リュウは急にぽっと現れたように見えた。彼が目の前にいるというのに、ボッシュの背中の傷はあの共鳴のうるさい激痛に苛まれもせず、乾いたままだった。 折れた剣を無造作に詰め込んで、無理矢理蓋をしてしまったような(ただし上手く箱は閉まっておらず、柄の部分がパフェのてっぺんでクリームからはみだしたプレッツェルのようなかたちで飛び出している)鉄製の錆びたトレジャー・ボックスの上にその少年は無造作に腰掛けていた。 見た感じ重みというものもまるでなさそうだった。彼が乗っかっている箱は、依然として半分蓋が開いたままだ。重石にもなっていない。 リュウは目を閉じたままで、眠っているように見えたが、少し居心地が悪そうに、傾いた箱の上でずった尻を押し上げて座りなおした。寝ているわけじゃあないのだ。 「リュウ……?」 リュウは返事をせず、止まり木の上の鳥みたいな格好で、じいっとしていた。 返事もしなかったが、ただ一度だけ頷いた。 「どうしてここにいるんだ……? オマエは封印されてるはずだ」 やはりリュウとアジーンの罠だったのかもしれない。ボッシュは舌打ちをして、腰に下げたままだったホルダーの剣の柄に手を掛けた。 それにしてはリュウに殺気はまるでなかった。 いや、リュウの意思というものが感じられない。 だがいつ襲いかかってきたって切り捨てられるように細心の注意を払いながら、ボッシュはそいつを観察した。 リュウ=1/8192、元サードレンジャー。同期の相棒だった。 髪は肩より少し長いのを、頭の上で纏めている。それについての冗談がレンジャーの仲間内でいくつかあったが、大体は大して面白くもないものだった。 身体は痩せていて、黄ばんでいる。栄養が足りていないせいだ。そして薄汚い空気を吸って16年間生きてきたせいだ。ローディだからだ。ただその目の色はとても鮮やかなブルーをしていた。 そう、驚くほど昔のままだった。ボッシュが知っている、いや、知っていた頃のリュウそのものだった。 過ぎたはずの歳月の重みが、それによってもたらされた変化が、避けられるはずもないそれが、目の前にいるリュウには欠落していた。 16歳のリュウが今ボッシュの目の前に静かに佇んでいた。 「……何とか言えよ。喋るんだよ。ローディのネクラのだんまりなんて耐えられない」 『……ごめんね』 喋れと言った途端、そのリュウはぺこっと頭を下げた。あまり悪びれたふうもなく、その仕草はどこか空虚だった。リュウはこういうことをすると決まっているんだと、誰かがはなから決め付けた反応を、何かリュウでないものにさせているような感じ。 リュウは少し頭を揺らした。 そして、また「ごめんね」と言った。 『ボッシュ、ごめん。怒ってる?』 「……ハア?」 『怒ってるよね、当たり前だ。ごめんね、おれはだめなローディだ。ねえなにかおれにできることはある?』 「オマエにできることなんてひとつっきりだよ」 ボッシュは蹲ったままべらべらと喋るリュウの首筋を目掛けて、剣を抜き放ち、突き出した。 「俺に、できるだけカンタンに殺されることだ」 リュウは避けもしなかった。 いつかあったように、リュウの喉を剣が簡単に破って、切っ先を潜り込ませ、そして鮮血がばっと散った。 だがリュウにはまるで感情の変化というものがなかった――――下手な役者がうろ憶えの脚本を読んで、ああ次は確か死ぬんだったっけとでもいうようなわざとらしさで、仰向けに倒れていった。ああやられたあ、とでもいうような。 「……悪趣味なジョークだね。オマエ、そういうのが好きなの?」 にわかにボッシュは理解し、呆れて肩を竦めた。 「それあの兄弟の真似っこ? 芝居が下手だ、きっと兄貴のほうが上手いよ」 その『リュウ』はまだ往生際悪く死んだふりを続けていたが、やがて首の致命傷なんてどうでも良さそうな顔をして起き上がって、つまらないなあと言った。 その少しふてくされたような顔は、少しリュウに似ていた。 『リンク者、きみの中にあるデータのままに作ったのに、どう違うんだ? おれにはヒトの個体の細かい違いなんてわからないんだけど』 「オマエがあまり頭の良い竜じゃあないってことはちゃんとわかったよ」 『リュウ』は心外だという顔をして首を傾けた。 『ひどいなあ。アルターエゴにバカだなんて、それは自分にバカだって言ってるも同じなんだよ? だっておれたちはおんなじものなんだものね』 「誰が。少なくとも俺は大分オマエよりは賢いと思うけどね。何してんの? 嫌がらせかなにか? そんな格好で」 ボッシュは『リュウ』を指差してやった。 ボッシュのサード時代の相棒、仇敵のリュウの擬態を取り繕っている、分身のドラゴンを。 それは「チェトレ」という名称の、空を開くために作られたプログラムだった。空が開いた今やジャンク品と成り下がっている。 いや、大それた役目がひとつあった。正統なプログラムであるアジーン、あのリュウを判定するのだ。 