デュエル・カレッジ・アトランティス校の研究生として、本格的に大徳寺の助手をやることになると、彼が意外に博識で思慮深い男だということが分かってきた。おかしな口癖や臆病な性質と言った微妙な一面ばかり見ていたヨハンにしてみれば、感心することもあれば、なんだか騙されているような気がすることもある。
「生徒さんに配布する資料は準備できてましたかにゃ~?」
「ああ、問題ないと思う。けど今日の授業は精霊の体系についてだったよな。その鞄はいらないだろ。硫黄も水銀も塩も必要ないじゃないか」
「こ、これはいるものなのですにゃ~! 片付けないで欲しいのにゃ!」
「錬金術が好きなのは分かったからさ~」
 付属病院に勤める医者ということになっている大徳寺が(そもそもヨハンは大徳寺がどうやってアトランティス校に潜り込んだのかは知らない)、何故精霊学の講義をしているのだろう。何となく気になって尋ねてみると、こう返ってきた。
「ひからびかけた末端の学科は、常に講師不足に悩まされていますのにゃ」
「……なんかせちがらいよな~」
「先任の講師が急病で倒れて以来、私が代わりを務めさせていただいてますにゃ。最近はいくらか生徒さんも増えてきたようで、賑やかで嬉しいですにゃあ」
 先年ツバインシュタイン博士が、十二の異世界と精霊について論理的に纏めた『失われた世界』というタイトルの論文を発表して以来、アトランティス校の精霊学科も発足当初よりは随分活気付いてきたようだ。
 ヨハンは資料室の本棚から、博士の論文が掲載されているいくつか前の号の科学雑誌を抜き出して、ぱらぱらと捲った。
 しかし精霊が見えない人間にしてみれば、それこそSF小説と変わりのない内容だったから、相変わらず頭の固い『まともな』学者連中にはそっぽを向かれているらしい。ヨハンは雑誌を閉じて実験机に頬杖をついた。
「なぁ先生、こないだ博士の論文を読んだ新入生に、異世界に行った事があるのかって聞かれたんだ。でもそもそも俺はあの頃に起こったことをあんまり覚えてないし、それも腹が減っただとか喉が乾いただとか、生徒が暴徒化したりゾンビになっちゃったり、ろくでもないことばかりなんだ。異世界体験なんて素敵だなとか、精霊と触れ合えて羨ましいなってもんじゃなかった。結局ことの起こりからお終いまで全部見てたのは十代に翔にユベルだけで、何が起こったのか聞こうにも、ユベルにものを尋ねるのはなんか嫌だし、十代と翔はなんでか俺のことになると目を逸らして答えてくれないし。……まあともかく、それは今はいいんだ。先生、精霊の実体化ってのは、なんで『異世界でしか成立しない』んだ?」
 大徳寺はフラスコを弄りながら、ヨハンの話に「はい、はい」と適当に頷いていた。てっきり話を聞いていないのかと思えば、そうでもなかったようで、「この世界における精霊の実体化には、多大なエネルギーを必要とするのにゃ」ときちんと答えてくれた。
「高レベルモンスターなら尚更膨大な生命エネルギーが必要ですにゃ。それこそ全校生徒にデスベルトを装着させて、デュエル・エナジーを根こそぎ絞り取るくらいの無体をやらなくてはなりませんにゃ。現実的ではないのにゃあ。そうですねぇ、精霊を封印できる器を造るという方が、いくらか希望のある話ですにゃ」
――例えば、先生のホムンクルスみたいなのに閉じ込めたら、自由に動き回れるんじゃないか?」
「そうですにゃ。ただ先生のホムンクルス、こう見えて実は国が傾くほどの費用が掛かっています。……加えてヨハンくんが今考えているように、十代くんの魂をホムンクルスに入れるとなると、話が難しくなってきますにゃあ。私はこれでもただの人間ですが、十代くんは半分精霊で半分人間という複雑な造りの魂を持っているから、普通のホムンクルスでは強度が足りないのにゃあ」
「あれ、俺、顔に出てた?」
 ヨハンは複雑な気持ちになって顔を撫で、溜息を吐いて頭の後ろで手を組んだ。
 十代は日々異質なものへ変わっていく。彼が人の殻を脱ぎ捨ててしまうまで、そう時間は掛からないだろう。誰も流れを止めることはできない。
「……以前十代に格好良いこと言っといて何だけど、たまに、あいつをカードだかホムンクルスだかに閉じ込めるか、俺も精霊界へ行くか、真剣に悩むことがあるんだ」
「かなり煮詰まっているようですにゃあ」
「そりゃ十代は俺の家族だからさ。嫁さんを迎えに行くんなら、俺はどこまででも行くぜ。オルフェウスの物語みたいなへまもしない。あいつはああいう性格だからどこへ行っても楽しむだろうけど、俺も十代も、この世界が割と気に入ってるんだ。先生、普通のホムンクルスが駄目なら、どんなのならいいんだよ?」
