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 閑静な住宅街の一角にそのアパートメントはあった。古びてこそはいるが、決して貧相ではない。くすんだオレンジ色の煉瓦造りで、経過した年月がそのまま建物に不思議な重みを加えて持ち味になっている。
 壁を覆っている濃いグリーンの蔦に絡まるようにして、ハートの形をした葉が繁っていた。その姿はなにか暗示的だった。
 玄関横の郵便受けのラベルには<天上院探偵事務所>と流麗な日本語で記されていた。預かった名刺の表記通りに二階へ上がり、南端の一室の呼び鈴を鳴らすと、一昨日ぶりの顔が迎えてくれた。
「やぁ、ヨハン・アンデルセンくん。そろそろ来る頃だと思っていたよ」
 主の天上院吹雪はリンネルのシャツに濃いブラウンのベストを羽織り、まるで探偵小説にでも出てきそうな出で立ちだった。この男はヨハンがしばらく前に留学していたアカデミア本校生で、彼自身は留学だか失踪だかの理由で二年留年していた。そのおかげで十代と同級生だったはずだ。
 彼は一昨日開かれた同窓会がお開きになると、別れ際に名刺を握らせてくれた。ふがいないヨハンを見かねての事だという。
 吹雪は決闘者としても一流だったが、こと恋愛指南にかけては本校でも<ブリザード・プリンス>を知らない生徒はいない程で、彼の元には昼夜を問わず数えきれない程の迷える子羊が押し掛けてくる。らしい。
 噂に聞くところによると、吹雪は『困っている人間をどうしても放っておけない』人間だという。
 留学中はヨハンとはあまり個人的な接点がなかったが、先のダークネス騒動で彼のデュエルを間近に見て、とても情の深い人間なのだと理解していた。
 何よりあの傍若無人な十代が「吹雪『さん』」だ。余程立派な人格者なのだろうと想像する。
 他人に相談という慣れない事をしてみようという気になったのも、その為だった。
「まあ入ってくれたまえ。同窓会で見掛けたキミの切ない眼差しが忘れられなくて、ついお節介を焼いてしまった。出過ぎた真似をしてしまった事を許して欲しい」
 吹雪は芝居がかった口調で厳かに言った。パイプ煙草にチェックのベレー帽、チョビ髭とインバネス・コートが似合いそうな口調だった。
「自慢じゃないけど、ボクはこと恋愛に関してはお手のものでね。どうぞ」
 招かれてテーブルに着くと、見知った顔が助手然として紅茶とケーキをヨハンの前に置いてくれた。生クリームとチョコレートソースの掛かったブラウニーケーキは一目で手作りと知れる。とても美味しそうだったが、それよりもどうして相手がここにいるのかという事が気になって、ヨハンはテーブルに肘をついて彼の顔をじっと見上げた。
「お前なにやってんだ、藤原?」
 藤原はどこかくたびれた様子で、銀の盆を抱いて一歩下がった。それが礼儀作法の一種のようなものなのか、彼が相変わらずヨハンに対してなにか精神的な威圧感のようなものを感じているせいなのかは分からなかった。
 猫のようにきゅっと吊り上がった目には、諦念と、加えて微かに信念のようなものが見えた。『俺は決して間違っちゃいない』というものだ。
「僕は、ヨハン、お前こそ何をやっているのかって聞きたいけれどね……。僕の方はいつもの通りだよ。吹雪の気まぐれは今に始まったことじゃない」
 藤原が盆で口元をそっと隠して、ヨハンに耳打ちをした。
(あいつは昔から思い立ったらどんな事でも、突飛であればある程すぐに実行に移したがるんだ。用心した方がいいと思う。吹雪にすればいかにも困りきっていますって顔をしたお前なんて、オーブンを背負った鴨が、土産にオリーブオイルと海塩を持って家に転がり込んできたみたいなものなんだよ)
「そりゃいいや。葱を背負った鴨よりも随分と気が利いてる」
