封印の日の訪れは、いささか急だった。 ある朝目が覚めると、それはひょいっと転がり込んできたのだ。 「召集だ! ソラ=1/8192! 起きろ、いつまで寝てるんだ!」 どんどん激しくドアが叩かれて、上官(ということになっているらしい)のレンジャーが廊下でがなっている。 ボッシュは顔をベッドシーツに押し付けたまま、頭から枕を被った。ひどく眠かった。 大体昔から心地良い寝覚めというものにお目に掛かった憶えがない。 剣の稽古と統治学と一般教養、例えば大深度地下都市における政治経済からピアノの弾き方やナイフとフォークの持ち方のレクチャーにいたるまで、分刻みで一日のスケジュールが決まっていた中央特区時代はともかく、だらだらと日々過ごしていた(過ごさざるを得なかった、が正しい)レンジャー時代、雑用みたいな任務のためにこのボッシュが目を覚ましてやらなければならないといった事態は元々がおかしいのだ。歪んでいる。 そしてもう誰もボッシュの眠りについて文句を言える奴など存在しない。いるとしたら昔の相棒だけだ。できたての朝食をトレイに乗せて運んできたあのローディの男だけだ。 だがそれも彼が裏切った今となっては、もう永遠に失われてしまっている。 「オイコラローディ! お前立場とD値わかってんのか! ちょっとすげえ美人でちやほやされてるからって調子に乗ってんじゃねえ! 世の中には顔だけじゃあどうにもならないものってのがあるんだよ! そのうちのひとつが上官命令ってもんだ。命令が聞けねえってんならさっさと辞めろ、そんでハイディの金持ちにでも囲ってもらえ! きっとその方が向いてる顔をしてるぞ」 「うるさいよ……このボッシュの睡眠を邪魔するんじゃあない、人間が……殺すぞ」 「は? わけわかんねえこと言ってんじゃねえ、寝惚けてんのか?! おいソラ、あと三十秒だ! 三十秒以内に出て来ねえと、お前は今日は欠勤扱いだ。もう他の隊員は全員揃ってるんだ、隊長はともかく副隊長がもうすげーカッカきてる。なんせ極秘任務だ、行き先が行き先だ、お前泣く子も黙るセントラルのエリートがたをお待たせする気か?!」 「セントラル……」 がばっとボッシュは跳ね起きた。 目を擦ってベッドから降り、コートを羽織りながらドア越しにレンジャーに訊いた。 「リュウの封印式ってやつ?」 「だから極秘任務だっつってるだろうが! オリジン様のお名前を呼び捨てにするんじゃねえ!!」 ドアの向こうのレンジャーは大声でがなりたてた。この分じゃホール辺りまで丸聞こえだ。あんまり優秀じゃないなと考えながら、ボッシュは頷いた。 「オーケイ、先輩。準備して朝飯食ったら行く。どうせブリーフィングあんだろ? 先に始めててくれよ、長ったらしい話はキライなんだ。後であのニーナとか言う小娘に聞く」 「お、お美しいニーナ様を小娘とはなんだ、この野郎ー!!」 ドアの向こうで、かなり激昂した気配があった。扉が、破れそうなくらいがんがんと蹴られている。 「なに、あんたロリコン? どうでもいいからちょっと黙ったら? こっちはうるさくて頭が痛いよ」 「なんでお前新米のくせにそんな偉そうなんだ! 俺はリードだぞ、お前みたいなローディが普通ならまともに相手してもらえねえようなエリートなんだ! それを何だ、お前は絶対クビにしてやる! ブラックリスト入りだ、この野郎!」 「ハイハイ、エリート様。そりゃあすごいな。俺1/8192のローディだから良くわかんない」 「貴様、ちゃんとわかってるのか?! ブラックリストってのはなあ、そりゃ恐ろしいもんなんだぞ!」 「ハイハイ、なああんた、時間大丈夫なの? もう九時だけど」 「あ……くそっ、お前後で絶対ぶん殴ってやる! フクロだ、憶えてやがれ!」 「そりゃどうも」 下品な靴音が消えると、急に静かになった。ボッシュはかちかちと鳴り続ける時計の針をぼんやりと見つめて、ひとつ息を吸い、ゆっくりと吐き出した。 『緊張しているの?』 すぐそばで声が聞こえた。 