人間が精霊へと変化するにあたって、まず大事に抱えている思い出の殻をひとつずつ剥がしていかなければならない。カードの精霊には強過ぎる自我は必要ない。何故なら彼らはまず主人に忠実であるべきだからだ。 しかしそこに、大体の場合は記憶と絆を手放すまいとする人間の本能が抗う。そして大抵の場合は、意識が純化するごとに本能は削り取られ、薄っぺらくなって、やがて消滅してしまう。記憶に縛られていた人間は、主人への忠誠に縛られる精霊へと変化する。立派な一枚のモンスター・カードの出来上がりだ。 たまには例外もある。意識の純化と肉体に宿る本能が真正面からぶつかりあって、だがいつまで経っても決着がつかない。やがて人間でもあり精霊でもある、奇妙な生き物が現れる。 矛盾は日に日に肉体を蝕んでいく。蝕まれた肉体は、心を蝕んでいく。毎日身体の中で戦争が起こっているようなものだ。人間にも精霊にもなれなかった進化の過程の失敗作は、やがてふたつの意味がせめぎあったまま壊れ、崩れ、ひとりきりでからからに干乾びて消えていくしかない。 ――それなら壊れた肉体から飛び去った魂を再び呼び戻して、世界の法則から外れた器に入れてしまおう。 上のものは下へ、下のものは上へ、世界のルールからはみ出した不自然なものは、同じように不自然なものの中へ。異形は異形へ。 前例はすごく身近なところにいたし、材料も上手く揃えることができた。底のない資金もあった。だから途中までは問題もなく上手くいった。 そのまま首尾良く行けば、特別なホムンクルスが一体、できあがるはずだった。 しかしいざ実際に手順を踏んで作業を進めていくと、その計画はじつに巨大怪獣を作るのとそう変わりがないことだった。 遊城十代という一匹の異形は、やたらに面倒な性質をしていたのだった。彼はまるで存在自体が一枚のカードのようなものだったのだ。荒ぶる魂をいくつも体内に閉じ込め、共生することができた。巨大な器だ。器を器の中に閉じ込めるなんておかしな思い付きは、手品や魔法でもなければ実現できそうにない。 ヨハンが避難勧告を聞いて研究所へ駆け付けると、銀色の計器は聞き分けのないメトロノームのように左右に揺れ、コントロール・パネルからは白い火花が飛んでいた。薄い鉄板を渡しただけの廊下は、建物そのものが脈動するように揺れる度に、危なっかしく上下にたわんでいた。 とにかく狼狽しきって今にも逃げ出そうとしている大徳寺を見付けて捕まえ、「どうしたんだ」と尋ねると、「覇王様がお怒りになったに違いないのにゃあ!」と良く分からない返事が返ってきた。 覇王? 「なんだそれ。そんなことはどうだっていいんだ。俺はどうしたんだって聞いてるんだよ」 「うう、胸倉を掴んで睨まないで欲しいですにゃ……。結果の予測を見誤ってこの通りですにゃ。最高レベルのモンスターが三体も揃えば、いくら十代くんとはいえ、おとなしく言う事を聞いてくれると考えていましたが」 「が?」 「見ての通り魂を縛り付けられたせいで苦しんで、中で大暴れですにゃ」 「……苦しいのか?」 「苦痛を伴うのは初めのうちだけですにゃ。器の中へ押し込んでしまえば、肉体という制限装置に徐々に馴染んで、きちんとした理性が戻ってきますのにゃ」 「それは……」 ――ヨハンは十代に会いたかった。 彼に微笑み掛けて、微笑み返して欲しかった。身体に触り、抱き締めてぬくもりを感じ、日が暮れるまでデュエルをやって、眠る前には額にキスをして、「おやすみ、また明日も沢山楽しいことをやろう」と言いたかった。 死んで欲しくなんて無かった。彼がまた生命力に満ち溢れたしなやかな肉体を取り戻し、足で土を踏み締めて世界中を風のように駆け回る為なら、何だってできる。 当たり前だ。家族なのだ。 