いつか来る日に向けて。 目が覚めた時、天井はゆらゆらと頼りなく揺れていた。揺れているのは天井ではなく自分のほうなのだと気付くまでにしばらくの時間が掛かった。 柱から吊り下げられているハンモックの上で上半身を起こすと、金色の目で床の上から覗き込んできていたワニと目が遭った。目が遭うと彼女は(雌なのだ)二度瞬きをして、そして「ぐああ」と鳴き声を上げた。「おはよう」と返して頭に手を乗せると、満足がいったようで目を閉じた。ワニのカレンとは出会って一目で友達になった。面白い奴なのだ。 「よう、お姫様。お目覚めかい」 目を擦っていると、ジムが言う。彼は相変わらず木でできた机の上で、釘と金槌を使って注意深く石を削っていた。振り向きはしなかった。多分特別に細かい作業の最中なのだ。 「……おはよう。なんだか楽しい夢を見てた気がする」 「それは良かった。ソーリー、起こしてしまったようだ」 石を砕く音のことを言っているのだろう。それは特に気にはならなかったから、首を振って「構わない」と返した。 「良く眠れた。音は気にならないんだ。……喉乾いた。水貰っていいか?」 「オフコース、フリッジはハンモックの下にある。好きなものを飲んでくれ」 おそらく家具のサイズやら配置やらは、すべてジムの身体のサイズにカスタマイズされているのだろう。ジムは恐ろしく器用な男で、この木でできた小屋も、彼が一人で組み立てたものらしい。 冷蔵庫はハンモックの上から腕を伸ばして、届くか届かないかという微妙な距離だった。背丈や腕の長さの差を思い知らされた気分だ。諦めてのろのろとハンモックを下り、床にしゃがみこんで冷蔵庫を開けると、ミネラル・ウォーターとコーラ、グレープソーダが棚一杯に詰まっていた。食べるものはなにもない。 良く冷えたミネラル・ウォーターの瓶を引っ張り出して裏を見ると、ラベルにはどこどこの国の何々州の地下で採取された硬水だと書かれていた。しかし、キャップを開けて一口飲んだ時に、口の中に強烈な違和感があった。 「……うえぇ、」 「ワッツ? ……なるほど、日本人には炭酸入りのミネラル・ウォーターは馴染みがないかな。オレの国ではそいつが普通なんだがね」 「ふうん、変わった味だ」 「じきに慣れるさ」 「そんなもんかな」 頬に掛かる暗い茶色の髪を指先で弄りながら、どうしたもんかなと考えたが、人に物を貰っておいて文句を付けるのは格好が良くない。腹を決めてボトルの水を飲み干した。でもやっぱり奇妙な味がした。甘くない炭酸水ってものは、やはりおかしな感じだ。 ジムの肩の後ろからひょいと顔を出して机の上を覗くと、彼は石の中から手のひらに乗るサイズの肉厚のナイフのようなものを削り出しているところだった。 「それは何だ?」 「恐竜の骨だ。カルカロドントサウルスの歯の化石さ。最も大型の肉食恐竜の一種だ。歯が鮫のような形をしているだろう? こいつがネームのオリジンになっている」 「今日も化石を掘りに行くのか?」 「トゥディ、雨が降っている。ここでのんびりクリーニングをやっているさ。崖の辺りは土が緩んでいてデンジャーだし、それにその時間じゃない。発掘作業ができるのは、海の潮が引いている数時間だけだからね」 「じゃあ後で散歩にでも行かないか。雨は嫌いじゃない。いい匂いがするし、それに草も木も花も喜んでる」 「オーケイ。じゃあ早速出よう。調度オレもカレンも腹を減らしている。街に下りて買物をして飯を食って、それから端末で連絡を入れたい相手もいる。ここには電波が届かないせいで、良くオレは行方不明者扱いを受けるんだ」 「クリーニングは途中でほったらかしてていいのか?」 「ノープロブレム。彼らは一億七千万年もの永い時間を、文句も言わずに地層の中で過ごしてきたんだ。少しくらい待ってくれるさ。それにしても、珍しい話を聞いたよ」 「珍しい?」 ジムは頷き、動物園で檻に入れられた稀少動物を見るみたいな顔になった。 「花か。ユーの口からロマンチックな話を聞けるとは思わなかった。十代」 道は道とは言えない程にでこぼこしていて、軍用払い下げのカーキ色のジープが進む度に上下にひどく揺れた。「まともな道へ出るのに四時間掛かる」とジムが言った。 「そこから一番近くのシティまでは大体二時間半掛かる。ユーは車酔いは平気か?」 「何だそれ」 「ならいいんだ。だが車を使うとゆっくり花を見ている余裕はないかな」 「いや……うぇっ、いってぇ!」 