目を向けると、『リュウ』が右手をボッシュの肩に乗せ、上目遣いで見上げてきていた。 「うるさいよ、すっこんでろ」 『リュウが怖いの? 大丈夫だよボッシュ、おれたちは今度こそ負けない。そうだろう?』 声を掛けられて、初めてボッシュは自分の手が震えていることに気がついた。 ぐっと拳を握り、震えを押さえ込んで、ボッシュはしばらくじっとリュウを観察し、肩を竦めて答えた。 「何当たり前のこと言ってんの」 廊下も食堂もホールも、レンジャー基地の中はいつもよりも騒がしくて、隊員連中がうろうろしていた。 食堂に設置されている端末からは、ニュースが垂れ流しっぱなしになっていた。 ボッシュはテーブルについて、チーズが乗ったエッグトーストを付け合せの薄切りのハオチーごとのろのろ口に放り込みながら、何とはなしにそれを見ていた。 だが、そのどれも封印式については一言たりとも触れられていなかった。 時折少し古い映像にリュウの姿が現れることはあった。街に降りてきたところをカメラとマイクに捕まったらしく、まるで追い詰められた脱獄犯みたいな格好でべったりと行き止まりの路地の壁にはりついていた。 『オリジン様、ご結婚はなさらないのですか?』 『そ、そんなのしません! 多分ずっとしないと思います……お、おれっ、そういうのなんかだめで』 『ニーナ様やリン様とご交際のお噂を聞きますが、いかがなんですか、オリジン?』 『にっ、ニ―ナは大事な子です! リンも……二人共大事な家族なんです、だからそんなじゃない……』 『オリジン、お顔をお見せください』 『ドラゴンに変身してみせてください、オリジン様』 リュウはフラッシュとマイクに怯えてしまって、真っ赤な顔で縮こまってごめんなさいと謝っている。悪いところは何もなくたって、彼は謝るのだ。まるでそこにいるだけでひどい不手際みたいなそんな顔をして。 ふいに何もない空間、風景の中から腕がにゅっと生えてきて、グローブがカメラを覆った。 画面は塞がれて何も見えなくなった。ただ音だけが聞こえてくる。 『寄ってたかってガキを苛めるのは良くないなあ』 ざわざわどどよめき、それからまたフラッシュの光、カメラはぐらぐら揺れている。 『ジェ、ジェズイット!』 『よう、二代目。迎えに来てやったぜ。クピトがうるさくってさ。あんまり情けない顔を撮られてんじゃねーよ。ほら、泣くな泣くな』 『な、泣いてないよ!』 カメラに映像が戻った。 リュウは突然現れた統治者――――見覚えはあった。昔何度か見たことがある――――の背中に隠れてしまっていて、良く見えない。 統治者は頭をがりがり掻きながら、はいお開きね、と言った。 『なあおまえさんがた、わかってる? コイツこんなだけどオリジンなんだぜ。世界で一番偉いんだ。あんまり無礼なことしないでくれるかなあ。あ、そこのお尻の綺麗な眼鏡のお姉さん、君はいいよ、かわいいから。今度一緒に食事でも……』 『ジェズイット! そういう発言はセクハラって言うの!』 『まあ何でもいいけど回収してくぜ、俺らのオリジン。じゃあな』 リュウはなんだかびくびくした顔で、肩を抱かれて送還され際に、ごめんなさいとぺこっと頭を下げた。 そして統治者にびしっと額を叩かれた。 『謝るな。お前は世界一偉いオリジンなんだぞ、後付けクォーターさんよお』 『う、うう、ご、ごめんね?』 映像は切り換わり、新型ナビの限定販売の情報が流れた。 トーストを片してしまって、ボッシュは次はフレッシュ・ジュースとデザートのフルーツ・ボールに取り掛かった。 「あの……ソラさん、前の席、良いですか?」 声を掛けられた。 顔も上げずにボッシュは答えた。 「駄目」 「……そ、そうですか」 声の感じからして、ボッシュよりいくらか年下の少女のようだった。 彼女は怯んで、すごすごと背中を向けて隣の島のテーブルについて、項垂れ、友人らしい少女たちに「駄目だった」と報告している。 ここ最近レンジャー基地で生活する羽目になってから、四六時中視線を感じるのだ――――外出している間に予備のプロテクタが消えていたり、ひどい時には盗撮用だと思われるカメラがバスルームに設置されていた。