だがヨハンは、赤く点滅するアラームと徐々に激しくなってくる揺れの中で、何かがずれてるんじゃないかと感じていた。 十代が昔のままの姿で帰ってさえ来れば、すべてが元通りになると思った。しみったれた海の底から這い出して、青空と太陽と沢山の花が見える丘にでも家を買うのも悪くない。家はそう大きなものである必要はない。 放浪癖のある十代はふらっとどこかに出掛けていくこともあるだろう。彼は回遊魚のようなもので、一所に留まると息を詰まらせて死んでしまう。ヨハンはプロ・リーグへ首へ縄を掛けられて引っ張られていくかもしれない。子供はデュエル・アカデミアへ進学し、あのおんぼろ寮で暮らすだろう。 ただ、家だ。家が欲しかった。 それは子供の頃からのヨハンの憧れだった。幸せな家族には『家』があるべきものなのだ。『行く』ではなくて『帰る』という言葉を、いつか使ってみたかった。夢だった。 足掻けば元通りが帰ってくると信じた。夢が実現すると信じた。必死で手を伸ばした。 そして死んだ十代の足を楔で地面に繋ぎ止めるような真似をしている。 彼は苦しんでいる。永遠の安らぎも、静かな眠りも、どこかへ行ってしまった。十代はヨハンを恨んでいるかもしれない。 これは正しいことだったのか? 確かに、無理矢理ふんじばってやろうっていうのが、まず間違いだったのかもしれない。あの自由を愛する十代にそんなものが通用するはずがない。 あるいはもしも全てが上手くいって、理想の家を手に入れたとする。家族が三人揃って静かな一時を過ごす幸せな家だ。その時にはヨハンは十代の胸に顔を埋め、やっぱり俺は正しかったんだと考えるかもしれない。どちらでも構わない。 結局は、ヨハン自身の問題なのだった。善も悪もない。正しいも間違いも、いいも悪いもない。誰に何と言われたって構わない。 十代に憎まれようが、『ジュニア』に憎まれようが、 「――でも俺は、」 ただ、ヨハンは、 「どうしても君を諦められない」 十代に会いたかった。 無数のコードが巻き付いた銀のドームを、茫洋とした目で見つめるヨハンの前に、すっと音もなく黒い影がよぎった。長身の男のものだ。 彼は泣いていた。滝のように両目から勢い良く涙を流し、狂ったように楽器を掻き鳴らしていた。 天上院吹雪だった。あまり似ていないが、明日香の兄だ。 彼が奏でる旋律はどことなくプロコフィエフの『ジュリエットの墓の前のロミオ』に似ているような気がしたが、展開はまるで異なっていたから、多分でたらめの即興曲なのだろう。 「――僕は感動したよ、ヨハン君。君の最愛の人への深い愛情に……! 胸キュンポイントを四百八十万ポイント進呈しよう! いまだかつてここまでの高得点を叩き出した人間を、僕は知らない」 「はあ……」 ヨハンは困惑しながら頷いた。そうですか。 吹雪はヨハンの右手を取って、力強く頷いてみせた。「大丈夫さ」と彼は言った。 「僕に任せておいで。荒ぶる君の女神を僕の愛の調べで鎮めてみせようじゃないか。さあ君も一緒に唄おう、十代君への愛の歌を! 君はさながらこの現代に蘇ったオルフェウスだ。君は誓ったはずだよ、過ちを二度と繰り返さないと。君はあの頃のように、約束を忘れて後ろを振り向くことは二度とない。そうだろう?」 「いや、あの頃っていつの話?」 「君の透き通った美しい声が奏でる音楽に、きっと十代くんも聞き惚れて、彼なりの愛の歌を返してくれるに違いないよ。さあ!」 吹雪が涙を振り払い、輝く笑顔を見せ、そしてウクレレの弦を更に激しく指先で弾いた。ヨハンは盛り上がっている彼の後ろで、どうしたもんかなと頭を掻いて立ち尽くしていた。 吹雪のことはいつか十代に聞いたことがあったと思う。アカデミア時代のことだ。 『明日香の兄さんだぜ。