「そうですにゃあ。強大な精霊を受け止める為には、それなりに巨大な器が必要になります。自然サイズが大きくなる訳ですにゃ。縮めようとすれば、相応のコストが掛かります。これは我々の身長なんかと同じで、小さいものを大きくするよりも、大きいものを小さくする方が大変だということですにゃあ。こう考えるとカードというものはどんな精霊でも一律のサイズに封じている訳ですから、シンプルながらとても素晴らしい力を有していますのにゃ」
「へえ~……それは、ちょっと」
 ヨハンはつい高層ビルのように大きなユベルや十代を想像し、げんなりしてしまった。駄目だ世界が滅びる。
『あー、あー、マイクテスト、聞こえるかっちゅーの?』
 大徳寺と話し込んでいると、校内放送が掛かった。スピーカーが、アトランティス校ではお馴染みのひどいハウリングを起こし、ヨハンと大徳寺は顔を顰めて両耳を塞いだ。
『あ~、ヨハン・アンデルセン! 理事長室へ来るように、だっちゅーの!』
 アナシスだ。
「あれ……あの人帰って来てたんだ。ちょっと行ってくる。ああ先生、変な話して悪い。この事は十代には……」
「分かってるにゃ」
 大徳寺はにこにこしながら、「内緒にゃあ」と言って手を振った。


 理事長室は主の人となりを非常に分かりやすく表していた。入口向かいの壁はなく、一面透明なガラス張り窓で、黒い舵輪が悪趣味な額縁みたいに天井から鉄の鎖で吊り下がっていた。部屋はまるで、今から果てのない航海へ出ていこうとする巨大な船の操舵室のような印象だった。見るからに荒っぽそうな海の男然としたアナシスが、年代もののソファーにふんぞり返り、コクピットのような机の上で山と積まれた書類に判を押していく様子を見ていると、ここが学校だということがなんとなく疑わしく思えてきた。
「おう、ヨハンよう、お前プロ・リーグから誘いが来てたのをまた蹴ったのか?」
 アナシスが不思議そうに言った。顔には『何故儲け話に飛び付かないのか?』と書かれている。ヨハンは肩を竦めてみせた。こういうのは価値観の違いで、おそらくヨハンがヨハンなりの夢や理想を語ってもアナシスには理解できないだろうし、反対にアナシスがデュエルが世界経済へどれほど貢献しているかという事について熱心に説明した所で、ヨハンは共感することができないだろう。大事なものは人それぞれ違うのだ。
「まだ学びたい事が沢山あるし、プロなんて柄じゃないんです」
「まあ学生がおおいに学ぶのは良いことだっちゅーの。しかしヨハンの方が忙しいとなると、やっぱり十代の出番だなァ。最近じゃあ不思議な力を持っとるようだし、アレを金儲けに使えば……神業を持つ異能デュエリストとして話題になるのにそう時間は掛からんっちゅーの!」
「そんなことは無理だ。今の十代はまともにデュエルできる身体じゃないんです」
 ヨハンはぞっとして、冗談じゃないと訴えた。アナシスの困ったところは、認識や価値観の相違と言ったものを意にも介さない所だ。彼は非常に多くのものを手に入れ過ぎ、非常に多くの人間に傅かれてきたせいで、世界に自分に手に入らないものや、自分と異なった考えを持つ人間が存在するということに思い当たらないのだ。案の定ヨハンの反対に心外だという顔をしている。
「いや、十代の奴もいい加減退屈しとるに違いないっちゅーの! 何せこの俺を負かしちまえる熱い男なんだからなァ! 手続きは部下にやらせておく。だからヨハン、来週辺りにでも気分転換にリーグに顔を出すよう、十代に言っといて欲しいんだっちゅーの」
「何で俺に言付けなんか頼むんですか?」
「いやァ、どうも十代の奴、反抗期みたいでなァ……見舞いに行くとなんかこう……茶色い毛玉のようなものが顔面目掛けて飛んできたり、銀色の巨人に襟首を掴まれて部屋の外に放り出されたり、一瞬意識が無くなって、気が付いたらカレッジの入口まで帰ってきてた事もあったなァ。あいつを怒らせると怪奇現象が続発して身体が持たんっちゅーの」
「物凄く毛嫌いされてるじゃないですか」
 ヨハンが突っ込むと、アナシスは珍しくしょんぼりと項垂れた。十代に相手にされないことが堪えているようだ。傲慢な癖に結構寂しがり屋な男らしい。しかし彼はただでは起きない。
「ともかくデュエル・カレッジ・アトランティス校の双璧が、どちらも表舞台に出ることに消極的なのは困る。俺はヨハンでも十代でも、この学園の分かりやすいシンボルになるならどっちでも良いっちゅーの。どちらにもやる気がないようなら、俺にもそれなりに考えがある」
 アナシスも十代の身体のことを少しは悟っているだろうから、実質ヨハンへの脅迫だ。まさか今の十代をリーグへやろうなんて無茶な事は、普通なら考えられないが、ヨハンがこの話を蹴れば、アナシスならやりかねない。
