「へえ、おかしなことになっちゃってたんだなあ、今回は」 泉の水で喉を潤して、濡れた口を拭い、リュウが他人事のように言った。 そして頭を下げた。 彼は「ごめんね」ときまり悪そうに頭を掻き、迷惑を掛けたことをボッシュに謝罪した。 「いつもこうなんだ……自分がちょっと前までなにをやってたか、すっぽり忘れちゃう。街を出てきて正解だったね。おれは痴呆症なんだ」 何とも言えない。 ボッシュが黙ったままでいると、リュウはおずおずと、少し居心地悪そうに訊いてきた。 「えっと、それで……きみの名前は? ごめん、おれきっと忘れちゃった。聞いたよね?」 「ソラだよ、リュウ。オマエがつけた。しばらくは、この名前を使えとさ」 「おれ? あだ名かなんか?」 「さあな……そうじゃねえの」 「ふーん」 非常に頼りなく、リュウは頷いて笑った。 そして、名付け親の責任感ってものがなってないなあと俯いて溜息を吐いた。 どうも情緒不安定に見えた。 いや、すべてが不安定に見えた。 これが、空を開いたリュウの代償なのだろうか。 父親を、家族と言って良い人達を、地位と家柄とプライドと、目に見えてボッシュ=1/64を証明するすべてを失ってしまったボッシュと同じように、すべてを手に入れたはずのリュウは、その記憶を少しずつ奪われていくのだろうか。 簡単に見積もってしまえば、どちらも同じくらいろくでもなかった。 世界中のすべてがリュウのものになってしまったって、リュウ自身はそれをいつか忘れてしまうのだ。 そんなものは何もないのと変わりはない。 「なあ、おれたちどのくらいいっしょにいたんだ?」 「ハア?」 「いや、ちょっと……なんか心配になっちゃって。街はおれがいなくても平気なんだろうけど……やっぱり地上は危ないし、ちゃんとこっそり地上の猛獣とかを近付けないように守らなきゃ」 「オマエ、家出してきたつってた割に帰る気満々じゃん」 ボッシュは呆れてしまった。 リュウは痛いところを突っ込まれて、しょぼくれてしまった。 だって心配なんだと彼は言った。 「みんなが危ない目に遭うのはいやだし……それに、おれいつかみんなの顔も忘れちゃうかもしれない」 リュウはそれが怖いと言った。 「何にも忘れるのはいやなんだほんとは。今にも、もう誰かの顔を忘れてるかもしれない。みんな好きでいられるまま死にたいし」 リュウの口から、自棄とも取れる言葉を聞いて、ボッシュは眉を顰めた。 生き汚いリュウが、自分が死ぬなんて口にすることが、ひどく意外だった。 リュウもやはり変わってしまったのだろうか。あんなに栄光を戴いていたボッシュが、何一つ自己を証明することができなくなってしまったように。 ボッシュは、力なく蹲って空を見上げているリュウを見た。 その顔には生気がない。真っ青だった。 「……オイ?」 まるで死人みたいだった。 リュウは憔悴しきっていて、少しだけ苦しそうに咳込んだ。 口を抑えた手が真っ赤に染まった。 ボッシュはそれを見て、ぎょっとしてしまった。 リュウは緩く手を上げて、なんでもないんだと言った。 「いつものことだよ……ごめん、びっくりさせて。持病みたいなものだから、大丈夫、おれ死ねない身体だから……」 弱々しく微笑んだリュウの顔、いつかボッシュはそれと同じものを見たことがあった。 リフトの事故に遭った時だ。重症を負い、死に掛けたリュウの手を取った時だ。 『大丈夫ボッシュ、心配ない。おれほらローディだろ。丈夫なだけが取り柄だから、大丈夫、きみの失敗になんて、おれは絶対ならない……』 パートナーを死亡させて、書類にボッシュの汚点として残るんじゃないかと気が気じゃなかったあの時のことだ。 サードレンジャー時代、相棒同士だった時のことだ。 リュウはボッシュが焦っている理由を悟って、ボッシュを安心させようとずっと無理を通して微笑を形作り続けていた。 