座り込んだリュウは不安と信頼が入り混じった顔で、まるで幼児が庇護者に見せるような頼りない目をしていた。
 彼は手を伸ばそうとして、だが拘束されてかなわず、少し頭を振って、言った。真摯な声だった。
「怪我、しないでボッシュ……きみにまたなにかあったら、おれは……もうあんなことは二度と」
 リュウはその後の言葉を続けられないようだった。彼の喉は、つっかえたみたいな、ひゅっと空気が漏れる音を零しただけだった。
 『ボッシュ』は何も言わなかった。ただもうわかってるんだと言いたげに、肩を竦めて軽薄な動作で頷いた。
 その仕草は洗練されて、さまになっていた。栄光のものに相応しく、傲慢で尊大だった。
『なに? 心配してんの?』
「う、うん。ごめんね、おれなんかが心配するなって、ボッシュ怒るかもしれないけど、でもやっぱり……」
『ほんとだよ。俺を誰だと思ってるの? ボッシュ=1/64、剣聖に連なる栄光のものだぜ。俺様に敵はいないの』
 『ボッシュ』は獣剣を構えた。
 この場にいる者に、一瞬それが実戦であることを忘れさせてしまいそうな、これから殺し合いをするのにはそぐわない、優雅で、スマートな物腰だった。
 『ボッシュ』はヒーローだった。
 少し皮肉げなものが表情に混ざってはいたが、誰にも負けないと言うまっすぐな気負いと高いプライドと、どんなことがあったって自分を信じたリュウを裏切って見捨てて放り出したりはしないという正義感が隠れもせずに見て取れた。
 昔のボッシュとは、大分掛け離れていた。
 それはリュウの夢の中に生きる、彼にだけ都合の良いパートナーボッシュのイメージだった。
 やさしく、いつだって相棒を見捨てたりはしない。
 彼はもしリフトの落盤に相棒のリュウが巻き込まれたとしても、自らの汚点になるかもしれないなんて打算をこれっぽっちも考えず、ただ焦燥し、相棒の名前を呼んでやるだろう。もしかしたら彼の為に少し泣いてやるかもしれない。
 そしていつだってリュウを背中に回して戦っているのだろう。
 ディクと、そして世界中のリュウを煩わせるもの全部とだ。すべてから庇護してくれるヒーローで、リュウはそんな相棒を心底尊敬し、崇拝し、もしかしたら愛してすらいるのかもしれない。
 ボッシュはそう考えて、皮肉なものだと一人ごちた。
 リュウは夢想するやさしいボッシュに救いを与えられ、そしてもうすぐこのリアルの中で、彼の元へ現れたボッシュ=1/64によってその安堵を奪い去られ、永遠の絶望に突き落とされるのだ。
 それは割と面白い見世物だとボッシュは考えた。
 リュウの安堵も恐怖も何もかもが、彼の精神が、ボッシュによって簡単に操作されてしまうのだ。悪くはない。
「そろそろ気色悪いお喋りはオシマイにしてくれよ。オリジン様、そこでなんにもできないまま御覧になっててください。あんた大好きなボッシュに守られて安心してるんだろ? すぐにそんなものぶっ壊してやるよ」
「……ボッシュを壊す? 何を言ってるの」
 リュウはおかしなことを聞いたとでも言うふうに、きょとんと目を丸くして、ボッシュを見た。
 彼はだが認識していなかった。
 わからないのだ。
 彼が殺したボッシュが目の前にいるのにわからないのだ。
 気が付かない。リュウは不信と警戒の目をボッシュに向けていた。
 ヒーローの『ボッシュ』に向ける崇拝は、そこにはなかった。
「そんなこと、誰にもできるわけない。ボッシュに勝てるヒトなんかいない。おれの相棒は最強なんだから、ボッシュはおまえなんかに負けやしないんだ」
『そーいうこと、名無し。リュウは俺を信じてるよ。オマエなんか死んじゃえってさ』
「そっ、そこまで言ってないけどボッシュ」
 リュウが、もう、という顔をした。
 『ボッシュ』はにやっとリュウに笑い掛けて、そしてその中途半端なにやにや笑いのまま、ボッシュに顔を向けた。
『さ、始めようか。あんまり相棒待たせるのも良くないし?
