赤は嫌いだ。
 あの血のような朝焼けの空、そして地平線の向こうに太陽が沈んでいく夕暮れ時の狭間の一瞬の光は、いつだって空で生きるボッシュに例の悪夢を思い起こさせた。
 忘れ去ることを赦さなかった。
 赤いひかりが迫ってくる。
 熱さはない。
 もうなにも感じない。ボッシュはもう死んでいる。なにも感じるはずがない。
 だがおかしなことに、まだ良くものが見えた。
 ひかりの向こうにあるのは、異形とヒトが交じり合った奇妙な化け物だった。
 その顔には何の感情も見て取れない。
 気負いもない。
 獣がそうあるように牙を剥き出しにしている。目は爛々と輝いている。
 吐き出された炎の圧倒的な火力を覚えている。
 痛みは感じず、ただ腹のあたりに重苦しい衝撃だけがあった。
 いや、恐怖も感じていたかもしれない。
 今まさに食われようとしている餌の怯えだ。
 ボッシュはその畏れを覚えている。剣聖に連なるものにあるまじき、あの恥ずべき感情を。
 だがその圧倒的なひかりに呑み込まれたのは誰だったろう?
 ボッシュはリュウに心臓を握り潰されて死んだんじゃなかっただろうか?
 自分というものが曖昧になっていた。
 ひたひたと冷たい感覚が迫ってきた。
 今の俺は一体誰なのだろう?
 記憶が混在し、自分を認識できなくなっていく。
 そこから救ってくれるものは、縋れるものは、自己を証明できるたったひとつの事象が、「それ」だった。
 リュウが憎い。殺してやる。





 はっとしたその時には、ドラゴンブレスの赤光がボッシュの視界いっぱいまで迫ってきていた。
 怒りを具象化したようなひかり、その先にはあの異形とヒトが交じり合った化け物がいた。
(避けないと)
 そのひかりの暴力は、またボッシュに死をもたらすだろう。
 今度こそ徹底的にめちゃくちゃに破壊し尽くされ、肉片すら蹂躙され、再生も叶わないくらいに消し炭にされてしまうだろう。
(ヤバイ、また死ぬ……殺される?)
 ぞっとして、ボッシュは後ずさろうとした。
 だが、足が凍り付いたように動かない。
 畏れと怯えがボッシュに浸蝕していた。
 一度自分を殺害したひかりが、目の前でもう一度再現されているのだ――――筋肉は強張り、思考は停止した。
 ボッシュはその場で硬直したままで、呆然とその赤光を見ていた。
 逃げ去ることすらできなかった。
――――何を畏れている! 動け!』
 頭の中でひどい反響を伴って、大きな声が聞こえた。
 チェトレに叱責されながら、だがボッシュは緩く首を振った。
 ボッシュの目の前で今、自分が死んでいる姿が再生されていた。
 ライフライン。落下の衝撃で全身がぐちゃぐちゃに潰れて、あちこちに身体の一部の破片が散らばっている。
 ジオフロント。心臓を貫かれている。
 異形の獣の腕は肘まで赤く汚れ、確かにボッシュの心臓を掴んでいた。
 暗い闇がひたひたと迫ってくる。
 冷たく意識を浸蝕していく。
 そして、ボッシュは死ぬ。
 何度だって殺される。
 そいつから逃げることなど、できはしない。
――――う、動けない……怖いよ……)
 がちがちと歯が鳴りはじめた。パニックの予兆が、ボッシュに訪れた。
 それは良くボッシュを苛むものだった。
 なにか強大なもの、自分の力ではどうにもならないものを目の前にした時に訪れるものだった。
 怖れず常に冷静でいろと生きていた頃の父は言った。
 だがどうにもないものを目の前にして、どうすればいいというのだ?
『臆病者め!!』
 身体からふわっと何かが抜け落ちていく感触があった。
 その空虚な感覚は、ボッシュを更に混乱に突き落とした。
「チェトレ! 行くな!」
 慌てて腕を突き出したが、なんにも掴めやしなかった。
 かわりに背後に巨大な存在感を覚え、振り向くと、そこには透明な竜が滞空していた。
 チェトレ、ボッシュの身体を蝕んでいる竜の本性である。
 光の壁が、その巨体を覆うように出現していた。
 ボッシュはそれを知っていた――――アブソリュード・ディフェンス。
 それはボッシュがくっつけている粗末な盗品とは格が違っていた。
 アジーンのドラゴンブレスを真っ向から受けて、光を分散させて、奇妙な光の文字を浮かび上がらせている。
「……え?」
 そうなって、ボッシュは奇妙なことに気が付いた。
 ドラゴンのブレスは、確かにボッシュを貫き、チェトレの障壁に直撃していた。
 そのはずだ。
 だが――――




