15時の鐘が鳴ったのと同時に、部屋に少女が飛び込んできた。 可愛い子だった。身内の少しばかりの贔屓目を抜きにしても、彼女ほど綺麗な子供はこの上層区にはいないだろう。 切り揃えられたばかりの色素の薄い金髪から、混合種特有の長い耳が飛び出している。 メベト=1/4の両親の遺産である高級集合住宅区画――――昔は各階層で例外的に生まれたハイディを住まわせるために使われていたのだが、所持者が統治者になってからというもの、入所希望者が後を絶たない――――に昨年あたりから越してきた子供だ。 保護者はいない。その辺の事情は聞いていない。良くあることだからだ。 彼女は胸に、リボンが巻かれた茶色いバスケットを抱えていた。 少女が駆け込んでくるなりふわっと匂った甘い香りは、どうやらそこから零れてくるようだった。 「メベトおじさま、これ! オルテンシアが焼いたんですの。お砂糖いっぱい入れて、カローヴァのバターとナゲットの卵もたくさん、ね? 食べて下さい」 「ああ……」 メベトは少々引き攣った顔で、微笑しながら頷いた。 歳を重ねていくにつれて、段々と甘いものが得意でなくなっていく。 それはアルコールの苦味を覚えたあたりからだったかもしれない。味覚はどんどん変化していくのだ。 最近はもっぱら、一人で部屋に押収した密造酒を持ち込んで呑むのが気に入っていた。 安っぽいが味は悪くない。いたってシンプルだ。アルコールの味しかしない。 だが少女の好意を無下にもできないだろう。 「ありがとう。もらおう」 「エリュオンにいさまも喜んでくださるかしら?」 「ああ、あいつは甘いものが好きだからな。いい歳をして、気持ちが悪くなるくらいにだ……」 少女、オルテンシアが持ち込んできたのは、こげ茶色にバターの焼き色がついた焼き菓子だった。 口に入れた瞬間、角砂糖をそのまま口に放り込んだような甘味を感じて一瞬顔を渋くしたが、なるだけ美味そうに見えるように努力して飲み込んだ。 オルテンシアは整頓された書類が散らばったデスクに頬杖をついて、頭をゆらゆらと揺らしていた。 どうやら機嫌が良いらしい。いいことがあったようだ。 何か言いたそうにしているのでしばらく待ってやると、彼女は「今日はすごく綺麗に「視え」ました」と言った。 「ねえおじさま、また「視えた」んです。銀色の光と青い空の下にエリュオンにいさまの背中が。昔の青い髪に戻ってらして」 オルテンシアは頭の上で両方の人差し指を立てて、にっこりと微笑んだ。 「角もなくって……」 「ああ……それはな、いいんだ」 メベトは微笑みながら、オルテンシアの頭を撫でた。 大きな手のひらが髪をくしゃくしゃにすることに、オルテンシアは首を竦めてくすくす笑った。 「もう……いいんだ」 メベトは言った。 オルテンシアの「未来予報」は外れたためしがないが、こればっかりはリアルさに欠けていた。 それはもうずっと昔に過ぎ去った過去の出来事だった。 メベトは空が閉じられた一端を担っている。そして人類はもう二度と救われないことを知っている。 あの少し足りないところがある青い頭が、伝説の空の下で光を浴びることは、もうないのだ。 「おじさま? なんで泣くの?」 オルテンシアは目を丸くして、メベトの顔に手を伸ばして頬を撫でた。 彼女は居心地が悪いようで、バスケットに目をやり、心配そうな顔つきで首を傾げた。 そして何か悪いことでも仕出かして怒られたみたいな顔で、眉を下げ、言った。 「オルテンシアのおかし、おいしくなかったの?」 ◇◆◇◆◇ その少女――――いやもう大人の女性だ。子供扱いなんてすれば機嫌を損ねることは目に見えている――――は、悔しくてたまらないようだった。まだ泣き腫らして目を真っ赤にしている。 思えば彼女はいつだって悔しくて泣くのだ。理不尽なことがあって、どうあっても力が及ばない時なんかに。 今がまさにそうだった。何年ぶりかな、とメベトは思った。 リンが泣いている。 「どうあってもリュウを封印するんですか」 声は涙ぐんでいたが、彼女は精一杯毅然としていた。 データライブラリを整理していたメベトは、さも今リンが部屋に入ってきていたことに気がついたふりをしながら、少し顔を上げ、また端末に目を戻した。 「あんな身体でこき使われて、最後には棄ててしまうんですか? これじゃああの子があんまりだ。こんなものは我々が望んでいた世界ではない。