さくさく、枯草を踏んで歩くたびに二人分の足音が響く。 ボッシュは精一杯顔に不満を浮かべて振り返った。 「オマエ、さっさと帰れ。どっか行けよ」 何を考えているのか、リュウがついてくる。腑に落ちないという表情だ。 今すぐ殺してやりたいが、ボッシュは理解していた。傷が完全に癒えるまで、殺り合うのはまずい。 リュウは馬鹿だが、今や最強の竜だった。 不意打ちにでも、深い傷を負っているボッシュが太刀打ちできる相手じゃない。 苦々しくボッシュは自覚していた。気に食わないが、今はまだリュウに勝てない。 ちょうど具合が良いことに、リュウはボッシュに気付いていないようだった。 そんなになりが変わっちまってたかな、とボッシュは奇妙な気分だった。 確かにぼろぼろだ。だが竜の共鳴があるのに、リュウは本当にまだ解らないのだろうか? やはり、馬鹿である。 「……うーん。さっきから考えてるんだけどさあ……」 リュウは首を傾げて、ぐるっとボッシュの前に巡り、顔を見て、腕を組んで首を傾げた。 「きみ、どこかでおれと遭ったことないかい?」 「……知らないね」 「いや、なんかおれ、きみのこと知ってるんだよ。うーん……誰だったかな、なんか気持ち悪いなこういうの」 胸になにかつっかえているみたいな、もどかしくてたまらないふうな感じだった。 だから俺ぁボッシュだよ、とつい言ってやりたくなって、ああやばいな、と自制した。 オマエ馬鹿いいかげん気付けよと思う。いや、気付かれたらまずいのだが。 リュウがボッシュのことがわからないという事態が、非常に気に入らないのだ。 「そう言えばきみの名前をまだ聞いていなかったね。何て言うんだい?」 「教えない」 「あ、もしかしたらお尋ね者のヒトだろう。心配することないよ、おれレンジャーじゃないから」 「違う」 「なんか、きみの近くにいると妙な感じがするんだけどなあ」 ぎくっとした。リュウがいくら馬鹿でも、そろそろ気付いてもおかしくない頃だろう。 リュウは喉をさすって、変だなと言った。 「喉がじんじんする……」 確かそこは、ボッシュが獣剣で突いて一度殺してやった箇所だった。 (へえ、殺された傷が疼くんだ) ボッシュもそうだ。裂けた背中の傷が痛んで仕方がない。新鮮な発見だが、どうだって良いことだ。 無視したままずんずん森の奥まで歩いていくと、リュウは困ったようにボッシュを引きとめた。 「この先は危ない。何が出るかわかんないよ」 「オマエには関係ないだろ」 「危ないとこにわざわざ突き進んでいくヒトをほったらかしにして、帰れるわけないだろ? えーと……」 「……好きに呼べよ。俺に名前なんかない」 「え?」 リュウは変な顔をして、どういうこと、と訊いた。 「べつに、そのまま。今は俺の名前に意味なんかないし、名乗るのはおあずけってことになってる」 そう、リュウを殺すまで、ボッシュは名もない、他に目的も持たない、ヒトにも竜にもなりきれない中途半端な存在だ。 リュウを殺し、空を手に入れて、ようやく剣聖の名を継ぐことができる。 誇りを持って、剣聖ボッシュの名を名乗ることができるのだ。 今目の前にいるリュウを殺すまで―――― 「えー……それじゃかなり不便じゃないか? 街で登録もできない。メディカルセンターで治療も受けられないよ」 「必要ない。ほっとけば傷なんか治る」 「さっき死に掛けてたくせに、よくそんなこと言えるな、きみ……」 リュウは呆れ返ったようにお手上げの仕草をした――――なんだか馴染みのない仕草だ。 昔ボッシュが癖のようにやっていたものに、良く似ていた。 「あ、そうだ」 リュウは何か良いことを思い付いたようで、ぽんと手を打ち、笑顔を見せた。 「じゃあとりあえず、今だけの名前、おれが決めてあげるよ。