メディカル・ショップは商業地区の一角にあった。小さな薄汚れた店で、まるで何十年もの昔からその場所で時間を過ごしてきたのだとでもいうふうな年代ものの汚れが、ショップの外壁と看板にこびりついていた。
 もっとも街自体は真新しいものだった――――空が開いたのは二年ばかり前だ。街が構成され、機能しはじめたのは、どう見積もってみても一年と少しばかり前のことだろう。そのせいで、そのメディカル・ショップは小奇麗な商業地区の中にあって明らかに浮いていた。
 店先に看板は出ていたが、シャッターは閉っていた。
 厳戒令のせいで人通りはまったく無く、時折武装した隊服が二人一組で通るくらいだった。どうやら例のレンジャー隊内編成システムは、まだ生きているようだった。基本的な任務は、二人でこなされるのだ。
 レンジャーの背中がメインストリートに消えていくのを見送って、ボッシュは路地裏からひょこっと顔を出した。
 ショップは閉鎖されていたが、それはむしろ幸運だった。血塗れの男を一人抱えていることについて妙に騒ぎ立てられることもないし、静かにさせるために手間を食うこともない。
 シャッターを蹴破るべきか、丁寧に鍵を外してやるべきか、ボッシュはしばし思考した。
 辺りに人気はなかった。
 ボッシュはすうっと身体を引き、銀色の平板に力任せに右足を打ち付けた。
 シャッターは入口のガラス戸ごと、リフトのコンテナ・ボックスを踏ん付けてやった時の要領でくしゃくしゃに破れた。思ったより大きな音がしたが、誰かが聞き付けてやってくるでもなく、街は静かだった。
 この分だともしかすると、レンジャー達はなんにも起こるはずがないとたかをくくっているのかもしれない。昼飯でも食いに行ったのかもしれないな、とボッシュは考えた。
 彼らが厳重に警備をしているのはセントラルであって、街ではないのだ。
 二年前までボッシュがレンジャー部隊に所属していた時に、ボッシュ自身も含めてそうあったように、住民の安全など知ったことじゃあなく、上層部の守護が最優先される。治安部隊とは実質そういうものなのだ。リュウがオリジンになったって、何も変わっちゃいない。
 破壊した入口からメディカル・ショップの中を覗くと、飛散したガラス片まみれの床に、うずたかくボックスの山が積まれていた。
 どうやら薬品の在庫らしく、壊れたシャッターの直撃を受けて瓶が割れ、中身が零れた薬瓶もあった。
 薬の匂いが鼻をつく中、リュウを店内の壁に凭れ掛けさせて、ショーケースの中を物色しはじめた――――両腕は血塗れでぬるぬるとねばついていたが、もう固まり掛けていた。まずいな、とボッシュは考えた。もう相棒の身体からは、零れる血も失われてしまったようだ。
 ケースの鍵を壊して、陳列されていた応急セットを引っ張りだし、薬液をリュウの胸にぶっかけてやった。
 そうしてやると、リュウはびくっと身体を跳ねさせた。意識はないようだったが、薬液が傷に染みるのだろう。
「ホントにオマエ、いくつになっても世話焼ける奴だね……」
 苦い顔で囁いても、リュウの反応はなかった。
 パッケージを握り潰して、ボッシュは注意深くリュウを観察した。
 竜の気配は、そこには感じ取れなかった。彼の竜はもうここにはいないのだ。
 どうりで傷の治りが遅いわけだ。ボッシュはひとりごち、舌打ちした。
 陳列棚から鎮痛剤を探し出して、少し迷ってから錠剤を口に含み、苦さに顔を顰めながら噛み砕いて、リュウの唇に噛みつき、彼の喉の奥に流し込んでやった。
 薬が効いてくるまでのしばらくの間、彼は小刻みに震えていたが、やがてそれも収まった。
 もしかするとこのまま死んでしまうのではないかと危惧したが、それはどうやら無駄な心配のようだった。
 リュウは腐っても適格者だった。頑丈なローディでもあった。傷口を塞いで痛みを取り除いてやると、その顔は大分安らかなものに変わった。
「いい気なもんだね……これからどうなるかも知らないでさあ」
 誰の返事も返ってはこなかった。チェトレはだんまりを決め込んだままでいる。
 ボッシュは肩を竦めて、立ち上がろうとし、そしてふと顔をあげて首を傾げた。ヒトの気配がそこにあるのだ。
 殺気はなかったが、がちゃっと撃鉄が上がる音がした。ショップの奥だ。カウンターの向こうはどうやら住人の居住空間になっているようで、主と思しき男が、いつのまにか立っていた。
 男はしわくちゃの老人だった。頭は完全に真っ白に色が抜け落ちていて、背中は曲っていた。
 ボッシュのそれと似たような型の遮光眼鏡を掛けていて、その表情は覗えない。
 右手には銃を持っていた。構えてはいない、無造作に摘んで持っているのだ。
「なにやってんの?」
 ボッシュは半分笑った顔で、奥へ声を掛けた。
 返事は返ってこなかったが、構わずに続けた。
「俺殺そうって?」
「まだなあ、ローン終わってないんだよ。退職金はたいておったてた店だ。月々支給されるはした金で精一杯やっとるんだ。それを、おまえさんはなんだ? カローヴァの突進みたいに入口壊して勝手に入ってきおって。横の柱に呼び鈴がついとるんだ。それを押さんかい」
 老人はぼやくようにボッシュにそう言った。
 言う割には、その声からはあまり怒りは感じ取れなかった。
「ああ、全然気が付かなかった。でもどうせぼろぼろだから、ほったらかしててもおんなじふうにはなったと思うけど」
 ボッシュが悪びれもせずに言うと、老人は左手で顔を多い、嘆くように呟いた。
「これだから若いもんは……レンジャーに通報するぞ。ていうか、おまえさんその隊服、レンジャーかい。あああ、やはりお上は昔も今もろくなことをせんのだ。それにしても、住居破壊の上に不法侵入に万引きか。おまえさん、絶対偉くなれんぞ」
「そりゃどうも」
「それより、どこかひどい怪我でもしとるんじゃあないかね。血の匂いがひどい、噎せそうだ」
「俺じゃあないよ」
 ボッシュはちらっと壁際に目をやって、返事をした。
「相棒が」
 老人は、そうなってようやくリュウの存在に気付いたようだった。ぎょっとしたように僅かに後ずさって、銃を放りだし――――どうやら見たところ模造品のようだった――――見た目とは裏腹に素早く彼に駆け寄り、手首を取った。
「みゃ、脈がない! 心臓止まっとるぞ! おい、こんな薬屋なんかじゃあなく、メディカルセンターに連れてってやらんかい!」
「それができないからこんなぼろっちいショップで応急セットパクってんの。それより、あんまりそいつに触らないほうがいいよ。病気がうつるよ、ローディなんだ」
 老人はリュウの顔を見て一瞬息を呑んだ。
 そして、しばらくボッシュの顔をじいっと見ていたが、結局何も言わなかった。
 とにかくこのままほったらかしにはできんだろう、と老人は言った。






