雨の匂いがする。遠くの空が青黒く染まり、時折白く瞬いた。大分遅れてかすかに耳鳴りのような雷鳴が、耳に届いた。
 さっきまではとても天気が良かったのだ。街の上には抜けるような青空が広がっていた。
 空というものは気まぐれなもので、時間と共にその表情をくるくると変える。
 低い曇天の下をボッシュは走っていた。大気はじっとりと湿っている。まだ遠い工業地区のクレーンが、高台の広場からははっきりと見えた。
 腕に抱いているリュウは、さっきまでは静かなものだったが、今や酸欠にでも陥ったかのように呼吸を荒らしていた。
 失血が過ぎたようだ。いつ追手がかかるかも知れないこんな場所ではまともに止血もできたものではないが――――そう考えてから、ボッシュはふとあたりまえのことに気付いた。
 誰が追ってくるにしても、そう大した問題にはならないのだ。アジーンはもうでくのぼうだ。ほかは人間ばかりで、ボッシュと対等のものなどこの街のどこにもいなかった。
 足をゆるめると、そうなってようやく世界が動き始めたかのように、ボッシュの耳に新鮮な音が届いた。
 街には人気がなかった。高台から見える街のあちこちには警備のレンジャーらしきものの群れがちらほらと見えるが、一般人の姿は見えない。外出を禁じられているのかもしれない。
 封印の儀が執り行われている今日の街には、厳戒体勢が敷かれていた。
 あちこちで甲高いサイレンの音がざわめき、それに混じって、街の中央にある真新しい時計塔の鐘がひとつ鳴った。
 天辺の時計は午後一時を指していた。
 あまり街の地理には馴染まなかった。
 この胸糞悪いリュウの街をボッシュは知らない。
 腕の中のリュウは、浅い呼吸を繰り返している。時折笛を鳴らすみたいな引き攣った音が、口蓋から零れた。
 血液は相変わらずボッシュの腕を、新調したてのレンジャー隊服を鮮やかに赤く染めていく。
「この辺にゃショップはないのか……クリオ、あのぼったくり女は? 街じゃあないのか?」
 しばし立ち尽くし、ボッシュは思考した。
 このまま捨て置いていれば、ほどなくリュウは死亡するだろう。






――――我には理解不能だ……』






 頭の中にサイレンの音といっしょくたに響いた声には、咎める気配と僅かな困惑があった。
 ボッシュはめんどくさいなと呟いて、肩を竦めた。
「黙ってなよチェトレ。気は済んだろ? 空はもう俺たちのものだよ」
『汝の憎しみ、我はそれを食らって偏在する。それが、条件だった、我がアルター・エゴよ』
「ああうるさいうるさい。知ってるよ、オマエの言いたいことは理解してる。なんで止めたって聞いてんだろ』
 ドラゴンは沈黙した。それが肯定の返事だった。
 ボッシュはリュウの顔をじっと見つめた。
 もう色をなくしている。
 早いところ、血を止めてやらなきゃあならない――――輸血も必要だ。
 人間の場合はそうだ。
 だがリュウに適合する血液を持つ人間など、世界のどこにも存在しなかった。
 彼はもう別の生き物に変化してしまった。
 同じ遺伝子を持つものは、この世界でたった一人だけだ。ボッシュ=1/64。彼とボッシュは今や同じものになってしまった。
 ボッシュは静かにチェトレに言い聞かせた。
「……コイツ、まだ殺しちゃあ駄目だ。ぜんぜん何にもわかってないよ。
自分が何をやったか、誰が殺しに来たか……だってさ、あいつにあんな顔するんだぜ。
もっとちゃんと苛めてやらなきゃならない。死んだほうがましだってくらい、ひどいことされたら、きっと嫌でもわかるよ」
――――憎めるか?』
「オマエ今更何言ってんの? 頭あるんだろ。俺は返事した。オマエは頷いた。憶えてるだろ?」
 ボッシュは、救いようがない、というふうに頭を揺らした。
 そして言うべきかどうか少し迷って、結局ぼそぼそとそれを口にした。そうでなければ、後で面白くない目に遭うことは目に見えていたのだ。
「死ぬことなんか、怖くはないんだ……本当だ。俺に怖いものなんかない。アジーンも、リュウもそうだ。俺はあいつとリュウを殺してやったら後のことなんてどうでもいいし」
『…………』
「だからあれ、忘れろチェトレ。この先口に出したらぶっ殺してやる」
『……臆病者よ』
 チェトレは良いとも悪いとも言わず、引っ込んでしまった。声が聞こえなくなったのだ。
 サイレンはいまだに鳴り響いている。街はレンジャーだらけだった。
 こんな時には隊服は少しばかり役に立った。それが血塗れで死に掛けのオリジンを抱えていることを差し引いてもだ。
(メディカルセンターには行けやしないな。薬だけちょろまかしても良いけど、腕塞がってるし)
 いくつか選択肢を頭の中で組み立てながら、ボッシュは石階段の横にくっついている柱から飛び降りた。
 路地裏に着地し、広場から確認した街の地図を組み立てていく。いけすかない街だがメディカルショップのひとつくらいあるはずだ。
 顔を上げて空を見上げると、曇り空からぱらぱらと小さな雨が降り落ちてきた。
 ふいに居住区の建物の二階が開いて、外の様子が気になったのだろう、こっそりと顔を出した子供と目が合った。
 子供はびっくりしたみたいな顔でボッシュを見ていたが、すぐに引っ込んで、大きな音を立てて窓を閉めた。
 











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