 ヨハンは笑って椅子の背もたれに体重を預けて、頭の後ろで手を組んだ。思ったよりも自分は緊張していたらしい。まるでお人好しのギャングみたいに、良心の呵責を感じながら悪事の片棒を担がざるを得ないという顔をしている藤原を見ていると、大分リラックスをする事ができた。
 藤原はヨハンがまるで話を聞いていないと思ったのか、『忠告はしたからな、知らないぞ』という様子で、はすむかいの椅子を引いて席に着いた。
「あいつがここを開いたのが二日前。面白そうなリーグもないし、まぁオフシーズンだからね。カレッジの入学式までもしばらくある。吹雪は暇を持て余しているんだ。お前みたいな恰好のエサが掛かるのを待ってるのさ。それで僕と丸藤とで、今回は一週間持つか持たないか賭けをしてるんだよ。吹雪の気まぐれは山の天気みたいなもんだからね」
「へえ。藤原はどっちに賭けたんだ?」
「『持たない』。持つわけないだろ。丸藤は『持つ』。『ただし持っても十日』という条件付き」
「それ以上は?」
「僕が知る限りでそんな持久戦になった記憶はないね。あいつは典型的な超短距離ランナー型さ。学生時代に『初めから最大火力で攻撃、一思いにやる』という信条を聞いた事がある」
 ヨハンは吹雪のデッキを思い浮かべてみた。なるほど、確かにそんなような感じだったかもしれない。
 頼もしいかぎりだ。
 賭けの内容が少し気になって、ヨハンは小声でぼそぼそと尋ねてみた。
「いくら賭けてんの?」
「一週間以内に飽きたら、僕がパティスリー・ドミノの千年ショコラ。それ以上なら丸藤の取り分だ。KC食パン一月分」
「いい歳してセコいな〜」
「別に僕らギャンブラーってわけじゃないしね。現金を賭けるなんて無粋はしないさ」
 藤原が首を振る。どうでも良さそうな癖に、彼の目には『負ける訳がない』という確信があった。負けず嫌いなのだ。
「卒業早々ボクの楽しみに付き合ってくれる藤原には、本当に感謝しているよ」
 笑いながら吹雪がヨハンの向かいの席に着いた。
「お前は本当に困った奴だよ。けど、別に構わない。どうせ僕もカレッジが始まるまで退屈でする事もないんだ」
 そう言いながら藤原の疲れ果てたような顔には、どこか楽しそうな気配も感じられた。口では冷たい事を言いながら、本当は楽しいのだろう。ヨハンは彼が世界一の寂しがり屋だという事を知っている。
「十代くんの事だろう?」
 唐突に吹雪がそう切り出した。ヨハンは危うく口に含んだ紅茶を吹き出しそうになった。
「どうして何もかもお見通しなのかな。俺は吹雪さんにこれまで一言でもそういう事を言ったことがあったっけ?」
 ヨハンは一度大きく息を吐いて、吹雪の顔を見つめた。彼は人の心が読めるのか。
「すごいなあ。一昨日もそれでびっくりしたんだ。いきなりそんな事言われるとは思ってなくてさ」
「それで今日はここへ訪れてくれたわけだろう? キミの信用を得る事ができてボクは嬉しいね」
 吹雪が胸の前でぱちんと手のひらを打ち合せた。顔つきは、なるほど、藤原が言うところの鴨を見るようなものだったかもしれない。
「さて、キミの悩みとは十代くんとの関係についてだね」
「十代とヨハンの間になにか? 問題なさすぎて困るくらいだろ。僕にはこいつらが『本物の』喧嘩をしている所すら想像出来ないよ」
 藤原が自分の分の紅茶をカップに注ぎながら怪訝そうにしている。一度その絆に痛い目を見せられたのだと言いたげだったが、彼はヨハンを横目でそっと一瞥しただけで黙っていた。
 吹雪が、すべて分かっているのだという表情で首を振った。
「そう、ないから困る。絆が強過ぎて一歩先へ踏み出せない。そうだね?」
「先? お前達付き合ってるんじゃなかったのか」
 藤原が両手でカップを持ち、まだ熱い紅茶を吹いて冷ましながら当たり前のように言った。
