とりあえず腹ごしらえが先だということで、ボッシュはニーナを連れて、昼間も訪れた第一商業地区にあるオープンカフェにやってきた。 ボッシュの実家お抱えのシェフとは比べられやしなかったが、まあ味は悪くなかった。ケーキやパフェがとことんまで甘いところがいい。砂糖を惜しまずに使っているのだろう。地下だとこうはいかない。 入店したボッシュを見て、店の女将が「あ」という顔をした。たちの悪い食い逃げだとでも思っていたのだろうか? 心外だ、請求先は告げておいたはずだ。 彼女が困惑しながら差し出した請求書――――昼間の食事代だ――――を、ニーナは口をへの字に曲げて受け取って、ポケットからグミプラズマのかたちをしたがま口財布を取り出して支払いを済ませた。 彼女は非常に不服であるらしかった。背中の羽根がぐったりと垂れ下がっており、精一杯不満を表現していた。 「……あなた、お金持ってないの」 「べつに、必要ないよ。それ人間のものだろ、俺にはもうどうだって良いものだ」 「でも、悪いことよ。お店でゼニーを払わないって。 わたし昔一回知らずにやっちゃったことがあるの。どうしても欲しかったワンドを勝手に持ってっちゃって、そしたら後でリンに見つかってすごく怒られて……絶対やっちゃいけないことのひとつなんだって。 後でリュウとリンとわたしでアルマのとこまで謝りに行った。リュウ泣いてたわ。 だから、あれからもう絶対そういうことしないでおこうって決めてるの」 ニーナは大真面目な顔をしてそう言ってから、はっとして、ぷいっとボッシュから顔を背けた。 「……でもあなたは悪い人だから、そういうのはどうでも良いのかもしれないけど」 「ふうん、俺悪いヒトなんだ」 「いい人は、リュウを殺しになんて来ないよ」 ニーナはあからさまに棘を生やしていた。取り付くしまもない。ボッシュはそれを流しながら、テーブルについた。 もう夜になる。辺りは暗く、窓から紺色の空ときらびやかな電飾が見えた。 仕事の帰りだろうと思われる人種がカウンターとテーブルを占拠し、酒を呑んで騒いでいる。 完全にできあがっていた。これなら誰もボッシュたちの会話を聞き付けることはないだろう。 しばらくなんでもない話をした後、ボッシュはこう切り出した。 「なあ、取り引きをしないか」 「……どういうこと」 ニーナはあからさまに顔を強張らせて、嫌そうな顔をした。 嫌われたものだ。 ボッシュはまあ聞けよと言って、ニーナをなだめてやった。 「簡単なことだ、条件はおまえの持ってる鍵だ。セントラル最上層には、統治者――――おっと、判定者しか入れないんだろう? 余計な手間はめんどくさいし、俺はあいつに用があるだけだからさ」 そう、用があるのはリュウだけだった。ボッシュはリュウに会わなければならない。 会ってどうするんだろうとふと疑問が浮かんで、ボッシュはおかしいなと思った。 その答えはあんまりに決まりきったものであるはずだったからだ。リュウを殺す。それも思い付く限り一番ひどい方法でだ。 このニーナというリュウが愛して命懸けで守った女を、彼の目の前で殺してやるのも効果的かもしれない。 リュウが開き築いた空の街を破壊してやってもいいかもしれない。 なんでもいい、リュウが絶望すればなんだって構わないのだ。 「助けてやるよ。おまえのオリジン」 ボッシュは言って、ニーナににやっと笑い掛けた。そんであいつの目の前でオマエを殺してやるよと口の中だけで囁いてやった。 ニーナはまだボッシュを全く信用していないようだったが、やがて不承不承承諾した。彼女にしたってほかに選択肢はないはずだった。彼女はリュウのために生きているのだから、あの男を救う以外に何も選ぶことはできないはずだ。 そういうものなのだ。理解はできなかったが。 ニーナは頷いて、言った。まだその目から不審は消えていなかった。 「……わかった、「取り引き」する。リュウを助けてあげて。でもリュウになにかしたら、わたしはぜったいあなたをひどい目に遭わせてみせるわ」 「偉い、偉い。持ち主に忠実なんだ、人形」 ボッシュはせせら笑って、ニーナの赤い羽根を指さしてやった。気色の悪いブースト、と言った。 彼女の翼は二年前と変わらずあって、時折白い燐光を零していた。 レンジャー基地で見た資料によると、なんともグロテスクなことにそれは肥大化した肺なのだという。換気肺というそうだ。 地下世界の空気を浄化するために作られた、空気清浄用品のプロトタイプだ。 もし彼女が上手い具合に試用テストを通過し、製品版が出荷されていたなら、今頃ボッシュの屋敷にはこんなふうに赤い羽根のヒト型ディクがそこここに置かれていたのかもしれない。 何せ幅を取らず、コストもそうかからない。材料は換気肺と人間ひとりだ。大広間の天井から吊り下げた籠に一匹飼われて、死にゆく世界を哀れむ辛気臭い歌でも歌っていたかもしれない。人間とディクのあいの子みたいな生き物が省庁区の景観に加わっている様も想像できた。ぞっとしない話だ。 だが世界は開かれ、人々は空と綺麗な空気を手に入れた。 換気肺は換気するべき汚れた空気を失って、まったくの役立たずになった。飯を食うだけ塵より始末が悪い。 そんな役立たずの換気肺人形が一体、オリジンの寵愛を受けているとはいえ、空でメンバーなんかやってるらしい。 あまり面白くない冗談だなとボッシュは考えた。彼女の立場待遇は身分に不相応なのだ。