尖った匂いが鼻についた。なんだか正体のわからない、むず痒い匂いだ。
 しばらく経って思い当たったのだが、どうやらそいつは自分がつけている香水の匂いのようだった。それが記憶の中の古い記録を呼び覚ましてくれた。
 サード・レンジャー時代、稀に纏まった休日ができると――――例えば相棒のリュウの奴がへまをやらかして、入院級の怪我を負った時なんかだ――――物資が極端に不足している下層区では暇と金の使い方も見つからなかったので、上層区のショップ・モールへ足を向けることがあった。
 香水は、行き付けの、上流階級向けのブランド・ショップで購入したものだったと思う。
 人工花のオリジナル・ブレンドで、特に香りが気に入ったという訳でもなかったのだが、そうだ、確か、ショーケースに飾られていた原料の花が、薄汚い下層区での任務に鬱屈していた時分だったからか、あまりに綺麗に見えたのだった。
 ボッシュはそのくっきりした花弁の青が好きだったし、ほっそりしたシルエットが気に入っていた。
 だが実の所、あまり良い思い出がない花だった。




◇◆◇◆◇




 本部には話がついた。色々うるさいことも言っていたが、黙らせてやるのにそう時間は掛からなかった。
 じきに下層区――――この世界で最も苛烈な環境にあるレンジャー基地への出頭命令がやってくるはずだ。
 誰かに命令されるってどんな気分なんだろう、とボッシュは考えた。
 あまり面白いことじゃあなさそうなのは確かだった。
 上官だっていう人間たちの資料が先刻ボッシュの自前のデータライブラリに送られてきたが、そのどれもがボッシュよりもローディだった。
 げんなりしたが、気分は逆に高揚していた。
 あの子に会えるのだ。



 あれからもうじき8年になる。
 時間にしては、まるで永遠のような感触があったが、ボッシュの中で彼女の姿が色褪せることはなかった。
 柔らかい笑顔だとか、優しい眼差し、澄んだトーンの声、何より彼女の青い髪は美しかったし、顔は可愛かった。
 ボッシュはきらびやかな上層特区でずうっと生きてきたが、彼女のように可愛い少女には、いまだにお目に掛かったことがなかった。
 時折あの子はボッシュの夢の中の住人だったんじゃないかと訝しく思うことがあった。
 一瞬の輝きだった。一筋のひかりが、すうっとボッシュの隣を駆け抜けていったのだ。
 だが、幼い時分に描いた彼女の肖像は、彼女が現実で、夢でも幻想でもないことを教えてくれたし、ボッシュの記憶はリアルだった。
 彼女の言葉を、今でもすぐそこにあるように思い浮かべられる。
 歳月はボッシュを強くしたし、背も伸びて、顔だって家柄だって自慢できた。
 そして彼女が憧れていたレンジャーになる。
 彼女はまた昔あったように、ボッシュを見て、無邪気に感嘆の声を上げてくれるだろうか?
 すごい、強い、かっこいい……誰かにまるでヒーローみたいに扱われたことは、ボッシュにとって、あれが初めてのことだった。



 バイオ・ショップを物色していると、愛想のいいショップのマスターがやってきて、両手を擦り合わせて、何かお探しですかと言った。
 ボッシュは努めて冷静を装いながら、まあね、と言った。
「……花を探してるんだ」
「花? 誰かお知り合いへのプレゼントですかな?」
「……そ、そんなとこだね」
 ボッシュはクールを装っていたが、なんだかひどい後ろめたさを感じて、顔を赤くした。
 マスターは何も言わずに――――ショップが上層街で生き残るには、上品なこと、親切で、余計な口を挟まないことが必要なのだ――――端末をカタカタと弄り始めた。
「お好みの色などはございますか?」
「色……は、青」
 ほとんどうわの空で、衝動的にそう口にしていた。
 彼女の美しい髪の色だ。きっと気に入ってくれるだろう、たぶん。
「青くて、そのさ……豪華なのがいい。今まで花なんか見たことない子がびっくりするような」
「花を見たことがない?」
「いや、うん。例えばの話だよ。あとはいい匂いがして、そうだな、女の子が好きそうなの」
「はい」
 女の子が好きそうなの、と言ってから、ボッシュはふうっと溜息を吐いた。
 まったくの未知の生き物なのだ。
 家庭教師の中年女性はいつもいかめしい顔をしているし、メイドたちは能面で、お行儀の良い機械みたいだった。
 何を考えているのか解らなかったし、そのどれもに共通して、ルーみたいな綺麗で、見ていると安心するあの笑顔なんか浮かべたところを見たことがなかった。
 そう、ルー、彼女は特殊だった。
 泥だらけの格好をしていたのに、彼女は綺麗なドレスを身に纏っているどんな女の子よりも可愛くて、まるで天使みたいだった。
 ぼんやりしていると、どうやら検索が終わったようで、マスターが映像データを差し出してきた。
「こちらなど、いかがでしょうか」
 モニターには美しい花が映し出されていた。
 鮮やかな青い色が、美しいシルエットを引き立てている艶やかな花だった。
 伊達に上層区でショップを営んでいる訳じゃあないらしい。
 うんそれ、とボッシュは頷いた。
 生まれて初めて花なんか買うのだ、勝手も何もわかったもんじゃなかった。
 それに、誰かに何か特別なものをプレゼントするなんて事態も、ボッシュにとって、初めてのことだった。
 ゼニーを払って、マスターに固く口止めをし――――こんなことが父に知れたらどんな目に遭うかわかったものじゃあない――――ボッシュは足早にショップ・モールを出た。
 奇妙に浮ついた心地だった。
 熱に浮かされているようでいて、それが不快ではないのだ。
 ルーも成長しているだろう。
 きっとすごく綺麗な女の子になってるに違いないと、ボッシュは確信していた。
 青い花はすごく良い匂いを放っていた。
 ルー、気に入ってくれるといいな、とボッシュは考えた。
 何せ8年ぶりの再会だ。
 ルーは約束を覚えてるだろうか?
 ……まさか、ボッシュのことを、忘れてしまってやいないだろうか?