チェトレはリュウらしい仕草をひとつひとつボッシュのデータから引っ張り出して実践しているようだった。髪の結い方。笑い方。話し方から首の傾げ方までそうだ。 『さて、少しはさまになってきたかな?』 「だから何をしてるんだ? もしかして、兄弟みたいに、俺に懐いて欲しいの? 残念だけどさ、俺はオマエはリュウにゃ見えないね」 『きみ、少しいろいろ忘れてるみたいに見えたから、この姿を見てるといろんなことを思い出しやすいでしょ? 例えば、おれはきみを裏切りました。相棒だったけど、おれはもうきみと一緒には歩いていけない。 ずーっと、ずーっと手を繋いで、おれの手を引いて歩いていけるなんてきみは思ってたよね? 子供のころからさ、ずーっと。約束したもんね。 でももう道はわかれてしまったんだ。 きみのこと見てくれない父ちゃんもおれが殺してあげた。 もしかしたらもっとがんばったら自分のこと見てくれるかもって考えてたでしょ? もう期待するだけ無駄だよ。ほんとにほんとにすごく死んじゃってたから、あれ。 ずーっときみの世話をしてくれてた家来もおれが殺しちゃった。 きみにやさしいヒトは、もう誰もいないね。 そしてきみも殺して、空はもうおれのもの。 ねえボッシュ? おれは幸せだよ。さ、どうしよう?』 『リュウ』は微笑んだ。 それはかつて良く見せた、あの自信のなさそうな、少しはにかんだ、控えめな微笑だった。 その顔で『リュウ』は、ボッシュを敵として見ていた。 『負け犬。無様だね、エリート様。ずーっとそうやって、空の片隅で、おれに怯えながら過ごすといいよ。ローディのおれに……』 リュウはにこにこしている。 その顔に邪気はなく、その声も記憶の中のものと寸分違わなかった。 『D値なんて、嘘ばっかりだねえ?』 ――――気が付くと、『リュウ』の髪を掴んで床に引きずり倒していた。 腹に乗り、結った髪を掴んだままで、空いた片手で何度も何度もリュウの顔を殴った。 力任せに、鼻が折れるぱちっという乾いた音がしても構わずに殴り続けた。 頭骨がひしゃげる音がして、それでボッシュははっと我に返った。 リュウの頭があった場所には、赤と黄色と白の、まるで絵の具をぐちゃぐちゃにしたような肉片がぶちまけてあるだけだった。 首の骨の白い破片だけがかろうじてかたちを保って、身体と繋がっていた。 だが、「そこ」からはまだリュウのあの穏やかなくすくす笑いが零れていた。 ボッシュは呆然と、さっきまで『リュウ』の頭があったはずの空間を見つめていた。 そこにはなにもなかったが、あの微笑はたしかに透明に存在していた。 『さあ、おれを憎めるかい』 「当然だ……!」 ボッシュは声を荒げた。何故か腹が立って仕方がなかった。気持ちが悪かった。 これは間違いなくリュウに対する憎しみであるはずだ。 そうでなければ説明がつかなかった。まるで目の前が真っ赤になるような怒り。純粋なものだ。 『怒らないでよボッシュ、きみの考えることは良くわからないけど、おれはきみに力をあげる。今度こそ失敗しない。あいつらから空を取り返すんだ』 「空……?」 ボッシュは緩慢に顔を上げて天井を見上げた。 まるで地下世界のレンジャー基地そのものみたいな拘置室には、窓もなく、夜空も星も見えやしなかった。 「ああ……そうだっけ」 ボッシュは頷いた。そうだ、空。忘れていた。 本当のところはそんなものはもうどうだって良かったのだ。 今リュウを生かしているせいで、ボッシュはこんなにも憎しみと畏れと焦燥を混ぜこぜにした鈍痛に甘んじているのだ。リュウを殺さなければこの背中の傷痕の痛みは消えない。 「リュウを殺すのはいいよ。でも空なんかさ、そんなのどうすんの?」 『え?』 『リュウ』の身体は少しずつ透けて、やがて消えてしまった。 だが、あの微笑の感触は、まだボッシュの目の前にあった。訝しいような声がした。 「俺にゃもうなんにも残ってないよ。あいつを殺すってだけ。別に空なんてどうでもいいだろ? オマエはまだ空なんか欲しいのか。兄弟を殺したいだけじゃないの?」 『おれたちは空を手にして勝利者になるんだ。おれは勝つんだ、もうあんなやつに負けたりしない……』 『リュウ』は何か難しいことでも考えるように、沈黙した。 床に蹲った格好でいたボッシュは、のろのろと立ち上がり、ベッドに戻った。少し休まなければならない。 あのアジーンとリュウを相手にするのだ。用心し過ぎるってことはない。 「リュウを、この手で……」 ボッシュの手でリュウを終わらせなければならない。 人間どもに殺させるわけにはいかないのだ。 この手で息を止めて―――― (リュウ……) その時、あのリュウは一体どんな顔をするのだろう。 ボッシュは気だるく寝転がり、目を閉じた。 チェトレの気配は遠ざかり、そして静寂が戻ってきた。 |
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