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 空から、踊るように、光の粒が落ちてくると錯覚する。音はない。黒々とした幹の上の満開の花々は、まるで夜中降り続けた雪のような格好だと思った。
 視界一杯の白はどこか懐かしい故郷の風景に似ている。だがあの冷ややかな印象はどこにも見えない。途切れなく落ちる花びらの隙間から、国元で見たよりも濃い色をした青空がかすかに透けていた。
 ぽっかりと口を開けていたせいだ。口の中に花びらが舞い込んできた。慌てて口を噤んだヨハンの隣で親友が笑った。
「食えるぜ、それ」
 ―― 親友、十代はこんなところだけは昔と変わらない。腕白少年そのままの無頓着さで、頭の後ろで腕を組む。そんな仕草がヨハンは好きだ。流れ行く川の水面に映り込んだ空を見るようだった。何もかもが流れても、空はどこまでも空だ。
「花を食っちゃうのか? 想像できない」
「塩漬けにするんだ。湯で溶いたり、あとはあんぱんの上に乗ってるのもオレは好きだな。ヨハンの国にはこういうのはないのか」
「俺の国にも桜は生えてるよ。日本との友好の証だってんで、昔偉い人が送ってくれたのが<家>の庭に生えていたんだ。毎年春が来ると咲いて、一本の木が丸ごと花みたいになっちゃうのに子供心に感動した覚えがある。小さい頃から憧れてた通りだぜ。この国は綺麗なものばかりだ」
 陽射しが午後の温かなぬくもりでもって、十代の痩せた身体の輪郭をぼんやりと浮き出させていた。白い光の粒の嵐の中で、その人は確かに気高く美しくて、その幼い無邪気さと老成した落ち付きをちぐはぐに宿したブラウンの瞳を見つめていると、ヨハンはありし日の、まだキッズ・スクール生の頃の、教会で無垢の木のベンチに座りチャーチオルガンの演奏を聞いていた時の事を思い出す。古ぼけた聖書と、安っぽい十字架と、音楽に聴き入っている小さな精霊たちとの静かな祈りの時間だった。
 無垢ではなくなった今も、彼は天使みたいに綺麗だった。
 胸の前で手のひらをかざし、風にあおられて浮かんだ花弁を掬う。はかなく柔らかな白い花だ。
 十代へ指を伸ばして、耳の上のチョコレート色の髪に飾ってやった。
「思ったとおり。良く似合うよ」
 そう言って微笑んでみせると、十代は唇の両端を下に曲げる。気に入らなかったらしい。乱雑に頭を振って飾られた花を散らし、恨めしい目でヨハンを睨んでいる。
「男が頭に花を差して歩けるかよ。とんだ罰ゲームだ」
 そしてヨハンに預けていた荷物を引ったくるようにして、早足で歩き出す。
「持つぜ、十代」
「……いい」
「何を言ってるんだ、そんなに細い腕で」
「少なくともヨハンよりも腕力に自信がある」
 つん、と顔を逸らされた。確かに真実ではあった。
 華奢な腕に薄茶色の紙袋を抱いている。中には指の先から肘くらいまでの高さの瓶が四つ入っていた。<薩摩本格焼酎>、瓶のラベルにはそう記されている。
「隼人の……オレがアカデミア一年の頃同室だった友達の親父さんが酒職人で、毎年社員寮に実家で作った焼酎送って来るんだって。でもあいつ酒屋の息子のくせにあんまり飲めないらしくてさ、お裾分け」
 袋を覗くと十代が教えてくれた。
 お裾分けにしても十代はまだ未成年だ。未成年の息子に焼酎を送る父親も、未成年の十代に焼酎を分ける友人もどうなのか。固い事を言うつもりはないが、ヨハンは思った。
 「ああ」と十代が頷いた。
「オレじゃねぇよ。カイザー宛。吹雪さんと。隼人は留年してるからもう立派な成人。まあそんな細かい事を気にする親父さんには見えなかったし、オレも特に気にしない」
「お零れに預かる魂胆が見え見えだぜ」
 ヨハンは苦笑して、十代の頭を撫でてやった。
「程ほどにな」
 十代の髪は少し硬くて、そのせいで大きな犬を撫でているような触り心地だった。嫌いじゃない。
