『ボッシュ』が一瞬眉を顰めたのが見えた。彼の思うところは理解できた。 共鳴に欠落が見えたのだろう、身体の半分を置きざりにしてきたせいだ。 『……ナメてんの? オマエ、こないだより弱くなってるじゃん。何考えてんの』 「気のせいだよ、そんなことない」 肩を竦め、オールドディープの力を引き出し、ドラゴナイズド・フォームに変化する。 実の所、この異形の姿はあんまり好きじゃあなかった。 あまりにも化け物じみていて、人からも竜からも掛け離れている。悪夢みたいだ。 だがこだわりってものが無くなったボッシュには、もうどうだって良いことだった。 敵を上手く殺すことができる能力を得たのだ。それで十分だ。 『ボッシュ』にも同じような変化が現れた。 彼の身体が闇色に染まり、得体の知れない模様が浮き出て、異形へと変化し、炎の翼が燃えあがる。 そこにいたのは、例の化け物のリュウだった。 銀色の獣だった。鋭い爪と牙を持ち、眼は肉食ディクの鋭さを宿していた。 『今度こそ、終わりだチェトレ! ヒトは、リュウと俺は空を手にする!』 見知った咆哮が轟いた。 それは恐ろしい唸り声のようにも聞こえたし、聞き慣れたリュウの悲鳴のようにも聞こえた。 あの赤い光が目の前で瞬いている。 地平線の向こうへ沈んでいく太陽みたいな赤光だ。 終わり間際の一瞬のきらめきだ。 何よりも強く輝き、そして萎み、消えていく光の色だ。 ボッシュは手を伸ばした。 青い光が、燐光を纏って腕を覆った。 なんとなく他人事みたいな心地だった。 身体の表層だけが、勝手に動いているような感じだった。 俺は何をやっているんだったか、とボッシュは考えた。 だが、上手く思い当たらない。 リュウを奪っていったアジーンを、今から殺す。 そんなところだろう、だが、ボッシュは自問した。 (俺は、何やってるんだ?) 青白い鬼火は燃え盛っていた。 だが静かな心地だった。 静か過ぎて、平坦で、マットだった。 灰色の澱みのようなものが、ボッシュを覆っていた。 もしかすると、それは絶望ってものに近かったかもしれない。 昔には戻れない。 未来はない。 もうどうすることもできない。 アジーンは消える。 リュウも消える。 チェトレがプログラムを終了すれば、ボッシュも消えるだろう。 空にはなんにも残らず、ただほんの僅かの間だけ人間が栄えるかもしれない。 だが、きっとそれもすぐに終わる。なにもかも無かったことになる。 空に静寂が訪れ、誰もいない。 ボッシュには、その未来が今、青い光の中にありありと見て取れた。 そこはリュウのいない世界だった。 憎しみも嫉妬も怒りもない。リュウがそこにいないからだ。 そして、あの形容しがたい、奇妙に渦巻いた感情の欠片もない。 それを何と呼んで良いものか、ボッシュには解らなかった。 あのサードレンジャー時代の、リュウに出会った当時から――――いや、もっと前、十数年前にリフトで幼い彼に初めて出会った頃から、ずうっとボッシュの中にあった。 他愛無い話をしながら時折ふっと俯く癖だとか、髪を結う仕草だとか、彼が珍しくまともなことをしでかした時に誉めてやると照れ臭そうに笑った顔だとか、そういうものを見ているうちに、得体の知れない塊のようなものが、喉につっかえたようになってボッシュに生まれていた。 新しい世界には、そんなものもなかった。 そこはひどく寒々しく、空虚だった。 リュウがどこにもいない。 光が膨れ上がる。 「ボッシュ?」 頼りない呼び声が聞こえた。 どちらからともなく、光は消え去った。 名前を呼ばれて、反射的にボッシュは振り返った。 密になった木々の間から、リュウがひょこっと顔を出した。 そして、リフトではぐれたボッシュをやっと見付けて安堵した時のような顔をして、ああ、ほんとにいたあ、と言った。 