 とんでもないことだ。動揺してティースプーンを取り落として、藤原を睨むと、彼は慌てた様子で弁解した。
「いや、ざ、在校生の間で噂になってたんだ。僕は良く知らない」
 ヨハンはぶすっとして、顎の下で手を組んだ。
「あいつはそんなじゃない。十代はそういう所だけは真面目な奴なんだよ、意外に。なんていうか、普段は周りを困らせてばかりいるちゃらんぽらんに見えて、人との関わり方みたいなところで真剣な奴なのさ」
 反射的に藤原が吹雪の方へ顔を向けた。吹雪が首を傾げると、黙ってカップを口に運んだ。なんとなく納得したような顔だった。
「それよりも吹雪さんは明日香の兄さんなのに、俺に塩を送っていいのか?」
「ヨハンくん、ボクは恋愛はデュエルと同じだと思う。力ある者も、弱い者も、誰しもが対等の立場で正々堂々と戦える。心の奥底まですべてを曝け出してぶつかっていく神聖な競技のようなものなんじゃないかとね。ボクはそんな人々を応援したいんだ。言うなら恋する者みんなの味方なんだ。だからキミの味方もするし、もちろん明日香の味方もする。ボクは確かに妹の明日香に誰よりも幸せになって欲しいと願っているし、十代くんはその恋の相手の候補のひとりだ。それも最有力候補だ。だけど兄妹でも贔屓は無しさ。明日香は人一倍誇り高い女性だから……ああ、これは兄としての自慢だけどね……この愛の伝道師のえこひいきなんてものは求めていないだろう」
「……また騒ぎを起こして、妹に怒られるのが怖いだけだろ」
 藤原がどこか醒めたふうに言った。
「ところで明日香はヨハンくんの気持ちを知っているのかな」
「知らないぜ、きっと。俺としてはライバル宣言でもしたつもりだったんだけど、気付いてももらえなかったみたいだ。レイには、あれ気付いたのか気付いてないのか、ちょっかいかけるなって釘を刺されたけど」
 ぼやいていると、藤原が居心地の悪そうな顔でそっと席を立とうとした。すかさず吹雪が袖を掴む。
「どこへ行くんだい」
「いや、こういうの苦手なんだよ……。僕にできる事なんて何もないじゃないか」
「いいのかい? 今が最高のチャンスじゃないか」
 吹雪がしたり顔で言う。彼の目に映る藤原の方こそ、調理済みの鴨のように見えた。
「ずっと十代くんとヨハンくんに恩返しをしたいと思っていたんだろう?」
「そうだけど、そういうのに首を突っ込むのはお前と違って性に合わないんだよ吹雪」
「何を言うんだ。ボクらにしかできない役割がある」
「とは思えないけど……」
「嫌だなあ、謙遜なんてキミらしくない。ヨハンくんに十代くんという存在について比較的正確に伝えられるということさ」
 吹雪は藤原の首を脇に固めたまま振り向き、
「さて、人の外に出た事が一度なりともあるボクらの空想だよ。なにかの参考程度に聞いてくれ」
 と言った。

 * * * * *

 これは一昨日の話。
 本校卒業生の同窓会が幕を閉じる頃になると、もうすっかり夜が更けていた。名残惜しそうに手を振る者、おぼつかない足取りで口元を押さえて桜の幹の陰へ消えていく者、二次会へ雪崩れ込む者―― それぞれが夢から覚めたように、また別々の道へと戻っていく。
「送るよ」
 ヨハンは気持ち良さそうに寝息を立てている十代を背負って、明日香に頷いて見せた。彼女は呆れた顔で十代の髪に触れた。
「なんだか悪いわね。貴方はいつも十代の面倒ばかり見させられているような気がする」
「貧乏籤だって? まさか。こいつの世話を焼くのは俺の使命なんだって時々思うことがある」
 素直にそう言うと、明日香は少し羨ましそうな顔になった。こんなに強い絆で結ばれた友人がはたして自分にいるのだろうかと考えたのかもしれない。


 夜が更けても花は咲き続けていた。白い花びらがまるで嵐のように散り、舞い上がり、地に落ちて、靴の底で踏み躙られる。薄汚れていく。
