三沢は現在神にも等しい頭脳を持つ物理学者であるツバインシュタイン博士に師事し、彼の元で助手をやっている。今回は量子力学の講演を行う師と共に、地中海の海中にあるデュエル・カレッジ・アトランティス校へ向かっている途中なのだが、 「ところで三沢君、昼飯はまだじゃったかのう」 「は……博士、船に乗る前に食事は済ませて来たはずですが」 ――師は肝心の物理学以外では、最近少々危ういところがある。 潜水艇の窓から射し込んできていた薄い光は、深度を増すにつれて徐々に青さを増していった。眼下にはかつて滅びた伝説の都の名を冠する街が広がっている。無数の白い柱で構成された街並みは、まるで食べ残された鯨の骨のようだった。 何もわざわざ海の底に学校を作る事もないだろうと思えたが、理事長の名前を聞けばああなるほどと思わざるを得ない。ツバインシュタイン博士を講演に呼んだ、アトランティス校の理事長である海運王アナシスの姿は数年前に一度見た事があった。 三幻魔騒ぎの頃にいきなり潜水艦でデュエル・アカデミアに乗り込んできて、遊城十代に海のデュエルを申し込み、敗北し、その後何を考えたのか十代を無理矢理連れ去ってしまったのだ。三日ばかり行方をくらましていた十代に、弟分の翔が本気で貞操の心配をして、「ほんっっとに、何にもされなかったんだよね?」と念押ししていたことを覚えている。 昔の話だ。 また十代がらみの人間だ。しばらく彼の噂を聞かないと思っていたら、最近になって急に良く名前を耳にするようになった。 三沢は窓枠に頬杖をついて、円い窓から海中の景色を眺めた。ガラス窓には、ここ連日眠る事をぽっかりと忘れていたおかげで、いつのまにか目の下に隈ができていた自分の顔が写り込んでいるはずだった。 しかしそこにいたのはガラス越しにこちらを見つめる自分ではなく、見慣れない顔の男だった。いや、見慣れてはいたはずだが、いつのまにか随分大人びて、まるで知らない人間のように変わってしまった友人だ。変わらないのは茶色い頭とひどい寝癖だけだ。 「……十代か?」 十代は互い違いの色をした妖しい両眼を細めて、にっこり微笑んだようだった。なんだか奇妙な笑い方だった。右目と左目が別々のことを考えているみたいな笑い方だ。『すげえ隈』と彼の声が聞こえてきそうだった。 三沢は驚いて勢い良く席を立ち、瞼をごしごしと擦った。 再び目をやると、いつのまにかガラス窓に写っているのは冴えない顔色をした三沢自身の顔だった。隣には居眠りをする博士と、不思議そうな顔で三沢を見つめる他の乗客達も写り込んでいた。 (人間は数日眠らないと幻覚を見ると言うが……まさかあいつがなぁ) 三沢は頭を振って座席に腰を下ろした。 ただの幻だ。知らない間に参ってしまっていたのだ。そういうことは良くある。 十代は死んだのだ。デュエル・アカデミアの公式文書にもきちんと記録されているし、死因も納得がいくものだった。自殺。もしくは他殺。十代にしろヨハンにしろ、特別な人間の考えは凡人達には理解出来ないものなのだ。 精霊の存在は科学的に証明されている。だが幽霊などという非科学的なものは存在しない。 それがたとえ『あの』遊城十代だとしても、絶対に存在しない。 しかしカレッジに到着し、ようやく水の中から解放されたと思ったら、待ち受けていたのは封鎖された港だった。船着場を囲い込むようにバリケードが張られており、異様な空気だ。冷たく張り詰め、ピリピリしている。 三沢がハッチから出て梯子を降りていくと、ちょうど腕章を付けた学生達が、ひとつ前の便で外部から訪れた人間を追い返しているところだった。 