テーブルの下には相変わらず何を考えているのか分からない巨大なワニがいた。カレンという名前らしい。悪い奴では無さそうだが、あまりお近付きにはなれそうになかった。ワニは時折金色の円い目をぎょろぎょろさせて、来訪者の顔を退屈そうに見上げていた。
 「実に久し振りだ」とジムが言った。
 彼は相変わらずの化石マニアで、小屋の中には草食恐竜の頭骨や肋骨、肉食恐竜の牙なんかが大事そうに置かれていた。それぞれの骨に貼られたラベルには、発掘場所と恐竜の種別名と発掘者の名前が書かれていた。ジム・クロコダイル・クック。
 ヨハンはいつか果てしない未来に、それこそ一億年や二億年後に、得体の知れない格好をした未来人に墓から骨を掘り起こされ、頭蓋骨や骨盤に大事にラベルを貼られている光景を想像してみた。なんだか背筋が寒くなった。
 まあ趣味は人それぞれなのだ。ジムがフリルシャツを着ないようなものだ。色々思うところもあるが、ヨハンもロマンという奴自体は嫌いではないし、ジムという大事な友人のことも好きだった。嗜好はあまり問題にはならないのだ。
「もう身体はいいのかい? オブライエンに聞いたよ。しばらく寝たきりだったんだろう」
「ああ、やっと動き回れるようになったよ。目もようやく元に戻った。しばらく明るいところは苦手だったんだ。いやぁ、そんで鯨に食われちゃったのかと思ったらさ〜、中にオブライエンがいるわけ。あいつが助けてくれたんだ。潜水艦だよ。でっかい魚でも鯨でもなかったんだ」
 ヨハンは笑って、頭の後ろで腕を組んだ。
「ただ全身打撲で全治三ヶ月。生きてて良かったぜ〜。スポンサーに話を聞いたとかでエドが見舞いに来てくれたんだけど、あいつ何が気に食わないのか知らないけど、執拗にギプスを巻いてる俺の足を蹴って行ってさ。勘弁してくれって話だよ。まあ見舞いにくるくらいだから、あいつなりに心配してくれてたんだろうけど」
「バット、彼が何か言っていたんじゃないのか?」
「ああ。お前は僕らを振り回し過ぎる、だって」
 ジムは何がおかしいのかくっくっと笑っていたが、「ところで、ボーイ」と前置きをして、
――十代に会いに来たんだろう?」
 と言った。
 ヨハンはすぐに頷いた。
「少し前に見付けたんだ。裸で海岸に漂着していたもんだから、マーメイド・プリンセスかと思ったぜ。しばらく見ないうちにあいつは随分セクシーになったな」
「……人妻ですから!」
「オーケイ、オーケイ。そう噛みつくなよ。少し記憶が混乱しているが、元気なもんだ」
 ジムが両手をひらひら振った。猛獣でも宥めるような仕草だ。彼は人のあしらい方がとても上手い。ヨハンのことも森の獣か何かだと考えているのかもしれない。
「雨も上がったことだし、散歩でもしてくるといい。ここは良い所だ。きっとユーも気に入るはずだよ」


