セントラル最上層は奇妙に静まり返っていた。音は分厚い壁に吸い込まれて消えてしまって、反響もしない。辺りは耳が痛くなるくらいの静寂に支配されていた。
 タワーの中枢部まで侵入するのはこれが初めてだった。普段どうなのかは知らない。リュウがサードレンジャー時代のように崩れた書類の山で生き埋めになって悲鳴を上げているのかもしれないし、いつもこうなのかもしれない。
 チェッカーは作動していた。先にC−0012区画の受付で更新したIDタグを通すと、封印されていたドアのロックが外れた。
 「アイザック隊」(ニーナが交代を「お願い」した隊長の名前らしい)の担当は、封印の間近辺の警備だった。
 不審な人物が現れたら排除するのが任務だ。封印式を控えた広間には入れなかった。
 ニーナが言うには、複雑な魔法陣式が作用しているのだという。
「……ね、壊しちゃえない? 銀色のリュウみたいに、どかんって」
「式のはじまりを待ったほうがいい。そう何でもいっぺんにできやしないよ。封印の魔法陣式を動かしてる間は、たぶんなんとでもなる」
「でも、待ってるうちにリュウが殺されちゃったら……」
「三つ以上の魔法陣は同時に作動しない。オマエ頭にあんだろ? 忘れちゃった? 容量足りてる?」
「でも、三つも動いてるんでしょ」
「竜の弱体化、メイジの強化、封印式。こんなとこだね。あいつらきっと竜が怖くて仕方ないんだよ。当たり前だけど、俺らはヒトの天敵なんだ」
「あなたはともかくリュウは違うよ。ぜんぜん怖くない。やさしい」
「ハイハイ、聞き飽きた。オマエもリュウが生きてるうちに一回くらい裏切っといてもらえれば、そんなに綺麗な思い出ってものにならなかったのかもね」
「リュウは死なないし、裏切ったりもしないよ」
 他の隊員に聞こえないように小声で話し込んでいると、隊のひとりがやってきて、直立して敬礼した。レンジャー式のものだ。
 中年の髭面で、堅物そうな顔をしている。確かニーナと隊長を交代した男だった。なら、名前はアイザックと言うのだろう。
「ニーナ様、ご命令を」
「あ、うん。リュウを守って。あと何があってもわたしの邪魔をしないでね」
「……? はっ、了解しました」
 男が敬礼し、腕をばっと下げたのと同時くらいに、ボッシュの背中がざわっと泡立った。懐かしい感触だったが、感慨には浸りたくもない種類の感覚だった。
 殺気と火力がいっぺんにやってくる種類のものだ。
 ――――狙撃される!
「にゃっ!!」
 確信より数秒遅れて、衝撃がやってきた。
 ニ―ナが悲鳴を上げた。どん、と揺れ、扉の向こうでガラスの割れる音、くぐもった悲鳴が聞こえた。
 並の狙撃銃なんかじゃない。あれは静かなものだ。音もなく、一瞬で終わる。間違っても爆発炎上してあたり一面煤煙まみれにはならない。
「リュ、リュウっ!!」
 ニ―ナの反応は素早かった。
 ボッシュが傍観しているうちに、ウィザード・ワンドの先端にバルハラーの光を灯した。
 そう言えばあれは痛かったな、とボッシュはぼんやりと思い出していた。
 最強の魔法使いの最上級攻撃魔法だ。並の生命力じゃひとたまりもない。
「ニ、ニーナ様?! 何をなさいますか!」
 元隊長以下隊員どもが慌ててニーナを止めに掛かったが、仮にも判定者である彼女を、ファーストクラスのレンジャーとは言え止めることなどできるはずもなかった。
 彼女を宥めることができるのは、おそらく彼女の保護者どもだけだろう。
 そしてそいつらは今は彼女のそばにはいない。
 レンジャーどもはメンバーのニーナを攻撃することもできずうろたえていたが、とにかく彼女を取り押さえるべきだと判断したようだった。
 隊のひとり――――確か今朝ボッシュの眠りを妨害した奴だった――――が慌ててニーナに伸ばした手を、ボッシュは無造作に抜剣して刺した。
「うっ、うわああっ!」
 腕を太い針みたいなレイピアで貫かれた男は、あんまりにも予想外だったのだろう、驚愕した顔で腕を押さえて倒れ、尻餅をついた。
「そっ、ソラ! 貴様一体何をする?! 気でも違ったか!!」
 ボッシュは肩を竦めて、血がべったりと付着した剣を振り、やれやれとため息をついた。
「ソラ? 誰それ。ぜんぜん知らない。ディク女がチェッカーを開けてくださるって言うんだ。これ以上面倒ごとを増やすんじゃないよ」
「ボッシュ、その人たちに邪魔させないで! わたしはリュウを助けに行く!」
「オマエの命令なんて聞いてやるつもりもないけど」
 ボッシュは気だるく剣の腹で肩を叩いて、さっさとやっちゃいなよ、と言った。
 一瞬置いて、ニーナの魔法が発動した。
 バルハラーの暴力を伴った眩い光は、やすやすと封印の間の扉を打ち破った。
 そして光が消えて、大きく開いた穴から、封印の間が一望できた……ガラスが割れ、枠だけ残った鉄骨の向こうには空しか見えなかった。
 青い光で満ちていた。
 そして――――ボッシュは背中がひどくじくじくと疼いて、思わずにやっと口の端を上げた。
 ニーナが駆け出していったその先だ。
 薄い障壁が張られ、その中に見慣れた姿を見つけた。
 ずうっと追い掛けてきた相手だった。