 そうしていると、急に十代は塞ぎ込んだように目を伏せた。どこか傷付いたような素振りだった。
 確かに十代は傷付いているのだろう。そうさせていることが歯痒いし、やるせないとも思う。
「なんかさ、なんか……違わねぇ?」
 醒めた声で十代が言った。ヨハンも分かってはいる。
「わりぃ」
 そう返しながらも、ヨハンはその仕草をやめることはなかった。ゆっくり頭を撫でる。

 * * * * *

 シートの上から剣山が「こっち、こっち!」と叫んだ。
「やっぱり来てくれたドン! アニキ達が最後ザウルス」
「昼から場所取りしてたって? 大変だったな」
「何てことないドン。でも、座りっぱなしはさすがに足が痺れたザウルス……」
 剣山は苦笑しながら頭を掻いていたが、ヨハンと十代が声を揃えて「卒業おめでとう」を言うと、素直に嬉しそうな顔になった。この春で彼も晴れてデュエル・アカデミア本校の卒業生となったわけだ。
 明日香は重箱を解体して並べ、紙皿の封を切っていた。彼女も今日に合わせて帰国したようだ。吹雪が手を振ってくれる。カイザーと話し込んでいたらしい。
「いいタイミングだねぇ。ちょうど十代くんの話をしてたところだよ」
「何の噂?」
「見当はつくだろう?」
「わかんない」
 十代が笑いながら酒瓶を渡す。
「隼人から。今日も来たいって言ってたけど、あいつカードの納期が近いとかで会社に缶詰してるみたいなんだ。こいつをカイザーに。それから吹雪さん宛」
「そうか」
「ボクは焼酎って飲んだことはないけれど、これはいかにもきつそうだねえ。藤原は?」
「ぼ、僕はいいよ……」
 藤原はどこかおどおどした様子で頭を振った。彼はいまだにヨハンと十代に顔を合わせると、少し腰が引けてしまう癖が治らない。そんなに虐め過ぎたかなと思い返してみたが、ヨハンには特に非が思い当たらなかった。それならきっと十代なのだろう。
 藤原の背後で<オネスト>が行儀良く頭を下げているのに、十代がひらひらと手を振っていた。
「十代サマ! お久し振りです!」
 最後に見た時よりも随分背が伸びたレイが、嬉しそうに十代の腰に抱き付いた。
 ヨハンが「大きくなったな」と思ったままを言ったら、「そこは『綺麗になった』って言って欲しいなぁ」と唇を尖らせた。
 彼女は中学を飛び級してアカデミアへやってきて、まだ十四なのだという。何をそんなに生き急いでいるのかと思うが、十代に無心に懐いている姿を見ていると、その理由も彼女の気持ちもなんとなく分かるような気がした。
 レイが好意を抱いている男にはそんな所がある。『釣り合う位に強い何かがなければきっと振り向いてもくれないだろう』というものだ。以前はカイザー亮を追い回していたと十代から聞いた事があるから、納得する。
「楽しそうな所悪いんだけど」
 ほとんど感情の篭らない声が背中の後ろから聞こえた。色の白い腕が、シートに座り込んだヨハンの肩の上から出て十代の鼻先に紙皿を突き付ける。
「貴方もぼーっと突っ立ってないで手伝いなさい。十代」
「明日香は相変わらずだな」
 十代が胸の前に手のひらを広げて、先程の藤原みたいな顔になった。腰が引けている。ヨハンの知らない所で、明日香と十代の間にヨハン達と藤原のような事があったのかもしれない。それが見られなかったのは残念だった。
 十代にしがみついたまま、レイが猫みたいな顔でにんまりしている。それに明日香の機嫌は更に下降したようだった。面白い事になっている。
「明日香。俺がやるよ」
 ヨハンは明日香から紙皿を預かって、思い思いの場所に座って談笑している卒業生達に配っていく。十代がどこかほっとしたような顔をするのが横目に見えた。
「……思ったより白いんだな」
「え?」
 明日香が驚いたように顔を上げた。ヨハンは、頷いて続ける。
「俺が知ってるのはもっと濃いピンクだった」