「……違うから……」
 耳もとに吐息がかかる。
 かろうじて聞き取れるほど小さな十代の声が聞こえた。寝言なのか、寝惚けているのかは分からなかった。
「人間は……人間と一緒にいる方がいい……から……」
 肩に頭の重みがかかる。十代はヨハンの首筋に後ろから額を押し付けたまま、ゆっくりと続けた。
「オレもう<どっちとも違う>から、お前と同じ<精霊と人間を繋ぐ架け橋になる>って夢を見ることはできない……。どんなに賑やかな場所にいても、どんなに大好きな奴らと一緒にいても……オレは一人だけ、やっぱり違う生物なんだって……ヤだけど実感しちまって……」
 抱えた十代の両足が、ふらふらと揺れる。
「ヨハンは夢を見る人間だから、同じ夢を見る人間と一緒にいたほうがいい……」
 アルコールのせいで、十代はいつもよりも饒舌になっている。ヨハンは黙ったまま、このかすかな告白に耳を傾けていた。
「オレは半分がこんなふうになっちまったけど……違うから……たぶん人間と子供は作れない身体だって……大徳寺センセが言ってた。もしも、できたとしたって、オレみたいなヘンなのの血を受け継いだ子供が可哀想なだけだ……。だからこの身体見て、お前がそんなふうに期待したんなら……残念だったなぁ……?」
「そんな先の事は考えてなかった」
「……嘘吐きだ」
 肩の上に乗った頭が震える。十代が笑ったのが知れた。
「ヨハンは……きれいな嫁さんと可愛い子供に……違うか。優しい母さんとカッコイイ父さんと、可愛い子供がいて、皆で一緒にテレビ見たり飯を食ったりする家族に……憧れてるよ」
「どうしてそう思うんだ?」
「オレが……そうだったからさ……昔は」
 十代は言外に、かつてはお互いが良く似ていたんだと言いたいようだった。それに加えて、今は違う、何もかもが掛け離れ始めていると言いたいのだろう。
 十代は何も分かっていない。ヨハンの声は自然にぶっきらぼうなものになる。
「……俺は十代を幸せにしたい」
「オレは……自分が不幸だなんて思ったことはない。幸せだなんて言えるほど能天気な人間でもないけど……日曜日に遊園地に連れてってもらったり、家族で旅行に行ったり、カメラ持って運動会見に来てくれたり……そういう話を得意そうにするみんなが、ずっとうらやましかったんだ。ヨハンは、そーいうのがいいよ……お前に良く似た子供に、カッコイイ父さんだって自慢されてさぁ……馬鹿みたいに……嬉しそうな顔してさぁ……」
 十代が、寝入りばなのうすぼんやりとした声で、「ヨハン」と呼ぶ。
「ヨハン。オレと友達になってくれて、ありがと、な……」
 優しい声だ。十代からの強い信頼を感じる。ただ純粋な親友同士なら、どんなにヨハンは嬉しかっただろう。
 十代の友愛は、ヨハンの中にひどく残酷に響く。

 * * * * *

 吹雪が言った。
「ヨハンくんも知ってのとおり、十代くんはユベルの肉体と覇王の力を手に入れて人知を超えた存在になった。ボクは人知を超えた存在になるというのがどういう事なのか、少しばかりは分かるつもりだよ。つまりボクとこっちの彼、藤原はダークネスの力を得て、その<あるべき世界の先>とか、何と言うかな、極端に言うと<最果て>を見てしまった。ワールド・エンドだ。でもボクは到達はしなかった。簡単に言うと踏み越える目的が無かったんだね。そちらには。ボクの守るべき大切なものがあるのはこちら側だけだ。藤原もそうだったよね。彼はボクより随分先を覗いてしまったけど、結局引き返してきた。
  でも十代くんはその<最果て>に守るべきものがあったんだ。人のままでは届かなかった。だから人を棄てた。届いてしまった。