うーん、なんか、『こい』? の人』 『こい? ……ちょっと念の為に確認するけど、お前が『こい』をしてたり、お前に『こい』をしてたりするわけじゃないんだよな?』 『どうやって『こい』を『する』んだ? なんか、えーと、池とかにいて、餌をやると寄ってくるやつで、』 『それって、鯉? でっかくてカラフルな魚のこと?』 『そうそれ。そんで、『むねきゅん』をするんだ。ポイントもつくらしいぜ』 『……胸キュンするほど鯉が好きな人ぉ? なんだそりゃ』 『あと歌も好きらしいぜ。変な人だけど面白いんだぜー、あははは〜』 ――よく分からない。大体において、十代ほど説明の下手な人間はいないのだ。 吹雪が良く通る美しい歌声で愛を語り始めた――ところで、彼の真上に白い稲光が落ちた。一瞬のことだった。 「年長さあああああああん!!」 三沢が血相を変えて焦げた吹雪に駆け寄って行く。命に別状はないようだが、彼はもうとても静かになっていた。今の雷を落としたのは、幻魔なのか十代なのか、どっちだ? 「とりあえず退避しよう。ここにいちゃ吹雪先輩のように巻き込まれかねない」 ヨハンは冷静に言った。 機材の制御を失ったまま研究所が吹き飛べば、ドームに穴が開いて、街が水没してしまう。この実験エリア一帯を他の区画から切り離さなければならない。ばちばちと帯電しているコントロール・パネル上にある薄いプラスチック・カバーを叩き割って、保護されていたレバーを引いた。区画の切り離しが済んだそばから、吹き抜けの施設内部に、破損した壁の一部をくぐり抜け、海水がひたひたと忍び込んできている。 区画の封鎖は済んだから、街そのものに影響はないはずだ。しかしさっさと非常口に辿り付かなければ、切り離された部分ごと水没に巻き込まれてしまう。 「……いってえ!」 すでに膝の辺りまで水に浸かりながら、非常口を目指して急いでいるところに、ヨハンの足首に噛みつく者がいる。相手は鮫だか蟹だかだと見当をつけていたら、意外なことに、良く見るとぐしょ濡れの翔だ。どこかから流されて来たらしい。 「翔!? このやろー、なにすんだ〜!」 「見付けたぞフリル! アニキの仇だ! お前を殺して僕も死ぬぅ〜!」 「お前の俺への心中したいほど狂おしい愛情は分かったから! でも俺にはもう最愛の妻と息子がいるんだ! 悪いけど!」 「はあ!? キモいこと言うな、って……妻と息子ぉお!?」 「あれ、まだ大徳寺先生に話を聞いてなかったのか? 俺は――」 ヨハンはそこではっとして言葉を切った。 モニター室の前を通り掛かった時のことだ。室内には無数の液晶パネルが並んでおり、施設のあちこちに設置されている監視カメラの映像が投影されている。 その中のひとつに、ヨハンはすごく見覚えのある姿を見付けた。映像には癖毛の青緑色の頭と、水浸しの白い階段が映っていた。 ヨハンは反射的に翔を引き剥がし、既に水没しかかっている階段室へ向けて駆け出していた。 「ヨハンくん、君は方向音痴ですにゃ!? ここではぐれたら間違いなく死あるのみですにゃあ!」 大徳寺の制止も、ほとんど耳に入っては来なかった。 ◆◇◆ 僕は必死で階段を駆け上がっていた。下方からどんどんせり上がってくる黒い水面が恐ろしかった。大体僕は纏まった量の水というものが大嫌いなのだ。 「十代、十代……!」 ヨハンを追い掛けてきたのはいいが、肝心のヨハンはどこにもいない。気が付いたら施設中が水浸しだ。何故こんなことになっているんだろう? 僕が何か気に食わないことをやったせいで、天国の十代が怒っているのだろうか? そうでないことを祈る。 階段室を一番上まで上りきり、鉄製の白いドアを開けると、ドアの向こうにもまるで黒いプールのような景色が広がっていた。足場は遠く、まごまごしているうちに、後ろの階段室から大きな黒い波が吹き上がり、僕はどうすることもできず、水中に叩き込まれる羽目になった。 