東の空が薄く、紫色に燃えはじめた。
 特別に待ち望まれた夜明けだった。
 透明な灰色の影が、まだ青暗い空の下で踊っていた。
 無数の怪物が、所在なく、力なく鳴いていた。親を呼ぶ幼態のディクがそうするように。
 街の北部プラント集合地区の非常灯の下で、ボッシュはそれらを眺めていた。
 街中にライトが灯り、眩く、昼間よりも明るいくらいだ。
 なけなしの夜に縋るように、街から次々と影たちが這出てきた。
 木々の密集した深い森の中へ逃げ込むつもりなのだろう。
 そこは人の手も入っておらず、昼なお薄暗い場所だった。






 鼓動が奇妙に高まり、ぴりっとした痛みが背中を襲った。
 ふと振り返ると、ボッシュはそこで、奇妙なものを見た。
 ゆったりとした足取りで歩く、自分自身の姿だ。
 緑のレンジャージャケットが、鮮やかに朝焼けの薄明かりに映えていた。
 目線は少しばかり違っていた。
 そいつは幾分か、頭半分くらい小さかった。
 地下世界で暮らしていた頃のボッシュがいた。
 何年か前に地下で生きていた自分を鏡越しに見てやるような、変な心地だった。
 ゆっくり、ゆっくり、歩いていく。
 時折ぼうっと光る――――あれも見覚えがある、燐虫の灯りだ。
 燐虫がぽうっと残す光の筋のようなものが、いくつも飛び交っている。
 良く目を凝らして見ると、それはさっきの怪物たちの仲間のように見えた――――あの黒っぽい霧。
 今は透けていて、動かなければろくに視認できない。
 ただ奥まったところで光る目だけが、燐虫に似た、すぐにも掻き消えそうなか弱さで灯っていた。
 ボッシュが見ている自分自身の姿の後をついて、怪物たちが行軍していた。
 『ボッシュ』こそが寄る辺であり、道しるべであるように。
 そして、『ボッシュ』もそれを知っているように、道は示されているのだと言うように、ゆっくり、ゆったり歩いていく。
 光が強くなってきた。
 空は赤く染まり始めた。
 さっと血のような輝きが射すと、『ボッシュ』の身体は彼を慕ってついてくる怪物たちとおんなじように、少し透けた。
 『ボッシュ』は手を翳し、少し残念そうに透明な手を見た。舌打ちもしたかもしれない。
 そして誰かに呼ばれたことにふと気付いたみたいに、ぴたっと立ち止まり、振り返って、動かなくなった。
 じきに、呼び声が降ってきた。
「待って!」
 駆ける足音、土埃が舞い上がり、「彼」が姿を見せた。
 ボッシュの相棒であり、宿敵であり、友人だった男だ。リュウだ。
 今はオリジンとなって、背も大分伸びていた。
 青い髪が、空の世界に美しく映えていた。
 リュウは必死で走ってきて、『ボッシュ』にやっと追い付いたという少しの安堵の表情を浮かべ、手を差し出した。
 だがその手が届くことはなかった。
 『ボッシュ』を透かして、掴めるはずだったものを手に取れずに、リュウは転倒した。
 顔から地面に激突した。泥まみれになった。
 そして、リュウが触れようとした『ボッシュ』の手のひらが赤く染まり、光に弾けて、そのままリュウの中へ吸い込まれるように消えてしまった。
 それを合図にするように、他の怪物たちも、我先にとこぞってリュウに押し寄せた。
 怪物たちはリュウを押し潰すこともなく、『ボッシュ』とおんなじように、リュウに溶けて消えてしまった。
 ずっとそれを見ていたボッシュは、それで知った。
 カロンやブレイクハート、そんなものが近くにいるはずだった。あの怪物たちを生み出し、操っている存在が。
 リュウだったのだ。
 彼は蹲り、うまく立ち上がる事もできないまますすり泣いている。
 子供のように。
「待って……」
 置いてかないでとリュウが泣いている。
 先刻の幻視にあった少年時代のリュウと、それはなにも変わらなかった。
 なりこそ大きくなってはいたが、それは結局ローディのリュウだった。
 オリジン、ハイディなんてお飾りを付けても、彼という人間が変質することはありえなかったのだ。
「うあっ、ふっ……わあああっ」
 いい大人のくせに、子供みたいにリュウは泣きじゃくっていた。
 涙と鼻水とで顔をぐちゃぐちゃのぼろぼろにして、この世界にあるもの全部が悲しくてしょうがないというふうに泣いていた。
 なんで泣くのとボッシュは不思議だった。
 リュウは全てを手に入れたくせに、ボッシュに置いていかれた、ただそれだけのことでこんなにも絶望している。
 暗い満足感が、ふいにボッシュに訪れた。
 それはやっぱり俺がいなきゃこいつはなんにもできやしないんだという優越感だったのか、いつまで経ってもリュウの記憶からあせることがないってことが、単純に気に入ったのか。
 今しがた見た少し幼い自分の姿にも、深い理解が訪れた。
 リュウが創り出した記憶の影だ。本質は同じ存在、リュウのアルターエゴ、それは即ち、彼のドラゴンである。
 それはアジーンと呼ばれた。空の勝利者である。






