相変わらず突然に訪れる暴力には、もう慣れていた。
 大体昔と変わらなかった。子供のころのことだ。
 ローディの親なし子だから、下層区の子供達は誰も相手にしてくれなかった。
 施設の子供たちは、下層街へ出掛けたらいつもどんな目に遭うのかを知っていたから、外で遊ぼうよと誘っても、誰も付き合ってくれなかった。
 だが、リュウは外の世界が好きだった。
 信じられないくらいに巨大な青い壁画が天井を覆っている。
 それは、リュウが生活している第五区画特別収容施設――――下層街のジャンクモールの片隅に、埃に埋れるように建っている――――からは、ぼろのアーケードが邪魔をして、ほとんど見えなかった。
 お気に入りの場所があった。
 それは今はもう潰されて、テレビ塔が突っ立っているが――――錆びた骨組みだけが残った、背の低い鉄塔だった。
 芯の太いパイプのまわりに、小さな螺旋階段がくっついていて、上に上ることができた。
 そこから空の絵が良く見えた。
 良く一人でその天辺に寝転がって、天井を見上げていたものだ。
 街の子供に見つかってひどい目に遭わされたり、施設を抜け出してひとりで遠くまで行ってしまったことで、施設長に何度もひっぱたかれたりはしたが、リュウはそのくすんだペンキの空が好きだった。
 いつも気持ち悪いなんて言われる青い頭だが、そうしているとほんの少し救われるような気がした。空の青だ。
 がつっと鼻っ面に激しい衝撃を感じて、浮遊していた意識が引き戻された。
 このまま昏倒でもしていれば少しは楽だったのだが、リュウは丈夫な性質をしていたので、どうやら無理だったようだ。
 現実に引き戻されて、リュウは、どうやら自分は髪を掴まれて、壁に顔を叩き付けられたらしいと知った。
 鼻が折れてなきゃいいけどな、とリュウは考えた。
 痛みはひどかったが、もう慣れっこだった。
 気色の悪い髪の色とか、女みたいな長い髪をしやがってとか、ローディがとか、そう言った罵声にももう慣れていた。
 どうしようもないことだった。
 しょうがないのだ。
 リュウは馬鹿なので、こう言ったひどい目に遭うことは、どこかできっと必然的に決まっていることなのだ。
 多分また知らない内に、なにか悪いことや、とんでもないへまをしでかしたのだろう。
 ローディ、とまた耳元で罵られた。
 今度は腹を蹴られて、背中を踏み付けられた。
 壁に顔をぶつけられた時に傷ができたのだろう、血が目に入って、視界が真っ赤になった。
 鼻腔のあたりに、血液のどろっとした感触があった。口の中は鉄臭い。きっと血だらけだ。
「このぼんくらが! ええ、おまえ1/8192の分際で、俺の大事なジャケットに何をしやがった。一張羅が台無しだ、役立たずの忌々しいひよっこが! くそ、死んじまえ、チビ!」
 怒鳴られて、唾を吐き掛けられた。
 リュウは謝ろうとした。
 ごめんなさいとか、すいませんと言おうとした。
 何しろこの先輩レンジャーは――――おんなじサードだ、筋肉質で、背が高い――――ひどく激昂していた。
 それも、リュウが彼のジャケットを損なってしまったそうなのだ。
 ちゃんとおれ洗います、洗濯って得意なんですと言おうとした。
 でも話も聞いてもらえない。
 一方的に殴られるばっかりだった。
「この……!」
 髪を掴まれて引っ張り上げられた。
 もう目も開けられなくて、リュウはだらんと四肢を垂らしていた。
 おれ死ぬのかなあと考えた。
 特に恐怖はなかった。
 リュウが損なわれても、誰も困る人はいなかった。