呼べないとやっぱりやりにくいしさ」 「いらねー」 「そう言うなよ。えーとそうだな……バウワウとかどうかな?」 「犬かよ」 「じゃ、ンジョモ。ドボジテ、ウヒ、ツラヤバ、モヘンガ……なんか気に入ったのあった?」 「ぶっ殺すぞ」 「君はわがままだなあ。おれの友達みたいだよ……じゃあえっとそうだな、森のヒトだからモリとか、カワとか、アメとか……ソラ!」 ぱちんと手を打って、どうやらリュウの中ではもう決定してしまったようだった。 「ソラがいいな。今日からしばらく、きみはソラだ!」 「ハア? なに勝手に」 「いいだろ、名無しよりずうっとやりやすいよ。なあソラ、きみどこに住んでんの? 街じゃないんだろ? 釣り好き?」 「……なんでオマエ、そんなに馴れ馴れしいんだよ。帰れよ」 「いや、ごめん。街にはおんなじくらいの年のヒトいないし、いてもあんまり話したりできないし……」 リュウは妙に楽しそうにボッシュにじゃれてくる。 まるで、サードレンジャー時代のようだ。あの頃は相棒同士で、こうして他愛無いことを喋り合いながら、ふたりで任務についていた。 もしリュウが裏切らなかったら、きっと今もこうして、ふたりで何でもないことを話していただろう。 (諸悪の根源はオマエだってのに、なんでそんな笑ってられんの?) 忌々しくボッシュはリュウを睨んだが、リュウはまったく堪えた様子がなかった。 ああそうだ、とボッシュは思い当たった。 (こいつ、俺の八つ当たりにも慣れてやがったな……) リュウは弱いくせに、変なところで打たれ強かった。 けろりとした顔で辺りを見回して、どこで寝ようかと言った。 「ソラ? もしかして、この辺で寝泊まりしてるのかい? じゃあ今日は野宿かなあ」 「オイ、ちょっと待て。なんでオマエも一緒に来る気満々なんだ?!」 ボッシュがさすがに声を荒げると、リュウはちょっと居心地悪そうにそっぽを向いた。 「実は、その……おれ、家出してて」 「……ハア?」 「寝るとこもなくて、どうしようかなあって思ってたとこで……いや、誰かいてくれてほっとした。やっぱり一人だと、どうすれば良いのかわかんないし」 「……オマエ、妻子持ちじゃなかったっけ。なに? もう離婚の危機?」 「はあ?」 思わず訊くと、リュウは訝しげに眉を寄せて、なに変なこと言ってんの、と言った。 「おれ、そんなこと言った? 妻子なんかいないよ。多分一生いないと思う」 「……どういうことだ?」 リュウはあのニーナとか言う女と結婚して、子供ができたんじゃなかったのか? ボッシュは噛み合わない話に苛立ちながら、リュウに訊いた――――が、リュウはどうやら少し勘違いしたまま、答えを返してくれた。 「おれ多分、一生そういうふうに、誰かを特別に――――いや、大事なヒトはいっぱいいるけど――――することって、できないと思うんだ。子供も作れない身体だって言われたし」 「……オマエ、不能なの?」 「なっ、違うよ、もう」 リュウは真っ赤になって、失礼だな、と言った。 「変な話を振らないでよ。この話はこれでおしまい。きみには関係ないだろ」 読めないままそこでその話は終わってしまった。 ともかく、リュウはまだ独り身で子供もいないらしい。 内心拍子抜けしてしまったボッシュだった。 それからは他愛のない話をリュウからいくつか仕掛けてきたが、ボッシュは返事をしなかったので、一方的な会話だった。 辺りが暗くなると、火を焚いて二人で囲んだ。 ボッシュはなんとはなしにリュウに訊いてみた。 「オマエさあ、なんで家出なんてしてきたの」 リュウは生真面目な性質をしていた。 オリジンになったのなら、その役割を果たすだろう。 逃げることなんてありえない。 珍しくボッシュから話し掛けられたことにリュウは嬉しそうな顔をしたが、それも一瞬だけで、あとは居心地の悪そうな顔になってしまった。 