 そして十代の方も、ヨハンを引き合いに出され、プロ・リーグへ出向く事を強制されれば――
(『え、マジで? プロとデュエルできんの? やったぜラッキー! 超行く!』……十代の嬉しそうな返答が聞こえてくるようだぜ。無理だっての。あいつは自分の身体のことが全然分かってない)
 ヨハンはそう考え、すぐに頷いた。十代を守る為なら、この程度は何でもない。
「……分かりました。十代の分は引き受ける。俺が出ます」
「そうそう、プロ・リーグ界においても十二分に通用する、我がアトランティスの実力をばーんと見せ付けてやるがいいっちゅーの! ぬははは~!」
 アナシスが機嫌良く笑っている。ヨハンはこっそり舌打ちをして、今に見てろこの野郎と考えた。


 仏頂面で理事長室を後にすると、宝玉獣達が揃って姿を現してヨハンの周りを取り囲み、心配そうな顔つきでいる。ヨハンはまず素直に彼らに謝った。
「すまない、みんな」
『どうしてヨハンが謝るのよ』
 アメジスト・キャットが厳しい口調で言う。これはヨハンに対して怒っているのではない。彼女はヨハンに無遠慮な事を言うアナシスが気に食わなかったのだろう。アメジスト・キャットは人間の好みにうるさいのだ。声が大きくて融通が利かない人間は大抵彼女に嫌われる。
「あの理事長の事だから、見世物みたいな事になるかもしれないってのが心配なんだ。きっとお前達を付き合せてしまうことになる」
『水臭いなヨハン。気にするな。我々はただ正々堂々と相手と向き合うだけだ』
 サファイア・ペガサスが静かに諭してくれるのだが、ヨハンはまだ胸に篭ったもやもやとした感触を消し去ることができない。
「そうだけど……こんな中途半端な気持ちじゃ、プロとして本気でやってく決意をしてる万丈目やエドに合わせる顔がないってのもあるぜ」
『だがヨハン、そんな事を言ってはおるが、本当はワクワクしておるのではないかね?』
「え?」
 エメラルド・タートルに指摘されて、ヨハンはぎくっとする。アンバー・マンモスが言う。
『最近ではお前の好敵手もあの調子で、本気のデュエルができなかったろう。アナシスではないが、いい気分転換だと思うといい』
 確かにその通りだった。強敵揃いの世界、子供達の憧れである煌びやかなプロ・デュエリスト達。テレビの向こう側。ヨハンの性には合わないが、いざ話が決まると、好奇心が強く刺激されているのは確かだ。
「気分転換かー……ああ、ま、いっか。難しいこと考えなくても」
――それでこそヨハンだ!』

◆◇◆

 研究施設のエントランス・ホールには、壁一面の大きなスクリーンが設置されていた。現在その周囲はちょっとした騒ぎになっている。
 いつもは無機質な施設案内の映像をリピートしているだけのスクリーンには、今夜は特別にテレビ映像が投影されている。プロ・リーグの生中継だ。大画面で見ると、やはり迫力が全然違う。
 デュエル・カレッジ・アトランティス校に在籍している生徒がプロ・リーグに出場するというのだから、在校生は元より仕事を終えた白衣姿の医師や看護婦達も大いに沸いていた。
「おおー、ヨハンすっげ~!」
 来客用のソファに膝立ちになった格好で、大徳寺の首に腕を回し、十代は子供のように目をきらきらと輝かせて画面に見入っていた。ヨハンだ。本当にテレビに映っている。スクリーンを通して見るとなんだか別の人間みたいに見えた。
 眩い照明に照らし出されたドームには、あの美しい宝玉獣を使うヨハン・アンデルセンのプロ・リーグ初のデュエルだということもあり、数え切れない程の観客が詰め掛けていた。十代が思っていたよりも、ヨハンは有名人だったらしい。
「じゅっ、十代くん~! 窒息死しちゃうにゃ! 息ができないのにゃあ!」
 十代に勢い余って首を締められる格好になり、大徳寺が悲鳴を上げている。その隣ではファラオがどうでも良さそうな顔で後ろ脚で顎を掻いている。頻繁に病院を訪れるヨハンを一目で気に入ってしまった看護婦達や、いつもはいかめしい顔をしているおっかない婦長も、今は揃ってスクリーンに映し出されている『我が校自慢の』美形新人プロに黄色い声援を贈っている。ヨハンは基本的に女性受けが良いのだ。
 さながら王子様みたいな真っ白のロングコートが、冗談のようだが、とても絵になっている。彼はそういう現実離れした恥ずかしい衣装が自然に決まってしまう稀少な人種なのだ。
 今はスモーク・ミラーのサングラスに隠れて見えないが、きっとすごく楽しそうに瞳を輝かせているに違いない。
(……なんでサングラス?)
