待つのは苦痛じゃなかった。
 いつからそうなったのかは覚えていない。
 昔は人に待たされるなんて冗談じゃあなかった。せっかちな性質だったような気がする。
 暇の潰し方を覚えたとでも言うのだろうか、目を閉じ、瞼の裏側に残る、光の残像が過ぎ去るまでしばらく待つ。
 とりとめのない思考がいくつも浮かんで、それも過ぎ去ると、やがて静かな闇が訪れる。
 暗がりじゃあない、しんとした白い世界だ。
 そこには音というものがない――――思い返してみると、幼い頃住んでいた家に似ていた。
 いつか過去に見た情景が、いまだにボッシュの中で生きているのかもしれない。
 そこは巨大で、静かで、光に満ちて、誰もいない。
 眩しすぎて何も見えない。
 霞みがかったようで、少し先がもう見えない。明る過ぎるのだ。
 そのせいで、誰かに手を引かれていなければ、ろくに歩くこともできない。
 誰に手を引かれていたのだろうか?
 父は一度もボッシュの手を引いたことはなかった。
 母親は、いたにはいたのだろうが、顔も声も覚えていない。
 じゃあ良くボッシュの面倒を見ていた父の弟子の双子だろうか。そうなのかもしれない。
 だが今、記憶を再現した白いその場所では、ボッシュの手を引くものは誰もいなかった。
 ボッシュはただ立ち尽くし、静かに目を閉じていた。
 誰かを待っていたのかもしれない。だがそれが誰なのかは、結局今になっても解らないままだ。



 目を開けた。すると、今まであった白い世界はペンキが洗い流されるように綺麗に消え去って、緑色の木々が鮮やかな色を持って、ボッシュの目の前にありありと現れた。
 夜が訪れていた。
 森は闇に呑まれていたが、夜目は効くほうだったので、見とおしの悪い木々の中でも、不便は感じなかった。
 むしろ、しらじらと夜空に輝いている星々と月の明かりが眩しいくらいだった。
 ボッシュは生まれて16年の間、まったく光が射さない地下世界で生きてきた。
 穴蔵で暮らすローディほどじゃあなかったが、光に対する耐性はあまりなかった。空は眩し過ぎる。
 虫の声は聞こえない。獣も今は巣穴に戻り、隠れて姿を現さない。
 森の中では巨大な生き物が闊歩していた。
 もうすぐ相対する竜たちだ。
 ボッシュは知っていた。
 アジーンが近付いてくる。またリュウを奪いにきたのだ。
 背中が痛む。チェトレの共鳴の疼きがボッシュを苛んだ。
 だがどうやらこれで最後だった。
 どっちにしたってアジーンは、もうリュウを手に入れることはない。
 ここで朽ち果てることになる。
 そしてチェトレも終了するだろう。
 そうしたら、ボッシュも消える。空から幽霊は消える。
 竜はいなくなって、その後ヒトが生きるか滅びるか、そこまでボッシュは知らないし、責任を持ってやるつもりもない。
 もはや未来は閉ざされていた。
 だが、おんなじふうに未来を閉ざされていた二年前――――空を目指すリュウを追い掛けていたあの頃よりは、そいつに関して、絶望も怒りも薄かった。
 何故だろうか。
 リュウは死ぬ。もう変わりようがない事象だ。
 またふたりだね、とボッシュは皮肉に考えた。
 面倒臭い任務、ふたりで、暗闇の中へ出掛けていく。
 以前、リュウはこう言った。
 おれは死ねない身体だ。
 あと、こうも言った。
 次の人見付けるまで死ねないんだ。
 彼には疲労の色が濃かった。
 身体的なことばかりじゃあない、その魂と呼べるものが疲れ切っていた。
 ようやっと死ぬことを許されたリュウは、その時どんな顔をするのだろうか。
 また笑うだろうか。
 少し困ったふうに笑い、ああよかったあ、と言う。
 ボッシュには想像がついた。
 昔良く見たものだった。
 やっと見付けた、とリュウは言う。はぐれたかと思った。
 ボッシュは言うだろう、オマエ弱っちいくせにまたフラフラしやがって、ほんとに馬鹿ローディ、どうしようもない。
 それから手を差し出す。
 ほら行くぜ、と言う。
 それから暗がりへ歩いていく。
 その先には何もない。暗い坑道しか見えない。
 靴の音が奇妙に反響して、怖がりのリュウは怯えながらおっかなびっくり進む。
 ボッシュは呆れ、馬鹿じゃないのと言う。
 そして深淵へ向かっていく。その先にはもう未来はない。閉ざされている。だが、もう怖いものなんて何もない。
 思えばずうっと二人だった。
 竜を宿し、空を目指し、世界を壊して空で生きる。
 やっていることと言えば一緒だった。ずうっと繋がっている。相棒同士なのだ、それがあたりまえのことだった。
 静かな心地でボッシュは待っていた。
 最後の仕事が残っていた。
 とびきり面倒で、厄介な仕事だった。
 さっさと片付けて、帰らなきゃならない。
 そしてリュウに手を差し出して、こう言わなきゃならない。
 行くぞ。
 それからまごまごするリュウに、こうも言ってやらなきゃならないだろう。
 なにとろとろしてんのローディ、置いてくよ、この馬鹿。




 背中の傷が痛みはじめた。
 どんどん疼きが強まってくる。
 やがてそれは共鳴だけに止まらなくなる。
 遠くから足音が聞こえる。
 あまり体重はない、少年の、軽やかに駆ける靴の音が聞こえる。
 やがてあの栄光に溢れていた時代の映し鏡のようなものが現れた。
 今より少しばかり幼い『ボッシュ』が現れた。
 ボッシュは微笑んで、言った。
「遅かったね、アジーン。俺ちょっとオマエが邪魔だから、今度はやっぱりお情けなしでちゃんと殺そうと思ってさ。ここで待ってた」
 もう怒りはどこかへ去っていた。
 慟哭も、殺意も、どこかへ行ってしまっていた。
 それは哀れみにも似ていた。
 今からおんなじ運命を辿る同族への、奇妙な憐憫だった。
 だが、アジーンの目には憎しみと怒りが鮮やかに輝いていた。
 彼の目は赤く燃えていた。
『奇遇だね、俺も生意気な名無しの黒ずくめが、勝手に相棒連れてっちゃってさ。返してもらおうと思って来たよ』
 全くおんなじ構えで、『ボッシュ』が獣剣を携え、突進してきた。
 ボッシュは唇の端を上げ、ぼろぼろの獣剣を抜き放った。
 もう全部決まってしまったことだ。
 空では竜に未来なんてない。











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