「外部の人間は立ち入らせないことになってるんだ。悪いが、帰ってくれ」 潜水艇に乗っていた他の客達は、ぴりぴりとした学園の空気に戸惑いつつも、文句を言いながら船内に引き返している。そんな中で腕章付きの学生にしつこく食い下がっている男がいる。三沢は「あ」と声を上げた。すごく見覚えがある顔だった。 「そこを何とかお願いだ、行かせて欲しい。僕の歌声を心待ちにしているファン達がいるんだよ〜……!」 「なんだあんたは? おい警備係、このなんか妙な男を連行しろ。理事長の回し者かもしれない」 食い下がっていた男はすぐに両側から二人の男に腕を掴まれて、いずこかへずるずると引き摺られていく。彼の取り巻きの女性陣から、「ああーん、吹雪さまぁ〜!」と切なげな悲鳴が上がった。 なんにしろ知り合いを放っておくわけにはいかない。三沢は騒ぎの中に割って入って行った。 「年長さんじゃないですか。一体こんなところでどうしたんです?」 「キミは……」 派手なスーツ姿の端整な顔立ちの男――天上院吹雪は三沢へ振り向き、不思議そうな顔で首を傾げた。 「誰だっけ?」 「三沢です! 先日同窓会でもお会いしましたっ!」 「いやぁ、これはやっておかなくちゃって思ったもんだから。あっはっは」 吹雪は悪びれもせず能天気に笑顔を振り撒いている。 「ところで、僕らはまた変なことに巻き込まれてしまったようだねぇ」 三沢の襟首を、背後から警備係の男が掴んだ。 狭い小部屋に詰め込むようにして放り込まれるなり、がしゃん、と格子が閉まる鈍い音がした。部屋の入口には『反省室』と書かれたプレートが嵌まっている。地下室だからか、湿気がひどく、時折どこかから水の音が聞こえてくる。ここは海底なのだ。もし何かの事故が起こって、部屋ごと水没という事態だけは勘弁願いたい。 「ああ、ここじゃ僕の紡ぐ愛の調べに耳を傾けてくれる人は誰もいないというのか――この街の人々は歌を忘れてしまったというのかい? なんという、悲劇なんだ」 吹雪は滝のように涙を流しながら、胸に抱いたウクレレを掻き鳴らしている。彼自身はすごく悲しんでいるのかもしれない。しかしそれを見る者にしてみれば、相変わらずその姿からあまり悲壮さを感じることができない。 「三沢君や、随分と赴きのあるホテルを選んだものじゃのう」 ツバインシュタインは専門分野以外では相変わらずの調子で、ほっほっほ、と声を立てて笑っている。彼は素晴らしい頭脳と良識を持った大物で、細かいことは気にならない性質なのだろう。そうであることを祈る。今師にボケられては非常に困る。三沢はまだまだ彼に学ぶべきことが沢山あるのだ。 「博士、ここはホテルではありません。理由は良く分かりませんが、俺達は拘束されたんです。腕章の奴らを見たところ、学生運動の真っ最中という感じだったが……」 「その通りだっちゅーの」 声は室内の、暗がりの奥から聞こえてきた。振り向くと部屋には先客がいる。 男だ。ずんぐりとした体型だが、全身の筋肉は鍛え上げられており、肌は日に良く焼けていた。ボーダーのシャツにワインレッドのコートを羽織り、見るからに海の男と言った出で立ちだ。衣装や指を飾る無数の装飾品は、宝石の価値が分からない三沢から見ても、おそらくひとつひとつが個人の一生を買い上げられる程に高価なものだろうと知れた。男の顔がこのしけた場所にはあまりにもそぐわなかったから、三沢は驚いて声を上げた。 「海運王アナシスじゃないか? この学園の理事長じゃなかったのか。なんでこんなところにいるんだ」 「これには色々と事情があるんだっちゅーの。それよりもそっちの二人は、デュエル物理学賞を受賞した物理学者のツバインシュタイン博士とアイドルのブッキーだっちゅーの?」 