頭の中から竜の声が聞こえた。 『――――解せぬ』 「ハア?」 チェトレの意図が知れなくて、ボッシュは爪は引っ込めないままにしばらく待った。 やがて腹の底まで響く声が、重苦しくのしかかってくる。 『アジーンが見当たらない』 「アジーン? こいつ、リュウじゃないのか?」 『それは汝の宿敵に相違ない。だが、竜の意思が見えぬ』 「……で、どういうこと?」 『用心するがいい。汝が突き付けたその爪、悪意を持って、自身に返ってくるやもしれぬぞ』 「あっそ」 アジーンが静か過ぎて不気味だと言いたいらしい。 ボッシュには知ったことではなかった。 リュウさえ殺せれば、アジーンなどどうでも良い。正直なところ、空だってどうだって良かった。 再び、リュウの喉を目掛けて、ボッシュは爪を振り下ろした。 すぐに、いつか貫いてやったように、柔らかい皮膚を破る感触が腕に伝わってくるはずだった―――― どうでも良い話を二人でしていた。 くすくすとリュウは笑っている。 ボッシュはにやっと顔を崩した。 確か、リフトの整備に関しての冗談だった。 小さなテーブルの上には、空の汚れた皿がいくつか積み重ねられていた。 リュウが食堂からいつものように調達してきた食事だった。 ボッシュは、朝はめったにレンジャー基地の食堂に出向かない。 食事よりも睡眠が重要だからだ。 リュウはそれを良しとせず、二人分の食事をテイクアウトしてくるようになった。 朝食の良い匂いで、ようやっとボッシュの目が覚めてくると、リュウは今日のメニューを読み上げて、やっと起きたあと呆れたように言う。 リュウは食事のできたて具合に非常にこだわりを持っているようだ。 いつもボッシュがスープに口をつけた時にも、まだ熱いくらいだった。 「朝ごはん食べると、今日も一日がんばろうって気分になるね」 「ハア? 俺はこんな貧相な支給食料なんかで簡単に餌付けなんかされないっての、ローディじゃあるまいし」 「いらないなら半分もらったげるけど」 「相棒、オマエが俺のメシに手を出すなんて、1000年早いんだよ」 大体の日は、安価なハオチーのスープだった。 それからナゲットの卵の目玉焼き、コーヒー。 リュウはあまりコーヒーが好きではないと見えて、カローヴァのミルクをコップ一杯だけ、トレイに乗せていた。 どうやらちびなのを気にしているらしく、今日こそ大きくなるぞ、なんて頭の悪いことを毎朝言っている。 「オマエ、でかくなりたいならまず中身からだ。コーヒーくらい飲めるようになったら?」 「基地のコーヒー、苦いし……なんか身体に悪そうな色してるよ、それ」 「ふん、まずいがミルクよりまし。お子様かよ」 「……ボッシュのだって、もうすでにコーヒーじゃないし。ミルクと砂糖、入れ過ぎ」 「俺は甘いのが好きなんだよ」 リュウがぼそぼそと、ボッシュだって子供だよ、と呟く。小さな声でだ。 ボッシュはそれを耳ざとく聞き付け、リュウの頬を抓る。リュウは悲鳴を上げて、やめてよう、と半泣きだ。 「ボ、ボッシュ、なにかあるとすぐおれのほっぺた抓る……! 伸びたらどうしてくれるんだよ!」 「今よりもっと面白い顔になるね」 「ひ、ひどいや……」 解放されると、リュウは頬をさすって、ほっと溜息をつく。 それから食事に専念する。 ボッシュは行儀良く、リュウはディクが餌を食うみたいにがっつく。 汚い食べ方だが、非常に美味そうに食う。 こんなまずい飯を、良くもそんなふうに食えるものだとボッシュは思う。 食事が済むと、洗面所の権利をボッシュが独占する。顔を洗って、歯を磨いて、髪に丁寧に櫛を入れて――――そうしている間、リュウは今日の任務に必要な物資をバックパックに詰め込んでいる。 きずセットが五個、きつけ薬、予備の弾薬、小型の携帯ナイフ、その他いろんなものだ。 ボッシュはそれらの管理を全てリュウに任せきっている。 信頼してやってるんだ、と言ったら、リュウは俄然はりきって、熱心に点検している。 実際の所は面倒臭いからボッシュはやらないというのが真相なのだが、まあリフトの戦闘においてリュウが役に立つことは少なかったので、このくらいはやってもらわなくては相棒とは言えない。 朝の慌しい一時がじきに終わる。この後二人は隊長室に出頭し、今日の任務を受託し、リフトに出てディクを掃討するか、物資の護衛でもするか、それとも運悪く下層区に潜り込んできたトリニティの逮捕に出掛けていく。 ルーチンに沈んでいく。平坦で変わり映えのない、平凡な一日の始まりだ。 昨日もそうだ。今日もそうだろう。明日だってきっとそうだ。 ボッシュ=1/64が昇進して、セカンドレンジャーになり、中層区勤務になって、リュウとのパートナーの任を解かれるまでずっとそうだ。 だが、ずっとこのままでいられると思っていた。 変わることが想像できなかった。 お互いがいなくなって、誰か別の人間と、こうやって相棒同士、いや、年齢相応の友達と言ったって良い関係を構築し、毎日を過ごしていく――――そんな情景が思い浮かばなかった。 リュウはふっと顔を上げて、なんとはなしに聞いた。 「このままずっといるよね?」 ボッシュは顔も上げずに、履きにくいブーツに苦戦しながら答えた。 「ああ、いるさ」 それで不安なんか、どこにもなくなってしまった。 これから二人でリフトへ行くだろう。バイオ公社かもしれない。 運が悪ければ生ゴミの臭いがひどい廃物遺棄坑に、最悪についていなければ最下層区の地獄の下水道に回されるかもしれない。 