「ああ、ええ……。きっと種類が違うのね。アークティックにも桜があるの」
「まあね。ところで明日香。俺分かっちゃったんだけど」
「何?」
「十代の事が好きなんだ。明日香も」
 明日香の動揺は面白い位に解りやすかった。表情は微笑のまま硬直し、両手が強張り割り箸の束を取り落とす。
「あいつ本当にもてるなぁ〜」
 誇らしいような呆れたような気持ちでいると、明日香は<キラー・トマト>みたいに真っ赤になって狼狽し始めた。
「ちょ……ちょっと。待って。どうしてそんな事、そんな訳、……どうして?」
 「ああごめん」とヨハンは謝った。別に困らせてやろうとした訳じゃない。「なんだなんだ」と興味深々の顔をしている卒業生達に「何でもないんだ」と誤魔化して、声を潜めて言い訳をした。
「いや、分かっちゃったから、レイもああだし明日香もこうだって、ただ言ってみた。それだけだよ」
「あの子と一緒にしないでちょうだい。あんな真似、私にはとてもできないわ」
 どこかうらやましがるような、そんな言い方だった。明日香は観念したようで、ヨハンに耳打ちした。
(いくらヨハンでも誰かに言ったらただじゃ済まないわよ。あ、貴方こそ、その、そういう貴方にはいるの? そんな人が……)
(いるよ。好きなやつ。それがどうかしたのか?)
 明日香は軽く目を見開いた。ヨハンが何でもないようにそう答えた事に驚いたようだった。
(別に、貴方は彼とよく似ているから……だから少し興味が湧いたのかもしれない。私こそ聞いてみただけよ)
(あいつもそういう機能が付いてるのかって? それはどうかな)
(……時々羨ましいと思うわ)
(明日香みたいなのでも、他人を羨ましいなんて思うんだ)
(『みたいなの』って何よ……。ただちょっと考えてしまっただけよ。もしも私も男子だったらもう少しあの人と理解しあえたかもしれない。貴方みたいに、ヨハン。そんなふうにね。それでも良かった。……なんて。女々しいわね。私らしくもない……。忘れてちょうだい)
(それはどうかな)
 明日香が綺麗に眉を顰めた。ヨハンは目を閉じて頭を振った。
(明日香は気付いていないのか? あいつは男じゃない)
「なにそれ? どういうこと?」
 明日香が『わけがわからない』という顔をして声を上げる。それに被さるように甲高い耳鳴りのような音がして、剣山のアナウンスが高らかに響き渡った。
『それでは皆揃ったところで、アカデミア同窓会兼お花見デュエル大会をはじめるドン!』
 わぁっ、と歓声、拍手、野次が上がって、紙細工や空き缶やジャケットが宙を舞った。どうやらヨハン達がやって来る前に、卒業生達は既に随分盛り上がっていたようだった。
「最近の剣山くんは何があってもマイクを離さない男になっちゃったねぇ」
「卒業式からそのままなだれ込んできたのに元気だなァ」
 翔と十代の感心したような声が聞こえた。彼らも思い思いに楽しんでいるようだ。
「そりゃ憧れの先輩に会えるって言うなら元気も出ますよ」
「お前えーと……名前何だっけ?」
「空野ですよ。ひどいなぁ十代先輩。僕も卒業したんです」
「ああ、ホルス使いな。でも剣山達も卒業しちまって、レイも寂しくなるな」
「マルっちは戻ってくるのかな……戻ってこないと今度はボク、じゃなくて私が卒業しちゃうよ」
「マルタンは元気にしてるのか?」
「うん十代サマ。たまにメールしてるの。返事遅いけど元気みたい。それにしても、十代サマったらいい匂い〜」
「嗅ぐなよ……」
 うっとりしているレイとは反対に、十代は苦笑いをしている。昔から変わらず女子に懐かれるのがあまり得意ではないようだった。
 隣で明日香が小さく溜息を吐いた。また羨ましいと感じているのかもしれない。それと気付くと彼女は居心地が悪そうに、ヨハンに誤魔化すように言った。
「振り向いてくれるといいわね。貴方の、その……想い人さん」
「とっくにふられたよ」
