる。 「脚が痛むか? 怪我してるんじゃないのか」 最近どうも十代の様子がおかしい。梯子から足を滑らせ、何もない廊下でつまづき、そして階段から足を踏み外す。運動神経はちょっとしたものである遊城十代という人間には似合わない。 「いや、平気だけど、あー悪いヨハン。ばらばらだ」 十代が座り込んだ格好のまま、のろのろと散らばった資料を集めていく。目が痒いのか、しきりに瞬きをしながら、目を手の甲で擦っている。ヨハンが気になって十代の頬に触り、「目、見せろ」と顔を覗き込んでやると、彼は肩を竦めて頭を振る。 「痛くもなんともない。ただ、ここはすごくまぶしいだろ。目が眩んで前が見えない」 「そんでコケたのか。……まぶしい?」 変なことを言うものだなとヨハンは考え、天井を見上げた――薄青い透明なドームの向こうから、うっすらと透き通った日の光が落ちてくる。自然光だけでは事足りないから、街にはいつも白い街灯の光が点っている。 しかし、十代が言う『まぶしい』までの明かりはない。 それから日ごとに、十代の奇行が目に付くようになっていった。まるでもぐらや蝙蝠みたいに闇を求めて自室の窓を塞ぎ、カーテンを閉め切り、それだけでは気が済まず、ある日部屋から姿を消した。 いつものように食堂へ朝飯を食いに行こうと誘おうと、十代の部屋へやってきたヨハンは、主不在の部屋に肩透かしを食らったような気分になった。 仕方なく一人で食堂へ向かうと、同級生が変な顔をして「遊城十代、彼、どうかしたの?」とヨハンに話し掛けてきた。はじめのうち、ヨハンは何のことだかさっぱりだったが、話を聞いているとこういうことらしい。 「十代が地下展示室に引き篭もってるぅ?」 訳も分からずヨハンは、「ありがとう、あいつのこと探してたんだ」と礼を言って、半分残ったサンドイッチのパックを掴んだまま食堂を後にした。 地下展示室とは、カレッジの校舎の地下にある、海底の岩を繰り抜いて造られた一帯のことを言う。街ができた時、東の図書館に併設して博物館が建てられたのだが、そこに収容されている展示品は、街の出資者が世界中で買い漁ってきたもののごく一部に過ぎない。博物館に展示されている物品と似たようなもの、まだ解析が済んでいないもの、修復が必要なもの、それらは学園の地下にある地下展示室に収納されている。言うならば巨大な物置のようなものだ。 学園内、吹き抜けのホールの真中にある階段の壁には、『地下展示室』と書かれた金のプレートが埋め込まれている。今は『現在整理中、関係者以外立入禁止』とマジックで書き殴られた白い紙が貼り付けられていた。ヨハンは構わず階段を降りていき、そう言えばここは初めてだったなと考えた。地下展示室も馬鹿に広い場所だとは聞いたことがあったから、気を付けなければまた迷子になって、長い間さまよう羽目になるかもしれない。 この学園へ来た当初も、ヨハンは持ち前の方向感覚(の欠損)のお陰で、寮に辿り付けずに同じ区画をグルグル回ることがあったし、未だに通り慣れたいくつかの道を少しでも外れると、全く知らない未知の星に迷い込んだような気分になることがある。 学園というものは、どこでも馬鹿に広いのだ。十代とルビーがいなければ、ヨハンのカレッジ生活は、今よりも随分大変なものになっていたことだろう。 そう言えばあいつはなんでまだここにいるのかなとヨハンは考えてみた。十代は学生ではないし、一所に留まるような性分じゃない。彼はあてのない旅の途中なのだ。 何となく妙な感じだったが、まあいいかとヨハンは考えた。難しいことを考えても仕方がないし、手の届く場所にあの十代がいつもいるのは、ヨハンにとってもすごく好ましいことなのだ。 階段を降りきると照明は途切れていた。中は真っ暗だ。スイッチを入れても明かりが点灯しないから、おそらく主電源が入っていないのだろう。 「十代? ……うえぇ!?」 『備品』と書かれた懐中電灯を点けた途端、ヨハンは驚いて一歩後ずさってしまった。展示室入口の脇に、『いらっしゃいませ』と書かれた札を持たされたミイラが、棺付きで立っていたのだ。