「ええ、そうです。貴方がアナシス理事長ですね? この度はこんなに美しくロマン溢れる海底の街にご招待下さったことを感謝します。残念ながら牢屋の中からでは僕の歌をみんなに届けることはできそうにないけれど」 吹雪がちょっと困ったような顔で微笑んだ。アイドルの微笑みというやつだ。もしも女の子が一人でもここにいればそれなりの反応を期待できたのだろうが、あいにくこの場には男しかいない。 「はて? 誰じゃったかのう、三沢君や」 「博士、博士の講義を聴きたいと呼ばれた、アトランティス校のアナシス理事長です。それよりもアナシス理事長、聞きたいことがあるんです。この街で今何が起こっているんです? 外部からの人間を寄せ付けない、文句を言えば即座に拘束される。あきらかに普通じゃない」 アナシスは小部屋の入口向かいの壁に背中を持たせ掛けて、どっしりと座り込んでいた。 「このアトランティス校の目玉講座、デュエル経済学を知っとるかっちゅーの」 「……それが、学生がバリケードを作ったり、理事長や来訪者を拘束したりすることと何の関係が?」 「まぁ聞けぇい。俺はな、卒業試験として、実際に学園をひとつの社会に見立てて、生徒達に擬似生存競争をやらせたんだァ。はじめのうちは順調に行ってたんだっちゅーの。カードで金を増やすもの、投資に失敗して何もかもを無くすもの、色々いたなァ。そこへ、ある一人の生徒が発端だったんだ。経済学も金も関係ない。まるで人の心の闇が見えるような悪魔的な手法で、実に上手いやり方だったなァ。あの男は人間の心をどこへ動かせば何が手に入るのかを熟知していたんだ。そいつはほんの一日でこの学園を支配してしまったんだっちゅーの。あいつが煽って、学生どもが勢い付いて、俺は競争に負けてこのザマだァ。人生でこの俺がここまで完敗したのは二度目のことだっちゅーの」 「何者なんです、そいつは?」 「いやぁ〜、さすがは俺の可愛い子供の婿だっちゅーの! これ位のヤリ手じゃ無かったら、安心してあいつを任せられねーってもんだァ」 「婿って……なんだ、じゃあこれは、馬鹿に大きなお家騒動ってわけか」 この学園の内部で得体の知れない何者かの陰謀が蠢いているのかもしれないと想像していた三沢は、なんだか肩透かしを食らった気分になった。 「おうおう、俺の可愛い子供の写真が見たいって顔をしとるっちゅーの?」 「いえ……」 子供と聞いて、つい女版のアナシスを想像してしまった三沢は、愛想笑いを浮かべて辞退した。お世辞を言うのは苦手なのだ。 「今は遠慮しておきます」 「当たり前だァ。俺の子はちょっとばかし特別でなァ、そうホイホイと顔を見せてやる訳にはいかんっちゅーの。婿と孫の写真もあるが、タダでは見せてやらないっちゅーの」 「えっ、美人なんですか?」 三沢は驚いて、失礼なことだとは知りつつもアナシスの顔をじっと見つめてしまった。彼はまるで壁のようにがっしりとした体躯で、分厚い瞼と太い眉を持ち、顎が綺麗に二つに割れていた。三沢は父親に似てしまった不幸な娘を一瞬想像してしまったのだが、アナシスは「当たり前だっちゅーの!」と自信ありげに頷いている。親の欲目なのか、それとも母親に似たのかは、相手の娘を実際に知らないことには判断の下しようがなかった。 「この海運王アナシスも随分多くの人間を見てきたが、あれ程いい女ってのは世界中探し回ってもあいつ以外にはいないっちゅーの。あいつは世界一の男前で、世界一のいい女だァ。ただひとつ問題があってなァ、全然なついてくれん。