「……言わなきゃ駄目かい」 「理由もないなら、すぐに帰れば」 「別にたいしたことじゃないよ。あんまり周りに迷惑かけないようにしようと思って」 「ふうん。意味わかんない」 「つまりだね、ソラくん。おれ、隠居しようと思って。仕事の辞表も置いてきたんだ」 リュウはいきなり変なことを言い出した。 オリジンを辞めて隠居だなどと、一体リュウは何を考えているんだ。 「おれ、なんか最近おかしくて」 リュウはふいに、そんなことを言った。 「痴呆症なのかもしれない」 ボッシュは呆れてしまって、ジジイかよ、と突っ込んだ。 「馬鹿? オマエいくつだよ。俺とタメだろ? 頭おかしいんじゃないの?」 「そうかもしれない……なんだか、最近ものがうまく思い出せなくて。本格的にボケがきちゃったりしたら、うちの妹、ただでさえ身体弱いんだから、介護とか大変だろうし……」 「じじくさいな、オマエ」 リュウは馬鹿なことを言っているくせに、顔は真剣だ。 「どこでも眠くなったら寝ちゃうし、今まで何をやってたのかふっと忘れちゃう時があるし……それで困っちゃって、それらしく隠居をしようと。毎日釣りをして暮らすんだ。余生は釣り師になったりして」 しばらく会わないうちに、リュウは妙に達観したというか……じじくさくなってしまっていた。 昔から確かに人生を惜しむ奴には見えなかったが、まだ若い身空で何を言っているんだかという感じである。 ふと、ボッシュは思い付いた。 (もしかして、こいつまだ俺に気付かないのって……その痴呆症とやらで、俺のこと忘れちまってるわけ?) リュウはのんびりした顔で、火に当たっている。 眠そうに目を擦って、ふわ、と大きな欠伸をした。 「ソラ、おれもう寝ることにするよ……今日は珍しく良く歩いたから……ねむく、て」 言い終わらないうちに、リュウはぜんまいが切れた玩具みたいな調子で動きを止めて、ばたんと後ろ向けに倒れた。 「……おい?」 リュウは返事もしない。 胸が呼吸の動きをしないことが気になって抱き上げてみると、驚いたことに心臓が止まっていた。 「……リュウ?」 呼吸もしていない。死んでいる。 まさかボッシュが手を下す前に、こんなにいきなり前触れもなくくたばることなんてありえないと考えながらしばし佇んでいると、急にリュウの目がぱちっと開いた。 ボッシュはびくっとして、背筋が寒くなった。幽霊とかそう言った類のものは苦手なのだ。 「あ、ソラ? お腹すいてない? 寝る前に、魚釣りに行こうか?」 「……いや、さっき食ったし。このまま寝るよ、俺も」 「あ、そう……じゃあ、おやすみ」 気圧されるようにしてつい返事をすると、またバネが外れたみたいになって、リュウはボッシュに抱き上げられたままだらんと手足を垂らして、死んだように眠ってしまった。 そうしている間中、一度もリュウの心臓の音は聞こえなかった。 (こいつ……もしかして、幽霊なんじゃないか? 自分が死んだことに気付いてねえんじゃねえの?) そんなふうにふと思ってしまうほど、リュウは冷たかった。 下層区にいた頃、ふざけあいながら触れたリュウは、もう少し温かかった。 リュウの顔色は青白かった。 昔だって下層区の貧相な食事で、決して血色が良いとは言えなかったが、今はもう本当の死人のようになっていた。 そんなふうにして、リュウはボッシュの前で無防備な身体を晒して眠ってしまった。 隙だらけだった。 めきっ、と右腕だけを変化させ、鍵爪の先を突き付けても、リュウはさっきのように目を覚ましたりしなかった。 今が唯一のチャンスだ。 リュウを殺すことができる。 |
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