干乾びた四肢や汚れた包帯が長い年月を感じさせ、見たところ本物のようだ。死人になんて扱いだとヨハンは考えたが、ミイラ本人は特に気にしてはいないようで、澄まし顔で黙っている。 「ここじゃないのかな。電気も消えてるしなぁ、……ルビー?」 『るびっ。るびるび〜』 「ハネクリボー? あいつの匂いがするって?」 ルビーがヨハンの肩にとまり、尻尾をゆらゆらと振る。肯定の返事だ。ヨハンは頷き、肩から飛び降りて走り出したルビーの後を追う。 「空気は乾いてるけど、なんだか黴臭いな。あいつ、こんな所で何してんだぁ?」 『るびびー?』 乱雑に並べられた古代エジプトのミイラや石版の前を通り過ぎると、入口から十二本目の飾り柱を境界にして、辺りの空気が一瞬にして切り替わった。中世ヨーロッパの絵画や装飾品、調度品が、まるでリサイクル・ショップの商品棚のように積み上げられている区画へ出たのだ。 ルビーが向かったのは、『職員専用』と張り紙が出ている壁に挟まれた、細い通路を過ぎた先だった。 小さな部屋だ。研究室のような雰囲気だったが、それらしいものは電源の落ちたパソコンと空っぽのファイルくらいだ。他はだらしなく引かれている毛布とコンソメ味のポテト・チップスの空き袋、海老煎餅の包装紙、くしゃくしゃに丸められた板チョコレートの銀紙、そんなものだ。 なんだこれとヨハンが訝っていると、「電気消してくれ、まぶしい」とくぐもった声が聞こえてきた。良く聞き慣れた声だった。 「十代?」 『るび〜』 『クリクリー!』 ルビーとハネクリボーが、顔を合わせるなりごつんと額をぶつけ合い、転がるように地面に落下し、喧嘩を始めた。これはいつものことだ。 ヨハンはとりあえず言われた通りに懐中電灯の明かりを切った。途端に辺りは完全な闇に支配され、何も見えなくなった。 「どうしたんだよ、十代」 ヨハンは十代の声が聞こえた方角へ向かって話し掛けてみた。彼の姿は闇の中だ。なにも見えない。 「ここは落ち付くんだ」 と十代が言った。 それにしたって、なにもこんな黴臭い場所にわざわざ引き篭もらなくたって良いじゃないかとヨハンは訝ったが、とにかく当てずっぽうで腕を突き出し、ふらふらと足を進めて、硬く冷たい壁の感触を見付けると、それを背もたれにして座り込んだ。そして十代の言葉の意味を考えてみた。まぶしい。 最近良く聞くようになった言葉だ。きっかけは――確か先週陸へ上がった時も聞いた気がするから、一週間前のことだ。 なにかあったっけ? 考えてみても思い当たる事がない。原因はともかく、今の十代は僅かな光にも落ち付かない様子だ。 『今の』? もしかすると、いつからかなんてことが重要じゃないとしたら――そこで、ヨハンはふと思い付いたことを言ってみた。 「思ったんだけど、放浪癖のあるお前がこの街に滞在していたのは、こいつのせいなんじゃないのか? 外の世界の光がまぶしくて、暗い場所を探してたんだ。つまりこの街の、海の底の静かな闇さ」 十代は黙っている。ヨハンは疑問を口に出してみて、多分そうなんだろうと考えた。そして口を閉じ、黙って暗闇を見つめて、辛抱強く十代が話し始めるのを待つ。 しばらくの沈黙のあとで、十代が「オレは太陽の光が好きだぜ」とぼそぼそ言った。 「昼間、ぽかぽかしてる芝生の上で昼寝するのなんて最高だ。布団干したらいい匂いがする。釣り糸を垂らして魚が掛かるのを待ってるのも悪くない。だけど今は光を見ると目が痛くて涙が止まらない」 「目?」 ヨハンは壁から背中を離し、身を乗り出した。しかし、闇の中にぽっと灯ったふたつの光を見て息を呑む。 完全な黒によって構成された世界のなかに、中空に鬼火のように、鋭い輪郭の橙と緑の光が浮かんでいる。 それはまるで、夜の森の茂みの中から注意深く息を殺して獲物を狙う猛獣の双眸を思わせた。ぎらぎら輝く、ぞっとする程美しい、孤高の異形の目だ。 「……驚いたろ。お前まだ知らなかったよな」 十代の声は静かなものだった。