あんまりにも可愛いもんだから、こないだ一回でいいから父ちゃんのお嫁さんになりたいって言ってくれと言ったらなァ」 そこでアナシスは息を止めて目を瞑り、その時の思い出が呼び覚まされたようで、大きな口を開けて腹の底から笑い声を上げた。 「気持ちの悪いことを言うなと、夫婦二人で結束して俺に殴り掛かってきやがった! あいつは身体を悪くして入院してたはずだが、これがまたすごい力でなァ。婿の方もひどいやきもち焼きで、危うく俺まで病院送りになるとこだったっちゅーの」 「はあ……」 そうまで言われると、少し気になってきた。しかしアナシスはそこで少し寂しげに笑って肩を竦めた。豪胆で自分勝手な男にはあまり似合わない笑い方だった。 「まァ、夏が過ぎた頃に死んじまったがな。ひまわりが枯れるみたいにしてよぉ……昔は太陽みたいに元気な奴だったのに、あっけないもんだったっちゅーの」 「…………」 室内に重い沈黙が落ちた。アナシスは何でもないことだとでも言うふうに頭を振り、「大人しくしてることだっちゅーの」と言った。 「じきに卒業試験も済むっちゅーの。そしたらこのゴッコ遊びも終わりだ。卒業生達はカレッジを出て行く。お前らも解放されるっちゅーの」 「ちょっと待ってくれ。卒業試験が済む頃というと、次の春が来るまでここに閉じ込められっぱなしだというのか? 冗談じゃない。俺も博士も一日だって研究の時間が惜しいんだ。何とかここを出る方法はないのか?」 三沢はアナシスの目の前に腕を組んで座り込み、じっと彼を睨んだ。アナシスは「しょうがない奴らだっちゅーの」とぼやきながら靴の踵を弄っていたが、やがて踵が外れて中から折り畳まれた細長い針金が現れた。抜け目のないのは性分なのだろう。 「それで鍵を開けてやれ。元々お前達のことは俺の不手際だからなァ、タダにしといてやるっちゅーの」 「あんたはどうする?」 「俺はここに残る」 アナシスは退屈そうに欠伸をしている。 「俺は金では買えないものなど無いと思ってたんだがなァ、どうしても手に入らないものがあったんだ。だがなァ、今そいつが間違いで、やはり俺の信念が正しいってことを証明しようって奴がいる。今しばらくは、ここで成り行きを見守ってやろうと思っとるんだっちゅーの」 拘束されていた部屋を抜けると、右も左も同じようなつくりの白い通路に出くわした。窓もないから、今自分達はこの海底の白い街のどの辺りにいるのかということが分からない。腹も減ってきた。 「八方塞というやつだねぇ、これは」 吹雪は悲しげな顔でウクレレを掻き鳴らしている。「とりあえず、楽器の演奏は控えて下さい」と三沢は釘を刺した。吹雪は控えめにウクレレを鳴らし始めた。そういう問題じゃないと三沢は突っ込みたかったが、何を言っても無駄のように思えたので、そこで諦めた。 俺はこの人に舐められているのかなと三沢は考えてみた。そうなのかもしれないし、吹雪はいつもこんな感じだったかもしれない。どちらだってそう変わりはない。迷惑なだけだ。 「街を出る為に助けを呼びましょう。どこかに生徒の鎮圧を行っている倫理委員がいるかもしれないし、デュエル・カレッジならアカデミア本校に連絡を入れる機械がどこかにあるはずです。電話は通じないが、それなら……」 「明日香! そうだね、彼女ならきっと何とかしてくれる。彼女は僕のヒロインなんだ」 吹雪の顔が希望に輝いた。彼はあの明日香の兄で天才と呼ばれる男だが、変なスイッチが入っている間は全く頼りにならない。 薄暗い一本道の廊下を進むと、プレートのない扉が現れた。扉には鍵が掛かっており、先には進めそうにない。 良く見ると無地の扉には、黒っぽい汚れのようなものが付着している。