これから俺らはずーっといっしょにいるんだ。もうこんなつまんない世界にリュウを煩わせやしない』
「まったく面白くないね」
 ボッシュは、『ボッシュ』が手にした剣よりも大分くたびれた獣剣のグリップを握りしめた。
 手は少し震えていたが、それはもう恐怖のせいではなかった。
 それは怒りがもたらした焦燥だった。喪失感であり、空虚だった。
 相棒のリュウを、彼から記憶と感情すら奪って自分のものにしてしまったできの悪い劣化コピーへの憎悪と嫉妬だった。
「ほんとに茶番はこれで終わりにしちゃおうぜ。空がそんなに欲しかったんならくれてやるさ、けどオマエにゃそれで充分だよ」
『なんのことだか』
「でき損ないのプログラムは、もうおとなしくスクラップの山でおねんねしてなってこと……!」
 踵を踏み出す。
 『ボッシュ』が右腕を剣ごとすうっと前に滑らせ、身体の側面を向けたまま、背後のリュウを守るように立ちはだかった。
「ボッシュ……!」
『そこで「待て」、「オスワリ」してなよ、リュウ! 命令聞かなきゃ嫌いになっちまうよ!』
 しゃがみこんでいたリュウが、ボッシュの襲撃に思わず身体を起こしかけると、『ボッシュ』が鋭く叱責した。
 リュウはびくっと引き攣って硬直した。
 彼は『ボッシュ』に嫌われることが、世界中で何よりも恐ろしいようだった。
 世界最高位のオリジンのくせに、その様子はひどく子供じみていた。
 これも精神操作の一環なのかもしれない。
 リュウはきっと何か彼ではないものに造りかえられてしまった。ボッシュさえわからないのだ。
 こんなに近くにいるのに、彼は気がつかないのだ……!
 ボッシュは知らず、叫んでいた。激昂し、声を荒げていた。
「……このでき損ないぶっ殺したら、次はオマエの番だよオリジン様! この裏切り者が!! なんで俺がわかんないんだよ!!」
『リュウ、「聞くな」! 「理解するな」、コイツを「見るな」! オマエは俺だけ見てりゃいいんだよ!!』
 交わった剣が、鋭い光を放ち、ボッシュの目を焼いた。
 『ボッシュ』の真っ赤に燃え上がった目には、栄光の光の中にいたあの頃とは大分掛け離れてしまったボッシュの姿があった。
 その碧の目には、あの傲慢な余裕がなくなっていた。
 かわりに焦燥と狂気が混在していた。
 そしてリュウへの怒りが。
 もう食われてしまったリュウと、彼を食ってしまったドラゴンへの憎悪が。
 それだけは何よりも強く輝き、リュウが裏切ったあの日から色褪せることはなかった。
 今やもうボッシュに残っているものはそれきりだった。
 ボッシュから何もかもを奪っていったリュウへの、そして彼を奪っていったものたちへの憎しみと怒りだけだ。
 幼い頃の約束はいつしかかたちを変えて、暗く燃え盛りながらまだボッシュの中に存在していた。
『オマエなんかにリュウはもったいない。あいつの血と肉は俺のものだ。オマエにゃ食わせてやらない』
 乾いた声で、『ボッシュ』が言った。
 そこにはリュウの記憶データをそっくり再現したものにしては、しっくりとこない感触があった。
 そいつは二年前のボッシュそのものじゃあない。自我を備えているのだ。
 彼は二年前のあの日、リュウを食らった。
 そして緩慢に咀嚼し続けている。二年経た今になっても、ずっと。
 歳月の分だけ鋭くなった獣剣技を繰り出し、ボッシュは憎悪を隠しもせずに返した。
「そっくり言葉を返してやるよ、でき損ない。オマエさあ、ほんとにもう、死んでいいよ」
 能力は互角だった。
 そう設定されているのだろう、だが成長した体躯のリーチだけ、ボッシュに分があった。
 だが相手はまだその巨大な本性の片鱗すら見せていない。あの赤い角も炎の翼もない。
 じきに、形態の不便さに『ボッシュ』は業を煮やしたようだった。
 ちっと舌打ちして、飛び退き、ボッシュから距離を取ると、無造作に剣を腰の鞘に戻した。
 背中の傷が、びりびりとわなないた。痛みにボッシュは一瞬顔を顰めた。
 これまで起こったもののなかで、最も大きな共鳴だ。
 『ボッシュ』の身体は、そうして、変化の兆しを見せた。
 奇妙な模様が彼の全身を覆う。異形のパーツが彼の身体から生まれ、変化を続けていく。
 そう、それが彼の本性なのだ。
 髪は色を失って、燃え盛る炎が全身を包み――――











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