だが、リュウはボッシュを見てはいなかった。 彼の視線の先には、銀色の獣がいた。 リュウの半身のアジーンである。 ボッシュは舌打ちした。なんだか、背中が薄寒かった。 いつも背中にくっついてきていたリュウが、ボッシュを上手く見付けられないのだ。 いつまで経っても慣れない、奇妙な感触だった。 「なんでオマエが出てくるわけ。ちゃんとねむりキノコで寝かし付けてやったろ。監督不行届きだ、アルター・エゴ」 『ごめんねえ、ボッシュ?』 感情が伴っていない『リュウ』の声が聞こえた。 茂みの間からごそごそと出てきて、彼は胸の前でぽんと両手を合わせて、ごめんねこのとおり、と言った。 『あはは、おれローディだからねえ、うまく言いつけを聞いてあげられなかった。それに、ちょっと用事があったんだ。ね、リュウ?』 それは奇妙な光景だった。 歳月の分だけ確実に成長したオリジンのリュウと、想い出の中からひょっこり抜け出してきたような、サードレンジャーのリュウが並んでいる。 さすがにニーナもびっくりしたように目を丸くしていたし、名前は忘れたが、トリニティの獣女も疑わしげに眉を顰めている。 ふと、リュウの背後の茂みががさがさと揺れて、疲れた顔をした男が姿を見せた。 リュウの同僚の元統治者の男だ。確か、ジェズイットとか言った。 「よお、剣聖んとこのボッシュ君、久し振りだなあ。なあ、この強烈なハーレムはいいんだが、この『リュウ』ちょっと性格設定間違ってるぞ。二代目はもっと可愛いし、間違っても良いトコ邪魔したりはしないと思う」 「変なこと言わないで、ジェズイット」 じとっとリュウがジェズイットを睨んだ。 それからぱっとボッシュに向直って、心配そうな顔になって、だいじょうぶ、と訊いた。 「あの、ボッシュ……怪我、してない? ごめんね、おれまたへまやっちゃって」 『あ、ああ、リュウ』 『ボッシュ』はぎくっとした顔をして、慌てて再び擬態を取り繕った。 彼の姿は、一瞬闇に溶け、少年の日のボッシュを形作った。 『……なに、心配してくれんの?』 「あ、あのね、ボッシュ。この『おれ』、なんかすごく変なことを言うんだ」 リュウがせっつくように、ボッシュに言った。 「ボッシュ、もうおれのそばにはいないんだって。『ボッシュ』はボッシュじゃないって、おれのことなんかほんとは大嫌いで、こ、殺しに来るんだって」 リュウは俯き、悲しそうに頭を振った。 「お、おれがあんまり馬鹿だから、ボッシュ、もうおれのこと嫌いになっちゃったかなあ?」 『そ、そんなわけないだろ、バカリュウ。俺はここにいるよ』 『ボッシュ』は、リュウを安心させるように言った。 『帰ろうぜ、リュウ。そいつらぶっ殺して、ずーっと一緒にいるんだ。ひどいことされたね、可哀想に……すぐに忘れさせてやるさ、心配なんてない』 無理に引き剥がされ、リンクがほつけたせいで、アジーンのリュウへの記憶操作が曖昧になっていた。 リュウは不理解を顔中に浮かべていた。 彼にとっては、思い当たるところのない記憶ばっかりが、急に目の前にぱっと現れたってところだろう。 リュウは混乱していた。 「……ねえ、『ボッシュ』はその人のこと知ってるのか? ジェズイットは知ってるみたいだった。おれは知らないはず……なんだけど」 自身が無さそうに、リュウはまごまごと言った。 「……すごく懐かしい匂いがしたんだ。ずうっと知ってる人みたいな。なんでわかんないんだろう。おれさ、人の名前覚えるの得意なんだ、バカだけど。今までこんなのなかったんだ。おれ、なんか変みたいだ、『ボッシュ』……」 『……なんにも考えることないよ、リュウ。オマエはバカなんだから、理解もすることないよ。どうせ無駄なんだ』 ここで、リュウに奇妙な反応が現れた。 すうっと目のひかりが薄くなり、ぼおっとした顔になった。 そして、自信が無さそうに頷いた。 