血の染みのようにも見えたが、まさか学園内で流血沙汰はないだろう。あまり考えないことにした。 「三沢君、もうちょっとゆっくり歩けんもんかね」 「あ、ああ、すみません博士。……ここは違うな、行き止まりだ」 そこで元来た道を引き返していくが、建物の中はしんと静まり返っており、おかしなことに誰にも会わない。進むうちに白い回廊は途切れ、ある奇妙な区画に出た。 ずっしりとした銀色のドームが、鉄板の通路に挟まれて稼動していた。表面はつるつるしていて、まるで巨大怪獣の卵のようにも見えた。通路の向かいにはコントロール・パネルがあり、パネルの中には透明なアクリル板で保護された三枚のカードが一列に並んでいた。 三枚? 裏向きで絵柄は見えない。壊れているのか、計器はすべて振り切れたまま停まっていた。 機材やら何やらが毎日見ている研究所のものに良く似ていたから、そういう用途の施設なのだろう。問題は一体何が研究の対象になっているのかがさっぱり分からないことだった。 ドームを通り過ぎて更に進むと、壁と一体になっている水槽が現れた。巨大な水槽は黄色い液体で満たされており、中に電柱ほどの大きさの細長い腕のようなものが浮いている。腕とは言っても、人間のものではない。びっしりと鱗が生えており、五本の指にはそれぞれ人間の腕の長さほどある鋭い爪が生えていた。 「う〜ん、なんだろうね、これは。実にミステリアスだ。巨大怪獣でも作っているのかな?」 吹雪が首を傾げて水槽をコンコンとノックした。当たり前だが、返事はなかった。腕はただ静かに水中にふわふわ浮いていた。 しかしそこで『これは一体何の目的で造られたんだろう?』と首を捻っている場合ではなかった。その先に設置された円柱型の水槽の中には、もっととんでもないものがあったのだ。 「これは……」 それはかろうじて人型をしていた。 いや、あきらかに人間ではなかった。そいつの顔にはとても見覚えがあったから、いくら異形の風貌をしていても、一人の人間として認識できたのだろうと思う。 しかし、何故彼がここにいるのかがわからない。 「じゅ、じゅ、じゅ、……な!?」 ――遊城十代だった。 十代は黄色い液体が満たされた水槽に身体をまるく覆われ、両目を閉じて静かに眠っているように見えた。腕をゆるやかに開いて、まるで空にふわふわと浮かんでいるような格好だ。そう見えたのは、背中に骨格が奇妙に変形してしまったようなかたちの翼がくっついていたせいかもしれない。 四肢は鱗に覆われ、まるで鳥やトカゲのような動物に似たかたちに変化していた。先ほど見た巨大な腕をそのまま縮小したような形態の腕だった。 そして何より気になったのが、彼の肉体からくっきりとした性別という概念が失われていることだった。右胸には豊かな乳房がくっついていたし、腰のラインもやわらかい。しかし身体の中心線を境目にして、もう反対側には男性的な普段の彼にあるべき特徴が見て取れた。下腹部からゆるやかに下へ辿ると、陰毛の繁りと男性器が露になっていた。 何となく目にするのが後ろめたくなる、男と女を取り合わせた奇妙な身体だった。もちろん三沢が知っている十代はこんなおかしな体付きはしていなかった。 一体何があった? 勿論、これが本物の十代の身体だという確証はない。大体彼はもう死んでいるのだ。 しかしもしも死体を、あるいは生体だった時分から得体の知れない実験の材料に使われ、異形へと変貌してしまった十代本人だとすれば――。 「……こいつも、ここから一緒に連れ出してやるべきなんだろうな」 三沢はなるべく十代の方を見ないようにしながら言った。 