そこには自嘲も落胆も無かったから、十代がその――彼自身の、互い違いの色に燃え上がる二つの奇妙な眼を嫌ってはいないようだった。ヨハンはどこかほっとしながら、ああと頷いた。 「そりゃあいつの眼か?」 「ああ、そう、ユベルだ。今のあいつはオレの半分なんだ。だからオレももう、」 「おっかしいな〜。なんか変な感じだぜ」 「…………」 「あいつの眼を見てると腹が立ってしょうがないけど、お前のだと思うと綺麗だと感じるから、すごく不思議だ」 「……なんだよそれ?」 宝石めいた二つの煌きが、きゅっと丸くなる。形を変える。驚いたらしい。 ヨハンは光る眼の方へ手を伸ばし、十代の頬に柔らかく触れた。暗闇の中でも輪郭ははっきり感じられた。少し濡れていた。先程ヨハンの懐中電灯の光に焼かれたせいで、十代が言う通り、涙が止まらないのかもしれない。悪いことしちゃったなとヨハンが言うと、気にすんなよと返ってきた。 「ちょっと前からたまに引っ込められなくなることがあってさ。それでも昨日までは朝になったら戻っていたんだ。でも今日の朝方あたりからずっとこのままでさ」 「このままだと疲れたりはしないのか?」 「……少し」 最近十代を見ていると、ヨハンは時折何かの予兆めいたものを感じることがある。それは感覚的なものもそうだし、今みたいに目で見て理解する種類のものもある。 遊城十代は今、ヨハンが知っている十代とは、微妙に変わりつつある。 「『オレがオレじゃなくなっても』って、こういうことか?」 「…………」 「馬鹿だな、十代」 「知ってる。オレは馬鹿だよ」 「また来る」 しばらく空白があって、十代が頷き、どこかほっとしたように零した。 「うん、来いよな」 ――そして、今日も二人は深い闇の中で向かい合っている。 「で、オレ以外にもここで生活してる奴が何人かいるみたいなんだ」と十代が言う。 「人間か?」 「そうじゃないのもいるけど、まあ人間だ。ミイラに頬擦りしてる奴とか、化石を見てにやにやしてる奴とか、必死で古代の石版の解読をやってる奴とか、おかしな奴ばっかだけど。デュエル・カレッジってのは変わった奴が多いな。まあおかげでオレも、こんなとこに引き篭もってても文句は言われない訳だから、それはいいんだけどな」 「……十代、今すぐ部屋に戻れ。何かあってからじゃ遅いんだ。そうだ、サングラスがあれば明るくても平気なんじゃないか?」 「あれな〜。オレもそう考えたことあったけど、……掛けてみたらなんか皆に爆笑されてさ。オレにはすごく似合わないってユベルに言われた。フェザーマン達にまで腹抱えて笑われた時に、なんかもう、オレこの先一生サングラスとは縁のない人生を送るんだって決めたんだ」 「うーん、そうかぁ? 俺は可愛いと思うんだけどな〜。ああそうだ、理事長はなんとかしてくんないのか」 「あのオッサンに頼み事なんてなんかヤだぜ。そもそも世界中飛び回ってていないし。こないだも天井にでっかいシャンデリアとかあって、ものすごく落ち付かない部屋に連れ込まれて、王子様みたいな恥ずかしい服着せられてさ。『流行の服はお嫌いだっちゅーの?』とか言われた。勘弁してくれ」 「あはは、お前そういうの絶対似合わないだろうな」 「似合ってたまるか。そーいうのはヨハン向けなんだ。お前ならやれる」 「うーん、見てみたい気もするけどな〜」 ヨハンはそう言って、食堂から運んできた鮭おにぎりを差し入れてやる。「腹減ってるだろ」と言うと、「やっぱヨハンは分かってるぜ」と嬉しそうな十代の返事があった。 手のひらからふっとパックの重みが消える。なんだか子供の頃みたいだとヨハンは考えた。キッズ・スクールの寮の裏庭でこっそり飼っていた野良の子犬を思い出す。 しかし、その黴臭い闇の中で過ごす時間も長くは続かなかった。 ある日ヨハンが通い慣れた地下展示室を訪れると、白い蛍光灯が周囲を眩く照らし出していた。いつもと違い、忙しなくダンボールを運ぶカレッジの生徒や、慎重に棺桶を持ち上げる作業服姿も見える。 「……何やってんだ、これ?」 