リュウを水から引き上げ、泉のほとりの柔らかい下草の上に寝かせて、ボッシュはじっと彼を観察した。
 リュウは眠っていた。呼吸は湿っていたが、穏やかだった。
 さっきのディクの体液の作用だろう、少し熱っぽいが、命に関わる種類のものではないようだった。
 神経を侵されているせいで、痛みも感じていないようだ。
『終わったの?』
 気だるげな、少し幼い、大分トーンの高いリュウの声が、奇妙な反響を伴って、ボッシュの背後から聞こえた。
 ゆっくり振り向くと、見慣れた紺色のレンジャースーツに身を包んだ16歳のリュウが、冷たい灰色の岩の上に腰掛けていた。
 彼にはもう困惑した様子は無かった。
 ただ、少しふてくされた様子で、膝を抱えてじっとボッシュを見ていた。
『約束、破ったねボッシュ』
「なんのことだか」
『気持ち良かった?』
「すごくね」
 チェトレはぷうっと頬を膨らませて、首を傾げた。
 すごく面白くないことを訊く時の、幼い日のリュウの仕草だった。
 例えば、今のはおれのこと馬鹿だって言ったんでしょとか、昨日隊長の剣折ったのってボッシュなんでしょとか、そんなふうなことを。
 リュウの擬態を取り繕いながら、チェトレは尊大な態度でもって言った。
『……ね、今さ、もう一回聞くけど、リュウを殺せる?』
 ボッシュはしばらく沈黙し、頭を振って、何訊いてんの、と言った。
「アタリマエ」
『……ふうん。もうきみがわけわかんないよ、おれ。ヒトなんか嫌い。めんどくさい』
「あっそ」
 短い遣り取りをすぐに打ち切って、ボッシュは顔を上げ、空を見上げた。
 いつのまにか頭上に月が出ていた。その周りに星が、白い小さな光点が、目が痛くなるくらいにばらばらと散っている。
 夜が訪れ、地上は冷え始めていた。
 冷たい風が吹き始めた。
 森の奥では、無数の木々の間を通り抜けた風が、何百もの口笛を一斉に吹き鳴らしたみたいな、気持ちの悪い音を鳴り響かせている。
 そのほかは、静かだった。
 空の動物たちは、巨大な捕食者の前では、頭を垂れて沈黙を守っていた。
 当の巨大な生物は、くたびれたように座り込み、顔を上向け、小さな身体を反らして、あーあ、と溜息を吐いていた。
『もうどうでもいいけど人間、空に出たからあいつおれたちのこと嗅ぎ付けたみたいだよ。だからあの時トドメをさしておけば良かったんだ。もう修復が完了してる、どうするんだよ』
「負け犬はもうどれだけ頑張っても負け犬だよ。リンク者はここにいる。簡単だろ? せいぜい頑張ってなぶり殺しにしてやらなきゃ」
『……リュウには優しくするのに、アジーンはなぶり殺しなの?』
「優しくなんかしてないよ。でもコレが俺の相棒なんだ。アジーン? もう随分長い間の借りを返さなきゃならないね」
 ボッシュはにっこり笑って、言った。
「俺の相棒、勝手に持ってっちゃった罪は重いよ。ヒトのものは取っちゃイケマセンっての、オマエら知らないんだろうね、ドラゴンなんて馬鹿ばっかりだから」
『…………』
 チェトレはびっくりしたように目を真ん丸くして、しばらく黙り込んでいたが、やがてくすくす笑って、きみほんと面白いなあと言った。
『弱っちいヒトのくせに、おれに向かってそんなこと言うんだもんね!』
「気に入っていただけて光栄だよ。それでさ相棒、ちょっとお願いがあるんだけどさ」
 ボッシュはぽんとリュウの頭に触れて、コイツのことなんだけどね、と切り出した。
「ディクから守れ、アルターエゴ。もう二度と薄汚い化け物なんかに触らせるな」
『あれ? アジーンは? 相手してやらないの?』
「余分な手間を引き受けるのがアルターエゴってのだろ? いいから言うことを聞けよ。その顔で相棒みたいな頭の悪いこと言うんじゃないよ」
 それから肩をすくめ、ボッシュは言った。
「じゃあちょっと行ってくるよ」
 腰を上げる。少し気だるい。
 リュウの身体は悪くなかった。
 確かに硬かったし、性別のせいで手間取るところもあった。
 だが、反応も感触も嫌いじゃなかったし、それらは一度貪って飽きてしまい、もういらないと棄ててしまう種類のものには当て嵌まらなかった。
「一番悪い奴をやっつけて、お姫様を取り戻してハッピーエンドだ。大好きな相棒も、あいつさえいなくなれば、きっと俺を見付けるよ。それでオシマイ。他に何かあるか?」
 軽薄に肩を竦めておどけて見せると、チェトレは興が乗ったようで、くすくす笑いながら、ぱちぱち手を叩いた。
『それ面白い、ボッシュ。アジーンなんかやっつけちゃうんだね』
「うん、やっつけちゃう。そしたら――――
 ボッシュは静かにリュウを見た。
「そいつも消えちゃうのかな」
『そうだね』
 チェトレはあっさり頷いた。
『おれたちがどういうふうに空に偏在しているかは、良くわかってるだろうボッシュ。おれたちは片方だけじゃ生きられない、ひとつ無くなればもうひとつも消えちゃう。ふたつでひとつなんだ。
だからね、ほんとは今ここでリュウを殺しちゃえばいいと思うんだけどね。
結果はおなじ、余計なリスクもない』
「…………」
 ボッシュは答えずに、チェトレに背中を向けて歩き出した。
『どうするのボッシュ』
「さあ……わかんない」
『わかんないって、それおれが言いたいよ』
「わかんないけど、もうやることは決まっちゃってるんだ」
 静かに、ボッシュは言った。
「そうするしかないんだ」




