オマエのその目の色はあんまり好きじゃないなとボッシュは言った。
 血の色を起源とするものじゃあない、激しい炎のイメージを映している。
 ボッシュはあの透き通った青いリュウの目が好きだった。
 一度だって口に出して言ったことはなかったが、そういうことだった。下層区街において、まあ気に入ってやってもいいものに入っていたのだ。数少ないそれらの中に。
「怒るのはいいけど、少し落ち付きなよ。せっかくのキレイな色が台無し」
 リュウは怯えたように、後ずさった。ただ顔は険しく、そこには恐怖よりも困惑と嫌悪が見て取れた。
 そして何より、おれはなんにも怖がってなんていない、とでもいうふうな虚勢が見えた。
 おかしなところでリュウは見栄っ張りなのだ。
 そう思って、ボッシュはおかしくなって、くすくす笑った。
 笑いながらリュウの腹を殴り、右足を引き上げて、彼がそれ以上壁際に逃げられないように引寄せた。
「うっ、ぐ……!」
 リュウはうめいて、咳込んだ。
 思ったより深く入ってしまったようで、身体を折り曲げて激しくえづいた。
 彼の口腔から、どろっとした黒っぽいものが零れた。
 粘り気があり、錆のような、鼻腔に突き刺さる匂いがする。血だ。
「……ああ、悪かった。やりすぎたかな?」
 ボッシュはリュウを安心させるように穏やかにふっと微笑んで、身を引き、彼の頭を優しく撫でてやった。
「怪我人にひどいことしたね。痛かっただろ?
なにも、そうひどいことばっかりしたいわけじゃあないんだ。だって俺、オマエのことが大好きなんだぜ。これはほんとのほんと」
 嘘じゃないよと言って、ボッシュはリュウの背中を撫でてやった。
 リュウの反応はなかった。
 ただぜえぜえと呼吸を荒げて咳をしていた。
 固まりかけの血が、喉に詰まったのかもしれない。
 ボッシュは穏やかに、諭すようにリュウに言い聞かせてやった。
「おとなしくしてたら、そう悪いばっかりじゃあないかもしれないよ。なにせ、オマエは――――
「ボッシュ……」
 俺のこと好きなんだもんなと言い掛けたところで、かすれた声でリュウがボッシュの名前を呼んだ。
 彼はそれから小さな声で、どこ、と言った。
 彼はボッシュを探していた。
 まさか目の前にいて自分を苛めている男がボッシュ=1/64だとは夢にも思わない。ひどく滑稽だった。
 彼はまだ望みを捨てずにいた。
 ヒーロー・ボッシュが颯爽と現れて悪者を倒し、自分をここから救い出してくれるという希望を、僅かに抱いていた。
 そうすると、にわかにあの得体の知れない焦燥と怒りがボッシュに浸蝕しはじめた。
 そのまわりは早く、すぐさまボッシュを支配した。
 二度ばかりリュウの頬を張って、腰を億劫に上げ、彼の胸を踏み付けた。
「うあああ……!」
 リュウが悲鳴を上げた。
 彼の胸の傷は、まだろくに塞がっちゃいないのだ。
 固まり掛けた皮膚が破れ、じわっとした黒い液体が、リュウのアンダーを濡らした。
 固いブーツのつま先で何度か抉ってやっていると、リュウは小さく震えながら、痛みを堪えるように息を詰めた。
 奇妙な気分だった。
 思えば記憶にあるあの頃、リュウがこういうふうに素直にボッシュに救いを求めたことはなかった。
 いつも黙って俯き、剣を引き摺って歩く。
 重そうに、億劫そうに、寝惚けた子供が巨大なぬいぐるみを引き摺って歩くみたいな態で歩く。
 ボッシュの後ろに無言でくっついてくる。
 レンジャー隊員は二人が一組になって任務に取りかかるように取り決められていた。そういうシステムなのだ。
 リュウの歩みはのろいが、懸命に歩いている。ボッシュに遅れまいとついてくる。
 はぐれてしまえばそれでお終いだということを、その当時のリュウは知っていたに違いない。
 彼は弱く、かなりの傷を――――例えば入院級の傷を負っていることもざらだった。
 だが何も言わない。
 助けて、なんてことは言わない。
 「もうすこしゆっくり歩いて」や、「怪我しちゃった、きずセットをちょうだい」なんてことも言わない。
 ただ黙って歩いてくる。
 怪我をしたことを悟らせないように、殊更気を使っているように見える。痛いとは言わない。
 顔面を蒼白にしながら、ただ声を掛けてやるとゆっくりと顔を上げて笑う。
 それから他愛無い話を始める。
 リュウの声に澱みはない。
 だからボッシュも何も言わない。そのまま歩いていく。立ち止まることはしない。
 ボッシュは立ち止まらない。








 何度か殴打して、しばらく踏みつけにしてやっているうちに、にわかにリュウはおとなしくなってしまった。
 ぐったりとなって、無言でうつ伏せている。
 奇妙に思って頭を掴み上げて覗き込むと、なんのことはない、意識を無くしていた。
 ボッシュはやりすぎちゃったかなと首を傾げて、どう思う、とリュウに訊いた。
 返事はなかった。
「リュウ?」
 呼んでも、彼は応えない――――少しばかり悪ふざけが過ぎたようだった。
「リュウッ?」
 少しばかり焦って、ボッシュはもう一度リュウを呼んだ。
 頬を手のひらで包んで、顔を上向け、観察すると、彼の呼吸は浅くはあったがしっかりしていた。
 少しばかり安堵して、ボッシュはほっと息を吐いた。
「ああ、良かった。死んじゃったかと思った。まだ全然オマエと遊んでやってないのに」
 頭を放り出してやると、地面にぶつけた衝撃で、リュウが浅い昏倒から覚醒したようだった。