 光に眼を焼かれる十代でもないのに、どうしてヨハンがサングラスなんか?
 一瞬不思議に思ったが、特に気にすることでもないのかもしれない。理由を問わず黒い眼鏡を掛けている人間なんていくらでもいるのだ。
「……十代くん、無理はしない方がいいにゃあ。眼が痛むのにゃ?」
 大徳寺に心配そうに囁かれて、そこで十代は自分が手の甲でごしごしと瞼を擦っていたことに気が付いた。慌ててぱっと手を上げ、誤魔化すように首を振り、曖昧に微笑む。
「いや、オレはいいんだ。平気さ。だってヨハンがプロ・リーグでデュエルやってるんだぜ。目が痛い位で泣き言なんか言えねえよ。今しっかり見なきゃ、オレ死んでも死にきれねーよ」
「とっても嬉しそうですにゃあ」
「ああ。あいつはやっぱりすごくデュエルが好きで、楽しんでる。ほんとに良かったよ。今ならアナシスのオッサンにちょっと感謝したって良いくらいだ。ただちょっと残念なこともある」
 十代はスクリーンに視線をやったまま、少し目を細めた。ヨハンはとても楽しそうだった。まるで彼自身がきらきら輝いている宝石のようだった。それがほんの少し寂しくもあった。
「できるならオレがあの場所に立って、ヨハンの相手になって、あの真剣な目を向けられたかった。ヨハンの奴、最近さ、喋ってたり一緒に飯食ってたり、デュエルしてる時も、オレのこと見る時ちょっと痛そうな顔をする。なんか、悲しそうなんだ。ちゃんと笑ってるんだけどさ。……先生もごめんな。気ままな旅がこんなことになっちまって、せっかく成仏するチャンスも奪っちまった。オレ、ほんと何やってんだろ」
「気にすることないのにゃ」
 大徳寺はいつものように微笑みながら十代の頭を撫でた。
「また元気になって、そしたらまたどこまでも行くのにゃ。お弁当沢山持って、今度はヨハンくんも一緒で、更に賑やかになりますにゃあ。君と旅した日々は私の人生の中でも、指折りの楽しいものだったにゃ」
「指折り?」
「デュエル・アカデミア時代を思い出すにゃ~」
「ああ……楽しかったよなぁ……って、なんか昔を思い出して、あの頃が一番良かったとか、あの時が最高に輝いてたとかさ、爺さんじゃあるまいし、何だってんだよな」
 十代は自嘲するように少し笑った。スクリーンの中では、そろそろ勝負が決しようとしていた。勿論ヨハンの完勝だ。しかしデュエルは決着が着いてしまうまで分からないということを十代は良く知っていたから、心の中で油断はするなよと声援を送る。
「う……」
 少し無理をし過ぎたせいかもしれない。
 十代はくらっとした眩暈を感じ、口元を押さえた。乾いた咳が零れた。いつもとは少し違う、どこかどろっとした感触の不快感があった。

◆◇◆

 観衆と眩い光の中には、全身の皮膚が痺れるような、ぴりぴりした緊張感があった。対戦相手の殺気を含んだ本気をぶつけられる事も心地良かった。そしてそれを受け止め、押し返し、勝利を得ることも。
 数年ぶりに再会した旧友達は相変わらずだった。丸藤兄弟にエド・フェニックスにおジャ万丈目……ではなく、万丈目サンダー。特に今日の対戦相手だった丸藤弟の方は、童顔で相変わらず背が低く、小学生と言っても通用しそうだった。翔はこの容姿でプロ・リーグ運営の為のスポンサー集めや参加デュエリストの確保に駆け回り、そして時には自らがリーグに出場する。
 ヨハンが初めて見た時は、いつも十代の背中に隠れている気の弱そうな少年だったが、翔は今や結構すごい奴になっていた。

 控室前のホールにいくつかあるテーブルに着き、自販機で購入したカップのコーヒーに口を付けながら、ヨハンは久し振りに翔と顔を合わせて話をした。先のデュエルの最中は、世間話をしている暇など無かったのだ。