◇◆◇◆◇




 リンク者について考えるに、彼は意地と虚勢と見栄でできあがった塊のような生き物だった。
 畏れを知らない口を聞くかと思えば、恐慌に陥りパニックに侵されて、まったくの臆病者になってしまうこともあった。
 チェトレは待っていた。
 目は閉じたままで、じっとうずくまり、世界に存在するあらゆる音に耳を澄ませていた。
 それは竜のみに聞こえる、音とは呼べない波長だったり、少しばかりずれて届いた記憶のなかの声だったりした。
 遠くで炎が上がった。
 端の森の上にぱあっと眩い白いひかりがはぜて、夜空にぽっと灯りがともった。
 チェトレは顔も上げずにじっとしていた。
 自分の役割ってものについて、彼は考え込んでいた。
 まず第一に、彼は幽霊だった。過去の世界で何度も死に、そして再生してきた。
 1000年ほど前に製造されてから、ずっとそうだった。
 同じことを何度も繰り返し続けていた。
 つまり、兄弟と殺し合いをし続けて、殺され続けてきたのだ。1000年もの永い間に渡ってだ。
 生命が尽きる最期の一瞬のことを良く覚えている。
 赤い光が目の前いっぱいに溢れる。痛みはない。
 背中の翼が発する青白い光は、その強大な煌きの前では、いつだって無力だった。
 これまではそうだった。
 だが今や空は開かれた。
 プログラムは終了したはずだったが、唯一の勝利者である1/1のアジーンは、プログラムエラーを起こしている。
 空が開かれれば終了するはずだったシステムに異常が発生している。
 どうも、こんなことがもしありうるとすればだが、アジーンは、適格者のリュウを愛し、そのために世界の均衡は崩れようとしていた。
 開かれた空に、適格者の悪夢が具現化した、なりそこないどもの汚染が広がりつつあった。
『なに考えてんのかなアジーン……ほんともうわけわかんない』
 チェトレは何度目かになる言葉を、口の中で呟いた。もうわけわかんない。本当にそんなことばっかりだ。適格者のボッシュも、仇敵のアジーンもわけがわからない。理解できないことが多過ぎる。
『兄弟、ヒトに浸蝕しちゃったから、ヒトの病気がうつっちゃったのかなあ……』
 生を喜び、時には激しく怒り、気まぐれを起こし、くるくるとめまぐるしく入れ替わる衝動のことだ。
 ヒトの間ではそういうものを感情とか情動、心と言うらしいが、プログラムのチェトレには未知の種類の事象だった。
 あまりにも非効率で、どうあっても理解できない動作だった。エラーにすら近いかもしれない。
『まあおれには関係ないけどな。うん。ボッシュは役立たずだけど、この調子だとちゃんとアジーンは停止させてくれそうだし、アジーンさえ停まればリュウも死んじゃうし、リュウが死んじゃえば空はおれたちのものだ。それでおしまい』
 チェトレは唇に指を付けて、少し考え込んだ。
 その後のことはどうなるんだろう?
 考えて、奇妙だなと思い当たった。
 その後なんて関係ないはずだ。チェトレが判定を済ませ――――つまりはアジーンを停止させ、今度こそ空を開くプログラムは停止する。
 そこで終わりだ。
 あとは世界が決めることだ。
 ヒトは愚かだ。きっと空には選ばれず、死に絶える。それだけだ。
『……もしかして、おれにもバグが発生してるのか……?』
 口をぎゅっと結んで(リュウのデータにある仕草だ。あってはならない事態に遭遇した時は、こういう動作を行うらしい)、チェトレは自問した。
 何故今、先のことなんて考えたんだろう?