今でもその時リュウがぽつりと零した言葉を覚えている。 『おれ、ボッシュがもしかしたら、はじめて、友達、とか……ちょっと、思ってくれてたかなって……ごめんね。おれみたいなの、友達だなんて……夢みたいなこと、思って』 レンジャーなんてとうの昔に首になっているだろう。すべては変わってしまった。だが、今になってもリュウの言葉はボッシュの胸を刺した。 誰からも相手にされないローディのリュウ。 唯一信頼した相棒から使い捨てのきく道具のように扱われて、それからだったろうか。 リュウは自分の身体を、ディクの爪とボッシュを隔てる壁のように使うことがあった。 何の気負いもなく、ふいっと小さな身体を滑り込ませてくる。 爪が肩を破いても痛みなんて感じていないように、ただ注射の薬液が体内へ沈み込んでくる光景を見て顔を顰めるように、少し苦く目を眇めた。それだけだった。 ボッシュがそれについて、なんであんな馬鹿なことしたんだと叱責すると、リュウは何が悪かったんだろうかというようにけろりとした顔でこう言うのだ。 『何言ってるの、ボッシュ? だっておれ、ローディなんだもん。しょうがないよ』 リュウの剣の腕は、ローディにしては悪くなかった。 ただボッシュと比べることなんてできなかった。 リュウはそのせいで、劣等感と自己卑下を胸に飼っていたのだろうか。 ボッシュを圧倒的な竜のちからで捻じ伏せた時、彼は満足しただろうか? 今となってはなにもわからない。 リュウはひとしきり咳込んで、肺に溜まっていた血を吐き出してしまうと、泉で手と口を濯いだ。 「はあ。ごめん、変なとこ見せて。ええと、ソラ? だっけ。うん、すごくいい名前だよ。綺麗だ。おれがつけたなんて、信じられないなあ」 「……そりゃどうも」 ひゅうひゅうと喘息のような不安定な呼吸のまま、リュウは微笑んだ。 ボッシュは今しがた彼が言った言葉が気になって、訊いてみた。 「オマエ、死ねないってどういうこと?」 「え?」 リュウはちょっと首を傾げて、うんそれ、と言葉を濁すみたいにして答えた。 「次の人見付けるまで、死ねないんだ」 「どういうこと?」 「うん……」 リュウは俯いてぼそぼそと何か言ったが、それは何の答えにもなっていなかった。 「……まあいいけどオマエ、もう帰れば。どうせ方向音痴だから道わかんないだろ。送っていってやるよ」 ボッシュがそう言って立ち上がり、埃と土を叩いてリュウを呼ぶと、彼は変な顔をした。 「え? で、でも」 「いいから帰れ。そんで、メディカルセンターにでも行きなよ。病死とか衰弱死とか、そんなつまんない死に方なんてさせやしないよ」 「うん……」 リュウはよくわかっていなさそうに首を傾げていた。 ボッシュは彼の腕を取って、手を繋ぎ、引っ張り起こしてやって、じっと顔を覗き込んだ。 「俺のことを覚えてるうちは、生かしておいてやるよ、リュウ」 「え……」 目を覗き込んだ。 その奥の方には、青い空が映っていた。それからボッシュの顔。 大分昔よりも薄汚れて、髪ももう少しで括れるほど、肩につくくらいに長い。 昔のリュウとおんなじくらいだ。薄っぺらく、マットな目をしていた。 野心を秘めたぎらぎらした目は、どこかへ行ってしまった。 あるのはただ、暗い復讐の火が、ちろちろと燃えているっきりだ。 ボッシュはこんなにも変わってしまったのに、リュウはなんにも変わっていなかった。 真っ直ぐな目だ。 世界で一番自分が正しいと信じられるものの目だ。 そして、自分の正義のためならば、相棒なんて平気で裏切ることのできる目だ。 もうこの純粋なまでに真摯な瞳を信じないと決めていた。 だが、昔はそうだ、ふと、思い出した。 ボッシュはその目が好きだった。 下層区の青い偽物の空よりもずっと綺麗で、本物の空はきっとこんな色なのだろうと思っていた。 