「それにしてもお前は相変わらずちっこいなぁ~。ちゃんと牛乳飲んでるか? まだ頑張れば伸びるかもしれないんだから、諦めるな」
「君は相変わらず日本語がすごく上手いよね、この電波男。ねぇ、教えてあげるよ。ボクの身長問題に触れて笑って赦してあげられるのは、可愛い女の子以外だとお兄さんとアニキだけだよ。――皆の目の前で、こんな奴にフルボッコにされるなんて……っ! くやしい! でも次こそは必ずボクが勝つ! 勝って跪かせて靴を舐めさせて、その情けない姿を全国放送で流してやるうぅ!」
「お、言ったな! あはは、でも次も俺は絶対負けないぜ!」
 ヨハンは明るく笑いながらウィンクをして、右手の指を二本翔の鼻の先に突き付けた。その途端に翔の顔が真っ赤に染まる。訝しげにヨハンは首を傾げた。
「あれ? 赤くなっちゃってどうしたんだ? おっ、翔はもしかして俺に気があるのか? そう言えば昔から良く熱い視線を向けられてたような気がする。あ~、でも可哀想だけど、俺にはもう一番大事な人がいるんだ。悪いな~」
「気色悪い事を言うなァ! 何でそうポジティブなの? 自分に都合の悪い現実を使用済みのティッシュとか人参のヘタみたいに斬り捨てられるの? 怒りだよ! 怒りがボクの身体中の血液を頭に集めてるんだよ! ボクが熱い視線を向けてたのはお前が付き纏ってたアニキにだけだし、お前には殺意と敵意しか向けた覚えはないよ! ――だからさ、今もさっきのデュエル中にもやってたその『ガッチャ!』はねぇ、アニキじゃなきゃ駄目なんだ。お前なんかが気安くやって良い決めポーズじゃないんだよぉおお!」
「なんだよ。羨ましかったんならお前もすりゃいいじゃないか。十代はそれくらいじゃ怒らないし、負けたら決め台詞言っちゃいけないって決まりなんてない」
「負けて笑って決め台詞が言えるほど、ボクは人間ができちゃいないんだよおっ!」
 ヨハンと翔が談笑している横を通り掛かった万丈目が、足を止めて横目でちらっと目を向け、溜息を吐いている。
「騒がしいぞ、馬鹿どもが。オレの控室にまで大声が響いて来ていた。うるさくてかなわん」
 相変わらず皮肉っぽいところが目に付くが、彼はこれでも誰よりも優しくて面倒見の良いいい奴なのだ。……と以前十代が言っていた。
「しかしさっきの対戦は何だ、元金魚の糞。プロとして無様にも程があるだろう」
「うう、むかつく……フリル野郎の次の相手は万丈目くんじゃないか。負けろ……いや、負けちゃ駄目だ。頑張っておジャ万丈目くん! 勝って、このヒラヒラ男を地面に這いつくばらせてボクの仇を取ってくれ! ボクはその為にきみの礎になったんだからね!」
「な、なんだ急に。お前の仇など知らん。まあオレが負けるはずもないが」
 そこにエドが、控室から出て来るなり、じゃれているヨハンと翔に気の毒そうな目をくれた。彼はいつも大体の相手を可哀想なものを見る目で見る。上から目線というやつだ。
――ヨハン・アンデルセン、またやっているのか。いい加減丸藤翔の全力の悪意に気付いてやれ」
「はあ~?」
 ヨハンにしてみれば、すごく心外だ。
「そんな事はないぜ、エド。十代の子分は俺の子分だ。だから十代の子分の翔は俺の子分だ。子分が親分を嫌ったり逆らったりすることがあると思うか? あり得ないだろ~」
「むかつくうううう」
 翔が我慢出来ないというふうにテーブルに突っ伏して唸っている。リスペクトするヨハンへの悪意なんてとんでもないという表現なのだろう。
 万丈目が、細かいことが気になるらしく、ヨハンが掛けているサングラスに突っ込んでくる。
「貴様、屋内ではサングラスを外せ。お前の顔にそいつを足すと、妙に悪そうになるぞ」
