同時に、あの慣れ親しんだ、身体と繋がった剣の切っ先が肉に染み込んでいく感触が、手のひらに伝わってきた。 少し重く、泥の塊に肘まで突っ込んだみたいな、ねばっとした感覚である。 それは人でもディクでも何ら変わりはないものだった。血と肉と皮と骨。特に取り立てて区別するべきところもなかった。 それは、昔から確かにボッシュに染み付いていた考えだった――――動物は何度か剣の先で突付いてやるとやがて動かなくなり、その身体は重量を増し、どんどん冷たくなっていく。人もディクも変わらずボッシュの敵だった。子供の頃からそう教えられて育った。 幼い時分は死という事象について、いささか不思議に思ったものだった。 ディクが死ぬと重くなるのはどうしてだろうと、子供のボッシュは考えたのだった。 魂が飛び去ってしまえば、いろんなことを考えたり、感じたりする心というものの分だけ身体は軽くなるはずだ。 だが訓練で屠ったディクは、べしゃっと床に重苦しく倒れるだけだった。まだ生きていた頃、ボッシュに向かってきた俊敏な牙も爪ももうなかった。死は確実に身体の重量を増やすのだ。 それが何故なのか訊いたら、父の弟子たちは何ででしょうねとなんでか少し笑いながら首を傾げていた。父には、どうせ答えてなんてくれないだろうから訊いていない。 いつしかそんな些細な疑問はどうだって良くなってしまった。これが慣れということなのかもしれない。 ボッシュの剣はそいつには届かなかった。 『ボッシュ』はぽかんとして、痴呆みたいに口を開けたままでいる。 獣剣のグリップにはあの泥に手を突っ込むような感触が染み込んでいた。 くたびれて罅まで入った剣先は、赤く染まっていた。 錆の臭いが鼻をついた。 すぐ目の前、覗き込めば鼻先が触れ合いそうな至近距離に、リュウの顔があった。 彼の目は揺らいでいた。 あの穏やかなブルーの目は、今は少しびっくりしたように見開かれていた。 そこにはボッシュが鮮やかに映っていた。 リュウは少し居心地悪そうに目線をふらふらとさせていた。 彼はいきなりボッシュの目の前に飛び出してきたのだ。 真っ暗なリフトで、そう、昔そうあったように、ディクの爪とボッシュの身体の間にふらっと身体を滑り込ませる、あの要領だった。 ボッシュの獣剣は、確実にリュウの胸を貫いていた。 背骨を貫いて背後に飛び出した剣の先から、音もなく、血液が床に滴り落ち、血溜まりをつくっていた。 それは止まることはなく、どんどん広がっていく。 リュウの御印入りの紺色のロングコートが、吹き出た血液を染み込ませて、奇妙な色合いに変色していった。 だが、そんなになってもリュウはまだあのちょっとびっくりした顔でいた。痛みに顔を歪めもしなかった。 「……ぼ、し、う? い、じょ、うぶ?」 彼は喉まで逆流してきた血が詰まって、上手く喋れないようだった。 ごぼごぼと泡立つような耳障りな音と一緒に、リュウは声を絞り出し、心配そうに言った。 「けが……ない? ごめ……やく、そく、おれ……」 そこまで喋って、リュウはひどく咳込んだ。 おびただしい量の血のかたまりが、彼の喉から吐き出された。 「ぶじで……いる? いき、てる?」 リュウはそんなになっても、自分の身体に全く頓着せずに、『ボッシュ』を気遣い、心配していた。 まるで自分の身体なんて、本当はここにはなく、どこか遠い場所に置いてあるんだとでも言いたげな、投げやりな動作だった。 彼の目はボッシュを見てすらいなかった。 どこも見てやしなかった。 ただ虚空に投げ掛けたまま、その眼からあの鮮やかな光が少しずつ失われていく。 今まで何度も目にした光景だった。 剣の先で突き刺したディクどもは、そうやって少しずつ動かなくなり、やがて完全に動きを止めて、重くなり、冷たく冷えていくのだ。 「あ……」 ボッシュは無意識に手を伸ばし、リュウを掴もうとした。 だが、彼の肩に指を触れる直前にはっとして、腕を強張らせた。 ボッシュは彼を、裏切り者のリュウを殺害するためにこのセントラル竜の間までやってきたのだった。 二年もの歳月を掛けてだ――――リュウの手を取ろうとした腕を引き、かわりに獣剣を握る手に力を込めた。 