生まれた子供には顔が無かった。
 皮膚は大理石のようにつるっとしていてすべらかだった。どこが頭で胴体なのかは分からなかったし、手も足もなかった。
 普通の人間の父親なら卒倒していたかもしれない。しかしヨハンは『普通』ではないものに馴染み過ぎていたから、その不器量な子供にも惜しみのない愛情を注ぐことができていた。
「超可愛いぜ! さっすが俺と十代の子だよなぁ! このすべすべした手触りとか最高だぜ〜! でもおかしいぜ、赤ん坊ってのはこんなに静かなものなのか」
「……何言ってんだヨハン?」
 ヨハンが子供を抱き上げ、平坦な表面にキスをしているところに、ベッドの上の十代が疑わしげな目つきで突っ込みを入れた。
「えっと……タマゴだから……そりゃ静かに決まってる」
「ん、まだなんか中から出てくるのか?」
「多分。ヨハンってたまに良くわかんないところですごいバカだよ」
「バカにバカって言われても腹は立たないけど」
「その言い方、なんか腹立つな」
 そう言いながら、十代はひどく大事そうに卵を抱いて、くすくす笑っている。
 ヨハンはベッドの縁に腰掛けて、十代の頭を柔らかく撫でた。彼が何を不安に思い、怯えているのかは、理解出来るつもりだった。
「バカだな。お前がもう人間じゃないことなんてとっくに知ってるんだ」
「そうだよな」
「あいしてる」
「オレも」
 十代が、ヨハンの手のひらに猫のように頭を擦り付ける。
「ヨハンが大好きだ」
 表情は穏やかで、どこかほっとした様子だった。

◆◇◆

「お」
 十代が微かに声を上げる。ぱきん、と乾いた音がした。十代が腹の上で大事そうに卵を抱いたまま、ヨハンの袖を引っ張った。
「ヨハン」
「ん」
 十代はにやにやしていた。多分ヨハンもそうだったろう。罅割れた殻の隙間から小さな白い手が覗く。人間の手だ。
 孵化した赤ん坊は、まだ目も開いていないが、窪んだ殻の内側に尻餅をつくように座り込むと、頭に殻を被ったまま大きな声で泣き出し始めた。卵を抱いているうちに慣れてしまったらしい十代が子供を抱き上げてあやし始める。
――っ!」
 ヨハンは思わず十代に抱き付いてしまった。目がじわっと潤んでくる。すごく感動しているのだ。
 しかし、幸せな時間は長くは続かない。背後からヨハンの襟首を掴む者がいる。
「悪いがタイム・リミットだ。これ以上はスポンサーが許さない」
 オブライエンだ。暗視スコープを装着している。相変わらずそつのない男だった。
「うえぇ、勘弁してくれよぉ産婆さん〜! 鬼だ〜!」
「誰が産婆だ。適当な日本語を使うな。――十代、悪いがこいつは連れていくぞ」
「ああ、悪いオブライエン。時間おしてるのに無理言っちゃったな」
 確かにプロ・リーグの次の対戦予定時刻まで、あと三時間を切っている。これ以上ここに留まることはできない。
「一目見るだけという約束だったはずだ。そろそろ頭を切り換えろ」
「じゅうだいいいいい!」
「頑張れヨハン。いつも見てるからさ」
 十代が微笑んで手を振った。――そんなふうに遺言にも聞こえるようなことを言うのは止めていただきたい。