大体にして彼女の主人からして、その身分で世界を手にするのは不相応なのだ。空では全てが歪んでいた。 「それ、胸糞悪いベンチレータ。オマエもうそれいらないんじゃないの? 空で人間様は綺麗な空気が吸えて満足ですってさ。あのローディのオリジンも、羽根取ってくれなかったんだ。わりと薄情だね」 「取らないってわたしが言ったの」 二ーナは急に沈み込んだような声になって、言った。どうやら、羽根が話題に上ることがあまり好きではないらしい。 「リュウとおそろいだし、わたしだけ人間になんてなりたくない」 「化け物のお仲間のままいますって?」 「なんだっていいし、わたしはヒトでも化け物でも、リュウなら好きよ。やさしいから」 「あいつは誰にも相手にされないから、人形遊びをしてるだけだよ。ひとりでさ」 ボッシュはやれやれと肩を竦めた。 どうもこの換気人形は、主人を過剰に崇拝している気配がある。あれはそんなに立派で信じられたものではないことを元相棒のボッシュは知っていたが、ニーナにはまだわからないようだった。 「きっと今に棄てられるよ。見限られてさ。あいつ、全然悪いことなんかやりませんって顔して、平気で相棒を殺すんだものな」 だがすぐにニーナはボッシュにリュウはわたしを棄てたりしないと反論した。根拠はやさしいからだそうだ。 「……みんなやさしいリュウが大好きよ。あなたみたいに意地悪しないもの。リュウに先にひどいことしたのはあなたでしょ。 それに世界の全部がリュウを相手にしなくなったって、人形はずーっとそばにいるよ。それはリュウのためだけに動いているの。だから絶対に裏切らないし、キライになることもないし、あなたみたいに意地悪もしない」 「へえ、オマエ人形のくせにリュウが欲しいの? あんなのが? その身体で? もし「そう」なるとしたら、あいつは真性のロリコンだね。救いようがない」 「そういう大人の変なことは知らない。そういう変なのと一緒じゃないの。だってわたしはもしリュウがわたしとおんなじで女の子だって、もしわたしがリュウとおんなじで男の子だったとしても、今とおんなじくらい好きだし、愛してるわ。ずっとよ。リュウが綺麗なままでいられるなら、わたしは何だってするし、そういう意味ではリュウはわたしの神様なのかもしれない」 「べらべらと余計なことを、随分良く喋るようになったじゃあないか?」 「リュウのおかげよ。だってリュウと話したいことがいっぱいあるの。わたしが言葉を話すと、リュウはすごく喜んでくれるのよ」 ニーナはそこでうっすらと笑って、さあ、取り引きの続きのことなんだけどと言った。 「わたしも行くわ。あなたひとりじゃきっと無理だと思うし、もし中に入れてもリュウを殺すんでしょ。そんなのはだめだよ」 「俺に不可能なんかない」 「無理よ、だってリュウも外に出られないんだもの。魔法陣式、すごい難しいのが書いてあった。わたしも見たことないのだったけど、どれから潰せば解けるのかはわかるよ。あなた壊すのは得意でしょ?」 「…………」 ボッシュはしばらく考えてから、それ了解だと言った。 「で、手順を教えてくれねえかな、判定者様」 「わたしも今閉め出されてるの。クピトが、わたしは絶対にリュウを外に出すって。 でも警備のレンジャーに紛れて部屋に入ったら、きっと大丈夫よ。 レンジャーのみんななら、わたしがリュウを守りたいって言ったら、きっと仲間に入れてくれると思う。クピトたちには内緒で」 ボッシュは頷いて、じゃあ俺レンジャーになるんだ、と言った。 「ふうん、二年ぶりだ。じゃ、制服ももちろん支給されんだろ? コートも新しいのが欲しいな。なにせどこかのバカが、人に吸血蛭の卵をぶつけてくれたからね」 「サイズが合うの、あるかどうか知らないけど、多分今よりましだと思うよ」 ニーナはそうして、あなたレンジャーって似合わないねと言った。 「悪い人の顔をしてるよ」 「心外だな、追手まで掛けられた元犯罪者に言われたくない。それにレンジャー? あんなの大体ろくでもないよ。ローディの掃き溜めだ」 レンジャー。今はもう懐かしい響きだった。ルーチンに沈んでいく日々。暗い空洞、地下世界、ディクの掃討任務。まずい食事。毎朝リュウがトレイに乗せて運んできた朝食。ローディの相棒が裏切る日が来ることなんて頭の片隅にも考え付かなかった遠い日。全てが栄光に包まれていた。 最高の皮肉だとボッシュは考えた。 あの頃、お互いが剣を向け合うなんて考えもつかなかったレンジャーの姿で、全てを統べるオリジンになったリュウを殺すのだ。 リュウは誰が自分を殺したのかを理解するだろうか。 彼は今何を憶え、何を忘れてしまったのか。 ローディの頭の中身なんてものは全く想像もつかなかったが、ボッシュは次第に明かりを増していく夜の街のぎらぎらしたネオンに目をやって、考えた。今頃は何も知らずに良い夢でも見ているかもしれない。 ニーナは店を出しなに、ボッシュに静かに忠告した。 「……ぜったいリュウにひどいことはしないで。約束して」 「さあね、ハイハイ。まあできるだけ……」 できるだけひどくしてやるよと言い掛けた最後は飲み込んで、ボッシュはにやっと笑った。 もうすぐ、じきにあの裏切り者のリュウを殺し、世界をこの手にすることができる。 |
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