 ヨハンはあっさりと言った。
「俺と『そういうのは嫌』だそうだ。俺の諦めが悪いだけさ。しつこく口説く度に顔を顰められるよ」
「男の人ってみんなそうなのかしら」
 どこか達観したような、明日香の声だった。ヨハンは吹き出しそうになった。『誰』の『そう』なのかは、わざわざ確認を取らなくたってすぐに分かる。あの男だ。
 何にしろ誤解をされたままでは良くない。『あれ』はひどすぎる。ヨハンは弁解した。
「男の人って、てのは違うと思うぜ」
「そうかしら」
「決闘者は諦めないもんだ」
「……それを言ったらその通りだけど」
 明日香は肩を竦めて、「変ね」と言った。
「空気に当てられたとしか思えない。ジュンコやモモエとは……女友達とはこんなおかしな話をした事が無かったけれど。面白い話題を感謝するわ」
「明日香って女友達少なそうだもんな〜」
「だから、どういう意味なのよ……」
 恨めしげな明日香に、自覚させてやるべきか、余計な世話はやめておくべきか考えていると、剣山のマイクを奪った万丈目がヨハンを名指しで罵倒した。
『そこっ、ヨハン・アンデルセン! さっきから羨まし過ぎるぞっこの毛唐! 決闘だ! この万丈目サンダーが成敗してくれる!』
 『あれ』こと万丈目が、勢い余ってディスクを広げる。
「ちょっと万丈目くん。こんな所でカードを広げたら……」
「天上院くん、何も言わないでくれっ!」
 明日香の指摘どおり、突風に巻き上げられて万丈目のカードが花吹雪と一緒になって舞い上がった。おジャマトリオの悲鳴と罵声が聞こえる。相変わらず万丈目は本人も周りの精霊も賑やかな男だ。
「やめてお兄さん! 後生だよ!」
 翔の大声が聞こえて、振り向くと、ヘルカイザー亮が無言で上着を脱いでいた。
 どうして?
「丸藤、酔うと脱ぐんだ」
 藤原も知らなかったらしい。猫みたいな吊り目を丸くしている。
 その藤原の顎を背後からつうと長い指が伝っていく。彼の緑がかった髪が一瞬逆立ったように見えた気がした。
「ふ、吹雪?」
「ボクは藤原の乱れる姿も見たいなぁ」
「な、何を言ってる」
 どう見ても吹雪の絡み酒だが、吹雪はアルコールに酔っている様子でもない。たまにおかしなスイッチが入ると手が付けられないと明日香が嘆いていたのを見た事がある。こういう事なのだろうか。吹雪に誘惑されて、抵抗かなわずに胃袋に焼酎を流し込まれた藤原は、強烈な味が受け付けなかったらしくひとしきり咳込んでいたが、しばらくすると塞ぎ込んで、何事かをぶつぶつと呟きながら嗚咽を零している。
 耳を済ませると、かすかに「赤鬼と青鬼が仲良く手を繋いで追い駆けてくる」という藤原の独り言が聞こえた。恐ろしい幻覚を見ているようで、不憫だった。
『マスター、大丈夫ですか……』
 <オネスト>に宥められている。
「おいヨハン・アンデルセン! 目に余るんだ貴様は!」
 怒鳴られて目を戻すと、万丈目が顔を真っ赤にしてヨハンを睨み付けていた。
「明日香たんの手伝いに内緒話だと!? オレのいとしの明日香たんに色目を使いやがって羨ましい!」
 彼のファンが後ろから『そうだ! 毛唐! 毛唐!』と合唱する。ヨハンは後ろ頭を掻いた。
「そんなつもりじゃなかったんだけど、悪いことしちったかなー」
「馬鹿にするなっ!」
 万丈目は話も聞かずに、<おジャマ・イエロー>を攻撃表示で召喚する。余程頭に血が上っているらしい。
 いつどんな時であろうと、売られたデュエルは買うしかない。ヨハンもディスクを展開し、<ルビー・カーバンクル>を攻撃表示で召喚した。ルビーに尻をかじられて、<おジャマ・イエロー>が断末魔の叫びを上げる。いつの間にか出来上がっていた観客席で誰かが「不毛だ」と呟くのが聞こえた。

 * * * * *

「ちょっと、何を考えているの!? 未成年にこんなに呑ませて!」
 明日香の怒鳴り声と、面白がったレイがカメラのシャッターを切る音が聞こえた。