 ろくに人の話を聞かないヨハンにまともに言うことを聞かせられる人間となると、あまり数は多くない。あれこれ口を出されることを好まないヨハンの付き人選びは随分難航していたらしいが、決め手となったのは意外なことに十代のアドバイスだった。
 候補は二人いたが、片方はそもそもふらっと姿を消すと数ヶ月は誰にも見付けられないような風来坊で、付き人なんて柄じゃなかった。放っておけば対戦日や予定の調整を忘れて、ワニと一緒に延々化石を掘っていそうな男なのだ。
 もう片方は実直で融通がきかず、仕事の為ならヨハンが泣こうが喚こうが、襟首を掴んで引き摺り回してくれるような男だった。素晴らしく適材だった。オースチン・オブライエン。
 そんな訳でアナシスから直接の依頼を受け、現在プロ・リーグにおいて、オブライエンがヨハンの付き人をやっている。彼自身もはじめは気が乗らなかったそうなのだが、「……十代の頼みでもある」ということらしい。
 皆それぞれいくらか十代に恩があるからか、それとも彼が異世界において一時期非行に走っていた頃(世界征服を企む十代というものが、どうもヨハンには上手く想像がつかない)に脅し付けられたことがあるからか、結構十代には甘いのだ。
「俺は依頼人に期待されたことを確実に遂行しているだけだ」
 ならもうちょっと容赦してくれても良いもんなのになぁ、とヨハンはこっそり考えた。理不尽だ。
 デュエル・ワールド・リーグのツアーに出ると、あっと言う間に一月が過ぎてしまった。
 最近の日課は控室でソワソワしながら育児雑誌を読むことだ。ヨハンは、壁にもたれて腕組みをしているオブライエンに、真剣な顔で尋ねた。
「なぁ、ずっとこうやって俺が仕事で忙しくて構ってやれなかったら……もしかしたら生まれた子供が俺の事を父さんって呼んでくれなかったらどうすればいいんだオブライエン」
「…………」
「俺も十代もさ、親ってもんがどんなものなのか良く分からないんだ。でもだからって俺たちまで『良く分からない親』を演じる必要はないだろう? 良い家族になりたいと思ってるし、他ならない俺たちならきっとできると信じている。何より嫁さんと子供を――俺の子供の頃からの夢、精霊と人間の掛け橋そのもののあいつらを幸せにするのが、一人の大人の男として、今の俺がやるべき事なんじゃないか。俺はその為なら何でもするさ。なあ、そうは思わないかオブライエン」
「…………」
「あとここへ来てから気付いたんだけど、『結婚しました』や『子供が生まれました』――なんか色々あって、みんなに連絡入れるの忘れてた。ただジムは日常的に行方不明になるし、他の奴もプロ・デュエリストなんかだと、スポンサーを通せとかでうるさいんだよなぁ……まぁそれは今度の同窓会でなんとかなるかな。どう思うオブライエン」
「…………」
 オブライエンは相変わらず無口だ。目を閉じてじっとしている。まるで蝉の幼虫みたいに静かで忍耐強い男なのだ。ヨハンは構わず喋り続けたが、しばらく後に彼の耳に耳栓が嵌まっていることに気付いて、諦めて黙った。


 そして、プロ・リーグにおいて、十戦目を目前にした頃のことだ。
『ワールド・リーグで九連勝、あと一勝で十連勝ですね! 相手が強豪揃いなのがアンデルセンプロのすごいところです』
「誰が来ようが、今俺は負ける気がしないんだ」
『絶好調ですね!』
 白く連続したカメラのフラッシュと向けられるマイクと記者の群れを抜け、ドームを出て、引き伸ばされたピアノみたいな風体の高級車に乗り込むと、運転手をやっているオブライエン(余談だが、彼は壊滅的にスーツが似合わない)が、ヨハンに携帯電話を放って寄越した。
「これは?」
「声を聞かせてやれ」
 オブライエンが勢い良くアクセルを踏む。車が急に発進したせいで、ヨハンは座席に思いきり鼻をぶつけてうめいた。
「な、なんだよ〜?」
「急ぐぞ。奴のタイム・リミットだ」
 ヨハンはすぐにオブライエンの言う所を理解し、「ああ、なるほど」と頷いた。思っていたよりも、少し早かったように思う。だが覚悟は既にできていた。
「……そっか。もうそんな時間なんだ」

