「写真って言うんだこれ……」
 入隊して数日で、テーブルの上は既にいろいろなものでごちゃごちゃになっていた。
 空の汚れた食器、ボッシュが家から持ってきたコーヒーカップ、期限が切れた書類、書き損じの報告書。
 相棒のリュウはくたびれたパイプ椅子に座って、熱心に写真に見入っていた。
 写真には何人かのレンジャーが写っていた――――すべて顔見知りのレンジャー達だった。今期の新入隊員と、その教官たちが、大体はいかめしい顔をして行儀良く姿勢を正して突っ立っていた。
 その中にはリュウとボッシュの姿もあった。
 ローディのリュウはボッシュよりもかなり早い時期に候補生入りをしていたが、二人は同期のサードレンジャーだった。
 つまり、そういうことである。ローディはエリートよりも、大分人生における貴重な時間を、無駄に浪費しているのだ。
 リュウはぽかんと口を開けて、いつまでも写真を見つめていた。
 さすがに奇妙に思ってボッシュが気を向けると、リュウはぱっと顔を上げた。少しばかり頬を紅潮させていた。
「入隊式済んだら急にみんな並べって言うんだもん、何があるのかなあって思ったらいきなりすごく眩しいのが光って……わけがわからなかったけど、そうか、写真って言うのか。今までものすごく上手い絵だなあって思ってたんだ。誰が描いてるんだろうって」
「バカローディ……」
 ボッシュは呆れ果てて、リュウを小突いて頭の上で纏められた髪の束を引っ張った。
「あ、ちょっと痛いよボッシュ」
「オマエそんなことも知らないでレンジャーになったの? これから先が思いやられるよ、程度の低い奴に何かあると隣でぎゃあぎゃあ騒がれちゃすごく迷惑」
「う、うん……なるだけ静かにびっくりすることにするよ」
「そういうことじゃあないだろ」
 髪を離してやって、リュウの手もとの写真を覗き込むと、自分の顔が見えた。
 皆一様に薄汚い見目をしていたが、その中でボッシュは明らかに浮いていた。
 色素が薄く、新人に特有の怯えに似た緊張が、その顔には見て取れなかった。
 ボッシュはぴゅうっと口笛を吹いて、とんとんと写真を突付いた。
「下層のスクラップ・カメラにしちゃあ割と写りは悪くないじゃあないか? それとも周りが悪すぎるのかな?」
「…………」
「なんでそこで黙るの、オマエ」
 急に黙り込んでしまったリュウの額をぴんと弾いて、ボッシュは顔を顰めた。
「オマエ、他のやつらみたいに媚びないの? いい目見れるかもしれないぜ」
「こ、媚び? 媚びるって、なに?」
「……まあオマエに高度なことを要求した俺が悪かったよ」
「あのさ、それ、そうしたほうがいいかな? なにか大事なことなのか? 例えば、うん、相棒をやってく上ですごく重要なことだったり……」
「……まあ、そうじゃない?」
 バカのリュウ相手に、あまり難しいことを要求したって無駄なのはわかっていたが、ここまで言葉が通用しないと、少々先行きが不安になってきた。
 リュウ=1/8192はこれでもボッシュの相棒なのだ。どういう基準で定められたものだかは見当もつかないが。
「媚びるってのはね、リュウ、他の奴らがやってるみたいなことだよ。例えば俺のことをボッシュ様、って呼ぶ」
「うん、ボッシュ、様……」
 そう言いながら、リュウの肩は震えている。笑っているのだ。
 ボッシュはリュウの髪を引っ張って、なんで笑うんだと言った。
「いい目を見せてもらうために贈り物をする。オマエ俺と仲良くなりたいだろ? なんたってこのボッシュは剣聖に連なるものなんだからさあ」
「でもボッシュ、何でも持ってるじゃあないか。あ、そうだ……」
 リュウはふと思い付いたみたいで、デスクの陰に置いてある払い下げのトレジャーボックス(彼の私物入れだ。気に入って、ジャンク・ショップで譲ってもらったものらしい)から、何やら持ち出してきた。
 それはペンキで彩色された小石だった。
 球体を捏ねて細長く伸ばしたような形状で、青と白のストライプに色を着けられている。
「これ、施設にいた時に作ったんだ……ハオチーに似てるでしょ? 上手いだろ」
「……なに、このゴミ」
「ご、ゴミじゃない! おれ、わりとコマゴマしたもの作るのとか好きで、あげるといつも小さい子たちが喜んでくれるんだ。他のはみんな施設を出る時にあげちゃったけど、これイッコだけ持ってきたんだ。今までで一番できがよくてさ、だからボッシュにあげる」
「なんでそうなるの」
「え? だって、なにかあげるものなんだろ? 友達の印とか」
「……もうオマエに何か期待するのはやめた、ローディ」
「えっ? い、いらなかった? せっかく上手くできたのに」
「それはもういいから」