近くにいた生徒のグループを捕まえて訊くと、「大掃除だよ」と返ってきた。 「月に一度は博物館の展示品の入れ替えと、収容物のチェックのために掃除をやるんだ。それに長い間ほったらかしにしていると、ほら、暗闇、適度な黴臭さ、人目につくこともなく仕舞い込まれている貴重な展示品。研究者にとっては天国みたいなところだから、まあ無理もないことなんだけど……たまーに研究対象に愛着が沸き過ぎて住み付いちゃう人がいるからね」 「さっきも一人、かなり重症の発掘物マニアがいたよねー。結構格好良いお兄さんだったんだけど、展示品から引き離されることが辛くてポロポロ泣いてて……あの人どこの学科の人だっけ? 校舎の中で良く見掛けるけど、授業に出てるの見たことないよね」 「あれ、目が痛いんじゃなかったっけ? 暗い所に適応し過ぎると、照明、ちょっと刺激が強過ぎるもんな。……これって、退化?」 ヨハンは顔を顰めて、「悪いけど、そいつがどこへ行ったか知らないか」と硬い声で尋ねた。返ってきた答えは、背筋がぞわっとするものだった。 「さっき白衣を着た男の人に手を引かれて、展示室から連れ出されてましたけど。あの服、DC付属病院の人じゃないかなあ? こんなところに長らく引き篭もっていたんじゃ不健康だから、健康診断でも受けさせられてるんじゃないかな」 ヨハンは答えてくれたカレッジ生に礼を言うのも忘れたまま、慌てて展示場を飛び出して階段を駆け上がり、街の北東に見える病院へ向かった。 ヨハンは良い。何があっても十代を色眼鏡で見たりはしないし、どんな時でも彼を対等な人格として扱う。 しかし他の人間だとそうはいかない。大多数の人間は、ある種の人間の『普通』との些細な相違でさえ我慢がならないものなのだ。たとえば周囲には聞こえない精霊の声を聞いたり、その透き通った姿を見たりする、そう言ったささやかなことが。 異端を見る冷たい目や、澱んだ地下水のような噂話が作り出す孤独をヨハンは知っている。それらは十代に向けられるべきものではないし、彼が触れるべきものではないと思っている。 十代は太陽なのだ。それに痛みを知り過ぎている。これ以上くだらないことで傷付いて欲しくはない。 (病院なんか最悪じゃないか。今の十代は普通の身体じゃないんだ。加えてこの街は知りたいと思ったら歯止めが効かなくなる研究者気質の人間ばかりだ) 『解剖』の名目で切り刻まれる肉体、抉り出され、瓶詰にされた美しい異形の目――ヨハンは最悪を想定して青くなり、すぐに想像を打ち消した。十代にはユベルがついている。 (……日頃は腹立つけど、こういう時だけは役に立つな!) あの性悪精霊なら、世界を滅ぼしても(そして十代自身が望まなくても)、十代を傷付けようとする人間を赦すはずがない。最悪にはならないとヨハンは自分に言い聞かせた。 DC付属病院受付の女性は、息を切らせてやってきたヨハンを見て変な顔をしていたが、慣れた様子で来客名簿を差し出し、「どなたのお見舞いでしょうか?」と言った。 「十代。遊城十代ってやつがここへ来てるはずなんだけど」 「そのようなお名前の患者さんはいらっしゃいませんが……」 「来たはずなんだ」 ヨハンは名簿に乱雑な字で『ヨハン・アンデルセン』と記入し、受付の女性に突っ返した。彼女は名簿の記入欄を指でとんとんと小突き、どこかへ電話を掛けていた。しばらくすると受話器を置いてヨハンに頭を下げ、「失礼致しました」と言った。 そして今担当の者を呼んでいるので、来客室で待っているようにというようなことを言った。 来客室の柔らかいソファの上で十分ほど過ごした頃、扉が開いて、内線で呼び付けられたらしい『担当者』が姿を現した。ヨハンよりもいくつか歳上に見える、猫背のひょろっとした男だった。 ヨハンは彼を見るなり、「ええ?」と間の抜けた声を上げてしまった。予想していなかった顔だった。 「やぁ、君を待っていたにゃ。来ると思ってましたにゃあ〜」 「幽霊先生?」 ヨハンは目の前にあるものが信じられず、瞼をごしごしと擦った。