光の中にいた。
 眩し過ぎて、目が焼かれ、瞼を開けてはいられなかった。
 目を閉じたまま、しばらく辛抱強く、強烈な明かりがもたらした残像が過ぎ去るのを待ち、そしてようように目を開けると、そこは今までいた世界とはまるっきり違っていた。
 今しがたまで薄汚れた風体で森の中にいたはずだったが、いつの間にか草木のそよぎも、冷たい風もなくなっていた。
 星々が燃え尽きるひかりや、青白く輝く月の灯りのかわりに、豪奢な造りのシャンデリアが、まるで昼間のような明るさを撒き散らしていた。
 明る過ぎて、まるで世界中が白い光塵に覆われ、けぶっているようだった。
 ボッシュはゆっくりと両手を胸の前で広げて、しばらく愕然としていた。
 長い不自由な暮らしのせいで、擦り切れ、皮が厚くなった手のひらはそこには無かった。
 柔らかく、小さな手だった。
 何不自由なくものを与えられ、大事にされている子供の手だった。
 光に目が慣れてくると、ボッシュは自分の身体がいつの間にか奇妙に縮んでしまっていることに気がついた。
 ゆったりとした緑色の服を着ていた。かなり上等の生地で、値が張るものだ。
 ボッシュは広い回廊にぽつんと突っ立っていた。
 空調は良く効いていて、快適で心地良かった。
 空気は少し澱んでいた――――こう感じるのは、混じりっけのない空の大気に肺を浄化されたせいだろうか?
(どういうことだ)
 ボッシュは口の端をきゅっと引き結び、用心深くぐるっと周囲を見渡した。
 相変わらず世界は明る過ぎて、夜の薄い闇に慣れ切ってしまったボッシュには、しばらく目を開けていることさえ辛かった。
 ちりちりと針で刺されたようになって、両目が痛んだ。
 ボッシュは目を閉じた。
 強い光はあまり好きではなかった。
 先天的なもので、目があまり強い性質ではないのだ。
 確か両親のどちらかが同じふうな体質だったと聞いている。だが詳しいところは良く知らない。
 ひかりに刺された目が痛み、涙が零れてきた。
 小さな手のひらで顔を覆うと、すぐそばで誰かの気配が動いたのがわかった。
「ボッシュ様、いかがなされました」
 気遣う声がした。
 ボッシュは、背中が泡立つような寒気を感じた。
 怖れのせいではない。
 何か取り返しのつかないことを仕出かしてしまった後のような、ひどい焦燥だ。
 その声には聞き覚えがあった。
 もう失われたはずの声だった。
 父の弟子のナラカの声だ。
 ボッシュは弾かれたようになって、ぱっと顔を上げた。
 そこには懐かしい顔があった。
 ナラカが、屈み、床に膝をついた姿勢で控えていた。
 すぐそばに彼の双子のリケドの姿もあった。
「目が痛むのですか」
 ボッシュは答えられなかった。
 これは幻覚だと叫ぼうとした。
 アジーンの罠だ、それとも、チェトレの悪趣味なゲームだ。だが結局声は出なかった。
 目の痛みは大分ましになっていたが、何故か、次から次から涙が溢れてきた。
 リケドは深く項垂れ、沈痛な面持ちで、お察しいたします、と言った。
「坊ちゃん――――いえ、ボッシュ様はもう、存じておられるのですな。ナラカ、ボッシュ様は幼子ではない。全て受け入れられるだろう」
「…………」
 ナラカの目がすっと細くなった。
 そこには、憐憫と悲しみがあった。
 ボッシュは訳がわからず、ぼんやりと彼らを見ていた。
 そして考えた。 このリアルな光景は、もしかすると、ボッシュの記憶の中から引っ張り出して来られたものなのかもしれない。
 だとすると、今はいつだ?
 腰には家紋が添えられた剣がぶら下がっていた。
 訓練用のものではなく、まじりっけなしの獣剣だ。ずっしりと重く、冷たい感触があったが、使い込まれている様子はなく、まだうまく手に馴染んではいなかった。