 それから他愛無い話をいくつかしていた。
 下段ベッド(リュウのベッドだが、ボッシュが使ったって彼に文句はないだろう)に腰掛けて、人工甘味料のジュース缶を開けていたボッシュはにやっとして、まだリュウが大事そうに持っている写真を指して、言った。
「俺が偉くなったらそれ自慢できるよ。何たってこのボッシュと一緒に写っちゃってるんだぜ。なんならサインしてやったって良いよ」
「あ、いいね、それ!」
 リュウはぽんと手を打って、支給品のペンと一緒に写真を差し出してきた。
「ね、おれもボッシュの写真に名前を書くよ。リュウって! おれ字、読めないし書けないけど、自分の名前は書けるんだ。「1/8192」ってのも書けるよ!」
 ボッシュは無言で立ち上がり、缶をテーブルに置いて、リュウの首を掴まえて、拳で側頭部をぐりぐりと抉った。
「いたっ! いたいいたいいたい、ちょっと何すんのボッシュ!」
「……オマエ俺のスゴさ、全然わかってないよ。俺はあっという間にこんな下層区の掃溜めなんか抜けちゃう。もっと上に行くんだ。中層区? いいや違う。 上層区? それも違う。 もっともっともっと上だよ。すごいところだ」
「上の上の上って……あ、そ、空?! おれ知ってるよ、世界のすごく高いところには、本物の空があるんだ! 昔施設の先生に絵本を読んでもらったよ」
「だからバカ、そこまでヒトを勝手に飛ばすんじゃあないよ。まあもうなんでもいいけど、ともかく早くこんな空気の汚いとことはオサラバしたいね。空気だけじゃない、ゴミ臭い、ドブ臭い、人間も臭い、風呂入ってないだろ。みんな頭悪いし……まあオマエはその中でも超級なわけだけど……」
「お、おれ、やっぱりバカなのかな……もうちょっと賢くなったほうがいいかなあ?」
「なんか無理っぽいけど、努力するのは止めやしないよ。ともかく早く昇進して、俺はスゴくなりたいの。協力してくれるよな、相棒?」
 リュウは急に黙り込んでしまった。
 彼はボッシュの言葉の真意を理解したろうか?
 失態を引き受け、手柄を譲れってことをだ。もっともボッシュがこんな下等な職業でなにか失敗するなんてことはありえないのだが、リスクは少なければ少ないに越したことはない。
 リュウは少し悲しそうに何度か頭を振って、項垂れながら、ぼそぼそと言った。
「でもそれって、と、友達がいなくなっちゃうんだよね。寂しいことだよね……」
 ……いや、やっぱり、なんにもわかっていなかった。
 リュウはバカなのだ。