「たっ、助けて、十代ー!!」 一度顔を出した。でも二度目はない。水面は激しくうねっていて、僕は洗濯機の中でもみくちゃに洗われる洗濯物みたいに、ぐちゃぐちゃの格好で深い水の底へと沈んでいった。 目を閉じたまま(僕は水中で目を開けていられないのだ)もがいていると、僕の身体を掴む腕がある。僕は一瞬だけ、呼び声を聞いて十代が来てくれたのかと思った。 でもそうじゃない。 「――大丈夫か、ジュニア!」 再び空気の中へ顔を出すと、耳のすぐそばでヨハンの声がした。 彼は僕を抱き、ぴたぴたと頬を叩いていた。溺れていた僕を救う為に飛び込んできたらしい。ヨハンの顔は強張っていた。まるで僕に何かあったらどうしようと本気で途方に暮れているみたいだった。 僕にはそれが分からない。理解出来ない。 「……なんで心配なんかするんだよ、十代を殺したくせに!」 僕は呼吸を整えながら、ありったけの憎悪を掻き集めて叫んだ。そうでなければ、僕は何の為に彼をずっと追い掛けてきたのだ? 「全部嘘だっ! お前のこと父さんだなんて思えないよ!!」 ヨハンがぎゅっと僕を抱き締めた。強く、とても強い力で抱かれた。僕が暴れようとしても、全然問題にならないくらいに強い力だ。 当たり前だけど、僕はこんな抱き締められ方をしたことがない。僕の傍にいて僕のことを抱き締めてくれるのは、僕を誰より愛してくれるのは、いつもかよわい十代だけだったのだ。ヨハンが僕の頭を、髪を掻き混ぜるようにして撫でた。 「構ってやれなくてごめんな。まだお前、一歳にもならない赤ん坊なのにさ。あいつもきっと俺のこと怒ってるに違いないと思うよ」 「ええええええええええええええ!? 親子ッ!?」 「赤ちゃん!? あんな活発に動き回ってるでっかい赤ちゃんは見たことないザウルス!!」 鉄板でできた通路の上で、翔と剣山が抱き合って大声を上げている。余程驚いたらしい。ヨハンと僕の血縁関係の有無は置いておくとして、外見や年齢に関しては、僕には色々と事情があるのだ。 ともかく力の強い剣山が、ヨハンと僕を通路まで引っ張り上げてくれた。いくらか海水を飲んだせいで、胃のあたりがひどく重かった。 ヨハンは少し考え込むように間を置いた後で、どこかすがすがしくすらある顔で、僕に言った。 「無理もないよな。お前が憎みたければ、好きなだけ俺のことを憎むといい。でもさ、ジュニア。悪い、たとえ嘘吐きだって呼ばれても、俺はお前と十代を世界で一番愛してる」 そう言いながらヨハンは僕を、翔と剣山が前を行く、まだ浸水が浅い通路へ突き飛ばした。言葉と行動が、まるで十代の瞳みたいにちぐはぐだ。僕は硬い床に頭から突っ込んで、すぐに勢い良く起き上がった。そして、ヨハンを睨み付けて文句を言ってやろうとしたのだ。 だが気が付けば区画分割用の透明なガラス障壁が降り、僕らとヨハンをくっきりと隔てている。僕は、障壁を両手で殴り付けて怒鳴った。 「――なんで! お前、そんなところにいたら、溺れて死んじゃうじゃないか!」 「十代がまだ奥にいるんだ」 「十代は死んだんだ! お前が殺したんだ、嫌になるくらい知ってるだろう!? もうどこにもいないんだよ!」 「わかってくれよ。なんであれ、かけがえのない人をほっとくわけにはいかないんだ」 ヨハンはにっこり笑って、 「お前達、あとは頼んだぜ。じゃあまた。元気でやれよな、ジュニア」 右手の指先を二本揃えて僕らに向けた。僕は驚いてヨハンを見つめた。 それは、 『ガッチャ! ああ、ちがうんだな。指は二本。ちゃんと閉じて、心持ち下向きな』 十代の得意な、『ありがとう、楽しかった!』の仕草だった。 ヨハンが僕らに背中を向けて駆け出した。