「そう、生き物は死んだら土に還るのが自然なんだ。理科室の標本みたいなのじゃ、十代くんも浮かばれないだろう」 吹雪が目を閉じて頷く。彼は普段は何を考えているのか良く分からない人間だが、本当は非常に情の深い人間なのだ。 そこに低く抑えられた声があった。 「――なにを勝手に見てんだよ」 ありありと怒りを感じ取ることができる声色だった。三沢はぱっと顔を上げ、水槽の後にずっと続いていくがらんどうの暗い回廊に、数年ぶりにそいつの顔を見付けたのだった。ヨハン。いつの間にそこにいたのだろう? 彼とはあまり良い思い出を共有した覚えがなかった。ただ彼は十代と特別に親しくしていた友人だと聞いたことがある。そのことが腹立たしい。 十代の死因が自殺だとしても、ヨハンに殺されたのだとしても、とにかくこの異形の肉体を見る限り、十代の信頼は確実に報われてはいなかった。空回りをして、裏切られていた。それは絶対に間違い無かった。少しでも遊城十代に関わった人間なら、ましてや友人なら、それに腹が立って当然だ。 「十代はお前の親友だったんじゃないのか。お前がこいつをこんなにしたのか? 何故こんなむごい事をするんだ?」 「むごい? 冗談じゃない。この骨の翼も、トカゲみたいな腕も足も、両性の身体も、今の十代は何よりも美しいじゃないか」 ヨハンは機嫌を損ねたふうに言った。狂人じみているが、彼は本気でそう信じているらしかった。 ヨハンは踵を返し、一度振り向いてかすかに笑った。 「来いよ。迷子になって困っていたんだろう……?」 図書館と博物館を通り抜け、人魚の銅像が置かれた小さな広場を過ぎると、街の南には扇状に学生寮が広がっていた。道中相変わらずぴりぴりした腕章付きの学生の姿を何度も見掛けたが、彼らはヨハンの後ろをぞろぞろと歩いている三沢達のことは全く気にも留めていないようだった。時折見知った相手なのか、ヨハンの方にちらっと目をやって手を挙げ、「こんにちは」と挨拶をする学生がいるくらいだ。 「アンデルセン先輩じゃないですか。後ろの方も研究生ですか? なんだか見たことがない顔だけど」 「ああ、こいつらは俺の友達だよ」 「たまには学校の方にも顔出して下さいよ」 「んー、またな」 「何故お前は平気な顔をして街を歩けるんだ?」と三沢は小声でヨハンに尋ねてみた。 「俺はここの研究生だからな。それにしてもお前らは運がいいぜ。俺がひとりで研究施設を抜け出せたのは奇跡に近い。数年通っているが、いまだに迷う。方向音痴なんだ」 「お前……自信満々でここまで歩いてきたじゃないか」 「ああ、ここまで来れば迷わない。庭みたいなもんだ」 ヨハンは当たり前のような顔をして、少しずれた答えを返してくれた。 彼に連れられて辿り付いたのは学生寮の一郭だった。それなりに広く、冷蔵庫もオーブンレンジもベッドサイドランプもある、快適に暮らせそうな部屋だった。その割には調度品に使い込まれた様子はなく、住人の癖と言うものが反映されていない。 「ここは?」 「俺の部屋。まあ上がって飯でも食ってけよ。残り物しかないけどさ。カレッジの卒業試験に巻き込まれたんだろ? 災難だったなぁ」 「いや……おい、なんでそんなに普通になぁ……俺はてっきり、お前が悪の波動だとか、闇の力を持ったカードに取り憑かれて襲いかかってくるのかと思ったんだぞ。なのに何故俺達はいきなりお前のお宅訪問なんかをしているんだ?」 疑惑の視線をヨハンに送っている三沢の横を、吹雪とツバインシュタインがすうっと素通りしていく。ヨハンは殺人犯かもしれないというのに、彼らには危機感というものが欠落しているらしい。 「いやぁ〜、もうお腹がぺこぺこだ。