彼は十代が『大徳寺先生』と呼んでいた、猫のファラオの胃袋をベッド代わりにしている変わり者の幽霊だ。 しかし今ヨハンの目の前にいる『大徳寺先生』は、見たところ足が両方ともきちんとくっついているし、身体も透けていない。普通の人間に見える。 「まあ詳しいお話は歩きながらしましょうなのにゃ。十代君に会いに来たのにゃ〜?」 「ええ、そうです」 ヨハンは頷いて立ち上がった。 大徳寺にくっついて病院の階段を二つ上り、三つ下って、ガラス張りの廊下に差し掛かった時、左手の窓の外からは街の中心にあるカレッジの校舎の背中が、右手には北の端に建っているアナシスの屋敷が見えた。街の北部へは訪れたことがなかったように思う。これが初めてかもしれない。 ヨハンは頭の後ろで腕を組んで、「訊いてもいいかな、幽霊先生」と尋ねた。 「はい、気になることからどうぞですにゃ」 「十代はどこだ? 先生も知ってると思うけど、あいつ最近様子がおかしいんだ。痛むって言ってたけど目は大丈夫なのか。あいつを地下から連れてったのって先生なんだろ。ついでに幽霊の先生が人間に見えるんだけど、俺寝惚けてんのかな」 「うーん、大分混乱しているようにゃ。比較的筋道を立てて話す癖のあるヨハン君が、まるで十代君みたいな質問の仕方をするのにゃ」 大徳寺は右の人差し指を一本立てて、「順番に話しますにゃ」と言った。 「まず十代君。これから君を彼のところへ連れてくのにゃ。ここは黴っぽい地下室に閉じ篭っているよりかはいくらもましにゃ。だからそうピリピリすることはないにゃ」 そう言われて、ヨハンは自分が今まで奥歯を噛み締めていたことに気付いた。険しい顔をしていたのだろう。大きく息を吸って肩の力を抜くと、大徳寺が頷き、「君はどうして十代君がこの街へやってきたのかという理由を聞いたことはあるのにゃ?」と言った。 「ああ。十代、地上の光が辛いんだろ。それでこの街へ来たんだ。ここなら強い光は届かない」 「う〜ん、それは正解でもあるし、はずれでもありますにゃ。十代君は、君に会いに来たんですにゃ」 「俺に?」 「ところでヨハン君、十代くんの希望する進路を彼から聞いたことがありますにゃ?」 「決闘王だろ? 子供達のヒーローだ。あいつならなれるさ」 昔十代と出会ったばかりの頃に、そんな話を聞いたことがあった。十代は決闘王武藤遊戯に心底惚れ込んでいて、『オレ、いつか遊戯さんみたいな決闘王になんだ〜』と底抜けに能天気な笑顔で言う。すかさず弟分が『アニキならなれるッス』『ドン!』と十代を持ち上げる。この三馬鹿はすごく微笑ましいなぁ〜と感じたことを覚えている。その後で十代に『こらヨハン、笑うなぁ〜!』とヘッドロックを掛けられた。ついにやにやしてしまっていたらしい。 しかし大徳寺はゆるく首を振り、いつものようににこにこした顔で、「彼は自分にしかできない使命を見付けたようにゃ」と言った。 「十代君は精霊と人間の掛け橋になるそうなのですにゃ。その為に、精霊を受け入れてくれる街や人間をあてもなく探して旅をしていたのですにゃー。精霊、人間、彼らの助けになれることを願って」 ヨハンの心の境界に、ふっと触れるものがある。大徳寺の顔をまじまじと見つめると、彼は頷いてヨハンを控えめな仕草で指差した。 「そう、彼は君の助けになりたいのにゃあ」 「俺の助け……なんか、積んでおいた資料ひっくり返してばらばらにしたり、レポート中断させられてデュエルに引っ張り込まれたり、他にも他にも……こいつはおジャマキングかよと思ったことは何度もあるけど、助けってのはあんまり実感沸かないな〜」 「ようは気持ちの持ちようなのにゃ。その辺は突っ込むと可哀想にゃ。十代君には一応やる気も根性もあるのにゃ。例えばデュエルにおいては彼ほど心強い味方はいないにゃ。逆に頭を使うこととなると、彼は時には、君の言うように最悪の敵にもなり得るのにゃ。使い道に向き不向きがあるだけですにゃ」 「へえ、何ていうか……俺の、助け」 ヨハンは俯いて、今までぴりぴりしていたというのに、つい顔を綻ばせてしまった。嬉しかった。