『……あれ?』



 聞き逃してしまいそうな小さな悲鳴が聞こえて、そこでチェトレはようやく、ボッシュに守ってろなんて言われたリュウのそばに、誰かがいることに気がついた。
 見たところヒトのように見えた。
 どこかで見た顔だ。名前は――――ここでデータを検索した――――ジェズイットだ。現在のリュウの同僚、判定者。
『まずい、ボッシュがまた怒る――――
 誰も近付けるなってことだ。
 チェトレは待機を解除し、行動を開始した。
 リュウに害を加えるディクは、排除しなきゃならない。



◇◆◇◆◇




 ひどい態だった。熱っぽいし、息は苦しい。
 身体は傷だらけだ。そのくせどこも痛くない。
 気になるのは傷痕が変にじんじんすることだった――――神経が剥き出しにされたみたいに僅かな刺激にも敏感になっていた。これは痛みを伴わず、その代わりに奇妙な恍惚をリュウにもたらした。
 目が覚めるとジェズイットが目の前にいた。
 屋外で、少し風が冷たい――――夜だった。
 暗い空にいっぱいの星が見える。月も綺麗だった。ニーナがいればきっと喜んでくれたろう。
 なんだかすごく長い間夢を見ていたような気がする。どんな種類のものだったのかは、まどろみに浸され、浮かんでいる今のリュウには思い出せなかった。
 それにしても、何故屋外で――――背中は地面に生えた柔らかいグラス・グリーンの細い草むらにくっついていた。柔らかく、寝心地は悪くない――――眠っていたのだろうか? 昼寝をしていたのだろうか、こんな暗くまで?
――――リュウっ! おい、おまえ大丈夫か? 生きてるか、俺がわかるか?」
 ジェズイットは焦燥した顔で、注意深くリュウを観察していた。
 彼が真面目な顔でいるのだ、何か余程の大事なのだろう。リュウは慌てて目をしっかり開け、起き上がった。
「あ……ジェズイット、おはよ、どうしたの? なにかあった?」
「……おはようって……おまえなあ、この状況で第一声がそれって、すごいことだとお兄さん思うぞ」
「え……あ」
 そうなってようやく、リュウは少しずつ、置かれている状況を把握し始めた。
 まず、身体の状態。ぼろぼろの着衣。それから今まで、ここ何日もの長い間、誰に何をされていたかってことだ。
 そして何より、ほんの少し前、目覚める前に――――どれだけ眠っていたのかは知れなかったが――――リュウ自身が、一体何を仕出かしたかということだ。
「お、おれ……」
「……いいから、黙ってな。立てる……訳ないか。街へ戻る。メディカルセンターだ。もう心配ない」
「ちょ……さ、触らないで! 触っちゃ駄目だ!!」
 リュウは叫んで、身体を抱き上げたジェズイットから離れようと、じたばた暴れた。
「あーもー、手間掛けさせんじゃねえよ! じっとしてろって、パニックなのはわかったって!」
「そ、そうじゃなくて! 汚いから! すごい、もうだめだ……ニーナにもリンにもまともに顔合わせられないよ、こんな」
 リュウはかあっと顔を真っ赤にして、俯き、こんなの最悪だと言った。
「こんなの、もうきっと死んだほうがいい……」
「だからオリジンがそういうことを軽々しく口にするんじゃねえよ」
「だ、だって、嘘だ、おれ……」
 なんだか信じられないことをやったような気がする。
 覚えているのは、自分から脚を開いて、やらしいことを言って、何故か知らないが、すごく気持ち良かったことだ。
「じ、自分から、なんか……その……」
 思い出すと、あんまりに恥ずかしくて、情けなくて、涙が零れてきた。
 そして一番リュウにとって許せなかったのは、今のリュウ自身が、そうなってほとんど嫌悪感というものを抱いていないということだった。
 ジェズイットは泣き出したリュウに、ほんとにしょうがないなって顔をして、頭を撫で、何度か背中を叩き、あやしてくれた。子供にするみたいな仕草だった。
 近しい人間が近くにいるということが、リュウを確かに安堵させてくれた。
「う……うっ、うえ、い、いやだ、こんなの、もうやだ……」
「可哀想にな」
 ぎゅうっと抱かれて、リュウは泣いた。
 ジェズイットはリュウのコートをはだけて、検分するみたいに、ひどい状態のリュウの身体を眺めた。
「みっ、見ないでよお……」
「おまえそれ、そのまま街へ戻れないだろう。綺麗にしといた方がいい」
「うっ……」
 リュウは想像した。
 こんな身体で――――男のくせに悲惨な陵辱を受けた身体そのままで、街へ帰れる訳がない。
 リュウはオリジンなのだ。しっかりしなきゃあならない。真っ直ぐに立ってなきゃならないし、いつも強くあらなきゃならない。