 ボッシュが混乱しているうちに、ナラカとリケドの双子はすっと回廊の端へ寄り、一礼し、その姿勢のままで、さあ、と言った。
「母上様が……お待ちです」
「え?」
 あっけにとられて、ボッシュは双子の顔を見た。
 だが彼らに、それ以上教えてくれる気配はなかった。
 ボッシュはわけがわからないまま、歩き出した。
 回廊は長かった。
 白っぽくけぶり、先が見えない。
 そう言えば、ここはどこだろう?
 中央省庁区じゃあない。ボッシュが幼い頃過ごした上層の特別居住区――――中央特区でもないようだ。
 見覚えのない場所だったが、奇妙な既視感を覚えていた。
 それは、すごく具合の悪い種類のものだった。
 さっきから、吐き気がするくらいに胸がむかむかしている。
(母上様……母さま?)
 ボッシュは彼女の顔を思い出そうとしたが、どれだけ懸命に記憶の底から引っ張り出してこようとしても、その輪郭もはっきりしなかった。
 ぼんやりしていて、まるで熱を出した時に見る幻か、影絵みたいだった。はっきりと定まらない。
 顔も覚えてない。どんな女だったかなんて知らない。
 一緒に暮らした記憶もなかった。
 ボッシュのD値から推測して、おそらく上層区居住階級の娘あたりだろうが、統治者の父とはD値が離れていたせいで、一緒には暮らせなかったのだろう。
 きっと今も地下のどこかで生きているはずだ。
 長い時間が経過していた。
 もう息子の顔も忘れてしまったかもしれないし、仮に覚えていたとしても、彼女にとっては良い感情をもたらすものではなかったろう。
 剣聖に連なる一人息子は、結局どんなにあがいても空は開けず、今や反逆者の身にまで落ちぶれている。
 回廊の果てがようやっと見えてきた。
 ずいぶん歩いた。
 まっすぐの一本道だ。天井は遠く、何がしかの戯曲――――一時期上層区で流行していたものだ――――をモチーフにした絵が描かれている。
 丸く湾曲した天井は、重厚で、一分の隙もなく、鮮やかな色で埋め尽くされていた。
 豪奢だが、この建造物の主の孤独を癒そうとでもするように、無理に極彩色に彩られた造りは、なんとなくもの寂しい印象を与えていた。
 足取りは重かったが、ボッシュの胸は奇妙にざわついていた。
 ナラカとリケドが言うには、この回廊の先で、ボッシュの母親が待っているらしい。
 ボッシュはふと立ち止まり、小さな肩を竦め、やれやれと頭を振り、にやっと口の端を上げた。
 いつものポーズだった。
 俺はこんなことで騙されたりしないよと、誰に零すでもなく、言い訳じみたことを考えて、ボッシュはまた歩き始めた。
 きっとリュウの例の精神操作みたいなものだ。本当じゃあない。偽物で、まがいもので、影だ。
 ボッシュの記憶からいろいろな材料をひっぺがしてきて組み立てられた、粗末な幻惑だ。
 あのリュウが崇拝する『ボッシュ』のように、すべてが幻に決まっている。
 そう、その証拠に、ボッシュはこんな建物は知らないし、今の身体に相当する年齢――――おそらく剣を持ち始めてすぐだ。5、6歳のように感じるが、客観的にそう感じただけで、本当のところはわからない――――にはすでに母親と生き別れていたはずだ。彼女は上層区のどこかの特別居住区で、今でも政府に庇護されて生きている。
 目の前には扉があった。
 黒く、重い。左右対象にニ匹の羽根の生えた動物が向かい合い、踊っている姿が刻まれていた。動物には嘴があり、高らかに歌い上げるように口を大きく開けていた。
 小さな身体では、扉を開けるのに割合苦労した。身体ごとぶつけるような調子で、ようやく扉が開くと、一種独特の匂いが鼻の先をくすぐった。
 まるで花のような、柔らかい匂いだった。
 ボッシュはその匂いに覚えがあった。
 確か下層区に、レンジャー基地にいる時分に、どこかで――――