 もしボクが同じ立場なら、ボクも十代くんと同じものになっていただろう。もしかすると同じだったかもしれない存在だ。彼はボクのパラレル・ワールドでもある。だからボクは彼には特に幸せになってもらいたいと願っている。
  さて、十代くんはヨハンくんには無防備にも程がある位に背中を預ける事ができる。唯一無二の親友がいつも絶対的に自分を守ってくれているという安心感がそうさせるんだろう。そんなふうに、ある意味魂の片割れですらあるヨハンくん、キミが、突然十代くんにこう言い出す。『俺はお前の事が好きだ十代……愛している。もう親友のままじゃいられないんだ』」
 藤原が胡乱にヨハンを見た。
「……言ったのか、それ?」
「うん」
「ほんとに?」
「それに対する十代くんの答えはこうじゃなかったかい? 『ヨハン……どうしてなんだ? オレはそんなのは嫌だ!』」
「は〜。吹雪さんはほんとにすげぇなぁ。俺の心だけじゃなくて記憶まで読めちゃったりして」
 ヨハンは胸に手を当てて溜息を吐いた。脳味噌まで覗き込まれているような気分になる。背筋が寒くなった。吹雪はこともなげに「もちろん読めるとも」と言った。
「ボクはこの界隈では知らない者がいない<ロマンス・ディテクティブ>天上院吹雪だからね」
「<ブリザード・プリンス>ってのはもういいのか?」
 藤原がヨハンに横目をくれる。まるで詐欺師に騙され掛けている温厚な老人を見るような目だった。
「対等のはずの親友が、ただただ自分に尽くすだけ。熱烈な愛の告白をくれても、そのくせ心を欲しがるわけでもない……十代くんはさぞ混乱しただろう」
「あいつは俺にはもったいないくらいにすごい奴だってのは分かってるけど、気持ちは止まらないんだ」
「愛され方に不満があるというのは贅沢だ。だがそれでこそ十代くんだ。彼は自分自身の魅力を正確に知っているんだろうね」
「……そうかなあ? 仮にでも常識人を自負する人間なら、親友にいきなり愛を囁かれたらまず引くと思うけどな」
 藤原が同意を求めるように中空に目をやった。そこには羽根の生えた大男が立っていて、微笑を湛えながら頷いている。この精霊は基本的に主の言葉にノーと答えない。
「だけど、ヨハンくん、キミ達にはなにか強烈なきっかけのようなものが必要だね。このままじゃキミ達はずっと停滞している。そしていつか十代くんはボクらの前から姿を消すだろう。ところでヨハンくんは八百比丘尼伝説を知っているかい? キミは日本の通俗には造詣が深いようだけど」
「人魚の肉を、ってやつ?」
「そう。人魚の肉を食べてしまった娘は十代のまま人々を助け続け、しかし人々は彼女に救われても、この不死者を受け入れることはなかった。何百年も時が過ぎて、彼女は疲れていずこかへ姿を消してしまった。誰の前からも。まるで誰かの未来の可能性を聞かされているみたいだろう?」
 吹雪は両手を広げて頭を振り、「もちろんこれは可能性のひとつだけれど」と言った。
「今、受け入れることができるボクらがいるうちに、あの彼は知っておかなくてはならない。彼という人間が過ごす日々が、何百年経っても宝石のように輝き続けるものであるように。欠片でもいい、何度も少しずつでも彼の中に積み重ねていけたらいい。この先彼がどうなるのか人間の身のボクらは想像することしかできない。想像することすらおこがましいのかもしれない。今できる精一杯の想いをぶつけるしかないんだ。それが彼と共にどこまでも往ける確証がない、限られた命をもつ人としての愛情表現じゃないだろうか? そしてそれは、十代くんが欲しがったただひとりの人間であるヨハンくんにしかできないことなんじゃないだろうか」
 ヨハンはテーブルに頬杖をついて、何もない天井へ目をやった。頭の上で昼寝をしていたルビーが身体を伸ばして欠伸をして、ヨハンの顔を逆さまに覗き込んでくる。
 『欲しがる』? 十代が?