だが、今になって見ると、それすら本当ではなかった。 リュウの目は空よりずっと綺麗だ。まじりっけない青だ。 この目を繰り抜いて食ってやりたい衝動にかられる。 視線に引き込まれ、沈み込んで、リュウの一部になってしまうような錯覚すら覚える。不思議な目だ。 ふいにリュウの目から、すうっと涙が零れた。 「あっ、あれ? なんで泣くんだろう?」 リュウは何にもわかっちゃいないようだった。 狼狽して、目を擦り、涙を拭った。 だがそれは幾筋も幾筋も止まることなく流れて、じきに嗚咽を呼び寄せてしまった。 リュウは声を殺して泣きながら、心底不思議そうにボッシュを見上げていた。 「なっ、なんでだろ? 止まらない……きっ、きみ、誰だ? なんでおれ、きみを見てると、泣きたくなるんだろ」 「わかんないの?」 「わ、わからない……ごめんよ、なんか、すごいおれっ、全部、ぐちゃぐちゃになっちゃったみたいで……わかんないよ……」 「あっそ」 思い付いて、ボッシュは少し屈んで、リュウの涙を舐めた。 塩辛い味が、口の中に広がった。 リュウはぼおっとした顔のまま、また繰り返した。 「きみ……だれ……」 答えず、ボッシュはリュウの手を引いて歩き出した。 街が見えてきた。 リュウはもう涙は引っ込めてしまっていたが、不可解な面持ちで、ボッシュに引っ張られるままについてきていた。 その街の北は開けてはいるが、道と呼べる道もない。 森を出たばかりでリュウを街へ押しやって、突き放してやると、一瞬リュウはひどく不安げに眉を顰めた。 「なに?」 「あっ、え? あ……ご、ごめん。わざわざ連れてきてくれて、ありがと……」 リュウは、差し出し掛けた手を居心地悪そうに見ていたが、やがてまた困ったような変な笑い方をして、きみはどうするの、と言った。 「ソラ、泊まるとことかあるの? 森の中は危ないよ。良かったら、街に来れば? おれんちに住めばいいよ。わりと広いし……おれ、同じくらいの年の友達とかいないし、だから……」 ボッシュは言い募るリュウには返事をせず、背中を向けた。 ただ、たった一言だけ、リュウに告げた。 「オマエがホントに俺を忘れちゃったころにまた来るよ。今度は殺す。必ず、殺してやる」 「え?」 リュウは困ったように黙り込んでしまった。 どういうこととも訊かず、ずうっとその場に佇んでいた。 きっとずうっとボッシュの背中を見ていたろう。 ボッシュはふと、振り返った。 もうリュウの姿は木々に阻まれて、見えなかった。 ◇◆◇◆◇ その背中が見えなくなって、懐かしい焦燥を感じた。 リュウは置き去りにされたような孤独を感じて、眉を顰めた。 街に帰ってきたのだ。ここはリュウの巨大なホームだ。 帰るべき場所である。 愛すべき人間たちがいる。 大事な仲間がいる。 だが、一番大事なものに置いてけぼりにされたような寂しさがリュウを苛んでいた。 (あれ……変だな。それにしても、ソラ、なんであんなこと言うんだろう? おれなんかしたっけ。おれ、は……) ――――ボッシュ! ボッシュう、どこお?! 頭に突き刺さるように、いきなり自分の悲鳴が、リフトの反響の臨場感まで伴って響いた。 リュウはひどい頭痛を感じて、その場に蹲り、頭を抑えた。 「――――っつ! いった、痛い……なんだ?」 頭を振って痛みを振りのけようとしたが、上手く行かなかった。 「リュウ」は相変わらず悲鳴をあげている。泣き声まで聞こえる。 真っ暗な坑道で、絶望に浸りきっている。 ――――お、置いてかないでよボッシュ! 待ってよ……くっ暗いの、やだよう……。 「ボッシュ?」 その名前を呟くと、急にさあっと霧が晴れていく気がした。 まず身体が先に動いた。 その背中が消えていった森の中へ、駆け出していく。 喉が熱い。 いつか彼に貫かれた喉が熱い。痛む。 「ボッシュ――――!!」 