気がついたらあのユウキとかいうヨハンにそっくりな少年の姿が消えていた。彼は極度の方向音痴だという。こんなところまでヨハンに似ている。やっぱり本人じゃないのかなと翔は考えた。不自然にも程がある。たまに本物の人間なのかと疑いたくなる時があるヨハンのことだから、二つに分裂でもしたのかもしれない。良いヨハンと悪いヨハンに分かたれてしまったのだ。
 翔は泉の女神が現れて、水中に落っこちてきた二人のヨハンを両手ににっこりと微笑んでいる光景を想像した。女神はこう言うのだ、貴方が落としたのは左の死んだ魚のような灰色の目をした良いヨハンですか? それとも右の必要以上にきらめいた緑の目の悪いヨハンですか?
 そんなものどちらも泉の中にもう一度叩き込んでやるに決まっている。
 保護者の大徳寺はユウキを探しに行くでもなく、どこかに電話を掛けている。彼はこの街の出身だそうだから、知り合いが多くいるのだろう。その中には迷子探しのプロもいるのかもしれない。試しに翔は自前の携帯電話を開いてみた。液晶パネルには『圏外』と表示されていた。
――はい、はい。あの子は君も知っての通りの方向音痴ですからにゃあ。そうですか、それなら安心ですにゃ。見つかったら……わかりましたにゃ。あとはよろしくお願いします。君こそ迷子にならないよう、気を付けて下さいにゃあ」
 話がついたようで、大徳寺はほっとした顔で通信を切った。
「……怪しい〜」
「な、なにがですにゃ?」
 翔に湿気た目付きを向けられて、大徳寺がびくついて後ずさる。こういう大仰な怖がり方を何年も前に見たことがある。そっくりそのまま見たことがある。
「ねぇ、大徳寺先生ってこの街の出身なんだってね? フリル似のガキ……えーとなんて名前だっけ、そう、ユウキくんに聞いたよ。だったらこの街にも知り合いが沢山いるよね。もちろん、有名人のヨハンのことも知ってるよね」
「そ、そりゃー、ヨハンくんの名前はここなら誰だって知っていますにゃ。このデュエル・カレッジ出身のプロですから、知らない人はモグリですにゃ〜……」
 大徳寺は蛙の舌に巻き込まれた哀れな蝿のように、街中に無数にある白い柱にどんと背中をついて、ぶるぶると頭を振っている。退路はない。逃げられない。翔は人差し指をくるくると回しながら続けた。
「大徳寺先生は病院の先生でもあったんだよね? アニキを看ていたって聞いたよ。ならアニキの死亡届を書いたのも先生なのかな? あの死因が自殺っていうよくわかんない書類だよ。アニキが自殺なんかするはずないってボクは良く知ってるよ。……なんで自殺なんだろう? ヨハンがアニキを殺したって、ユウキくん言ってたよね。それにこないだボクらが見たヨハンのトび具合も半端無かった。人一人くらい殺してるテンションだったよね。先生はなんであんな良くわかんない診断を下したのかなぁ。ヨハンを庇ってるの? そう言えばあの日、幻魔のカードがヨハンに奪われた夜も、森で騒ぎを起こしてカードから僕らを引き離したのって大徳寺先生だったよね。もしかして先生もヨハンとグルなんじゃないの?」
「あの、いや、それは」
「それに、ねぇ先生、ボクにはね、先生がどうしても『あの』大徳寺先生の親戚や兄弟なんかには見えないんだ。一年一緒にいれば分かるよ。ボク元々はレッド生なんだもん。アニキと隼人くんもきっと間違えないと思うよ。先生は、ボクらが良く知ってる大徳寺先生だ。死んだはずだけど、そんなのはどうでもいいよ。答えてよ。ボクらとアニキ、それとヨハン、どっちが大事なの? 教え子よりもあんなフリルがいいの、ねぇ?」
「ご、ごめんなさいですにゃあ〜! 許して欲しいのにゃ、ただ先生は、可愛い教え子の為を思ってですにゃ……なんで十代くんの傍にいるといつのまにか皆ひどいサディストになっちゃうのにゃあ?」
