動きはのろい。通常のヒトよりも、遅いくらいだ。 ただ見た目が非常に恐ろしく、どろどろに溶けた顔だとかは特別に気色悪いったらない。 「チッ! オラッ、凍れ!」 にじり寄ってきた黒い霧のようなものをグレイゴルで凍らせておいて、蹴りをくれてやると、あっけなく砕けて崩れた。 だが今しがた散らばった欠片は、すぐに地面に吸い込まれ、またボコボコと土を沸かせた。 単体は弱いが、数が多い上にきりがない。 化け物どもに、意思の光は宿っていなかった。 近くにこの怪物どもを操っているもの――――例えばカロンやブレイクハートのようなものがいるはずだとボッシュは踏んだ。 まずはそいつを片付けなければ、この怪物たちは永遠に増殖し続けるだろう。 「オイチェトレ! 本体はどこだ?! そのくらい探せ、この役立たずが!」 竜の応えはなかった。 ボッシュは顔を顰めて、またのろのろと近寄ってきた霧の塊を氷結させた。 そのまま踏み台がわりにして、ディクどものサークルを抜ける。 「シカトかよ……! まったく腹が立つ奴だぜ!」 舌打ちし、ボッシュは森を走り抜けた。 どこか広い場所がいい。 視界が良く、遠くまで見通せる場所がいい。 そうすれば少しは戦いやすくなるはずだ。 なにしろ、暗闇の森はいつのまにか変質してしまっていた。 森そのものが誰かの胎内ででもあるように、草、木々の葉の一枚、それぞれが呼吸をしているように揺れていた。 茂みの陰には、あの怪物たちが潜んでいた。 突然、目の前に一本の木が立ち塞がった。 「げ」 ボッシュは思わず顔を顰めた。 幹には顔のような模様が浮かび上がっていた――――いや、それが模様でないことは、空洞の中で赤い光が、ぎょろっとボッシュを睨んだことで知れた。 それはボッシュを認識しているのだった。 まるで手を大きく広げるように枝を張り出して、根っこの部分が大きく脈打ち、節足動物の足のような具合で、移動していた。歩く木。そんなもの、普通なら冗談だと笑い飛ばしているはずのものが、ボッシュの目の前に実際に立ち塞がっているのだった。 おまけに、好意的とはどう見ても取れなかった。 木の化け物は、枝を揺らし、そのとげとげした木の実をボッシュに向かって飛ばしてきた。 どうも見覚えがあると思ったら、空へ出てすぐの頃に、一度口に入れて死に掛けた果実だ。 「気色悪い!」 根元を狙って氷結魔法を放つ。木はその場に固めて動きを封じてやったが、依然木の実は飛んでくる。 知らなかったとは言え、こんな気持ちの悪い植物の実を胃の中に入れたってことに、ボッシュは吐き気を感じた。気持ちが悪い。 『リンク者よ。何故戦わぬ。凍結させるだけでは何も終らぬ』 チェトレの無責任な野次が聞こえて、ボッシュは声を荒げた。 「うるせえ! 文句あるならオマエやれ! 気色悪いから触りたくないんだよ!」 頭の中に、臆病者のリンク者、なんていう意識が流れ込んできて、ボッシュは正直頭にきた。可愛げのない竜だ。 別に恐ろしいわけじゃない。気持ちが悪いだけだ。 そうしているうちに森を抜けていた。 ざわざわと枝を揺らしている木に、明るい月の光が混じりはじめた。 そして気付いたのだが、どうやら明かりの下では例の怪物たちは、脆弱であるようだった――――うっすらと姿が透けている。 畏れるようにボッシュに背中を向け、だがじいっと凝視する視線を感じた。 怪物たちに意思はないようだったが、その奥にあるものの悪意を感じた。 少しばかり懐かしく、郷愁と憎悪をないまぜにした感情が向けられた。 「誰だ!」 ボッシュは叫び、そして気付いた――――気を取られているうちにいつのまにか森を抜けていた。 街が見下ろせる高台。風が強く、夜の街の灯りが見えた。 ざあっ、と辺りが暗くなった。 どうやら一瞬だけ姿を見せた月が、曖昧な雲に覆われてしまって、見えなくなったのだ。 どん、と背中に衝撃があった。 突き飛ばされた先には、はるか眼下の荒野が見えた。 振りかえると、無表情の獣がいた。 その目は真っ赤だ。どこかで見た色だが、思い出せない。 「うわあああッ!!」 落下の心許無い感触があって、頭の上から、まるでボッシュを押し潰そうとでもするように、黒いディクたちが次々に飛び降りてきた。 そうしてボッシュは落ちていった。暗い闇へと。 ◇◆◇◆◇ 『もうすぐ会えるよ』 穏やかな、自分の声が聞こえた。 優しげで、俺ってこんな声が出せたんだ、とボッシュは変な感心をしてしまった。 少し、布の擦れる音。ベッドが軋んだ。 あの少し動くだけでぎしぎしうるさい音は、下層区のレンジャー基地の、安物の質素な二段ベッドのものだ。 『もうちょっと、ガマンな。できるだろ? うん、大丈夫だよ。必ず迎えに行くから――――』 声はボッシュのものなのに、その喋りかたは、穏やかな優しい口調は、相棒みたいだった。 声は誰かに向かって、少しだけ気遣わしげに掛けられていた。 誰かが小さな声で返事をした。 小さ過ぎて、何を言っているのかはわからなかったが――――それは、昔のリュウのものだった。 