「キミがいなくなった時はひどかったよ。誰にも聞かなかったかい」
「……漠然としてるんだ。誰も話さないんだ。あの時の事は皆まるで腫れ物にでも触るような感じでさ。だからずっと怖かった」
 ルビーがヨハンと鼻先を付き合わせる。寝起きの挨拶のようなもので、それが終わるとヨハンの背中を伝って床に降りていき、<オネスト>の羽根にじゃれついていた。
「俺がユベルに乗っ取られた時、この身体は十代を傷付けてしまったんじゃないかって。なにも覚えてないんだ。ずっと眠ってた。十代が苦しんでた時に何もしてやれなかった。一番大切な時に傍にいてやれなかった」
「十代くんの中ではそれはもう決着のついたことだろうに、どうしてヨハンくんには話さないんだろう?」
 吹雪は答えを知っているなぞなぞを仕掛けるような口振りで、じっとヨハンの目を見つめて言った。ヨハンは正直に頭を振る。
「わからない。俺さ、ずっと待ってたんだ。あいつの中で整理がついたらきっと話してくれるって思ってた。でもあいつはこの先一生俺にその話をしないだろうって気がする。だからまた怖くなるんだ。俺はあいつが口を閉ざしちまうような事を知らずにあいつにしちまったんじゃないかって」
「そうかな。ボクにはそうは思えない。十代くんはヨハンくんに軽蔑されることが怖いんだろう。弱みを見せることが怖いんだろう。たとえば、推測だよ。ずっとひとりで何でもやってきた十代くんが、初めて弱さを曝け出せる人間を見付けた。すべて受け入れてくれる人だった。だけど弱い自分を守るために、その人は死んでしまった」
「いや、俺、生きてるけど……」
「死んでしまった。……あの頃の十代くんやボクらの中では、悪いけどキミはもう死んでいたんだ。あんな恐ろしく醜悪で、敵意に満ちた世界に一人きりで取り残されて、まさか生きていられる人間がいるわけがない。勿論誰もそんな事は口にしなかったけれど、そう、キミはボク達の中で一度死んだんだ。ある魔物が、決して言ってはいけない言葉を口にしてしまった。『ヨハンという少年は死んだよ』とね。その時、それを聞いたキミの親友の十代くんはどうしたと思う?」
 吹雪の問い掛けは答えにくいものばかりだ。これが<人間の外を見た事がある>という事なのだろうか?
 ヨハンにとっては、どちらかと言えばダークネスに魅入られていた藤原の揺さ振りよりも性質の悪いものに思えた。心の端から端までスコップで掘り起こされて、覚えのない様々なものを発掘されているような気分になる。
「十代は……あいつは危なっかしいけど、俺よりずっと強い奴だよ。そんなの信じない。いや、もし、もしもほんとに俺がいなくなったら、きっと悲しんでくれるし、泣いてもくれる。だけど歩くことはやめない。やめられない奴だから……俺はそんなあいつを好きになったんだから……」
 ヨハンは組んだ指に額を押し付けて目を閉じた。瞼の裏には、今よりも少し幼い十代が、どこまでも続く砂漠をひとりぼっちで歩き続ける姿が浮かんだ。足取りは重いが止まらない。頬の涙の跡は消えなくても太陽を睨み付けることはやめない。思い浮かべたくもないのに、勝手にそんなイメージが湧いてくる。
「きっとユベルと戦うために仲間と歩き続けたんだ。俺の仇を取ってくれるために」
「そうじゃない」
 吹雪はぴしゃりと言った。声が少し硬くなった。いつのまにかあの芝居がかった調子は無くなっていた。以前見た、友人の為にためらいなく命を投げ出せる吹雪の顔だった。
「彼は壊れてしまった。精神、人格、倫理観、価値観、そんな<遊城十代>を構成する色々なものが破壊され、いびつな形で再構築された。あの悪夢のような世界を組み伏せる程におぞましく、恐ろしい姿にね。<覇王>の話を聞いたことはあるかい?」
 ヨハンは知らない。
 いや、何人かの見知った者が、その名前をひどく後ろめたそうに口にしていたのは聞いたことがある気がする。
 ヨハンの様子を見て悟るところがあったようで、吹雪が目を伏せた。