 それに思い当たる前に、ボッシュには空虚が訪れていた。
 部屋の中には誰もいなかった。






 いや、母親はいた。
 彼女は寝台に横たわっていた。
 ショップ・モールのショーケースに陳列されている商品のように、ガラスケースに入れられていた。
 だがあまりボッシュには似ていなかった。
 四肢はむくんでいた。
 顔もむくんでいた。
 それは今にもはちきれんばかりだった。
 まだ腐敗は訪れてはいないようだった。
 手足もまだ黒ずんではいなかった。
 綺麗なものだ。
 ただしひどく膨れ上がっていることを除いて。
 そこには、何かしらボッシュの思い出に呼び掛けるものは何も存在しなかった。
 見知らぬ死体が一体。
 部屋を見渡すと、そこには先刻運び込まれたばかりの棺が鎮座していた。
 色とりどりの薬品がテーブルの上にぶちまけられていた。
 ラベルには『腐食防止剤』と書かれていたが、腐食を食い止めるには、どっちにしろこの死体は既に手遅れのようだった。
 既に原型を保ったり、綺麗に遺されるレベルは過ぎ去っていた。
 花のような匂いが強くしていた。
 それはレンジャー基地、メディカルルームのあの薬品棚の匂いに似ていた。
 リュウを運び込んでやった時に、ベッドの脇にあった、小汚い鈍い色の棚。
「何これ」
 ボッシュは訝しく眉を顰め、ガラスケースを叩いた。
 ひょいっと覗き込むようにしてつま先を突っ張ると、ガラスに、まるで鏡のようにリアルな自分の姿が映った。
 怪訝に思って見ると、そいつはどうやら鏡の中の姿見なんかじゃあないようだった。
 子供だった。顔を蒼白にして、表情ってものはなかった。
 そして今しがたボッシュが口にしたように、なにこれ、と呟いた。
 その声からは、感情ってものが失われていた。