 突風に飛ばされたカードを追い駆けて万丈目がどこかへ行ってしまった頃になると、いつのまにか周り中に赤ら顔でデュエルを行う人間が増えていた。こっそり持ち込まれたらしい空き缶の銘柄を眺めて、これは先生方には報告できそうにないなと考える。卒業の解放感や、再会の興奮という奴だろう。
「行きましょレイちゃん」
 明日香が吹雪の財布を引ったくってレイの手を引く。そう言えば公園前にはコンビニが一軒あったはずだ。ヨハンは、すれ違い際に明日香の肩を軽く叩いてやった。
「あいつ看てるよ。俺も水が飲みたいな」
「お願いするわ」
 くたびれた顔で明日香が頭を振った。
「ごめんなさい。うちの兄さんがまた……」
「吹雪さんの責任じゃないさ。自業自得だ。あいつが一升瓶持ってた時からこうなる事は読めていた」
「ねぇヨハン先輩、十代サマの寝込みを襲ったりしないで下さいね?」
 レイが悪戯っぽく茶化すように言った。内心狼狽するが、「どうかなぁ」と笑顔を返す。冗談かもしれないし、気付いているのかもしれない。「馬鹿な事を」と明日香が溜息をつく。
 明日香とレイを見送って、ヨハンは早速シートの上で藤原を枕にして大の字になっている十代を引っ張り上げた。
「おい十代。程ほどにしとけって言ったよな?」
 苦悶の表情の藤原とは対照的に、十代は気持ちが良さそうだった。ただ意識が朦朧としているようだ。焦点の合わない眼をヨハンに向けて、眠そうな声を上げた。
「なぁ<フェザーマン>。お前そんだけ筋肉ついてて何で攻撃力千ぽっちなの?」
「……こいつ、ちょっと預かります」
「うん、その方が良さそうだね」
 吹雪が少し引き攣った笑顔で応えてくれた。彼としても十代が自制を失うという事が、どれだけ恐ろしい事態なのかを理解しているはずだ。片っ端から精霊を実体化させられてはかなわない。

 * * * * *

 乾いた幹にもたれて、遠くの喧騒を聞きながら、ヨハンは十代の身体にそっと触れた。柔らかく、あたたかい。落ち付く。
「ん……」
 ふと十代が身じろぐ。ヨハンは言いようのない後ろめたさを感じて、心臓が跳ねる気持ちがした。十代は少しむずかるような仕草をしただけで、目を覚ます気配はない。
 上着越しにもう一度、積もったばかりの雪に手のひらの跡をつけないように気遣う慎重さで、肩に触れる。指でゆっくりとなぞって、布地の下の素肌を思い浮かべながら辿る。細い首。すべらかで硬い胸。そして―― なだらかで柔らかい胸。
「くすぐったい……」
 十代が、喉の奥で笑った。
「やめろよ……ファラオか?」
 ヨハンは応えない。
 十代の耳はアルコールのせいで赤く染まっていた。
 不思議そうに言うくせ、眠気には勝てないようだ。瞼を開けない。ヨハンに敵意がないせいもあるだろう。アカデミア在学中に、十代はヨハンが傍にいるとひどく落ち付くのだと本人の口から何度か聞いたことがある。
 抱きしめると、やはり細い身体だった。
 こんなふうに骨の浮き出た肩で、彼は分不相応なまでの物をも背負おうとする。背負ってしまう。背負えてしまう。
 十代は誰かの体温が傍にある事に、安らいだ表情で、寝惚け声を上げた。
「父さん? ……そんなわけ……ないか」
 どこか寂しそうに、そして嬉しそうに、そう零した。
「あったかい」
 そして、眠り込んでしまう。ヨハンは、いつもよりもどこかあどけない寝顔を手のひらで包み込み、額にそっと唇を付けた。
 そのくらいは赦されると思った。たとえば、かけがえのない親友として、赦されると思った。

 * * * * *

 それはアカデミア生の同窓会から一月程前の事だ。
 些細でとりとめのない事件だった。

 「最近とくにひどい」と十代が言うところから、いつもとも大して変わりのないことだった。
「吹雪さんが明日香にするみたいだ」