お邪魔しま〜す。素敵な部屋だね」 「久し振りだね十代君。元気にしておったかね?」 「俺はヨハンです、博士」 ヨハンはやんわりと訂正してから、博士から目を離し、そっと三沢の方を見た。その表情には心配と同情があった。三沢は慌てて勢い良く頭を振って否定した。師はボケてなどいない! ツバインシュタイン博士はしばらく考え込んでいたが、やがて納得したように手を打った。 「ああ、そうじゃったかなあ。何せ君らは良く似ているから、たまにどっちがどっちだか分からなくなるんじゃ」 確かにヨハンは十代と良く似ていた。見た目の話じゃない。彼らは本質が良く似通っていた。人の話を聞かない傍迷惑なデュエル馬鹿だった。 しかし人種の違う二人を見間違えることなどあるだろうか? そこで三沢は考えるのをやめた。きっと良くあることだ。そういうことにしておいた。 「お皿を出すよ。それからポットはあるかい? 僕はお茶を入れることに関してはちょっとしたものなんだ。是非腕前を披露したいな。それともコーヒーの方がいいのかな?」 「皿は左から二番目の棚です。お茶っ葉は隣の引き出しにセイロンティーがあります。三沢とかはコーヒーの方が好きそうな顔をしているから、コーヒーもお茶と同じ場所です」 「おい、コーヒー顔ってのは一体、」 「ヨハンくんはプロ・デュエリストなのに、学生寮暮しをしているのかい?」 「ホテルなんて性に合わないんです」 ヨハンはキッチンに立って、ステンレス製の銀色の鍋でそらまめのスープを温め、切り分けた黒パンにチーズとソーセージを合わせて出した。 「食わねーの? 毒なんか入ってねぇって、ほら〜」 渋い顔をして腕組みをしていると、ヨハンは三沢の前に置かれたスープ皿を取って勢い良く掻き込み、「な?」と言って、相変わらず人懐っこい笑顔を見せた。そんな事を言われても残されたのは空のスープ皿だけだ。どうしようもない。 「わぁ、このスープ、とても美味しいよ! キミは味付けが上手いね。それに手際がいい。いつでもお婿さんに行けちゃうよ〜」 「ありがとう。料理って程のものでもないけど。自炊は慣れているんです。キッズ・スクールの頃から身の回りのことは一人でやっていましたから」 「でも男の料理って感じじゃないねぇ。なんて言うか……病人食?」 「……ああ、ずっと身体を弱らせた奴の面倒を見てたから、飯を作る時も、なんかそんな感じになっちゃって」 ヨハンと吹雪が和やかに話し込んでいる。奇妙な光景だった。多分十代辺りが見たら、『すげぇ珍しい組み合わせ』と変な顔をするのだろう。三沢はふと気になってヨハンに尋ねた。 「お前、ペットなんか飼ってたのか」 「ペットぉ?」 ヨハンはぽかんと口を開け、それから「ああ、違うんだ」と首を振った。 「ペットの話じゃない。飼ってはいたけど、……あれ飼ってたって言うのかなぁ。ともかくファラオは元気なもんさ。良く食って良く動く、寝る。健康そのものって感じだ。そうじゃない、家族の話さ。俺の妻。嫁さん」 ヨハンがあまりにも当たり前のような顔をして言うから、三沢はそれが聞き間違いか、もしくは三沢の知らない異国の、知らない言語なのかもしれないと思った。三沢にも知らないことはある。 しかししばらく考えてみたのだが、どうも『そういった』用途以外に使われる単語ではないような気がしてきた。そうだとすればとてもシンプルで分かりやすいことだ。ヨハンの妻。嫁さん。 「……よ、嫁さん〜〜!? 結婚していたのか!?」 「ああ、悪いな、ずっと知らせるタイミングを失っていて、……少し前に亡くした。秋の始め頃だったな。