「そ、そうかな?」 『そうそう、なんにもわかんなくっていいの、リュウ』 なるほど、こういう仕掛けなんだ、とボッシュは思った。 『ボッシュ』はリュウのヒーローであり、絶対的な存在だった。そういう位置付けらしい。 『ボッシュ』はなんにも間違わない。だから彼の言うことは何だって正しい。その通りにするしかない……こういうことらしい。 だが、ボッシュにはなんとなく見えてきた。 その盲信的な、崇拝と言っても良い服従は、実の所、リュウ自身の罪悪感によるものなんじゃあないだろうか。 つまりボッシュを殺したリュウは、そうやってずうっと死んだボッシュに赦しを乞うのだ。 心も身体も全部捧げて、自分勝手にボッシュに償い続けている。 相手が違うだろうよ、とボッシュは考えた。 その『ボッシュ』は、リュウ自身が作り上げた思い出の欠片だ。彼のアルター・エゴだ。 ボッシュじゃあない。 「で、でもボッシュ、おれ……」 幾分辛そうに、リュウは言った。 額には脂汗が浮いていた。 彼の顔色は紙のように白かった。 彼は絶対的な精神操作に抗っているように見えた。 リュウは頑固な性質を持っていた。疑惑を持てば、ボッシュにさえ抗ったのだ。 「その人にひどいことばっかりしたんだ。家族を殺されたんだって。きっと、すごくおれを憎んでる。でも助けてくれたんだ。昔みたいにディクから助けて」 そして自分の言葉におかしなところを見付けて、リュウはぼうっとしたまま、反芻した。 「昔みたいに……ディクから……いつのことだっけ……?」 『リュウ、俺の言うことが聞けないっての』 『ボッシュ』が不機嫌なポーズで、やれやれと肩を竦めた。 『考えることないって、俺が言ってんの。オマエ耳あんだろ? 俺はオマエをひとりにしない。だからオマエも俺をひとりにしない。『ボッシュ』はずうっとオマエのそばにいるよ。だからさあ』 『ボッシュ』はリュウに手を差し伸べた。 リュウがその手を取ることが、当然だといった仕草だった。 彼は言った。 『おいで、リュウ。オマエを苛んでる世界から、ずーっとずーっと守ってやる。この俺が? なあ、光栄なことだろう、リュウ?』 尊大な言い方だったが、『ボッシュ』はかすかに不安そうに声を震わせていた。 まるで、もしかしたらリュウが自分の手を振り払って、どこかへ行ってしまうんじゃあないかと心配しているように。 リュウは顔を上げた。 疑問は消え去っていないようだったが、彼は手を伸ばした。 そして同時に、今より幼い『リュウ』の姿をしたものが、右手にぶらさげたレンジャーエッジで、気負いもなくリュウに斬り付けた。 『リュ、リュウッ!!』 『ボッシュ』が顔色を変えた。 彼は肩に剣を受けて倒れたリュウを抱えようと腕を伸ばしたが、あいにく『リュウ』がリュウを抱え、その喉元に血まみれのレンジャーエッジを突き付けたせいで、焦燥の表情で硬直した。 『アジーンはちょっと黙ってて。あ、それと、ボッシュもね』 「チェトレ……ソイツに傷は付けるなって、言っただろうが!」 『うん、言いたいことは解ってる。 少しリュウに話があるんだ』 『リュウ』はぼうっとしているリュウと顔を突き合わせて、ほんとにしょうがないねと呟き、こつんと額を合わせた。 そして、今まで閉じっぱなしでいた目を開けた。 リュウが、びくっと震えて、息を呑んだのが見えた。 他の奴らもそうだ。一様に驚いたように息を止めて、目を見開いている。 『リュウ』の両目の眼窩は空洞だった。 真っ暗闇の深い洞窟みたいだった。 その奥で、赤い炎がちろちろと燃えている。 『リュウ』は静かに、あのリュウに良くある穏やかな口調でもって、言った。 『目を覚まして』 |
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