 ヨハンは首を振って「ここは眩しいんだ」と返した。万丈目が訝しげに眉を上げる。
「眩しい? 何を言ってる。お前はモグラか何かか?」
「いやぁ、まあ色々と事情があってさ……話すと長くなるんだけど、あ、電話だ」
 話し込んでいると尻のポケットから電子音が零れてきた。「付き人を使え」と呆れられながら、携帯を引っ張り出してパネルを確認すると、相手は大徳寺だ。
――先生? 何かあったのか」
 このタイミングで連絡が入るのは、なんとなく奇妙だった。嫌な予感がする。
 電話越しの大徳寺の声は、いつにも増して頼りなかった。
『ヨハンくんにゃ? それが、十代くんが大変なことに……』
「ど、どうしたんだ。何があった?」
 ヨハンは慌てて立ち上がり、
――わりー! みんな、俺用事ができた。今度ゆっくり話そうぜ!」
 控室へ戻る手間も惜しく、足早に廊下を歩いていく。
「あいつがあんなにうろたえてるなんて珍しいね。今までボクが何言っても全然通じて無かったのに」
「先生と言っていた。学校がらみで何かあったんじゃないか」
 翔達は呆気に取られた様子でいる。取り乱しているヨハンが余程珍しかったらしい。電話の向こうでは一悶着あるようで、ばたばたと慌しい物音が聞こえている。
『ちょ、ちょっと代わるにゃ。十代くん? 髪を引っ張らないで欲しいのにゃ。話したいのにゃ?』
『ああ、ヨハンに繋がってるんだろ? あいつの声聞きたいな』
 耳慣れた十代の声が聞こえる。ヨハンは安心してしまった。少なくとも話せる状態にあるということだ。最悪はまだ訪れていない。
『ヨハン?』
「どうした、具合悪いのか。また倒れたんじゃないだろうな? それともどこか怪我したのか。すぐにお前のところへ帰るからな」
『……オレ、検査を受けたんだよ。そしたらオレ、なんか、なんていうか、』
 十代の声はありありと困惑を含んでいて、話し方も不明瞭だった。十代らしくない。ますます黒い不安の渦が押し寄せてきて、絡め取られてしまいそうだ。
 十代が静かに言った。

『オレさ、ヨハンの子供ができたんだぜ』

 ――ヨハンはその場で勢い余ってスライディングしてしまった。驚いたなんてもんじゃない。
 弟の試合を見に来ていたらしい亮がちょうどヨハンを見咎め、何をやっているんだこいつは?という顔つきになっている。まあ無理もない。
「……大丈夫か、ヨハン・アンデルセン」
「いや、へいき……ちょっと、何て言うか、いきなり人生の転機が訪れて、頭の中が一瞬で空っぽになって、」
「フ……デュエルとはそういうものだ」
 おそらく何かを勘違いしただろうまま、亮は微かに微笑して背中を向けて去っていく。ヨハンは携帯電話に向かって、呆然としたまま「マジで?」と尋ねた。
『マジマジ』
 十代の返事は軽い。そのせいで、にやにや笑いが堪えきれずに顔中に広がっていく。
「あ~、俺さ、きっと世界中で一番幸せな男なんだ」
『大げさな奴だな! なぁ、中継見てたんだ。お前と翔の対戦だよ。翔も頑張ったけど、やっぱお前はすげえ強いよな~。帰ってきたらまた絶対オレともやろうな!』
「ああ、俺もお前とやりたいぜ」
『次は万丈目が相手なんだろ~。あいつも半端なく強いから、ちょっとでも油断したらいくらヨハンでもやられちまうぞ。あー、オレ今からワクワクしてて待ちきれねーぜ!』
――俺が勝つに決まってるだろ。しっかり見てろ!」
 ヨハンは携帯電話を閉じるなり、
「ひゃっほぉ!」
 笑顔で拳を振り上げた。――愛しい俺の十代!
 帰りがけの観客達もヨハンを見付けると腕を振り上げて歓声を上げ、大きな拍手を贈ってくれた。



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