 肉親のように大事にされていると十代は冗談めかして笑ったが、ヨハンは笑わなかった。それに十代は『予想はしていたけど』という顔をした。
 要するに、ふとしたはずみで、十代はそれと気付いてしまったのだった。
 たとえばボートを降りる時にヨハンが手を差し出してやったりだとか、重い荷物を預かったりだとか、今みたいにカレッジの背の高い本棚の、彼の手の届かない図鑑に腕を伸ばしてやったりだとか、ヨハンにとっては当然でもあるそんな事だ。
 もう日が暮れかけている。ヨハンが進学したデュエル・カレッジ自慢の図書館には、他に人の姿は見えない。静寂のなかで、奇妙ないたたまれなさが空気に溶け込んで浮かんでいた。
「……お前はすごく大切にオレの事を扱ってくれるけど」
 <ヒーロー名鑑>というタイトルの本を大事そうに受け取って、十代は言いにくそうにぼそぼそと言った。目はヨハンから逸れて横を向いていた。
「ヨハンとは嫌だよ。そういうのは」
 いわく、出会ったばかりの頃はこんなじゃなかった。同年代の男同士でふざけあっていたあの感覚とずれている。
「今だってお前、オレと風呂なんか絶対一緒に入らないしさ」
「それは昔からだ」
「いや、それはそうだけど。なんか、なんか違うんだよ。なんか変だ」
 確かに十代は変化したし、子供っぽい所があまり見えなくなってきた。自称<大人>だ。しかし今ばかりは昔の語彙のない単細胞に戻ったみたいに、言葉の選び方に困っているようだった。ぎこちなく唇を開けたり閉じたりしながら、ただ無性に寂しいような顔でいる。
 その気持ちはヨハンにもよく分かった。十代の気持ちを悟るということは、ヨハンの自慢できる特技のようなものだ。
 十代はこう考えている。親友のヨハンが、かつては何でも気持ちが通じ合っていたヨハンが、分からなくなってきた。心が触れ合わない。綺麗な花でも摘むような触れ方にも違和感を覚えている。つまり、ヨハンと十代の在り方には不似合いなような気がする。
「十代、わかってる。でも……」
「どうしてこうなったんだ? オレが」
 俯いていた十代が、勢い良く顔を上げた。表情はどう見ても、教師に失態の報告をする生徒のようだった。風来坊の自由人になった今の十代には、あまり似合わない顔だった。
「今のオレの半分が男じゃなくなっちまったからか。それが悪いのか?」
 乾いた声でそう吐き出す。ヨハンは頭を振って、正直な気持ちを告げた。
「……わからない」
 十代はすぐに「オレにはヨハンがわからない」とやり返してきた。
「人は変わるけど、お前とだけはこういうふうには変わりたくない。ヨハンはずっとオレの親友で、かけがえのない人間で……ヨハンと今のオレの繋がり方は、なんだかそうじゃない気がする」
 ヨハンは弱々しく微笑んだ。本当に、十代の言う通りだ。
「親友さ。でも俺の気持ちが十代を苦しめてる事はわかってる。不安にさせてごめん」
 腕を伸ばせば、思ったよりも簡単に十代をとらえることができた。
 胸に抱きしめると、細い身体は強張っていた。拒絶こそされはしなかった。しかし焦りと畏れがヨハンの頭の上で黒い雲のようになって澱んでいるせいで、うまく呼吸ができない。
「ごめん。でもどうすれば良いのか、俺にもよくわかんなくて。こんな気持ちになるのははじめてで、だから……」
 ヨハンはたどたどしく言い訳をして、一度息を止め、そしてまた大きく吸って、十代の背中に回した手を拳の形に強く握り込んだ。
「お前の事が好きなんだ」
 十代がまるく目を見開く。そう子供っぽい表情をすると、まるでユベルの肉体に解けてしまう以前の十代のようになった。
 背中を屈めて、十代の肩に額を押し付けて、「ごめん」と謝る。これ以上は言い訳も見つからなかった。
「もう少しだけ、このまま……。お前に受け入れてもらおうなんて贅沢は考えちゃないからさ」
 いつのまにか十代の腕は、かたかたと震えていた。それが怒りによるものだと、ヨハンはすぐに気がついた。