「その辺にしといたら」



 声が聞こえて、リュウは顔を上げた。
 いや、上げようとした。
 だが、首筋が引き攣ったようになっていて、うまく振り向くことができなかった。
 制止の声が降ってきた途端、今まで身体中を苛んでいた暴力はぴたっと止んだ。
「ローディ同士でいがみ合いなんてしてる暇あったらさ、少しは自分の、そのちびた訓練刀よりも役に立ちゃしない能力を有効に活用しなよ。17:00に開始されたブリーフィングに出たのは俺と、あと女がひとりだ。隊長カッカしてらしたよ、相当」
 トーンの高い、澄んだ、だが身を切られるような鋭さがある声だった。
 リュウが見知っている声だった。
 確か、同僚のボッシュという少年だ。
 リュウよりも大分遅れて訓練生入りしたくせ、もう同期のサードレンジャーに昇進している、優秀な男だった。
 リュウをいびっていた先輩は、急におどおどとして、言い訳がましい姿勢で両手を前に突き出し、哀れっぽく言った。
「ボ、ボッシュ! いや、これはこいつが悪いんだよ、この忌々しいチビのローディがさ! 廊下で俺にぶつかりやがったんだ。この1/2048にだぜ、ジャケットにローディ菌がべったりくっついちまった。こいつは一張羅なんだ、俺は明日から何を着りゃいいんだ?」
「この1/64の前で、矮小なD値をひけらかしてくれるじゃないか。オマエもういいから消えなよ。死んでいいよ、ローディが」
 すごく汚いものを吐き棄てるみたいにして、ボッシュが言った。
 先輩レンジャーは、ぐっと詰まったような顔をして、一瞬リュウのほうをものすごい顔で睨んで、それから背中を向けて、食堂にでも行くよ、と言った。
 男がいなくなると、ボッシュはぐったりしているリュウのそばへ来て、つまらなさそうな顔をして、リュウの背中をつま先で蹴った。
「何やってんの、ぼろ雑巾? 「リュウ指導員」、数字も読めない馬鹿なオマエでも、そろそろD値の重要さっての、理解できた?」
 リュウは億劫に、小さく頷いた。
 そして、おれなんていないほうがいいのかもしれないと漏らすと、ボッシュは肩を竦めてそうかもねと言った。
「……触らないほうがいいよ。おれ、汚いんだって。ディクみたいに病気を運ぶんだって。昔からずうっとそうなんだ。ボッシュ、うつっちゃ駄目でしょ」
「何言ってんのかわからない。ほんとにオマエ、頭悪い男だね」
「うん……」
「そろそろ俺様の1/64っての、どれだけスゴいのか、わかった?」
「うん……」
 そう、よかったとボッシュはそっけなく言って、壁に凭れたまま蹲っているリュウに手を差し出した。
 リュウは、彼が何をしているのかわからなかった。
 呆けて見ていると、ボッシュは苛立ったようにリュウの手を掴んで引っ張り起こした。
「仮にもレンジャーなら歩けるな」
「え?」
「メディカルルームに行くよ、多分あいつもうすぐクビだろうね、さっきの」
「え?」
「同僚を半殺しにしちゃあさ。なあ、リュウ?」
「……あの、何してるの?」
 訳が解らなくて訊くと、ボッシュは疑わしげな顔になって、オマエが何してんのと言った。
「手を貸してやってる。命令聞いてないの? オマエ、今日付けで俺の相棒だよ。パートナー。二人一組で行動しろとさ」
「……え」
 ぽかんとしているリュウに、ボッシュはそういうこと、と言って、歩き出した。
「あ、ぼ、ボッシュ、触らないで。その、おれさ、触るのみんな嫌がるし、汚いって、よごれるよ」
「オマエ、初対面で人にべたべた触ってたくせに、良くそんなことが言えるね」
「あ、あれは……施設で小さい子の面倒、良く見てたんだ。熱を出した子にはああして……見ていてあげなきゃならないから……」
 言い訳みたいにして、リュウは消え入りそうな声で言って、そしてぎょっとした。
 ぎゅっと手を握られて、引っ張られた。
 おんなじくらいの年頃の人間に、そんなふうにされたことは初めてだった。
 リュウは施設では一番の年長者で、年下の子供を守ってやらなきゃあならなかった。
 だから世話を焼かれるのはあまり馴染まなかった。奇妙に後ろめたい心地がする。
「メディカルルーム、どこだったっけ」
 リュウはボッシュの背中を見た。
 鮮やかな緑色のジャケットに、誇らしげに鋭角的なかたちをしたマークが見えた。
「勘違いするんじゃあないよ。俺にとっちゃ、こんな下層区のローディどもなんてみんな一緒なんだ。オマエも、さっきのクソローディも一緒。汚いものに触る覚悟はできてるよ。だからこんなところまで降りてきたんだ」
 ボッシュはなんだか、明らかに基地の中で浮いていた。
 みんな埃だらけで薄汚れているのに、一人だけ綺麗だった。それはいろんな意味において、そう見えた。
 リュウは俯いて、顔を赤くした。
 もともと血だらけで、わかったものじゃあなかったろうが――――ボッシュに手を引かれていることが、ものすごく恥ずかしかったのだ。
 リュウはぼろぼろのごみくずみたいな身体だった。
 あんまりに違い過ぎていた。
 ボッシュはまるでヒーローみたいだった。
 昔から憧れていたレンジャーの見本みたいだった。
 そんな彼と、今日から相棒同士なんだって言う。
 リュウは困惑していた。それで良いのだろうか?
「オイ、オマエ覚えてる? どこにあるの、メディカルルーム」
 ボッシュが振り返った。
 その顔は整っていて、リュウの野暮ったい顔立ちとは、根本から相容れなかった。
 リュウはまた顔を赤くして、通路をまっすぐ、それから右、と言った。
 声は震えていたかもしれない。
 今日くらい自分のことが嫌いになった日ってないだろうと、リュウは思った。
 リュウを見ずに、あっそ、とそっけなくボッシュが言った。










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