「……キミが十代くんのことが好きで、ずっと傍にいたいと願うなら、また名前を聞くこともあるだろうね」
「それ、十代に関わりのある話なのか? 俺はあいつの事なら何だって分かってるって気でいたんだけど、なんか自信無くなっちまうなぁ」
 無理に笑顔を作って頭を掻く。吹雪は、産まれたばかりの赤ん坊を慈しむような目をヨハンに向けた。
 ふとした時に十代がヨハンに向けるものによく似ていると思った。
「十代くんがこの話をヨハンくんにしないのは、キミに彼の深い闇を覗かせたくないからだ。彼はキミのことをとても綺麗で光り輝いている人間のように思っているみたいだからね。ただ、あの時傍で見ているのは本当に辛かったよ。まるで彼が彼じゃないみたいだった。ずれた世界からじゃボクらの声は届かなくて、見ていることしかできない。もうあんなことがあっちゃいけない。
 十代くんの中には、ヨハンくんならきっと受け止めてくれるという信頼が確かにある。そして反対に、自分自身でさえ赦すことができない自分に、はたして正義感溢れるキミが価値を見出してくれるのかという……これは、自己卑下という誰にでもある感情じゃあないんだ。彼は確かに罪を犯してしまったんだ。ともあれ、そんな相反する感情の間で揺れている。心だけは、たとえ大人になった十代くんといえども持て余してしまうものなんだよ。だけどそれはキミを愛しているからこそだ。十代くんは甘えているんだよ。でも彼の甘えが、長い時間が過ぎて後悔にならないうちに……キミが彼を置いて死んでしまったあとで、『ほんとは親友でいるよりも好きだった』って気付くなんてのが最悪だね。
 さ、限られた命のキミは迅速に行動しなければならない。墓の前で泣かれたいかい?」
 悪戯っぽくウインクしてそう締めくくる。ヨハンは、いつのまにか自分の背筋がぴんと伸びていた事に気が付いた。
 実にその通りだ。やるべき事をやらなければならない。そんな気分だった。
「ヨハン。僕は恩人のお前には忠告しておく。お前がもしもこの吹雪の事を立派な大人だと思っているのなら」
 藤原がどうしてか抑揚のない口調で言った。
「今に後悔することになる。それより吹雪こそ十代が好きなんじゃないの? その口振り、珍しくいやに本気っぽいじゃないか」
「恋する者の気持ちとシンクロしてこその恋愛相談だよ。でも確かに、ボクは十代くんの事が好きだよ。ヨハンくんが失敗したら、次はボクの番かなあ」
 吹雪が笑う。ヨハンもつられて苦笑いした。
「兄妹揃って、厄介だな〜」
 吹雪はなにかのスイッチが入ったかのように顔つきをがらっと変えて、ワントーン高くなった声で夢見るように演説する。急に別人になったみたいだ。
「まいったな。そんな事になったら、ボクは明日香にただじゃすまされないぞ。でもボクは可愛い人の浮気には寛大だし、大切な明日香に寂しい思いをさせるのは嫌だ。丘の上の白い家で三人で面白おかしく暮らすよ」
「いや、そんなただれたサンドイッチみたいな関係はだめだ吹雪さん」
「ヨハン、僕はただれてるのはお前の頭だと思う」


 しばらく奥の部屋へ引っ込んでいたと思ったら、吹雪は小指程の背丈のガラス瓶を持って現れた。中には、正体の知れない赤色の液体がなみなみと満ちていた。
 含みのある仕草でテーブルに置かれた小瓶に、首を傾げる。吹雪はどこか得意そうにヨハンに耳打ちした。
「キミのために用意させてもらったよ。どんなつれないご夫人も振り向くという、とびっきりの媚薬さ」
「……そういうのは、俺好きじゃない」
「罪悪感があるのかい?」
 首を振る。こういうのは良くない。
「十代を貶めるような真似はしたくないんだ。それに俺自身も我慢ならない」
「ヨハンくんには十代くんを幸せにする自信があって、十代くんは固定観念さえ取り払ってしまったら、世界で一番キミのことが好きなんだ。何をためらう必要がある。彼の幼い好意が育つまで待つかい? あの彼は人気者なんだよ。キミが気後れしている間に、強引な男なんかが横から掻っ攫っちゃうかもしれない。たとえばボクが知っている中でもとびきり情熱的な……万丈目くんとかがね」