 リュウがいた。







 彼は混乱し、焦燥した顔で、なにごとか必死でニーナに向かって叫んでいた。
 だが障壁に阻まれてうまく聞こえなかった。
「どけ、ソラ! 貴様は後程追って処分が下るだろう!」
 後ろから、さっきの隊員のメイジが、ボッシュを押し退けて前に出た。
 何か魔法でも掛ける気なのだろうか? ワンドがぼうっと淡く発光しはじめた。
 ふいっと後ろを見ると、さっき突き刺してやったレンジャーが、手当てを受けながら何事かわめいている。
 不信の目がボッシュに集まっていた。
 ボッシュはにやにやと笑いながら、気だるげな仕草で、レンジャー式の敬礼をしてやった。
 気分は最高だった。これで永遠に続くかのような錯覚すら覚えたボッシュの絶望は、きっと終わる。
 もうローディの相棒に負けやしない。誰にも負けやしない。
 空をこの手に取り戻すのだとアルター・エゴは言っていた。
 だがそんなものは今やボッシュにとってはどうでも良いことだった。
 求めるものはたった一人だった。
  取り戻すものは空なんてかたちのないものじゃあない。
 その、世界でたったふたりきりになってしまった同族の絶望する顔だった。
 彼の苦悶だった。
 助けを求める声だった。
 元々がボッシュのものだった、あの頼りない相棒の手のひらだった。薄く、少し冷たい、あの。
「ここまで案内してくれてアリガトウゴザイマシタ、人間様方。騒ぎも起こらなくて、ほんとに助かったよ。オマエらはもう用済みだけど、今はすごく気分がいいから、生かしておいてやってもいいよ」
 ネムリィの魔法がニーナを寝かし付けたようだった。彼女はくずおれて、リュウが手を伸ばした。
 だがその手は障壁に阻まれて、どこにも届かなかった。
 そう、あれがどこかに届く必要なんて、もうなにもないのだ。








 そして、そいつがやっと姿を現した。
 ボッシュからすべてを奪っていった相手だった。
 栄光を、家族を、自分の力に対する自信を、D値は絶対だと信じられるプライドを、そしてあの弱っちくて一人じゃなんにもできないローディの相棒を。
 そいつはある日突然現れて、相棒のリュウを食らい、寄生し、心すら侵して、ボッシュからすべて奪っていった。
 空を開ける為のプログラムなのだという。
 ひどい悪趣味な冗談みたいに、彼は二年前そうあった栄光の中のボッシュの姿をしていた。
 良くできたイメージだった。
 だが瞳の色だけが違う。血の色に染まった夕焼け空みたいな色だった。
 彼はリュウに無心の信頼を受け、満足していた。縋られて自尊心を満たされていた。
『よお、名無しの負け犬。また俺に殺されにきたの』
「名無しなんかじゃあないよ」
 ボッシュはそっけなく呟いて、言った。
「すぐに返してもらう。名前も、なにもかも、ぜーんぶさ」
 目の前にいる『ボッシュ』の姿をしたものは、じっとボッシュを見つめてきていた。
 その目には敵意が見えた。
 その澱んだ感情が渦のようにボッシュに向けられていた。
『リュウはオマエなんかにゃやらない。手は出させないよ。こいつ、俺のなんだからさ』
 背中がひどく痛む。
 こんなに間近で本体と対峙したのは初めてだった。
 ともすれば、また逃げ出してしまいそうになるくらいに、恐ろしかった――――怖くないと言えば嘘になる。
 だがボッシュを蝕んでいる殺意がそれを許さなかった。
 恐怖よりも強い感情だ。焦燥と怒りと憐憫をないまぜにした感触だった。
 そいつは二年前のボッシュそのものの仕草でもって、腰から獣剣を抜き放ち、優雅に構えた。
 物腰はスマートだった。
 背中に、昔そうあったように弱っちいローディのリュウを回して、従えて、そして尊大に言い放ったのだった。





『死んでいいよ、オマエ』





「死んでいいよ、オマエこそ」
 それはかつてそうあった自分の姿だった。過去の映写だった。
 すぐに取り戻すよ、とボッシュは口の中だけで呟いた。
 リュウは無心の信頼を浮かべて、だが少し不安そうに瞳を揺らしていた。
 偽物に向けるには真摯過ぎる信頼だった。慕情と言ってやったって良い。
 思えばリフトでローディの彼を見捨てず守っていたのは、誰よりも強かったボッシュだけだったろう。
 だが彼は裏切ったのだった。
 それがどうしてなのかは知らない。
 きっとプログラムに浸蝕されてあいつはおかしくなっちまったんだ、とボッシュは思おうとした。
 あれはリュウじゃなかった。
 ボッシュ=1/64が、ほんの僅かとは言え、信じてやって、初めて友達だなんて認めてやったって良いかもしれないと心を許したあのリュウだと思いたくはなかった。
 過去の全てのそんな事象が、思い出の中のリュウすらも憎しみに染めていく。
 きっとアジーンが全て奪っていったのだ。
 ニーナがリュウを奪っていったのだ。
 歪んだ世界が、統治者どもが、バイオ公社が、トリニティが、ボッシュからリュウを取り上げたのだ。
 世界が、全てのものが、リュウの手を離したあの瞬間からボッシュを置き去りにして走り出し始めた。
 幼い約束も、思い出と一緒に遠いところへ行ってしまった。
 もう何もかもどうだって良かった。
 ただリュウさえ殺せれば……彼がいなくなれば、あのリュウに関する心の変動を全てなかったことにできればそれで良かった。
 ボッシュは悦びと暗い慟哭を憶えながら、ゆっくりと首を振って、少し苦笑いしながら、もう一度静かに言った。
「オマエら、死んじゃえよ」







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