◇◆◇◆◇




「か、かあさまは? かあさまはどこ行ったの」
 ぼくは一生懸命背伸びをして、部屋の中をぐるっと見た。
 でもかあさまはどこにもいない。
 ベッドの上には、ぶくっと膨れた変なモノが置いてあった。
 大事そうにガラスケースの中に仕舞われてた。
 なんだか気味が悪かったけど、ぼくにはそんなことはどうだって良かった。
 リケドがやってきて、ぼくの肩に手を置いた。
「ボッシュ様……母上様です。半月前、お亡くなりになりました。……もうお会いできません。最期のお別れをしましょう」
 リケドはなんだか変なことを言った。
 このぶよぶよのモノがかあさまなんだって。
 ぼくをだますにしても、これはちょっとあんまりだ。ぼくはバカじゃない。
「かあさまは? ね、どこに隠れてるの。ぼくのことびっくりさせようとしてるんでしょ? こないだ教えてくれたアリさがしゲームだ。ぼくね、いつもかあさまのこと見付けられるよ。得意なんだ。だってかあさまは大きいから、どこに隠れたって、ぼくはすぐにわかるんだ」
「……ボッシュ様、上層区へ戻りましょう。冷たいものでも、そうだ、プリーマ・シェークを飲みましょうか。母上様には、またお会いできますよ」
 ナラカがぼくのご機嫌を取るように言った。
 でもリケドは悲しそうに首を振って、駄目だナラカと言った。
「お師様の言い付けだろう? ボッシュ様はほんとうのことを、まじりっけない目で、全て見なければならないと。俺だって、奥方様のこんな姿を見るのは耐えられん。あの美しいお方が……防腐処理も許されず、朽ちていかれる姿を晒しておられるのだ」
「しかし、ボッシュ様はまだ幼過ぎる! ……お師様は、あまりにも――――
「ナラカ、口が過ぎるぞ。ボッシュ様の前だ。もう止めよう」
 ふたりは小さな声で内緒話をしてたけど、ぼくにはちゃんと聞こえてたんだ。
 でもケースの中のぶよぶよの塊は、どう頑張ってみてもかあさまには見えなかった。
 ぼくは待っていた。
 かあさまがカーテンの影からひょこっと出てきてくれるのを。
 いつものアリさがしゲームみたいに、かあさまがうまく見つからなくて、なんだか不安になってきて、ぼくがぐずぐず泣き出しちゃうと、ゲームはおしまいだって言って、かあさまが姿を見せてくれる時のように。
 でもいつまで経っても部屋の中は静かで、誰の気配もなかった。
 かあさまの笑い声も聞こえなかった。
 かあさまはぼくが会いに来た時だけ笑うんだって、こないだメイドさんが言ってた。
 ぼくがいなきゃかあさまが笑えないんだったら、ずーっとぼくがここにいれば良いんだって思ったんだけど、『ディーち』が邪魔をして、それは駄目なんだって。
 『ディーち』ってなんだろう、なんでぼくがかあさまに会うのを邪魔するんだろう。
 どんな格好をしてるんだろう。
 きっといじわるで、大きくて、怖い怪物みたいなやつに違いない。
 ぼくのかあさまがあんまりきれいだから、いじわるをしてるんだ。きっとそうにちがいない。
「か、かあさま?」
 ぼくはなんだか怖くなってきた。
 かあさまがいないから怖いんじゃあなかった。
 このケースの中のぶよぶよの肉が、もしかしたらほんとにかあさまなのかもしれないって、一瞬でも思ったことが怖かったんだ。
 そんなわけないのに、ぼくはバカだ。
 ぼくはなんだか、すごくかあさまに会いたくなった。
 いてもたってもいられなくなった。
 今すぐ会わなきゃ、ぼくは死んじゃうような気がした。
 かあさまがいないと寂しくて、がまんならなかった。
「か、かあさまっ!」
 走って部屋から出ようとすると、慌てたように、リケドとナラカが追っかけてきた。
 でも待ってなんてあげない。ふたりとも、ぼくとかあさまにひどい嘘をついたんだ。
 あのぶよぶよのモノがかあさまだなんて、グミを指差してぼくのとうさまって言うのとおんなじだ。ううん、もっとひどい。
「お待ち下さいボッシュ様! どこへ?!」
「か、かあさまっ、かあさまに会いにいくの! そんなぶよぶよ、かあさまじゃない!
リケドもナラカもキライ、あやまって! ぼくとかあさまにあやまって!!」
 ぼくは叫んで、真っ白の廊下をずうっとずうっと走っていった。
 いつもかあさまに会う時に乗ってくる、あのごんごんする乗物に乗ったら、きっと今度こそかあさまに会えるにちがいない。
 そしたら今度はちゃんとアリさがしゲームをするんだ。
 ぼくはかあさまを見つけるだろう。
 ぼくが見つけられなかったら、かあさまは笑ってここにいるよって言ってくれる。
 かあさまがいなくなることなんてないし、いつかぼくがとうさまみたいに強くなって、『ディーち』をやっつけたら、ぼくらはずーっと一緒に暮らすんだ。
 それはもう決まってることなんだ。
 だってとうさまがいつもいうもの、ぼくはすべての栄光を手に入れる『けんせいにつらなる』なんだって。
 ほしいものはなんでも手に入るんだって。
 だからぜったいにかあさまはあんなぶよぶよのモノなんかにはならない。





◇◆◇◆◇




 子供の自分は行ってしまった。
 部屋の入り口では、ナラカとリケドが力なく立ち尽くしている。
 ボッシュはガラスケースを一瞥し、顔を逸らした。
 こんなものはみんな嘘っぱちだ。幻覚に決まっている。
 まったく覚えがない。



 だが子供の頃、何故勝手に行き先もわからないリフトに乗り込んだりしたのだろう?
 離れて暮らす母親が、突発的に恋しくなったのだろうか?
 それとも、何かしら身体を突き動かす事象ってものがあったのだろうか?
 このガラスケースを見せ付けられた子供の自分ように?



 疑惑は澱みのように訪れたが、答えは沸いてはこなかった。
 ボッシュは目を閉じた。
 白い世界のただ中に一人きりで存在していることに、急に薄寒い心地になった。
 どれが幻覚で、どいつが本当で、何が最後に選択されるのだ?











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