「ああ? 教え子ってボクらのことだろ。泣けばお咎めなしだとでも思ってるの? キャラ作ってれば許されると思うなよ。本性は悪事の限りを尽くした変態仮面のくせに、知ってんだよ」
「……その辺にしておけ、翔。恩師を泣かせるな」
 どこかで聞いたことがある声に制止されたのだが、振り返ると誰もいない。翔は不思議そうに、調停は諦めたという顔の剣山を見上げた。
「……今の剣山くん?」
「いや、違うザウルス」
「おい! お、俺だ! こっちを見ろ!」
 声のする方をじっと見つめていると、柱と柱の間の空間に、ぼんやりとした影のようなものが見えたような気がした。幽霊だろうか? 十代の幽霊なら大歓迎だが、その他はあまり嬉しくない。
 空気みたいなそいつが言った。
「まったく、お前は相変わらず十代のことになるとブレーキが効かなくなるな」
「アニキだってブレーキの付いてない原チャリみたいな男だったじゃないか。ボクはそんなアニキにたまらなく憧れていたんだ」
「だからってお前まで実践するな。ああいうのはあいつだけで充分だ。それにお前のはなんというか、悪意に満ちている。先生、お久し振りです。大丈夫ですか?」
「このくらいは平気にゃ。覇王の脅威に比べればなんてことはないにゃ。先生も最近大分精神面が打たれ強くなりました」
 大徳寺がほっとしたように胸を撫で下ろしている。
 翔は首を傾げて、あまりにも存在感の薄いその男を指差した。いつから一緒だったろう?
「三沢くん。きみもボクらと一緒に船に乗ってたんだっけ? 今初めてきみがそこにいたことに気付いたんだけど」
「俺はお前らよりもずっと前にここへ来ていたんだ」
 三沢がむっとした顔で言う。彼はもうこの手の話題では翔の言うことにいちいち突っ込まないことにしたらしい。からかわれていると思っているのかもしれない。
 しかし翔にはからかっているつもりなんかない。
「ごめんよ、ボクお兄さんとアニキ以外は認識できたりできなかったり、できたとしてもボクの視界内ではとりあえず人間のかたちをしていないんだ」
「じゃあオレは? オレは丸藤先輩から見たら、もしかして恐竜さんとかに見えてるドン?」
「そうだね、変温動物」
「……それはそれでちょっと嬉しいドン?」
「嬉しいのか? 嬉しくないだろう、普通。……まあいい、お前達のことだから、あいつに会いにきたんだろう」
「あいつって?」
 翔が訊き返すと、三沢は何とも言えないような顔で答えた。
「決まっているじゃないか。十代だよ」


 街の北部には、デュエル・カレッジ付属の研究施設が、無機質な白い無数の壁を晒して建ち並んでいた。洗い晒された骨のような建物群は、まるで名もない死者達を分け隔てなく飲み込んだ共同墓地のようにも見えた。
 その中の一郭に、『彼』はいた。
 かつて誰よりも賑やかで太陽のようだった少年は、今や同年代の少年だった者たちの誰よりも静かに口を噤み、黙していた。死人に喋る口はないのだ。


 翔はまずそれが何かの悪ふざけに違いないと考えていた。まるで悪趣味な冗談だ。あの世界を何度も救ったヒーローである彼が、尊敬する兄貴分の十代が、奇形の水族館のような区画におかしな形の巨大な腕や目玉なんかと一緒に並べられている。どうしても納得ができない。
 しかし十代自身の身体も、数々の奇妙なパーツと同じように、今やどこからどう見てもまともな人間には見えなくなっていた。いつか異世界で見た醜い竜のように変貌してしまっていたのだ。
「これは……」
 翔は自分の両手がいつのまにか小刻みに震えていることを自覚していた。黄色い液体で満たされた円柱形の水槽に勢い良く手をつき、
「アニキ!」
 いつものようにそう呼んでも何の返事もない。十代は瞼を硬く閉ざしたまま、ゆらゆらと白い泡粒が立ち昇る水槽の中で眠りについている。