リュウは叫んで、まるで悲鳴のように、彼を呼んだ。 「お、置いてかないで! おれっ、おれ、きみが……!!」 張り出している枝を掻き分け、走って、走って、共鳴する竜のもとへ――――曖昧だったリュウの思考が急激に覚醒し、生命が再び燃え上がった。 「きみにっ、謝らなきゃいけないことが……話したいことがいっぱいあるんだ!! おれは、きみに――――」 だがリュウがボッシュに届くことはなかった。 視界が急激に回転し、ひどい眩暈を感じて、リュウは転倒した。 泥だらけになりながらも、立ち上がろうともがいた。 だが、身体が動かない。 ひどい焦りといっしょくたに、『ボッシュ』の姿が見えた。 彼は憐れむように、そして少しだけ叱責する調子で、リュウを見ていた。 『相棒? どうしたの? また迷って、危ない目に遭ったって知らないからな』 「ボッシュ……?」 リュウは目を見開いて、『ボッシュ』の真っ赤な瞳を見た。 どういうことだろう。 ボッシュが二人いる? 『さ、帰ろう。悪い夢だよ。ぜーんぶ、悪い夢。少し眠りな、すぐに――――』 『ボッシュ』がリュウの頬に触れ、軽く唇を合わせた。 そうすると、またまどろみがリュウに訪れた。 さっきまであんなに明瞭だった思いでたちが、唐突に色褪せ、かたちを失っていく。 リュウの感情が、記憶さえも、はっきりしたイメージを無くしていく。 「いやだ……わ、忘れ、させないで」 ぼろぼろと涙を零して、リュウは『ボッシュ』に縋った。 「わ、忘れたくない。忘れたくない……おれはきみを……忘れ、させないで……」 やめてくれ、とリュウは『ボッシュ』に懇願した。 『ボッシュ』は微笑んですらいた。 いつだって、リュウの望みを彼が聞き入れてくれたためしはない。 何だって綺麗に切り捨ててしまえるのだ。彼はそういう人だった。 『必要ないよ、相棒。辛いことなんか、オマエの中から全部消してやるよ。だからもう泣くなよ』 リュウの中から、大事な記憶が消えていく。 空を開いた時、誰がいなくなったか。 それまで見えていた背中は誰のものだったか。 初めて、本当に「悲しい」ということを教えてくれたのは誰だったか。 そのひとの、名前は―――― 自分と同じ目をしている『ボッシュ』に、リュウは縋り付き、懇願した。 『それ』が誰なのか、リュウはもう理解してしまったのだった。 「やめてよアジーン……おれからボッシュを取り上げないで……」 『変なことを言うなあ。俺が『ボッシュ』だよ、相棒?』 『ボッシュ』はまた、いつものあの「ハア?」とでもいうような、人を小馬鹿にしたポーズでリュウに笑い掛ける。 『この世界でオマエに大事なものなんて、なんにもないんだよ。俺の中でだけ幸せでいりゃいいの、リュウ』 『ボッシュ』はリュウを優しく抱き締めてくれる。 きっと生涯本当のボッシュには望めないことだ。 でも、この『ボッシュ』なら、リュウが望めば何だって叶えてくれる。 やさしく、してくれる。 「……おれを……殺して、ボッシュ……」 もうどんなに探しても見えない背中に懇願して、リュウは目を閉じ、眠りに堕ちた。 幸せな夢ばかりの眠りに。 ◇◆◇◆◇ 少し寒くて、リュウは目を覚ました。 起き上がるとそこは、見覚えのある場所だった。 街の北だ。プラント集合区画の端っこも端っこの外れである。 「昼寝……するにしても、うーん、思い出せない。なんでこんなとこで寝てるんだろおれ……」 早く帰らなきゃ、みんな心配するだろうなあ、とリュウはぼんやり考えた。 日はもう沈み掛けていた。 ふっと振り返った先の森には、もう暗い闇が落ちていた。 リュウは起き上がり、服の埃と泥を払って、街へ向かって歩き出した。 また記憶が飛んでいる。 おれほんとしょうがないなあ、とリュウは嘆息した。 |
Back * Contenttop * Next