 うっすらと手のひらが透けている。
 例の、リュウの子飼いの化け物たちみたいに、崩れ落ちてきた溶け掛けの瓦礫を透かしている。
 赤い光はボッシュをうっすらと透かすだけだった。影はなかった。
 まるでボッシュだけが世界からすこしずれた場所にでもいるようだった。
「な、なんだこれ?」
 理解できず、ボッシュは何度も目を瞬いて、透明な手を凝視した。
 注意深く観察すると、透けているのは手のひらだけじゃあない。
 腕、髪、身体全体が、ぼんやりと薄青い輝きを纏って透けている。
「チェ、チェトレ!!」
 ボッシュは混乱して、瓦礫に寄りかかったまま顔を上げた。
 チェトレは赤い光に包まれていた。
 牙を剥き出しに、背中の炎を蒼白く燃え上がらせていた。
 答えはない。
 だが、声は聞こえなかったが、頭の中に思考が流れ込んできた。
 良くあることだ。
 リンク者であるボッシュとドラゴンは、思考を共有していた。





――――汝は死者だ、リンク者よ。二年前、汝は破壊された。





「俺は生き返ったんじゃあなかったのかよ?! リュウを殺すために、オマエが……」





――――器よ、汝が成すべきプログラムが終了すれば、汝は消える。汝は残滓だ。このチェトレが構成を維持しなければ存在することすらかなわぬ、幽霊のような希薄な存在だ。
リンク者よ、我がアルター・エゴよ、それが何故畏れを感じることがある?
一度死ねば、もう二度と死ぬことはないのだ。我にはわからぬ。




「幽霊……俺が……?」
 ものを食わなければ死に掛けた。毒を食って死に掛けた。
 死に掛けたボッシュを救ったのが、リュウだった。
 ボッシュは覚えている、あの冷たい手を。
 憎むべき仇敵の、あまり繊細ではない指を。心臓の音が聞こえない身体の感触を。





 死者ならば、何故彼に触れられたのだ。







◆◇◆◇◆






 ひかりが消えた。
 アジーンはリュウに取り縋っていた。
 彼は焦燥し、死に掛けたリュウを抱いていた。
 おかしなものだとボッシュは思った。
 その光景は、狼狽していたボッシュを鎮め、醒ましてくれた。
『……もう、良いのか』
 チェトレの声が聞こえた。
 ボッシュは無理に口元を上げた。
 焦燥はまだ残っていたが、できるだけなんでもないふうに、ボッシュは言った。
「ていうか今更。俺はもう死んでるんだ、当たり前のことだろ? 自分で自分の敵討ちに来たってわけ。リュウを殺せれば、俺はもう、なんだって良いんだ」
 ボッシュはすっと腕を上げ、静かにアジーンを指差して、チェトレに命じた。
「やっちまいな、アルター・エゴ」
 ボッシュは静かに目を閉じ、少し口の端を上げて、自嘲めいた笑みを刻み、呟いた。
「どうせ俺にはもう、なんにも残っちゃいないんだ……」





 チェトレの口蓋が大きく開き、牙の間から真っ青な光が零れた。
 アジーンが振り向いた。
 その驚愕の顔は、ボッシュに静かな満足をもたらしてくれた。
 本当に、静かな心地だった。
 これで全てが終わる。
 もうなんにも残ってない。
 この世界には何の執着もなかった。空にも、ヒトたちにも。
 力さえ示せばいつかは認めてくれたかもしれない父はもういない。
 栄光への道は閉ざされてしまった。
 人間どもを統治するオリジンの座にも興味は持てなかった。
 ボッシュはもう人間ではなくなってしまった。
 ヒトもディクもおんなじようなものだ。
 ディクの大将になんかなったって、何も面白いことはないだろう。
 そして次に目を開けた時、その時には仇敵の姿もないはずだ。
 彼は世界から零れてしまう。
 目を開けて、その後に訪れる新しい世界――――その世界には、もうリュウもいないのだ。どこにも。










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