今日も一日が始まる。永遠に続く螺旋に組み込まれた、ちっぽけな日だ。 何も変わらない。 変わることなんて、あるわけ、ない。 ボッシュは他人事のようにそれを見ていた。 どうしてか、目の前で自分が喋っているくせに、どうも実感と言ったものが沸かないのだった。 『ボッシュ』はジャケットを着込み、のろまのリュウを小突いて急かした。 「早くしろよこの馬鹿。遅れると俺までとろいと思われるだろ」 「うっ、だってそれは、ボッシュがぎりぎりまで洗面台、占拠してたせいじゃ……」 「俺の、せいだっての?」 「うわああ、か、髪の毛引っ張らないでっ」 纏めた髪の束をぐいっと引っ張られて、リュウがじたばたして抗議した。 「オマエの髪さあ、きっと俺に引っ張られるためにこんなに長いんだよ。なんか引っ張ってくださいって言ってる、絶対」 「い、言ってないよー! ……でも、そうだなあ……そろそろ髪の毛、切ろうかな。邪魔だし、汚いって言われるし……」 「切ったらオマエ、俺が引っ張れなくなるだろうが」 「ひ、引っ張らなくて良いんだってば」 リュウが慌てて括った髪を守って、頭を押さえた。よっぽど痛かったらしい。涙目になっている。 『ボッシュ』は肩を竦めて、リュウの頭をぽんぽんと叩いた。 「オマエ、きっと短いの似合わないよ。ただでさえ地味なんだから、他の奴らに紛れてわかんなくなるだろ。この基地で男のくせに髪なんか伸ばしてる悪趣味、オマエだけだし」 「うっ、そ、そう言えば……って、おれのこれ、目印なの?」 「うん」 「へー」 リュウはしばし腕組みして考え込んでいたが、ぽん、と手を叩いて、そうなんだあ、と言った。 「じゃ、髪切っちゃったら、ボッシュに見付けてもらえなくなるね。伸ばしとくよ、このまま」 「そうしときなよ。俺が上に上がっていなくなったら、ざっくりいっちゃってもいいけど」 「あ……いなくなっちゃうんだね、そういえば」 「そりゃそうだろ?」 『ボッシュ』はお手上げの仕草をして、リュウを鼻で笑った。 「俺ぁボッシュ=1/64だぜ? 超ハイディの超エリート。超スゴいわけ。わかる?」 「超、つけすぎ……」 「ともかくそのうちめちゃめちゃ偉くなっちゃう。そしたらオマエ、自慢できるよ、リュウ」 リュウは微妙に何か言いたそうな顔でいたが、おずおずと顔を上げ、自信がなさそうに言った。 「……で、でも……いっしょにいられるよね?」 「ああ。いるよ」 「おれ、サードどまりなんだけど。ローディだし、上には上がれないよ」 「平気平気。きっと、ずーっとオマエ、俺と一緒にいるよ」 『ボッシュ』はにっと笑って――――そこばっかり、わけのわからないことを言った。 「「今日」はきっと永遠に続くよ、リュウ。俺はオマエとずーっといっしょだ」 リュウは、やはり頭が弱いせいで理解できないようだったが、ほっとしたように笑った。 二人はとても仲の良い相棒同士に見えた。 二人共が笑って、ふざけあっていた。 離れ離れになる未来なんてないのだと確認しあって、安堵していた。 片割れが裏切って空を開ける未来なんて、ありえないように見えた。 「――――?!」 はっとボッシュは我に返った。 今しがたまで、奇妙な光景が目の前に広がっていた。 サードレンジャー時代の、ボッシュとリュウの二人がいた。 友人同士のように笑い合い、ふざけあい、じゃれていた。 (……気持ち、悪い……。なんだ、今のは。なんだって今、あんなつまらねえことを思い出すんだ?) 喉を貫いたはずだが、リュウは血も流していなかった。 首と胴体がまだくっついていた。 ただ、喉もとに赤い奇妙な模様が、うっすらと浮かび上がっていた。 それはドラゴンの浸蝕の際に現れるものに良く似ていた。 『引き込まれたか』 チェトレの声が聞こえて、ボッシュはようやく理解した。 今のは、リュウの夢だったのか? それとも、再現された記憶を覗いていたのだろうか? まだはっきりとはわからなかったが、何故かボッシュは自分が安堵していることに気がついた。 ボッシュが、リュウの中から消え去っていなかったことにほっとしていたのだ―――― 「――――ちくしょう!」 がつっと地面を殴り付けて、ボッシュは忌々しげに唸り、叫んだ。 「何故だ……なんで、こんな……余計なことばっかり、浮かぶんだ。俺は、こいつを殺せりゃそれで良いはずだ……憎んでいる、はずだ……」 リュウの喉を突き、引き裂いて、臓物を引き出し、心臓を食らい、肺を握り潰す――――そう空想することで、ボッシュの憎しみは満たされてきたはずだ。 「何故できない――――俺は、なんでオマエを……」 かすかにリュウが身じろぎした。 ボッシュははっとして、爪を引っ込めて、様子を伺った。 殺気に反応して目を覚ましたのだろうか? (……遅えよ) 本当ならもうとっくに殺してしまえたはずだ。 全身ばらばらに引き裂いてやっていたはずなのに、リュウはうっすらと目を開いた。 「……あ、あれ?」 寝惚けた顔で、二三度頭を振って、ごしごしと目を擦って――――そして、リュウはボッシュに気付くと、少し首を傾げた。 妙なことを、言った。 「……きみは、誰だい?」 ボッシュは驚いて、目を見開いた。 リュウは眠る前に笑いながらボッシュにじゃれていたくせに、なんにも覚えちゃいなかった。 |
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