◆◇◆◇◆







 テーブルの上には、汚れたままの空の皿が放置されていた。
 大分長い間棄て置かれたので、嫌な臭いを放ちはじめている。羽虫が何匹かたかっていた。
 彼はあの朝、きっと任務から何事もなく帰還し、夜になったらいつものように部屋の簡単な掃除を済ませて、そして少し眠り、朝が訪れ――――いつものルーチンへ沈んでいくのだろう、そう思っていたのだろう。
 恐らくはもう永遠に繰り返すことのない習慣だ。リュウはもうこの部屋には帰ってこない。夜間訓練でくたくたになって、湯を止められたせいで水浴びをして、泥のように眠ることももうない。
 稽古を付けるリュウの師匠ももういない。彼女は弟子に殺されてしまった。
 二段ベッドの下段、シーツに隠れて、粗末な写真立てがあった。廃材を組み合わせて作られたものだった。リュウの手作りだ。
 彼はあまり器用なほうではなかった。むしろ目に見えて不器用だった。
 だがなにかを作るという行為が、彼は好きだった。
 ボッシュは丁寧にリュウの写真立てをベッドシーツの間から引っ張り出した。
 そしてテーブルの上の空の皿の中に放り込み、とんとんと何度か突付いた。リュウとその写真について談笑していたあの時そうしてやったように。
 写真の中には何人かのレンジャーたち、そしてその教官が写っていた。
 皆現在よりいくらも若かった。
 リュウもボッシュも子供で、その顔にはまだあどけなさが色濃く残っていた。彼らの教官の女なんてまだ小娘と言ってやったって良いくらいだった。
 不思議なことに、撮影した当時はおぼろげだがレンジャーたちの名前と顔を覚えていたのだ。
 だが今になって見ると、彼らはまったく知らない人間たちのように見えた。ボッシュ自身の顔ですら、上手く見分けることが難しかった。
 その中にあって、リュウの姿だけが鮮やかに、ボッシュの目に突き刺さった。
 写真立ての、指に触れたその場所に、ぽっと青白い炎が生まれた。
 それはだんだんと、徐々に広がって、過去の映写を呑み込んでいく。ボッシュの記憶ごと焼き尽くすように、ゆっくりと、じわじわと嬲るように、燃えていく。
 プラスティック製の汚れたプレートが溶け始めた。
 紙くずと書き損じの書類とまだ提出していない報告書とリュウの始末書を巻き込んで、火はテーブルの上で踊りはじめた。
 じっとそれを観察していたボッシュは、ふっと目を逸らし、部屋の中を見回した。
 ここはリュウの匂いがする。
 デスクの上で書類の文鎮がわりになっている、小石のハオチーを溶けた皿の中に放り込む。石に塗りたくられた塗料は焦げて溶け、なくなり、石そのものが真っ赤に焼けて燃えた。
 トレジャーボックスの中に詰まっていた、リュウのまだ洗濯が済んでいないアンダーシャツとレンジャージャケットを、火の中に投げ込む。
 火はごうごうと勢いを増す。青白く燃え盛り、リュウの残滓を焼いていく。まだ相棒だったあの頃の記憶の残りかすも。
 アラームが遠くで鳴っている。だがすぐに消えた。
 炎はやがて部屋ひとつでは収まりきらずに、扉を舐めはじめた。
 ボッシュは炎の海の中で立ち尽くしていた。
 ふと思い付いて、ボッシュは炎の中に手を差し伸べてみた。
 火傷もしなかった。







 宿舎が焼けていく。
 ボッシュが12の歳にこの下層区に降りてきてから、何年か過ごした部屋だった。
 感傷はなかった。
 下層街にはもう終焉が訪れていた。人の姿はなかった。死んだのか、どこかへ避難したのかは知らない。
 炎は弱まるところを知らなかった。
 勢い良く燃え盛り、酸素を奪っていた。
 このままだと基地もついでに焼けるかもしれない。リュウが毎朝朝食をテイクアウトしてきた食堂も、主がいなくなった隊長室も、媚びてくる同僚どもがうざったいので、あんまり近寄りたい場所じゃないレンジャールームも、良くリュウを担ぎ込んでやったメディカル・ルームも。




「これでいい……もう、なんにも残ってないよ」




 人生の何分の一かを過ごした場所だった。望む望まざるに関わらず、嫌でも思い出は蓄積されていった。
 だがもうなんにも残っちゃいない。
 ボッシュの未来は閉ざされてしまった。
 リュウもきっと死んでしまった。化け物に食われた。
 今はなにか得体の知れない生き物が彼の身体を動かしている。
 そう想像して、ボッシュは苦笑した。
 そんなことはどうだって良かった。
 あれがリュウの皮を被った化け物だとしても、化け物に変質してしまったリュウそのものだとしても、どっちだって大した違いはないのだ。
 どちらにせよ、リュウはボッシュを裏切ったのだ。
 あの目。ディクを庇って、ボッシュに向けられた困惑の眼差し。そこには疑惑があった。彼は相棒を信じず、道を塞いだのだ。
 あの時もう既にリュウはボッシュを裏切っていたのだ。
 ボッシュは大分変わってしまった自分の身体を見下ろして、そして燃え盛る炎に目をやって、天井を見上げた。
 リフトならすぐに追い付ける。逃がしやしない。
「すぐに終わらせてやるさ、相棒……」
 一人ごち、ボッシュは歩き出し、ふっと振り返った。
 後ろでは燃えて炭化した二段ベッドが崩れ落ちたところだった。
 リュウがそこに座って、不器用な手で剣を磨きながら、微笑みながらこう言うことはもうないのだ。
 おかえりボッシュと。










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