 俺は気をつけなきゃならない、とボッシュは考えた。
 これはあの何をやったって平気な顔をしているローディのリュウじゃあない。
 本質的なところで何一つ変わるところが見受けられないせいで、ボッシュとリュウの関係は決定的に以前のものとは違っていた。
 つまり、力の扱い具合を間違えると、リュウはあっさり壊れてしまう。
 うっかり床に落っことしたナゲットの卵みたいに、べちゃっと潰れてしまうのだ。
 それはもう、彼らの間にぴんと張った均衡が崩れてあとかたもなくなっていることを意味していた。
 ボッシュとリュウは今や対等ではなかった。
 リュウは、ボッシュにどういったかたちであっても蹂躙されるしかない、哀れな存在に成り果てたのだ。
「く……」
 リュウはじっと目を閉じて、苦しげに頭を揺らした。
 彼の身体は僅かに震えていた。
 それを見て取った時、初めてボッシュは、この二年間彼の身体を苛んでいたあの怖れがすっかり溶けてなくなってしまったことを知った。
 俺を怖がってるんだ、とボッシュは思った。
 リュウがボッシュを怖れている。
 震えている。追い詰めた仔ディクみたいに、今からなにが起ころうとしているのかをすっかりと知ってしまって、怖くて怖くて仕方がないとでもいうふうに、リュウは怯えていた。
 ボッシュはにわかに眩しいものを見た時のように少し目を眇めた。
 僅かの憐憫が訪れた。
 弱いリュウが哀れだった。
 そうして、彼を哀れんでいることに、深い満足を覚えた。
 やっと勝ったよ、とボッシュは思った。やっと取り戻したよ。
 気違いじみた混乱をきたしていたパワーバランスが、ようやっと正常なかたちで機能しはじめたのだ。
 ようやく、リュウの襟首を掴んで後ろへやって、歩き出すことができたのだ。邪魔っけな彼の靴音を背中に聴きながら。
「オリジン様……」
 くすっと笑って、わざとリュウをその名前で呼んだ。
 枷でがちがちに固められたリュウの手に触って、彼の首筋に指を突き当てた。
 まるであの時、最下層区街のリフト発着駅構内で、金属の棒っきれを彼の声帯に差し込んでやった時みたいにしてやった。
「すぐに自分の身のほどってやつを思い出させてやる。ちょっと忘れちゃっただけなんだよな? 大丈夫、怒ってないよ」
 リュウは、こんなになっても、まだなにもわからないみたいだった。
 ボッシュは笑った。
 そんなものは、今更何の問題にもならないことだった。
 リュウは頭が悪いのだ。
 彼に頭で理解なんかさせようとしたって、長い無駄な手間と労力を食うだけだ。
 それは良く理解していた。なにせ、長い付合いなのだ。
 何年間も一緒に暮らしていたのだ。
 ふたりでなにもかもの作業に取り掛かり、飯を食ったり、他愛無い話をしたりした。
 リュウはボッシュにとって最初で最後の相棒だったのだ。
 リュウのことならなんだってわかるという気がしていた。
 だが、彼は裏切った。その行動は、ボッシュの理解の範疇外にあった。
 もうわけわかんないマネをすんのは止そうよ、とボッシュは口の中だけでリュウに言った。
 意思を持って身体に触ると、リュウが顔を真っ青にするのが見て取れた。
 こういう方法のほうが、きっと明快でわかりやすい。
 なにせリュウは馬鹿なのだ。
 ローディだった。
 彼の頭には、深い理解なんて一生訪れることはない。きっとどんな事象に関したってそうだろう。
 そうして、それで、とボッシュはさっきの話を蒸し返した。どういうこと、と訊いた。
 腰のラインを、光沢のあるつるつるした布越しになぞってやると、リュウは反射的と言って良い動作で膝蹴りをくれた。
 それをやんわりと押し戻してやりながら、ボッシュは彼にしてみれば随分と忍耐強く、もう一度訊いてやった。
「誰に? 『ボッシュ』? あの統治者ども? ニーナ……は、その様子じゃあなさそう。なあ、誰とそんないいことしちゃったの」
「お、おれはそんなこと、しない!」
 リュウは頬を真っ赤にして、叫んだ。彼の顔を染めているのは、羞恥というよりも、屈辱の色が濃かった。
「みんな、そんなじゃない……ボッシュはおれに、さ、……触らない。そんなこと、するわけない……!」
 おや、とボッシュは思った。
 今の言い草では、かすかに、言葉の端っこに、まるでそうされることを本当は待ち望んでいるんだとでもいうふうな感触が見て取れた。
 リュウは頑なに、生真面目な顔で、ぎゅっと強く口の端を結んでいた。
 この堅物にも、少しばかりは自覚ってものがあるということなのだろうか。
 リュウはふっと浮かんできたその兆しを、殊更恥ずかしいものででもあるみたいにしている。
 つまり、険しい顔をして唇を噛んでいる。
 彼はそう言った類の話題を、まるで汚れ物か何かみたいに考えているようなところがあった。
 昔からそんな感じはあった。
 だがここまで極端に、まるでそこにあっちゃならないものみたいにしてはいなかったように思う。
 オリジンなんかに就いたせいで、生来の潔癖症にひどく磨きが掛かってしまったのだろうか。
 どちらにしたって不便な話だ。
 リュウは俯いて懸命にボッシュから目を逸らしながら、静かな声で、おれはそんなことしないと言った。










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