 永遠の眠りだ。彼の左胸には皮膚が鋭く切り裂かれた痕跡が残っていた。致命傷になったろうその傷は、既に白っぽく変色していて、もう血も零れていなかった。
 翔は水中花のような十代から逃げるように、ふらふらと後退りした。頭の中まで街と同じ白一色に塗り潰されてしまったような気がした。
 十代の死を知識として理解してはいたが、実際に目の前に現実としてそれを突き付けられると、予想以上に堪えた。涙が溢れてくるだけでは済まない。膝ががくがくして立っていられない。
 多分翔は心のどこかで信じてはいなかったのだ。あの十代が死ぬはずがない。
 だが――
「そんな……こんなのってないよ。こんな、理科室のホルマリン漬けの蛙の標本みたいなのが、あのアニキだっていうの? ボクはいやだよ。たとえアニキがちょっと見ない間に更に美人に成長していたって、夢にまで見たふたなりっ娘になっていたって、胸がちょうどボク好みの適度なサイズになっていたって、いやだよ、萌えるけど。ねぇアニキ、起きてよ。目を覚まして、こんな小さな水槽の中なんかに収まりきる人じゃないんだから、早く出て来ていつもみたいにボクのことを抱き締めてよ。今のボクの背丈だと、ちょうどほっぺたの辺りにアニキのおっぱいが当たってすごくいい感じだと思うんだ」
「お前可愛い顔して最低だぞ翔……」
「丸藤先輩、アニキへの下心がはみだしてるザウルス……。ううう、アニキ……こんな、こんなの、なんて無惨な姿だドン……!」
「あっ、ゴルァア! 何見てんだよお前ら! いかがわしい目でボクのアニキの裸体を見るな! とりあえず号泣するならするで、鼻血をしまえ、そこの冷血動物ッ!!」
「だ、だってこれはしょうがないザウルス! いきなり裸とか、いきなり半分が女の子とか、何の心の準備もしてなかったドン! それに一番いかがわしい目でアニキをガン見してるのは、誰がどう見ても丸藤先輩に違いないザウルス!」
 翔は室内にいるのが自分ひとりきりではなく、美しい十代の裸身がケダモノ共の目の前に晒されているのだということにはっと気付いた。両腕を広げて水槽の前に背伸びをして立ち塞がり、なんとか十代の遺体を野獣達の視線から覆い隠そうとするのだが、残念なことに身長が足りない。今ほど自分の身長を憎らしく思ったことはなかった。
 翔はちらっと振り返り、十代を見上げた。水槽の中の十代は、翔をじっと見つめて悪戯っぽくにっこり笑ってくれる――というようなことはなく、相変わらず深く冷たい眠りの中にいる。
「アニキのこの素敵……じゃなくて、ひどい身体は一体どうしたの?」
 翔は自分達をこの施設へ連れてきた三沢に尋ねた。彼の方がいくらか混乱している翔よりもものを知っているに違いないのだ。
「本物には間違いなさそうだけど、この骨でできた翼も鱗も不思議な身体もわからないことだらけだ。ねえ、詳しく調べる為に、是非アニキのボディ・チェックをさせて欲しいんだけど。具体的には、おっぱいが柔らかいのかということと、下半身もちゃんと半分女の子なのかということについて」
「その発想はエロ親父だぞ翔。俺も気にならないではないが、いや、その、知的好奇心からという意味でだな。……じゅ、十代が聞いてたら殴られるぞ、きっと」
「三沢くんと一緒にしないでよ。アニキはボクを信頼してくれてる。何しても怒らないよ」
「その信頼関係は基本的なところから間違っている。お前、外見はいつまでも小学生なのに、中身は……余計性質が悪いな……」
――それにしてもアニキ、胸にこんなに深い傷を付けられて、ひどい殺され方をしたっていうのに、さぁ」
 口の中でぶつぶつと文句を零している三沢を無視して、翔は溜息を吐いた。
「笑ってる。なんて幸せそうな顔してるんだろ」



<< >>