 そうしないと、みんな不安になってしまう。人間たちを守ることが、リュウの仕事だった。
「う、う……こ、こんなの、みんなに見られたら、おれほんとに死んじゃうよ……」
「だから死ぬとか言うなって、二代目よお」
 リュウのコートをさっさと脱がせて、ジェズイットは泉の水を手のひらで掬い、火照ったリュウの身体に掛けた。
「ひゃっ……」
「可愛い声出さない、お兄さんその気になっちゃうから」
「は……?」
「いや、なんでもないない。それよりおい、傷は痛むか……うわっ、随分酷いな、こりゃ」
 ジェズイットは、リュウの肩の傷――――剣で突き刺されたものだ。もう傷は塞がっていたが、皮膚が赤黒く盛り上がっている――――を見て、顔を顰めた。
 彼はリュウの腕を取って、見せてみろ、と言った。
「あ……」
「ん?」
 傷に触られて、リュウはぴくっと震えた。
 まただ。
 またあの得体の知れない、奇妙な熱さだ。
 あの名前も知らない男に犯されていた時みたいに、傷がどくどくと疼いた。
 ジェズイットは変な顔をしていた。
 リュウはものすごく恥ずかしくなって、俯いた。
 抑えなきゃあならない。絶対こんな反応されたら、気持ちが悪いって思うに決まってる。
「さ、さわらないで……う、あ、だめっ……」
「リュ、リュウ?」
「いや、ちが……ちょ、おれっ、今、変だから。なんか、あつ……」
 今度は脇腹の噛み傷に触られて、リュウはまた跳ねた。
 少し非難がましげに、涙目になりながら、リュウは言った。
「さ、さわらないでって……言ってるのに、あぁ、だめ……んんっ」
 ジェズイットはなんだか、わざとやってるんじゃないか、とリュウは思った。
 嫌がらせか何かだろうか。彼は怒ってるのだろうか? リュウがオリジンのくせに、顔も名前も知らない男に攫われて、好きにされていたことを。
 ふと、リュウは思い出した。
 あの男に初めて遭った時のことだ。
 ジェズイットは確か、あの男を見て、あああいつは、なんて知ったふうな感じじゃあなかったろうか?
 彼はあの男のことを知っていたのだろうか?
「……ジェ、ジェズイット。あれ、誰? あのひと……」
「……おまえさん、まだわからんのか? 良く知ってるんじゃないのか?」
「や、やっぱり知ってるの? 誰? おれ……」
 リュウは俯き、なんだか懐かしい匂いがしたんだ、と言った。
「しん、信じられないことばっかりするやつだったけど、なんでか、その……おれ、嫌じゃなかったんだ。痛かったし、ほんとに何度も殺してやりたいって思ったけど、そうなんだ」
 リュウは混乱し始めた。
 一体何を言っているのだろう?
 あの男は敵だ。
 ボッシュの敵だ。
 だから、リュウの敵だ。
「ほっとしてたんだ。よくわかんないけど、おれ彼にひどいことばっかりしてた。家族を殺されたんだって。でも、ディクに襲われた時に、助けてくれたんだ。背中を見てると……」
 なんだか妙に口の中が乾いて、リュウは咳込んだ。
 漠然とした空虚と不安が、熱っぽい身体に浸蝕しはじめた。
「安心するんだ。なんでだろう……」
 リュウは無理に微笑んで、おれ死んだほうがいいかなあとジェズイットに聞いた。
 ジェズイットはそれについては答えずに、リュウの上に覆い被さって――――なんだか、さっきまでリュウとまぐわっていた男が仕掛けていた触り方に良く似ていた――――馬鹿野郎が、と言った。
 奇妙な不安が、リュウに訪れた。
 ジェズイット、彼は何をやってるんだろう?
 なんでリュウの胸なんか舐めるんだろう?
 呆然としているうちに、なんだか良くわからないけれど、すごくまずいことが起こるんじゃあないか、とリュウは思った。
 怖くなって、ぎゅうっと目を閉じた。
 でも、それからは何の感触も降ってはこなかった。
 あの男がやったみたいに、唇を貪られることも、噛みつかれることも、脚を広げられて、性交の真似事なんかをされることもなかった。
 そおっと、恐る恐る目を開けると、ジェズイットはなんだか険しい顔をしていた。
「……?」
 彼の視線を辿って、リュウはその意味するところを知った。
『なにするのジェズイット』
 ほんとにもうしょうがないね、というリュウ自身の声が聞こえた。
 でも少し奇妙だった。
 それは今のリュウのものよりも少しトーンが高く、幼かった。
 暗がりの先に、リュウがいた。
 リュウ自身じゃあない、体格も少年らしい華奢なラインで、16歳当時そうあったレンジャースーツを着て、静かに蹲っている。










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