 森の中の道は、かろうじて道と呼べる程度のものだった。その先で十代は岩の上に腰掛けて鳥にパンくずをやっていた。小道はまだ雨の余韻に濡れていた。彼はヨハンの足音を聞き付けると、振り向きもせずに「何の用だ?」とそっけなく言った。他人を拒絶する冷たい壁のようなものを纏っていた。
「神様ってのはお前か?」
「多分人違いだ。オレは神様なんてもんじゃない」
 十代が初対面で気を許すのは大体が子供だけだ。デュエルをやる人間なら尚更警戒される。彼はまず相手が敵が味方かを判別するまで、鋭い棘だらけの見えない壁を張巡らす。そう簡単には相手を信用しない。身体に染み付いて取れない癖のようなものだ。ヨハンが知らない異世界での過酷な生活が、かつては疑うということを知らなかった純粋な少年を根底から変えてしまったのだ。
 ヨハンは気にせず、十代に話し掛けた。
「街で噂を聞いたよ。お前には不思議な力があるらしいな。傷を癒したり、病気を治したりさ」
 十代は鋭い目つきで値踏みするようにヨハンを見上げ、すぐに顔を背けた。
「まるで責めてるみたいな言い方だな。気に食わないならほっとけよ」
「ところがそうもいかない」
「何故?」
「俺はお前のことがすごく好きなんだ。だからさ。隣へ行ってもいいか?」
 ヨハンは返事も聞かず十代の傍へ行き、しゃがみこんだ。十代の足元には、乾いてしおれた花が頭を垂らしていた。
 十代の指が枯れた花をすうっと撫で、不思議な色の瞳を淡く輝かせると、花は再び起き上がり、鮮やかな青色の花を開いた。
 ヨハンは花の上に翳された十代の手を取って、胸元に引寄せた。
「こう思うんだ。怪我することなんか誰にでもあるんだ。人生に何度もある。俺もここしばらく病院のベッドの上から動けなかったよ。いくらお前が不思議な力を持っていようが、ひとりひとりの怪我を治して回ってちゃきりがない。ひとつひとつの花を蘇らせて回ってちゃきりがない。それに、もしかしたらお前はそうやって知らない内に、相手の可能性を潰しているのかもしれない。見ろよ――花が枯れて種ができるところだったんだ。こいつは使命を終えていたんだ。でもお前のおかげで、もう一度初めから仕切り直しだよ」
「枯れた花がもう一度咲いちゃいけないのか?」
 十代がすごく不思議そうにヨハンに尋ねた。ヨハンは十代の手の甲に唇を付け、ぎゅっと握り締めた。それは、本当はヨハンが最も十代に訊きたいことだった。
「花はもう一度枯れなきゃならない。安らかに眠りについて、でもまたもう一度死ぬ前の苦しみを繰り返さなきゃならない。お前ならどう思う? それでももう一度咲きたいか?」
「よく分かんねえけど、もう一回綺麗だって喜んでくれる人がいるなら咲きたいぜ。また枯れて、でもまた咲いて、何度も繰り返しても、」
 十代がふと笑った。いつのまにか彼を覆う透明な壁は消えていた。
「この花さ、生まれる前はオレの友達だったんだぜ。空も森も土も、しょっぱいけど海も、気持ちいい風も、猫も人も、全部、ぜんぶだ」
――お前は、それを?」
 ヨハンは、自分の声が少し震えていることを知りながら、十代に尋ねた。
 彼は微笑んだ。
「あいしてる」
 生きている人間の、美しい笑顔だった。そして当たり前のような顔をしてそう答えたのだ。
 ヨハンは腕を伸ばして、十代の頭を胸に抱き締め、そしてしみじみとした声で、心の底から、

「……ありがとう」

 と、言った。


 十代は少し迷う素振りを見せたあと、ヨハンの背中に腕を回してくれた。
「お前に抱き締められると、懐かしい感じがする」
「どんなふうに?」
 彼はすっと目を閉じ、ヨハンの胸に額を寄せて、ぼんやりした思い出を手繰り寄せているようだった。
「……深い海の底から見上げると、水の上の世界はまるで宝石みたいにきらきら輝いてた。オレが怪物になっても、がらくたになっても、お前は変わらずともだちでいてくれた。初めて会ったあの日からわかってた。オレとお前は良く似てるんだ。空に森に土に、海に風に、オレの傍で咲いた花に、いつか時が巡ってお前がたとえどんな姿になろうと、オレも変わらず――ああ、そうだったよな、」
 そこで十代は勢い良くヨハンに抱き付いてきた。
 雨上がりのぬかるんだ土と草の上にヨハンを押し倒して、面白い悪戯を思いついた子供のように瞳を輝かせた。すごく久し振りに見る、生命に満ち溢れた十代の顔だった。彼は言った。
「変わらずヨハンをあいしてる」
 湿った夏の匂いが濃くなった。背中が泥だらけだ。尻も冷たい。きっと下着まで泥水が染み込んでいるに違いない。それすらおかしかった。

「ただいま」

 十代が笑っている。ヨハンも、笑った。


――おかえり、十代」



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