 少し歩み寄ると、ようやっとリュウはボッシュに気付いた。
 慌てて顔を拭い、できるかぎり毅然として、醜態を恥じ、なんでもないんです、と言った。
 リュウはボッシュのことがわからないようだった。
 いつか顔を合わせたことも忘れ去っていた。
 彼の中ではボッシュ=1/64は、あの少年の姿のままで今も生きているのだから、彼と同じように成長したボッシュを見ても、なんにも感じないのだろう。
 アジーン、彼のドラゴンに、「理解すること」をロックされているのかもしれない。
「……あれ? きみは、どこかで……」
 リュウは首を緩く振って、ボッシュを見上げた。
 どう名乗るべきか、ボッシュには判断がつかなかった。
 俺ぁボッシュだよと名乗るべきだろうか。
 それとも、ソラだよ、オマエが名前付けたんだ、そう名乗るべきか。
「見覚え、ある?」
 少しきつくなってきた日差しを遮るように掛けていた遮光眼鏡を外して、どうせオマエわかんないだろうけど、と考えながら、ボッシュは口の端を意地悪く吊り上げた。
 案の定、リュウは理解しなかった。
 首を揺らして、ごめん、気のせいみたいだ、と言った。
 泣きはらした目で、リュウはぼんやりと虚空を見つめている。
 さっきの『ボッシュ』を探しているのだろうか?
 あのアジーンに擬態を取らせただけの、粗末な影を。
 さっさと気付けよ、ボッシュは思った。
 俺を見ろよ。
 でもリュウはなんにも知らず、少し切なげに目を眇めた。
(なんでそんな顔するんだよ)
 あんな偽物に向けるにしては、純粋すぎる思慕がそこにあった。
 まるで手はまだ離されていないんだと信じているような、安堵の表情だ。
 ボッシュはリュウの手を取ってやりたかった。
 俺がここにいるんだよと教えてやりたかった。
 そして安堵するリュウを突き放し、その絶望の顔を見てみたかった。
 そう考えてボッシュは、暗い満足を覚えた。
 この頼りない手を、もうすぐ取り返す。
 じきに竜を殺し、リュウに1000年の絶望を与えてやろう。
 手は離されてはいないのだと教えてやるべきだ。
 リュウは、ずうっとボッシュだけを見つめているべきだ。
 安堵でも絶望でも、その感情を全てボッシュに好きにさせるべきだ。
(もうすぐ迎えにきてやるよ、相棒)
 蹲ったままのリュウに、ボッシュは暗く微笑み掛け、宣告した。
 ヒトと竜と何もかもから、もうすぐリュウを取り戻してやる。
 あのちっぽけで一人じゃなんにもできない、ローディの相棒を。













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