青い闇が森に浸蝕しはじめていた。
 太陽はもう高い木々の海に呑み込まれて、白々とした残滓を、空の片隅に零していた。
 樹海に埋れた朽ちたシェルターのまわりには、既に燐虫がその淡い薄緑色に発光する姿を現わしはじめていた。
 夜が徐々に、空に訪れようとしていた。
 風はなかった。
 虫の声もない。鳥たちはまるで何か大きな獣に追い掛けられてでもいるように、逃げるように慌しくねぐらに帰っていった。
 森そのものが、その得体の知れない何かを畏れ、頭を深く垂れ、通り過ぎるのをじっと待っているようだった。
 電子ロックのカードキーを弄びながら、ボッシュは木々の間の道とも呼べない空間をゆったりと移動していた。
 緊張はなく、獣剣は腰のホルダーに差したままだった。
 目的地は定まってはいなかったが、どこへ行けば良いのかということを、彼は良く理解していた。
 時折枯草の下に隠れたグミを踏ん付けた、ぐにょっという感触がブーツの底に伝わってきた。
 何も知らないものが見たなら、まるっきり散歩でもしている態だった――――ボッシュは誰もいない中空に向けて、なあ、と声を掛けた。
「オマエは兄弟を殺したら満足なんだよね。そこでくたばっちまうの?」
『空はおれのだ。絶対に取り返してみせる』
 ボッシュは溜息を吐いて、昔の相棒が良く見せた、例のそれに関してだけは上等だが、大体において空回りしている意気込みを突っついてやった。
 擬態としては、割と上手くやれている仕草だった。
「だからその後のことだよ。どうすんのかって訊いてんの。これだから脳味噌のないディクは嫌なんだ」
 やれやれとボッシュは頭を振った。皮肉ぶったふうに肩を竦め、お手上げの格好もして見せた。
 だがチェトレはそんなポーズに誤魔化されることはなかったし、聞かなかったふりをしてくれることもなかった。
『……憎いんだろう? あれさえ殺せればもう後なんてどうだって良いでしょ。忘れたの? おれはきみのその憎しみを食らって偏在する……って、ちっちゃい頭のヒトでも意味わかるよね? ここにこうやっていられるってことだよ。
もしかして、交尾なんかしちゃったせいで、情が移っちゃった?
きみが止めたきゃ勝手に止めれば良いけど、おれはここで終わりにするつもりなんてないよ』
「別にそんなんじゃないよ」
 ボッシュは不機嫌に吐き棄てて、チェトレに、誤解するなよと忠告した。
「リュウは殺すさ。俺はそのためにここにいるんだものな。
でも、あいつまだ俺のことがわからない。アジーンを殺してやっと俺を見付けられる」
『つまり、何が言いたいの』
 いつのまにか、ボッシュに少し遅れて隣を歩いていたリュウの姿をしたものを見やって、ボッシュは肩を竦めた。
「「俺が」もっと苛めたいんだよ」
『悪趣味だね』
 チェトレが、昔のリュウがボッシュに無茶な注文を付けられた時に良くそうしたように、ぷうっと頬を膨らませた。
『ボッシュのサド。鬼畜。ヘンタイ』
「その顔で言うな。何だか無性に殺したくなるだろ」
 気色が悪いチェトレの方は見ないようにぼやいて、ボッシュはふっと顔を上げた。
 もう日のひかりのあたたかな残滓は遠くへ行ってしまった。
 薄い青紫色の空には、星の欠片が輝きはじめていた。
 夜の闇が気配を強めていた。
 あの忌々しい、ひどく目を焼く太陽の光がなりを潜めた。
 ボッシュは掛けていた遮光眼鏡を外し、無造作にコートのポケットに突っ込んだ。
 しばらく沈黙が落ち、一人分の足音だけが、森の中に生まれ、静寂に吸い込まれていった。
 チェトレは相変わらず例の悪趣味な擬態を続けていたが、ふと立ち止まり、何事か気になる用事を思い出したように――――サードレンジャーのリュウが、レンジャールームの電灯をつけっぱなしだった、シャワールームの水を止め忘れたかもしれない、そんなふうな心配事をふっと思い出したような感触で――――くるっと後ろを振り返った。
『ね、いいの?』
 チェトレは、獣剣で肩を刺されて倒れていたリュウのことを言っているのだろう。
「…………」
 ボッシュは取り合わずに歩き続けた。
 リュウは頑丈な性質をしている。あのくらいじゃ死なない。
『おれが言ってるのはそういうことじゃあないんだけどね』
 チェトレは背中で腕を組んで、またボッシュにくるっと顔を向けた。
『そんなちゃちい鍵じゃあ、すぐ逃げ出しちゃうよ。あれもうきみの考えてるリュウ=1/8192じゃあない。そんなのもうどこにもいないんだよ』
 チェトレは言った。
『理解したくないの? Dチェックなんて今のあれには何の役にも立たない。逃げ出したよ。あんなに濃い血のにおいをさせたままで、ディクに食べられなきゃ良いけどね――――
 ボッシュは足を止めた。
 遠くでかすかにディクがざわめく音を聞いた気がした。