十代が、ヨハンのために。 「随分嬉しそうですにゃあ」 「そりゃ、俺は十代が大好きだから、喜ぶのは当たり前さ。なんだよ、あいつ、そういうことはちゃんと言ってくれると、俺はすごく嬉しいのにさあ〜」 十代の信頼は、いつも言葉にしなくてもヨハンにはちゃんと伝わってきたし、元々十代はあまり考えていることを意味の通る言葉に変換することが上手くない。最近は少しはましになったように思えたが、それはただ単純に、言わなくても良いことを黙っているという小技を覚えたせいだ。 そのせいで十代がこの街にやって来たばかりの頃は、一言二言言葉を交したカレッジ生に『知的で冷静なインテリ』と評されていたこともあり、それを横で聞いていたヨハンは、自分も笑いそうになるのを我慢している顔の十代に『いい加減にしろ』と足を踏まれるまで、腹が痛くなるまで笑い転げなければならなかった。あの十代がインテリ! そんなふうに十代の言葉選びが上手くないことをヨハンは知っていたが、それでも彼の口から聞けると嬉しい言葉がいくつもある。言わなくても分かるが、聞けると嬉しい、そんな感じだ。 「たぶん、何も言わないのは十代君なりに気を遣ってるのにゃ」 「あいつが気を遣うなんて慣れないことしても、大体は逆効果にしかならないと思うけど。相手に誤解されたり、怒らせたり、心配させたりさ」 「さすがヨハン君は彼のことが良く分かっているにゃあ。ともかく十代君は、君の手助けになりたくてここへ来たんだから、君に心配されるようでは本末転倒だと考えたようにゃ。……と、ここまでは見ていてすぐに分かる十代君の考えにゃ。ここからは私の想像でしかありませんが、……もしかすると十代君は、君に助けて欲しかったのかもしれないにゃあ」 「十代が困っているのなら、できることでもできないことでも、俺は何でもするよ」 ヨハンは真摯な顔で頷いた。本心だった。大徳寺はどこかほっとした様子で、何事か切り出そうとしたようだったが、そこでふと顔を上げ、「ああ着きました。ここですにゃ」と言った。 「話の途中で申し訳ないけれど、それはまた後にするにゃ」 話しながら歩いていたので、道順はまったく覚えていないが、気が付くとヨハンは長い廊下の終わりにいた。辺りからはいつのまにか蛍光灯の姿が消え、薄暗くなっていて、まるで水族館にある深海生物の展示室のようだった。突き当たった黒い扉には、プレートも何も嵌まっていない。のっぺりとしていて奇妙な扉だった。 「失礼するにゃ〜」 大徳寺が扉を開けると、部屋の中からひやっとした冷気が流れ出てきた。室内はうっすらとした闇だ。目を凝らして暗闇を見つめていると、中から眠そうな声が聞こえてきた。 「大徳寺先生。ヨハンもいるのか?」 十代だ。 「はい、彼が助手をやってくれるにゃ」と大徳寺が言う。 ヨハンは『助手』なんて聞いていなかったが、それはともかく十代と話をしたい。部屋に入るなり、声が聞こえた方へ向かって足早に歩いていく。 「じゅうだ……うわぁ!」 そして足元にあったパイプのような感触に躓いて、派手に転倒した。何も見えないのだからしょうがない。 しかし硬い床に顔からぶつかることも、置物を巻き込んで倒れることもない。ふわっと柔らかい感触に抱き止められ、衝撃らしい衝撃もなかった。 (……やわらかい?) ヨハンは一瞬訝り、そして自分が置かれている状況を理解し、かっと頬を赤くした。転んだヨハンを十代が受け止めてくれたようなのだが、彼の柔らかな右胸に顔から突っ込んでいるという体勢は、どう考えてもまずいような気がする。 『あー! このドスケベフリル! このボクでもまだそんな役得はないってのにっ!』 中空からユベルに罵声を浴びせられたが、それはこの際どうでもいい。 「大丈夫か、ヨハン?」 「うー、あー、……悪い」 名残惜しいが顔を上げると、驚くほど近くに十代の顔があった。入口から零れる仄かな明かりに照らし出されたその目元には、今は幾重にも包帯がグルグルと巻き付けられ、あの綺麗な眼を見ることはできない。 