 槍玉に挙げられた万丈目は、確かに情熱的な男ではあったが、情熱の方向性を著しく間違えているようなところがあった。先日も懲りずに明日香にアプローチを掛けて、対価に平手打ちを貰っているのを見掛けた。
 しかし、考えようによっては悪くはないのかもしれない。
「まあ、一度くらい平手打ちを食らってみるのもいいかもしれないけど。記念に」
「お前、そんな純粋そうな顔で気持ち悪い事を言わないでくれ」
 藤原が嫌そうな顔をした。
 そうしていると、玄関の呼び鈴が鳴らされた。「はいはい」と藤原が出て行く。彼が吹雪に付き合ってこのアパートで助手をやり始めたのが二日前だと聞いたが、すでにしっくりと馴染んでいた。まるで何年も前から家政婦をやっていたみたいだ。
「誰……ああ、お前か。ちょうど今話してたんだ」
 藤原に「入ってくれ」と招かれたのは、今吹雪に情熱的な男代表に祭り上げられていた万丈目だった。スーツ姿で柄ものの黄色い蝶ネクタイを巻き、右手にスーツケースを携えていた。
 とても偶然とは思えないタイミングだ。ヨハンは素直に感心して口笛を吹いた。
「すごいなお前、万丈目。吹雪さんが呼んだら一瞬で現れるなんて、まさかお前も忍者なのかぁ?」
「何だ。一体何の話だ、いきなり?」
「オブライエンの奴みたいだと思ってさ。あいつ十代が呼んだら、世界中どこにいたって五秒で天井裏から出てくんだぜ」
 万丈目はからかわれているのか、それとも真実なのかを決めあぐねるような顔をしていたが、ヨハンに構うよりも師匠の吹雪への挨拶の方が重要だと判断したらしかった。
「どうも、師匠」
 吹雪へ向かって深々と頭を下げる。
「やぁ、相変わらず元気そうで何よりだ。一昨日ぶりだね。訪ねてきてくれて嬉しいよ。今日はもうフリーなのかい?」
「試合帰りです。ヨハンなんかと何の話をしていたんですか?」
「彼はボクのお客さん一号さ」
「お客さん」
 万丈目が吊り上がり気味の目を不思議そうに丸くする。ヨハンに顔を向ける。吹雪が彼の耳に口を寄せて、「恋の話さ」と囁いた。その途端に万丈目の頬がぱっと色付く。
「まさかとは思うが、おいヨハン貴様。まさかオレのいとしの明日香君にいらない横恋慕とかをしてるんじゃないだろうなぁ?」
 ヨハンは鼻息の荒い馬を宥めるような気持ちで、胸の前に腕を突き出した。万丈目は相変わらずだ。突付いてやるのは楽しそうだが、今やヨハンも彼と同じ穴の狢だ。同じ悩める者として声援を送りこそすれ、からかってやる気にはなれない。
「してないしてない。安心しろ。明日香にはそーいうんじゃなくって、どっちかって言うと今は、あ〜、恋のライバル? みたいなもんだからさぁ」
 自分の口から出たとは言え、何ともむず痒い言葉だった。背筋がざわざわする。恋のライバル。
 十代が聞いていたら爆笑するか、それとも怒り出すかだろう。最近の遣り合いから予想すると、悲しい事に後者の方が可能性が高そうだ。ヨハンが愛想笑いを向けると、万丈目はまるで時間が停まったような、奇妙な程の無表情になった。
「……なんだと……? 今、ヨハン貴様……何と……?」
 万丈目が、燃え尽きた真っ白い灰を思わせる虚ろな声を絞り出した。
「オレの……明日香たんが……恋?」
 しばらくの時間考え込み、ふと思い付いたというふうにヨハンに尋ねる。
「オレに?」
「違うと思う。可哀想だけど」
 ヨハンが頭を振る。万丈目も頭を振る。信じたくない、というふうに。
「あーあ、知らないボク。藤原、お茶おかわり」
「気付いてなかった方が不思議だよ。自分で煎れろ」
 ヨハンの向かいで吹雪と藤原が項垂れて目を閉じ、組んだ手の甲に額を持たせ掛けている。葬式の最中みたいな仕草だった。
 万丈目が震えながら声を上げた。
「……どういうことだ」



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