◆◇◆◇◆






 おんぼろの看板には、赤地に白いペンキでラングの店と書かれていた。
 老人はなんでも中層区で古くから店を営んでいたらしいが、昨年のはじめ、ついに店にまで地下水の浸蝕が迫ってきたのだそうだ。
「中層はもう駄目だ。どこか移るにしてもわしのD値じゃ中層区以外にはどこにも行けん……と思っとったら偉い人の代が変わって、そうがみがみ言われんようになってな。せっかくだから退職金はたいて空に上ってきたのよ。うちは代々薬屋をやっとったんだが、店を継いだ兄貴が去年くだばっちまったんだ。それからはわしがここで看板守をやっとる。だが、客はみんなメディカルセンターに取られちまってなあ」
 ボッシュが聞くともなしに壁に寄りかかってぼんやりとしている前で、ラングと言うらしい老人は、がさがさと棚を漁っていた。
「確か、この辺に……うちのとっときがあったはずだ。なあおまえさん、そっちの青い兄ちゃん、手錠くらい外してやっちゃあどうだ」
 言われて、ボッシュはリュウを見た。彼の両手はひどく重そうな手枷で拘束されている。
 どう言った種類の魔法式が作用しているのだかは知れないが、淡い白色に発光している。
 あまり気持ちの良い光ではなかった――――すりガラスを爪できいきいやるみたいな神経に障る感触があった。何がしか竜に作用するものなのかもしれないなと、ボッシュは見当をつけた。頑丈な金属製で、重い。
「……これ? 手錠じゃあない、最近流行ってるファッションなの。年寄りは知らないかもしれないけどね」
「そんなモンが流行るようじゃあ、世界はお終いだな。おお、あったあった。救急セットだ。表にゃあきつけ薬もある。おまえさん、ゼニーは持っとるかね」
「じいさん、金取んの」
「当たり前だ。うちはショップだからして、儲けにならんようなことはせん」
「商人はみんなおんなじようなこと言うんだね」
 ボッシュはそう言って、抱いているリュウのポケットを探った。
 彼の財布をひっくり返してみたが、オリジンのくせにろくに中身は入っちゃいなかった。
 ボッシュは嘆息して、リュウの反対側のポケットから薄っぺらいカードを摘み出し、ラング老人に差し出した。
「残りは、これでいい? トランプしかないけど」
 ラング老人は目を眇めてカードを見ていたが、まあいいじゃろ、とぽつりと言った。






 
 店を出かけに、ラング老人は茶色い紙袋をボッシュに押し付けて寄越した。
「なにこれ」
「餞別だ。持ってけ」
 袋は大きく膨らんでいた。いくつかのパッケージのごつごつした感触があり、中身は容易に知れた。きずセットだった。
「後で使え。あんたも瞼の上が切れとるぞ。いい男が台無しだ。いやおまえさん、口と素行は悪いが、50年前のわしに生き映しでな、マジで」
「いや、それ嘘だろ絶対」
「……そっちの兄ちゃんには恩があってなあ、腰痛で休んどる時に、薬の在庫仕入れるのを手伝ってもらったんよ。いつも街をプラプラしとるプータローじゃが、まあいい子だ、さっさと元気になりなと伝えてくれ。くれぐれももう怪我なんかせんようになともな」
 ラング老人はさっと追い払うように手を振って、さっさと行っちまいなと言った。
 彼はどうやら勘違いしているんだろうなとボッシュは見当を付けた。
 処刑まがいの封印式からオリジンを救い出した英雄。まあ悪くはない。
「街を出るんかね」
「さあ?」
 ボッシュはにやにや笑いながら、肩を竦めた。
 相変わらず表通りにレンジャーの姿は見えなかった。
 このまま工業区を抜け、森に出る。
 そうすればその先にはもう、ヒトの手が及ばない空が口を開けているのだ。
 まっさらな空だ。
 今や地上はボッシュの手にあった。
 ボッシュが手に入れた空が、そこにあるのだ。
「なあ、おまえさんよお」
 見送るでもなく、店のぼろ椅子に座っているラング老人が、ボッシュにぽつりと言った。
「そのたちの悪い笑いかた、止めたほうが男前だぞ」
「余計なお世話」
 突っ撥ねて、真新しい石畳の道を、リュウを抱えて歩き出した。
 ヒト一人抱えているというのに、足取りは驚くほど軽かった。








 やっと、すべてを手に入れたのだ。
 リュウをこの手に。











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