◇◆◇◆◇




 ボッシュは、足早に来た道を引き返した。
 後ろから小走りでついてくるチェトレは、不満そうな顔をしている。
『戻るの? アジーンは?』
「あの馬鹿を、今度こそ逃げ出せないように、縛り上げてシェルターに放り込んでおくのが先だ。ディクに食われてオシマイなんて、それ全然面白くないよ」
 ボッシュは焦っていた。
 それは覚えのある感触だった――――リフトで何かしらの事故があって――――カローヴァやブィークに追い回されたり、ランタンバットの巣に突っ込んでしまったりした場合――――リュウがボッシュの手から離れてどこかへ行ってしまったあの時の焦燥に良く似ていた。
 もう最後の任務から二年以上にもなる。
 全ては変わってしまった。
 だが、こんなどうでも良いことに限って、なんにも変わってはいなかった。
 世話の焼けるリュウを、ボッシュが舌打ちしながら探しに行ってやる。
 昔、リュウがただの弱っちいサードだった頃には、今みたいに憎しみも怒りもなかった。
 だが、ふらふらとすぐにどこかへ行ってしまうリュウを探してやる。やってることと言えばなんにも変わらなかった。
 共鳴は薄っぺらく、ほとんど何にも感じなくなっていた――――だが、ボッシュにはリュウを上手く見付けてやる自信があったし、確信もあった。
 それはドラゴンの共鳴なんて大それた代物じゃあなかった。
 ただ慣れたことだった。
 数年間同じことを繰り返したせいで、大体の「リュウ」の――――アジーンなんかに奪われてしまう前の彼の行動を読むことができるようになっていた。
 生まれてから今までの18年間で、大分長い間一緒に暮らした相棒なのだ。
 鬱蒼と茂る背の高い下草から踏み出す。
 リュウの気配を感じる――――

 

 
――――あ……」




 かすかに湿り気を帯びた小さな悲鳴が、ボッシュの耳に届いた。
 巨木の根の上に、リュウがいた。
 太い蔦のようなものに手足を絡め取られて、まるでバインドスパイダの巣にかかった哀れなワーカーアントみたいなふうに、身動きが取れないようだった。
 緩慢にもがきながら、時折リュウはびくっと震えた。
 そして、熱っぽい顔で、小さく喘いだ。
 彼の身体のあらゆる箇所の傷口が、その触手に陵辱されていた。
 背後にはぎょろっとした一つ目のディクの姿が見えた。
 醜悪で、思わず目を背けたくなるようなぶよぶよとした肉の塊に、無数の触手が生えている。
 それがリュウに絡みついていた。
 身体のあちこちを、まるで愛撫でもするように撫で回していた。
 触手はリュウのコートの中にまで入り込んでいた。
 ぐちゅっ、と粘ついた音が聞こえて、その度にリュウはびくっと身体を震わせ、熱の篭った吐息を零した。
 犯されているのだ。
 呆然とその光景を見ていたボッシュは、やがてそう思い当たって、目の前が真っ赤に染まった。









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