「オレは……オレは何だよ。お前のお姫様かよ? 違うだろ。お前の親友で、ライバルで、だからヨハンにそういう目を向けられるのは嫌だよ。オレは、いやだ」
 強張った唇を無理に動かして、空洞に吐き出すような虚ろな声で、十代が言う。どこか、いやに幼い子供が、駄々を捏ねているような姿にも見えた。
「ヨハン? 好きって、そんな意味の好きって、おかしいだろ。オレ達には必要ないじゃないか。オレ、そんなのどうでもいいし。興味ねぇもん。だから、そんなのとヨハンとの絆が一括りになっちまうのは、オレは絶対いやだ」
「ああ、わかってる」
「ヨハンは優しい奴だ。昔からオレにそうだった。でも今のはなんか残酷だ。オレがまるで……何の力もないかよわいお姫様みたいにする。『悪い魔王に攫われた可哀想なお姫様、今この王子が助けにあがりました』って、そんな感じじゃねぇか。ヨハンに可哀想な奴だって目で見られるのは……オレだって大好きな親友にそうされるのは……マジこたえるからさ、オレ、絶対そこばっかりは譲ってやんねぇ」
「お前を弱いとか可哀想だとか思ってるわけじゃない。今の俺はそんなふうに十代を見てない。絶対に。見くびられちゃ困る。お前は誰よりも強くて誇り高い男だ。でも、だからこそ、受け入れてはもらえないだろうって、ずっと前から思ってた」
「いつから」
 十代は、どこか呆然としている。ヨハンは正確に答えてやった。
「二〇〇六年、十月十一日」
「それ」
「そう、つまり、お前に出会った日にちだな。十代、簡単な事さ」
 ヨハンは十代の眼をじっと見つめた。無理に優しい顔を繕う自分の顔が映り込んでいて、まったく嫌になった。これではまるでヨハンの方こそが悪魔だ。気高い天使を貶めようとする悪魔だ。
「……簡単さ。俺の勝手なんだから、お前は知らないふりをすればいいんだ。お前が傷付くことは何もないんだ。……忘れてくれ。ごめん」
 それを聞いた途端、十代はあけすけな位に眉を顰めて、ヨハンを力任せに振り払った。細い身体のどこからこんなものが湧いてくるんだと訝るような力だ。そして、見開いた目を金属色に輝かせた。金の眼は、彼の怒りが途方もないところへ到達した証でもあった。
―― お前が傷付いてるのを見て何でもない顔をできる奴だって、ヨハンは、オレの事を思うのか!?」
 それこそ見くびっている。十代はそう吐き捨てた。
「オレは、ヨハンの事、信頼してる。そんなの口で言わなくてもヨハンは知っててくれるから、オレは何も言わない。貸しも借りも恩もある。一緒にいて楽しいし、お前といれば何も怖くない。オレはヨハンが大好きだ。だから……こんなのはいやだ」
「……俺はお前の信頼を裏切った。わかってる」
「違う!」
 十代は、言葉が伝わらない事がもどかしいふうに叫んだ。薄紫色の光が射し込んでくる窓ガラスが、乾いた音を立てて、部屋中で一斉に砕けた。今日の最後の光が、無数のガラス片に反射して宝石のように煌いた。
 十代の感情の昂ぶりが無意識にそうさせたのだろう。ヨハンの親友であるべきこの男は、もうすでに人間ではなくなっている。
「ヨハンは、……もうひとりのオレみたいに思えることが時々あった。でも今はそんな目をする。オレを見て何がそんなに辛いんだよ。わかんねぇよ、その目も……そんなもの、大嫌いだ!」
 最後に癇癪を起こした子供のように、「ヨハンの大馬鹿野郎!」と捨て台詞を残して、十代が踵を返した。赤いブーツの底が床を乱暴に叩く。
 彼が去っていく足音を遠く聞きながら、ヨハンは思考停止しかけた頭で、のろのろとこう考えていた。
 俺は、あいつにふられちゃったんだなぁ、と。

 あれから一度も、十代はヨハンの学生寮には立寄らないでいる。



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