「びっくりしたろ」 「え?」 「先生だよ。大徳寺先生。オレもびっくりした」 「ああ……」 ヨハンは頷き、俺はそれよりお前がいなくなっちゃったことにびっくりしたけどなと言おうかと思ったが、やめておいた。十代は今はちゃんとここにいる。 「お前、幽霊まで実体化させられるようになったのか?」 「まさか。大徳寺先生は錬金術師なんだよ。オレも詳しくは良くわかんないけど、……あー、先生、何がどうなったんだっけ?」 「生前使っていた研究所からスペアのホムンクルスを見付け出してきて、魂を入れてみたんですにゃ。埃だらけでしたけど、まだ残っていてくれて良かったのにゃあ〜。ああ懐かしいこの実体の感触。物に触れることに感激しますにゃ。まあ難しいことはさておき、今の私のことは髪が伸びる日本人形とか、何度棄てても翌朝枕もとに帰ってくるお雛様とか、絶望の国からやってきたビスク・ドールのようなものだと思ってくれればいいのにゃ」 「はあ」 怪奇現象すぎる。 話をしている限り十代はいつも通りだった。彼は黴臭い地下展示室を追い出されたことを残念がっていた。 「食堂にも近かったんだけどな」 「ああ。アカデミアもカレッジも、どこも飯が美味いもんなのかな〜」 「昔万丈目がノース校の飯はまずいって言ってた……けど、あいつはどこでもまずいまずいって言いながら、結局すごい勢いで食ってるんだよ」 「しかめっ面でな〜」 「そうそう!」 十代が笑う。 ヨハンは手を伸ばして、そっと彼の目を覆う包帯に触った。 「綺麗な目なのにもったいない」 「なんだそれ? ……ああ、うん、オレもユベルの目が綺麗だとは思うけどさ。そいつが自分の顔に嵌まってるのは、やっぱりちょっと変な気がするなぁ」 『十代! 十代がボクの瞳を綺麗だって言った!』 上のほうで、どうやら頭のなかに花を咲かせているらしいユベルの声を聞いて、ヨハンは顔を顰め、「お前じゃない」と冷たく言ってやった。 「お前は誉めてない。俺は十代に言ってる」 『お前に誉められるなんて考えただけで気持ち悪いよ。なんだいその目、嫉妬かい? やれやれ、つくづく醜い男だなぁ』 「……うう、むかつく〜」 ヨハンは半分目を眇めて、何も見えない暗闇を睨んだ。そこに後ろからぽんと頭に手を乗せられる。大徳寺だ。 「さて、ヨハン君はそろそろ学校へ戻った方がいいにゃ〜? ちゃんと授業には出ないと、そのうち十代君のように落第生と呼ばれてしまうことになるのにゃ」 「……なんだよ、オレは落第はしてないぜ。ギリギリだったけど」 十代が、自覚はあるせいだろう、控えめに指摘する。そしてヨハンの肩を叩き、「先生、こいつ頼む」と言った。 「この辺迷路みたいになってたから、きっと一人で戻ったら大変なことになる。ヨハンはもうホントすごい方向音痴の王様なんだ。オレが知ってる奴の中では敵なしなんだぜ。送ってってやってくれないかな」 「はい、元よりそのつもりですにゃ。アカデミア本島の森を数日間さまよった方向音痴の十代君をして『負けた』と言わしめる程の子を放っておくほど、先生も鬼ではないですにゃ」 「いや、俺、そこまでひどくはないけどさ……確かに俺は方向音痴だし、あの森へ入って何日か出られなくなって、捜索隊を組まれたりしたことはある。……あー、あの時十代が見付けてくれなかったらさぁ、俺もう諦めて、森に住み付いて野生化しちゃってたかもね〜」 「ヨハンは方向感覚無いくせに、サバイバル能力はすごいんだよな……」 十代は素直に感心しているようだ。 部屋を出てしばらく歩いた辺りで、「まあ元気そうだ。良かった」とヨハンは言った。正直ほっとしていたのだ。 「いつもの十代だ。先生、あいつの目もさ、今にきっと良くなるよな」 ヨハンの数歩分前をゆっくりした足取りで歩いている大徳寺が、そこで一瞬足を止め、静かな声で言った。 「これはまだまだ予兆のようなものですにゃ」 「……え?」 「覚悟をしておいた方がいいかもしれないにゃあ」 そしてまた歩き出す。 ヨハンは面食らってしまった。意味が分からず、「なにを?」と呟く。 |