◆◇◆

 闇に目が慣れた頃に、馴染みの黒い部屋の中は割合広いということを知った。
 天井は高く、透明な壁の向こうには薄青い海底が広がっている。そのせいで部屋の真中にいると、まるで水族館の大水槽の前にぽつんと突っ立っているような感覚に襲われる。
 病室用のベッドが持ち込まれ、漂着物みたいに虚しい白さの家具が並べられている。テーブルの上には、以前は青色のパンジーが花瓶に生けられて飾られていたはずだが、今日は花瓶ごと見当たらなかった。当然だ。あれからもう一月も過ぎている。花は枯れてしまうのだ。
「悪いけど、二人にしてくんないかな」
 ヨハンはサングラスを外してコートのポケットに突っ込み、十代を看ていた大徳寺に頭を下げた。入口に背中を預けて、腕組みをして様子を覗っていたオブライエンが、ふいと顔を背けてどこかへ行ってしまう。気を利かせてくれたらしい。
「何かあったら、呼んで下さいにゃあ」
「ああ。十代を看てくれてありがとう先生」
 大徳寺はいつものように微笑みながらひらひら手を振って、ファラオを抱いて出て行ってしまった。十代と二人きりになると、室内にしんと沈黙が落ちた。
「おかえり」
 まず、十代が少し微笑んで言った。
「ただいま」
 ヨハンもにっこりして、そう返した。そして、注意深く十代の手のひらを両手で握った。
「触られても、痛くはないのか」
「ああ。何日か、すごくひどいのがあって、もう通り越した。通り越したら、このざまだ」
 十代の肉体は、あきらかに変貌していた。腰、肩に肘、踝、身体のあちこちで白い骨が盛り上がり、皮膚から突き出していた。四肢には完全に硬化した鱗がびっしりと張り付き、背中からは翼のかたちをした剥き出しの骨格が生えていた。
 彼は今にも醜い竜へと変わろうとしていたが、進化を前にして、十代自身の身体には滅びの予兆のようなものが降り掛かっていた。
「もう切り離さないと、身体に引き摺られて心も死んじまうって先生が言うんだ。でもオレ、あんまり楽しいから、ついぐずぐずしちゃってさ」
「楽しかったなら、良かった。でもお前はバカだよ。痛かったり苦しかったり、そういうのを俺に見せたくなかったんだろう。どうりでオブライエンが鬼のような予定を組むと思った。お前の差し金か」
「だって、しょうがないだろー。ヨハンがあんまり楽しそうにしてるもんだから、もうちょっとだけ見たい、次の試合見るまで死ねないって、……それを繰り返してたらこんな時間になっちゃったんだ。夜更かしをし過ぎたみたいでさ。正直、オレもう自分が何考えてんのか、あんまり分かんねえ」
 十代がくすくす笑う。その顔には、植物が根を張ったような筋がくっきりと浮き出していた。彼は自ら望んで、ずっと長い間蛹のままで留め置かれていたのだ。
「オレさ、ヨハン、ひとつやりたいことあんだぁ」
「やりたいこと?」
「ああ、みんなの前から消えても、いつか古くて黄ばんだアルバムの中にしかいなくなっても、ずっとヨハンの隣にいたい。ずっと前に、オレのことも宝玉獣達のなかに混ぜろって言ったじゃないか。ヨハンは怒ったけど。オレも一緒にいたい。離れたくない、繋がっていたい、オレの中ヨハンでいっぱいでぐちゃぐちゃになる。わかんねぇ」
「そういうのを、好きって言うんだよ」
 ヨハンが落ち付いた声で諭してやると、十代はきょとんとして目を丸くしている。彼の瞳は燐が燃え上がるように美しく輝いていた。
「オレ、ヨハン好きだぞ?」
「ああ。ありがとう十代」
「なんだ……オレっ、わけわかんね、嬉しいのに、息ができないんだ。涙が止まらない。胸が痛い。やっぱ、もうオレっ、ほんとのオレも、どっかおかしくなっちまってんのかなぁ……!」
「馬鹿、もう黙れ」
 ヨハンは十代の手のひらをそっと彼の胸の上に置き、頭を撫でて、「お疲れ」と言ってやった。十代は太陽のように輝いて世界を照らし続け、そして今はもう随分くたびれてしまっていた。朝が昼になり、そして夕暮れを過ぎて、太陽は薄青い闇の中へ沈んでいく。もう夜が来てしまったのだ。
「沢山楽しかったな。もう眠れ」
 十代がどこかで寝入ってしまった時に、布団を掛けてやったり、部屋に引き摺って連れて帰るのは昔からヨハンの役目だった。彼の世話を焼くのは慣れている。
 ――だから、覚悟はしていた。
 その時が来たら、彼を寝かし付けてやるのはヨハンの役割だった。
 十代の上半身を抱き上げ、抱き締めて、頭をヨハンの肩にもたせかけて背中を撫でてやると、彼は安心したように目を閉じた。
 借り物のポケットナイフの刃先を、背中から生えている白い骨の翼の付け根にそっと押し当てると、十代の身体が微かに震えた。それはヨハンに、二人で何度も肌に触れ合い、交わった記憶を思い起こさせた。
「ちょっとちくっとするかもだけど」
「……ほんと、わりぃ」
「我慢してくれよ」
 ヨハンは十代の耳もとで、白い砂のような静かな声で囁いた。
「おやすみ、起きたら、また沢山デュエルしようぜ」


 いつかの、海の底で。



―『TURN02 海の底から』 END―
 
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