泥の塊に埋まっている剣を力任せに引き抜くように、刀身の重心を入れ替えながら剣を揺らし、引き抜いた。 リュウは酸欠でも起こしたみたいに喘いで、ずるっと身体を傾けた。脱力し、そのまま崩れ落ちていった。 『リュ、リュウ……』 『ボッシュ』はあからさまに狼狽し、顔色をなくし、慌てて倒れ込んだリュウを抱き抱えようと手を伸ばした。 だが、その擬態は二年前のボッシュを模したものだった。華奢と言っても良いくらいに細く、しなやかで、鍛えられてはいるが、まだ完成しきっていない少年の身体だった。 リュウは二年間で大分成長し、背が伸びていた――――だが異様にやつれており、死に掛けの病人みたいな体格をしている――――そのせいで、『ボッシュ』は上手くリュウを支えられないようだった。 自律を失ってずっしりと重くなったリュウに引っ張られるように、床に膝をついた。 そしてリュウの肩に腕を回して、彼の頭を上向けに抱え上げた。 リュウはまだ呼吸をしていた。 ごぼごぼと依然として彼の喉は嫌な音を立ててはいたが、生きていた。 彼はそんなになっても痛みなど感じないような顔でいた。澄んだ目だった。さっきのクピトのものに良く似ている。 あの、死ぬことなんてこれっぽっちも怖くはないという眼だった。 そしてやがて、おそらくは霞んでいるだろう視界に『ボッシュ』の顔を見付けたようで、リュウは安堵し、少し微笑を浮かべた。 「なん、で……そんなかお? っしゅ、らしくない……ふふ、あ……」 そこでリュウはあることに思い当たったようで、軽く目を見開いた。 「しんぱい……して、くれるの?」 そしてリュウの目に、うっすらと涙が浮かんだ。 『ボッシュ』は目を見開き、緩く頭を振り、リュウの頬に手を添えた。 リュウの目から零れた透明な液体は、音もなく零れて、彼の頬を、『ボッシュ』の手のひらを濡らした。 「うれしい……おれ、きみに、ひどいことばっかり、してるのに、ねえ?」 そうして、リュウは綺麗に笑った。 昔ボッシュに見せた、あの諦め混じりの変な笑いかたとは、それは決定的に違っていた。 リュウと『ボッシュ』は、まるで相棒同士の模範のように見えた。 彼らはいつだって繋がっており、一緒にいる。片割れはもう一人の自分のように、いや、自分よりもずうっと崇高な存在のように考えている。どちらも相手を想い、決して裏切らない。 そこにボッシュの入り込む隙間はなかった。 ボッシュは、もうリュウの中ではイレギュラーだった。そのリアルの打算も憎しみも。 彼らを傍観していたボッシュは、またあの衝動が沸き上がってくるのを感じた。 例によって得体の知れない焦燥だ。もどかしく、何か得体の知れない痺れが心臓から喉元までせり上がってくるのだ。 早く殺さなければならない、とボッシュは思った。 この竜どもを消し炭にしてやらなければならない。そうしなければ、この得体の知れない焦りはいつまでもボッシュの中に燻っているのだ。恐怖と憐憫まで混じった焦燥が。 リュウを抱いていた『ボッシュ』が顔を上げた。 その目は真っ赤に染まっていた。 頬には奇妙な模様が浮き出ていた。 彼は隠しもせずに激昂していた。 全身を怒りで強張らせ、震えていた。 俺はこんなふうにあからさまな怒りを今までぶちまけたことがあったろうか、とボッシュはさめた頭で考えた。 なかったと思う。それはリュウだ。世界に怒りをぶちまけて、破壊してしまったリュウだ。 『ボッシュ』が怒りに浸蝕され、その本性が徐々に顕在し始めた。少し眠たげな目は吊り上がり、皮肉げな笑みを始終たたえていた口元には獣の牙が覗いた。 柔らかい金髪は色を失って逆立ち、瘤のような肉の塊が耳の上で盛りあがり、やがてそれは硬化し、角に育った。 何度も悪夢に魘された、例の赤いひかりが彼の身体を包み、激しく燃え盛った。 そこにいるのは、もう二年前の『ボッシュ=1/64』ではなかった。 『殺してやる……!!』 そして咆哮した。 そいつの名は、アジーンと言った。 |
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