違いますかメベト」 「君はそう思うのかね」 メベトは顔を上げずに、殊更事務的に答えた。 気の強いところがある彼女は、あまり泣き顔を見られることを好まないだろうと判断したのだ。 「だが決定を下すのは我々ではなく、世界だ。閉じられた空が開かれたように。世界に竜が必要でないと判定が下ればそうなる」 「我々は、そう言った世界の理不尽な事象と戦ってきたはずです! 私は今でもあなたのトリニティであったことを誇りに思っています。あなたは諦めなかった。ずうっと世界と戦い続けてきた。そのあなたが、こんな馬鹿げた決定を受け入れるのですか?!」 ばん!と大きな音がした。ちらっと横目で見遣ると、ウォールナットの本棚がひしゃげている。リンが殴り付けたせいだ。 あれを食らってはたまらないなと思いながら、メベトは再びデータライブラリに目を戻した。 やらなければならない仕事があるのだ。 パニックを起こしているメンバーの子供たちが放り出している宿題の片付けなんかだ。 それは年寄りの役目だ。 親しい人間に連なるものたちを見ている、最後に残った古いものの仕事だ。 一区切りのついたデータを保存して、そこでようやっとメベトは顔を上げた。リンのほうは見なかった。 「今日、封印式だそうだ。警備の数は尋常じゃあない。これはおそらく、反政府組織やオリジン派を警戒していると言うよりも、封印されるオリジンの親しい身内を恐れているのだろう」 「……どういうことですか」 「昔私も一度似たような事態に遭遇したことがある。身内の竜の封印式だ。先達から一言言わせて貰うとすれば……」 メベトはライブラリから新しいデータを引っ張り出してきて、書き換えを始めた。 「人間の暴力では竜は死なない。巻き添えの気を揉んでやる必要はない。そして圧倒的な防御を打ち破るのは、やはり圧倒的な火力だ。それでどうにもならないものはない」 「は……」 リンは呆気に取られたように、ぽかんと口を開けた。 目をぱちぱちと瞬いて、少し困ったように尻尾を揺らした。 「……良いのですか?」 「私にお伺いを立てなければならないほど、君ももう子供ではないだろう」 「で、でも、そうだとしても……あなたなら、何か手の込んだ策を授けて下さるのかと思っていました」 「策士はここ二十年ほどの最近、開業したばかりだ。人生の何分の一にも満たない」 メベトはここでようやっとリンを見た。 彼女から涙の気配はまだ消えてはいなかったが、もう泣いてはいなかった。 「策を巡らせている間に、重要な駒を奪われてしまわないことだ。現実はマス取りゲームとは違う。突拍子のないことがリアルだったりもする。誰も彼の名前も知らなかったリュウ君が竜と繋がって空を開けたように。ところで……」 メベトは肩を竦め、本棚を見遣った。 棚は折れ曲がり、本はくしゃくしゃになって、全体的なディテールが見事に潰れてしまっていた。 無事な本は探してみなければわからないが、救出は難航するだろう。 「あまりものを殴るのは控えるべきだ。君の手に掛かるとひとたまりもない。今のも人間相手だったなら、間違いなく病院送りだ。殴らなければならないものを、殴らなければならない時に殴りたまえ」 「……気を付けます。さっき……ジェズイットを殴ってきたところですが」 「それは君の殴らなければならないものだったか」 「そう思います」 澱みなくリンが答え、頷いた。 メベトは喉の奥で笑いを堪えながら、デスクに向直った。 だがふと思い付いて、退室するリンの背中に向かって声を掛けた。 彼女はこれからリュウのところへ行くだろう。あのメベトが知っていた竜に連なるもののところへ。 「君はいつか訊いたな、トリニティの名前の由来を。 バトラー、ガンナー、メイジの三位一体という意味だ……私と私の家族と友人の。はじめは三人きりのチームだった。リフトに行ったよ、ディクの掃討任務でね。だが他の二人はもういない。残った年寄りは私だけだ」 リンは扉の前で立ち止まり、少し迷ってから振り向いた。 彼女は意外そうな顔をしていた。 「今日は良く喋るんですね」 「私は元々お喋りな性質なんだ」 メベトは顎の下で手を組み、目を閉じて、にやっと笑った。 「最近では誰も知らないようだがね」 |
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