◇◆◇◆◇




「うっわああ! キレイだよー! すごいコレ、ボッシュ君、なに?!」
 花瓶に生けられた青い花を見て、リュウは明らかに興奮しているようだった。
 彼はこの常に物資が不足している下層区から出たことがないのだという。
 彼は花について、なんにも知らなかった。
「い、いい匂いがする。ね、食べられる? あっ、噛まない?」
 リュウは立ったりしゃがんだりしながら、色んな角度から、じいっと花を注意深く観察していた。
 そして一通り騒ぎ終わった後に、ボッシュの様子に気付き、まずいかな、という顔になった。
「うわ、ご、ごめんね、おれつい……頭痛かったんだね、そう言えば……もう静かにしてるね」
 そして黙り込んでしまったが、彼の興味は依然青い人工花に向いていた。
 花は瑞々しく、艶やかだったが――――ボッシュはちらっと目を上げて見た――――リュウの髪の色と並ぶと、あれだけ綺麗なものに見えたのに、それはくすんで見えた。
 なんで男のくせにそんな綺麗な髪の色してんだよ、とボッシュは忌々しく口の中だけで毒づいた。
 リュウはなんにも知らず、ぽかんと口を開けたままでいる。
「……ボッシュ君が住んでたところって、すごいね。おれ今まで、こんな綺麗なもの見たことないや……」
 リュウは自分の長い青い髪を一房摘んで、花と色を比べるようにして、透かして見た。
 そしてちょっと自嘲気味な顔になって、おれのはやっぱり変な色だなあ、と言った。
「……オマエ、色盲じゃないの?」
「シキモー? なにそれ? ハオチーの友達?」
「……なんでもないよ」
 ああもうやめなきゃ、とボッシュは思った。
 これ以上踏み込んじゃったら、頭がいかれてしまいそうだ。
 リュウはルーとまったくおんなじ笑顔で微笑んで、ボッシュ君は今までこんな綺麗なものばっかり見て生きてきたんだね、と言った。
「上層区かあ。空の上にあるってのはこないだ先輩に教えてもらったけど、そこから来た人なんて初めて見た」
「オマエは今までこんな汚い地べたで這いつくばって生きてきたんだね、リュウ指導員」
「ひ、ひどいなあ! 確かに汚いかもしれないけどね……あと、もう同期なんだから「指導員」はやめてよ。なんか恥ずかしいよ」
 リュウはちょっと困ったみたいに笑って言った。
「それに、おれここ好きだから。 ほら、空の絵があるだろ? おれ、あれ大好きなんだよ。ずーっと空の絵のそばで生きてこられたってことだけは、おれは幸せだなあって思うよ」
「バッカみたい」
「バ、バカって言わないでよ! 確かにほんとにバカだけど……」



 何でもない話をした後で、あの花はどうなったろう?
 棄てたか、ああそう言えば、リュウがボッシュの「食えるぞ」って言葉を間に受けて食べて腹を下したんだったか?
 あの花はとても良い匂いがしていた。


 そして、リュウもだ。


 下層区のローディなんて、下水と生ゴミの臭いしかしないと思っていたのに、リフトで脚をやられたリュウを背負ってやった時は確か、予想外にいい匂いがしたんだった。
 ふわっとした匂いだ。
 彼は下層区の施設にいた頃の習慣がいまだに抜けないらしく、律儀に衛生施設の殺菌処理を受けに行く。
 神経質な奴だって呆れると、リュウは困ったように笑ってこう言う。
「だってボッシュに病気うつっちゃったら嫌だもん」
 彼は「ローディ」ってのを、いまだに何がしかの病気の一種だと思い込んでいるらしかった。
 リュウは頭が悪いのだ。物を知らない。



 けど青い髪は綺麗だったし、いい匂いがする。
 笑った顔は、苛つくことが多かったが、確かに可愛かった。

 

 多分、全部一瞬のひかりだった。
 身体の横を通り過ぎたかもしれないものだった。
 ぱっと輝き、目を焼いて、後になって今のは何だったんだろうなあと首を傾げる類のものだった。
 幻想だ。
 きっとすぐに消えてなくなって、じきにセカンド・レンジャーに昇格した後は、部下になったリュウに指示を与えながら、そう、オマエ能なしなんだからできるだけ失敗するなよなんて小言も与えながら――――そんなふうに日常が変化してしまった後には、なんでもない笑い話になるはずだ。
 きっと欲求不満が見せた幻覚だって笑えるようになるはずだ。



 そうじゃなきゃ、説明がつかなかった。
 ルーはボッシュの幻想の中の人物だったのだ。
 リュウはローディで男で、どうしようもない能なしで、弱かった。
 錯覚じゃなきゃ、おかし過ぎた。
 この完璧で未来を約束されたボッシュ=1/64が、1/8192のローディに、
まるで――――















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