ボッシュはげんなりして、思った。そういうのを取り締まるのがオマエらの仕事だろうと。 飯を食いながらふと顔を上げると、ボッシュを注視していたレンジャーたちは、慌てて目を逸らした。 なんだか気分が悪いなとボッシュは思った。ヒトどもに珍しい動物でも見るみたいな目で見つめられているのは、やはり気分が良くないものだ。 「どうかしたんですか?」 また誰かやってきた。今度は許可を取らずに、ボッシュの前の席についた。また女だ。 するとそれを合図みたいにして、今まで遠巻きにボッシュの方を見ていたレンジャーたちが、トレイを持ってずらっと並び、空いている近場の席に座った。その中にはさっきの女もいた。少し居心地悪そうに、赤い顔で俯きながらサラダにフォークを突き刺している。 「さっきオリジン様のこと、すごい目で見てましたけど……」 「関係ないだろ?」 「ソラさん、あの、あなたは今までどこの基地に所属していたんですか? 地下ですか? えっと、綺麗な名前ですね」 「エッグトースト、美味しかったですか?」 「任務はどうです? もう慣れました?」 これじゃあさっきのリュウの待遇とそんなに変わりやしないなとボッシュは思った。 煩わしくてだんまりを決め込んでいると、ストイックなんですねと見当外れのことを言ってぽーっとしている奴もいる。 しかも男だ。ますます気分が塞いでしまった。 「あの、俺、最近訓練であなたの剣舞を見て、憧れていたんです。どこで誰に剣を教わったら、そんなふうに強くなれるんですか?」 「べつに。俺天才だから」 「あの、すごいローディってお聞きしたんですけど……嘘ですよね? だってそんなに、その、綺麗なのに」 「どうだろうね」 下層基地でも誰もかれもがこうやって目をきらきらさせながら懐いてきただろうか? ボッシュは記憶を引っ張り出してみたが、そんなことはなかったと思う。ただ遠巻きに見ているか、猫撫で声で擦り寄ってくるかだ。 そのどちらかに限られていた。組まされたリュウは……どうだったろう。わからない。 「あの、弟さんですか? となりの子……すごく可愛いですね」 「ハア?」 変なことを言われてふっと横を見遣ると、見慣れた姿があった。紺色の隊服、青い髪……リュウだ。16歳当時のリュウだった。 目を閉じたまま美味そうにもそもそとエッグトーストを食っている。 「……オマエ、なにやってんの?」 『美味しいね、これ。リュウは食事をとても美味しそうに食べるんだ。間違ってない?』 ボッシュは小声でぼそぼそと言った。 「何考えてんの? こんなとこに出て来て」 『そろそろニーナが迎えに来るよ。それにおれ、ヒトの食事っての、一度食べてみたかったんだ』 「あっそ」 ボッシュは肩を竦めて、フルーツ・ボウルを空にした。 『リュウ』は下層区時代にリュウがそうあったように、ひどい早食いでエッグ・トーストを口の中に押し込んでしまった。 「さっさと片せよ。そろそろブリーフィングも終わってるだろ」 フルーツ・ジュースを飲んでいる『リュウ』を急かして立ちあがると、レンジャーの間から残念そうな声が上がった。 「ソラさん、もう行っちゃうんですかあ?」 「あの、俺を弟子にしてください!」 「またお話、してくださいね」 答えず、ボッシュは『リュウ』の結われた髪を引っ張った。 「行くぞ、アルター・エゴ」 『はあい、相棒。「任務」、上手く行くといいね?』 『リュウ』は目を閉じたまま、にっこり笑った。 フルーツ・ジュースのグラスが氷を残して空になった頃、彼が言った通り、遠くから聞き覚えのある小さな駆け足の音が聞こえてきた。 いつのまにかボッシュの隣から、『リュウ』はいなくなっていた。 そのことで食堂はちょっとした騒ぎになったが、それはボッシュの知ったことじゃあない。 |
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