僕がこの数ヶ月、十代と過ごした時間よりもずっと長くの間、憎んで追い掛けてきた彼の姿が、段々遠ざかっていく。 僕はそこで、一体何を言えば良かったんだろう。 『行かないで』? まさか、どうして? 『死んじゃだめだ』? そうじゃないだろう? 何を言うべきだったんだ? ◆◇◆ 来た路が崩壊しても、ヨハンはそう大して気にも留めなかった。構わず細長い通路を走り抜け、実験区画へ辿り付くと、先ほどまで目の前にあった銀色のドームは、既に頭の上まで水没していた。 「十代……!」 絡まり合ったコードを伝って、既に水中に没した鈍色の鉄板まで辿り付き、天辺にくっついたハッチを開けた。 そこで、部屋の崩落が始まった。天井が崩れ、折れた柱が降り注いでくる。急いで腕をハッチの中へ突っ込んで、中身を引っ張り出してやろうとしたのだが、激しい水流に押し流され、気がついたらどちらが上で下で、どちらが右で左で、そして自分がどこにいるのかということが、全く分からなくなっていた。分かるのは、ただ息ができないことと、目にも鼻にも耳にも容赦なく海水が入り込んでくるということだ。 ヨハンは暗い海中に放り出され、なにも見えなくなった。 目の前は真っ暗だ。まるであの黒い部屋にいるみたいだ。闇に馴染まないまま足を踏み入れると本当に何も見えない、黒一色の部屋の中へ飛び込んでいくのだ。 だがヨハンは闇を恐れたことはなかった。とても温かい、馴染んだ気配がする。 十代の匂いがする。 何も見えなくても闇の中から伸びてきた彼の腕に触れられると、『見えない』、そんなことはどうでも良くなった。 遊城十代。俺のいとしい人。 目を開いているのか、閉じているのかも分からない。そんな闇の中で、ヨハンはあの懐かしい不思議な色の瞳を見たような気がした。互い違いの色味をした奇妙な眼だ。 幻覚だろうか? 気が付くと、十代が目の前にいる。じっとヨハンを見つめていた。 彼の唇がかすかに動いた。 『悪い癖だ』 ――なんで怒ってんだ? 『お前はすっげー格好付けて、そんでいつも最初に犠牲になる。置いてかれた奴の気持ちってもんが全然分かっちゃいない』 ――なんだよ十代、泣いてんのか。……また目が痛いのか? 『怒ってんだよ。そんで、心配してるんだ。もう二度と『後は頼んだ』なんて言うな』 ――泣くなよ、十代。なあ、俺はお前が泣くなんて考えたら、すごく苦しくなるんだって。 『うるせー、馬鹿ヨハン』 ――馬鹿十代。……なぁ、ずっと、ずっと、ずーっとさぁ、 『ん』 ――あいしてる。 『オレも。だから、』 ――十代? 『まだこっち来んなよな』 か細い腕に背中を抱き締められたような気がした。唇に柔らかい感触が触れたような気がした。鼻先で柔らかくふわっと微笑む、最愛のひとを見た。 それは幻覚だったかもしれない。 ただ確かにヨハンは、温かくて肌に馴染んだ体温を感じたのだ。それは本当のことだ。 幻が消えると、恐ろしい程に巨大な黒い魚が現れ、まるで奈落の底へ続くような大きく深い口を開けて、ヨハンを呑み込んだ。 ◆◇◆ はたして、遊城十代は戻っては来なかった。朽ちることのない彼の肉体は水葬にされた。これからは永遠に海底の深い闇の中を漂うのかもしれない。 封鎖壁を一枚隔てた向こうは完全に水没していた。施設内へ戻ったヨハンもおそらく生きてはいないだろう。きっと彼は一足早く最愛の人間に再会できたのだ。少年にとっては、ひどく腹立たしいことに。 海の底の白い街は相変わらず骨でできた無数の墓標群のように沈黙を保っていた。 少年は、この数ヶ月の間ずっと感じ続けているもやもやした気持ちを何一つ晴らすことができないまま、 「……ヨハンの、馬鹿ぁ――――!!」 大声で、叫んだ。 ―『TURN03 虹の彼方へ』 END― →NEXT『TURN-END 花』 |