身体を壊してずっと寝たきりで、最期はなんていうか、すごく――静かなもんだったよ。あいつがいなくなって、今更俺まで病人食を食うこともないんだけど、つい作ってしまうんだ。なんていうか、もう癖でさ」 ヨハンが少し寂しげに笑った。殺人者で、学園を襲撃して幻魔を盗み出すような真似を仕出かす男にはあまり相応しくない笑い方だった。 そこに吹雪が身を乗り出して、明るい声で「う〜ん、キミもあなどれないねぇ」と言う。彼なりにヨハンを元気付けようとしての行動なのかもしれないが、ただおかしなスイッチが入りっぱなしになっているだけなのかもしれない。どちらなのかは分からない。 「お相手は全世界の女の子たちの憧れの的である『閃光の王子』が選んだ子だ。さぞかし美人だったんだろうね〜」 「王子て。……ええ、そりゃもう。世界で一番いい女で、世界で二番目に男前な奴でしたよ」 惚気られた。 「……何故二番目に男前なんだ?」 「そりゃ、一番男前なのは俺だからさ」 「……どこかで聞いた台詞だな」 三沢はアカデミアの入学試験でぼんやりと実技のテストを眺めていた時のことを思い出した。後から駆け込んできた落ち零れ受験生がそんなことを言っていたのだ。吹雪がぱっと閃いたような顔つきになり、「なるほどねぇ」と頷いた。 「さっきアナシス理事長に会ったよ。ところでキミの奥さんっていうのは、あの人の娘さんのことかい?」 「そうですけど、理事長に聞いたんですか?」 「同じことを言っていたんだよ。世界で一番男前で、世界で一番いい女だとね。キミの真摯な愛に包まれていたその人は幸せ者だ」 吹雪がにっこり微笑んだ。背中がむず痒くなってくるような表現だったが、いつものように吹雪に気にした様子はなかったし、ヨハンも当たり前のような顔をして「ええ」と頷いている。ブリザード・プリンスやら閃光の王子やらという気恥ずかしい二つ名を持っていると、凡人には分からないロマンティックな世界観で会話ができるのかもしれない。三沢はもちろん凡人なので良く分からない。すっと目を逸らして、空っぽの皿を見つめ続けることしかできない。 「ごちそうさま。さて、じゃあそろそろ話をしようか。いくつか聞きたいことがあるんだけど、答えてくれるかな」 「何でもどうぞ」 ヨハンがあっさりした仕草で頷いて、紅茶に角砂糖を入れた。 「ヨハン君は亡くなってしまったキミの奥さん、理事長先生の娘さんだね。彼女を生き返らせるために、何かの必要に迫られて十代君を殺した。愛する人を取り戻す為に幻魔のカードを奪い、この街の研究機関を掌握した。学生達はキミのいいなりだ」 そこで吹雪は一区切りを付け、銀のスプーンでカップを掻き混ぜて、おかしなことだと言いたげに首を傾げた。 「……と考えると、何だかすごい違和感があるんだ。僕はね、ヨハン君がもしも可愛い女の子と甘い恋に落ち、結婚して、しかし悲劇が起こって彼女を失ってしまったとする。でもキミがその時かけがえのない親友の十代君を犠牲にすることはありえないと思うんだ。僕が思うに、アカデミアへやってきた時点でキミはもう『見付けてしまった人間』の顔をしていたんだね。キミが人生を生きるうちにそれを切り捨てる為には、キミ自身を止めてしまうより他ない。僕には精霊が見える人間というのは、皆どこかが似通っているふうに見えるよ。君達は純粋で、恐ろしい程に一途だ」 ヨハンは熱い紅茶を吹いて冷ましながら、恐る恐る唇を付けた。猫舌らしい。「そうですね」と彼は言った。 「その通りだと思います」 「うん、だから僕はこう思ったんだ。つまりキミが大切に想い、何を犠牲にしてでも助けたいと願うのは、最初からたった一人で――」 |