十代は後部座席に後ろ向きで膝立ちになり、去り行く景色を眺めていたが、車体ががくんと揺れた衝撃で舌を噛み、渋い顔になった。ジムがおかしそうに笑って、「下手に喋ると舌を噛むぜ」と言った。もっと早く言って欲しかった。 街へ辿り付いたのは、小屋を出てから六時間二十分後のことだった。カーラジオから流れてくる底抜けに明るい音楽を聞いているうちにいつしか眠り込んでしまっていた十代は、ふとカレンが膝の上に頭を乗せたことに気付いて目を覚ました。 車を降りると細かい霧のような雨粒と、ぬるい空気が身体中にからみついてきた。まるで水の中に潜っているみたいだ。七月始めの雨の日、夏特有の湿った匂いが鼻先を擽った。 「さて、まず腹ごしらえだ。それからユーの服を新調しなきゃならない。何せオレの服は、キミには少々サイズが大き過ぎるみたいだからね」 車を降りたジムがいつものようにカレンを担ぎ上げ、後ろから十代の肩をぽんと叩いた。背丈を引き合いに出されてなんとなく微妙な気分になったが、事実なのだからしょうがない。 レストランに入ってサッカー・ボールサイズの毛糸玉みたいなスパゲティを腹一杯食べ、衣料品店で服を何着かと、スーパー・マーケットでジープを埋め尽くす程の食料を買い込んだ。 ジムは途中で街頭に設置されている公衆電話を見付けると、「ソーリィ、少し待っていてくれ」と言い置いて、十代を待たせてどこかへ電話を掛けている。彼は携帯端末という便利なものを持っているくせ、滅多に使うことがないから(大体において彼は電波が届くような場所にはいないのだ)、電池を切らしているようだ。十代は買い忘れ品のメモを取っておいた。携帯端末の電池。 「――久し振りだ。オフコース、相変わらずさ。ユーも元気そうだ。……違うのか? ああ、そいつは大変だ。バイザウェイ、今『彼』を預かっているよ。少し前に――そう、少々おかしなことになってはいるがね。まあ心配はいらない。以前の……ああ、あの時に比べたら随分可愛いもんさ」 十代は屋根付きの建物の壁にもたれかかって座り込み、膝に頬杖をついてジムを待っていた。多分久し振りに友人の声を聞いて、楽しくやっているのだろう。 ジムのようなしょっちゅう行方不明になる友人を持った電話線の向こうの相手は大変だ。十代は余計な世話だと知りつつもそう考えた。 「……ん? 後ろで怒鳴っているのは彼かい? おいおい、止してくれよ。オレはフレンドのワイフに手を出すなんて無粋な真似はしないさ。ああ、分かってる。いつものことなんだろう。知ってるよ」 しばらくして、堪え性のない十代がじっと座り込んでいることに飽きて屈伸運動を始めた頃、目の前の歩道を歩いていた少年が雨で濡れたコンクリートの上で足を滑らせ、盛大に転んだ。辺りに人気はなく、少年が泣き出しても助け起こしたり手を差し伸べたりする大人は誰もいない。 いや、 「……大丈夫か?」 十代はすぐに駆け寄って行って少年の傍にしゃがみこみ、擦り剥いて血が滲んでいる膝にそっと手を当ててやった。 泥で汚れた傷痕を一撫ですると、傷はまるで幻のようにふっと消え去ってしまった。あとには綺麗な皮膚があるだけだ。少年は驚いて泣き止み、十代の顔をしげしげと見上げた。 「……お兄ちゃん? お姉ちゃん?」 「さあ、どっちだろう」 「天使なの?」 「天使ってなんだ?」 少年はきょとんとしている。 背後から肩を叩かれて振り返ると、ジムがいる。電話は済んだらしい。彼は少年へ向けて、口元に人差し指を当てて「しい」と言い、悪戯っぽく笑い掛けた。 「このことは内緒だぜ、ボーイ。誰にも言っちゃいけない」 「……うん!」 少年が頷き、そして立ち上がり、柄の折れた傘を残念そうに引き摺りながら行ってしまう。十代は不思議に思ってジムの顔を見つめて、「なんでだ?」と尋ねた。 「秘密にしなきゃいけないことなのか? オレ、何か悪いことしたのかな」 ジムの返事は良く分からないものだった。 「化石にも地層から発掘されるべき時間ってものがある。パスト、誰も恐竜なんて存在を信じていなかった時代に発見された化石には、現在とは違って何の価値も無かった。そいつと同じだよ」 「わかんねえ」 「キミという存在に価値を見出す者が現れて、キミを土の中から引っ張り出すのを待てばいい。そういうことさ」 「……全然わかんねえ」 十代は肩を竦めて、オレはバカなのかなと考えてみたが、虚しくなったので止めた。 |