あの頼りない、自信無さそうな返事。 真っ暗な坑道だ。 ディクの鳴き声が遠く聞こえる。 物資のコンテナの陰に身を潜めて、音もなくすすり泣いているのは、相棒のリュウだった。 どうやらボッシュが置き去りにしたせいで、ひとりっきりだ。 動くに動けず、そのまま蹲って泣いている。 良くある話だった。 ボッシュがリュウを気遣っている暇がない時に――――たとえばカローヴァやグミクリスタルに遭遇してしまった時。ランタンバットの巣に迷い込んでしまった時。ママナゲットに追い回されている時なんかは、ボッシュがディクを相手にしているうちに、リュウがどこかへ行ってしまう。 見つけ出して手を繋いでやるまで、リュウは泣きながらこうして座り込んでいた。 暗闇で狭い場所が苦手らしい。ならレンジャーなんかやめればいいのにといつも思うのだが、リュウは大丈夫大丈夫なんて説得力のない言葉を繰り返す。 どうもそれは、自分自身に掛けられているものらしかった。 『ボ、ボッシュ……まだかなあ?』 リュウはおどおどとして、びくびくと首を竦めながら、時折こそっと注意深く顔を出して、線路を覗う。 ボッシュが見つけられなかったらどうしようと、それが不安で仕方がないようだった。 『お、おれ、ここだよー……は、はやく見つけてよ……』 ぼそぼそ呟いて、また首を引っ込める。 膝に顔を埋めて、また声を殺して泣く。 自力で基地に帰還しようという考えは、リュウにはなかった。 当然だ。リュウは頭が悪いので、レンジャーになりたての頃なんかは、ナビマップの見方もわからなかった。 そのまま奥へ奥へ行ってしまい、いつだったかようやっとボッシュが彼を見つけ、オマエもうその場を動かずじっとしてろと叱ったら、リュウはそれからは素直にそこで待っているようになった。 暗闇の中で、じっと息を顰めて、ずっとボッシュを待っているようになった。 基地にはパートナー揃っての帰還が当たり前だった。 一人で戻ってボッシュの書類にマイナスが付くことを、リュウは、ボッシュも怖れていた。 ようやっと見つけてやると、リュウは涙と鼻汁で顔をぐしゃぐしゃにして、よかったああなんて泣き出して、ボッシュの手をぎゅうっと握った。 このまま離さないでと懇願した。 だが、今こうして闇の中で待っているリュウには、一向に救いが訪れなかった。 待っても待っても、ボッシュは来なかった。 『お、おなかすいた……痛い、寒い、眠い……うう』 彼の中には、ボッシュは誰よりも強いので、何か、例えばディクに襲われて傷を負っているだとか、落盤に巻き込まれただとか、そんなことがあるわけないという信念があるようだった。 そのせいで、自分にはなにもできることがないと卑屈に考えていた。 『ボ、ボッシュう……おれ、ここにいるよ……』 リュウはいつまでもいつまでも待っていた。 もうボッシュが迎えにきてくれることはないということを、彼は信じず、待っていた。 もう二年も前にその手で殺してしまったボッシュを待っていた。 傷も癒さず、なんにも食事を採らず、眠りもせず、ただ神経をぴんと張詰めて、少し尊大なゆったりとした足音を探していた。 もう二年もずうっとそうしていた。 闇の中で衰弱しながら、まだ待っている。 いつか迎えにくるはずのボッシュを、ずっと、ずっと。 ◇◆◇◆◇ 青い灯りで我に返った。 強い、眩い光だ。 勝手に突き出されていた腕から生み出されていた。 いつのまにか姿は変化していた。黒い手、黒い翼、異形だ。リュウと同じもの。 チェトレのドラゴンブレスが闇を薙ぎ払っていた。 やるならさっさとやれよとボッシュはぼんやり思った。 頭のあたりにくっついていた黒いもやのようなものも、綺麗に消し飛んでしまった。 今のディクが、ボッシュに奇妙な幻覚を見せたのだろうか? 『ふがいないリンク者だ。我の力がなければ、やすやすと侵入すら許す』 「……それ、さっきの仕返しかよ」 どうやら役立たずと罵ったことを根に持っていたらしい。 陰気臭いドラゴンである。 ボッシュはのろのろと顔を上げ、なあ今の何と訊いた。 チェトレはなんにも答えず、そのまま黙ってしまった。 ボッシュは肩を竦め、ふと気付いた。 光の翼は青白く世界を照らしていた。 怪物たちは怯え、その光の届く範囲には立入っては来なかった。 どうやら光に極端に弱いようだ。 「朝がくれば……消える、か……?」 月の位置からして、日の出まで数時間と言ったところだろう。 ボッシュは立ち上がって、歩き出した。 『どこへ行く』 こんな時ばかり、チェトレは訊いてきた。 ボッシュは顔を顰め、街だよと答えた。 「明かりの中にいれば、アイツら寄って来ないんだろ。相手するのもめんどいし」 『脆弱なリンク者よ』 ボッシュは、うるせえな、と竜を罵った。 そのまま歩き出した。 街へ行く。あそこにもこの森と同じように、怪物が現れているのだろうか? |
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