早く起きてよとリュウが急かしている。
 ベッドサイドテーブルには陶器製のティー・ポットが置かれ、湯気といい匂いを放っている。
 その脇には、クィーン・ベリーのジャムが詰まったガラスのキャニスターがあり、蓋が半分開いたままで、木のスプーンが無造作に突っ込まれていた。
 ボッシュは気だるく目を開けた。
 億劫だった。
 窓から眩いひかりが射し込み、ボッシュの目を突き刺した。
 明る過ぎて涙が出てきた。
 すぐに頭の上のほうで動く気配があり、小石を詰めたバケツを地面にひっくり返すような音を立ててカーテンが閉まった。
 そしてリュウの声。ごめんね、眩しかった?
「ああ……」
 なんにも考えられないまま、ボッシュは頷き、また目を閉じた。
 瞼を閉じても透き通ったひかりはボッシュの眼球を侵したままだった。
 ここは明る過ぎるのだ。遮光眼鏡はどこへ行ったのだ?
 目がじんじんと痛むので、目を閉じたままじっとしていると、ほどなく冷たい感触が瞼の上を覆った。
 冷たいタオルか何かなのだろうなとボッシュは見当をつけた。
 リュウか?
「大丈夫、ボッシュ? ごめんね、おれ気が利かなくて……カーテン、開けちゃまずかったな。まだ痛むかい?」
 うん、とボッシュは頷いて、目を開けられないまま手を上げて、そこにいるだろうリュウを探した。
 すぐにリュウの手がボッシュに触れた。
 懐かしいあの感触だ。少し冷たいリュウの手。だが昔よりも大分大きくなって、節の骨のごつっとした感触があり、少し固かった。
 ボッシュは目を開けた。
 ひかりにやられ、視界は涙で滲んでちかちかと明かりの残滓が瞬いていたが、そこにリュウの姿を見付けることができた。
 リュウ=1/8192。
 彼はボッシュよりも僅かに年上だったが(数ヶ月のことだったが、それが何故だか気に食わなかったことを覚えている)確か『今』はおんなじ18才になるはずだ。
 彼が羽織っている紺色のジャケットには、鮮やかな赤いラインが入っていた。
 相変わらず切るのが面倒なのか、それとも何がしか気に入るところでもあるのか、長い髪を頭の天辺でひとつに纏めている。
 リュウはローディで、昔と変わらずサード・レンジャーだった。
 彼のD値では、それ以上の出世は望めないのだ。
 それは生まれた時から決まっていたことだったし、そしてボッシュにとってもおなじく、D値に定められた運命ってものがあった。
 ボッシュ=1/64はファースト・レンジャーになっていた。
 最近転属を命じられ、空での探索任務についている。
 危険な仕事だった。どんな生物がいるのかもわからなかったし、気候は地下のように一定ではなかった。
 それに加えてあまり優秀じゃあない部下のお守りまで任されている。
 特に、このリュウ=1/8192なんかがそうだ。
 ボッシュがサード・レンジャー時代だった頃から良く知っているが、彼はあきらかに無能の部類に入っていた。
 ローディだから仕方のない話だが、それでもまあ、サードにしては悪くないというレベルだった。
 彼は寡黙で、余計なことは言わなかったし、何より信用できた。
 彼は――――そうだ、二年前のあの日、リフトでボッシュの提案を受け入れたのだった。
 首を縦に振ったのだ。
 彼はボッシュに手柄を寄越し、ボッシュの踏み台になることを選んだのだ。
 後ろ盾になってやるなんて口先だけの約束もしたが、リュウはそいつに関しては、特に求めるところなんかない、と言ったふうだった。
 彼は解っていた。
 1=/64の後ろ盾があったところで、1/8192のD値がどうにかなるものじゃないってことを。
 世界の仕組みを理解していた。
 だが頷いた。
 それが友愛によるものなのか、あるいは忠誠の一片によるものなのか、正直未だに良く解らないが、ボッシュはこっそりと、リュウは確かに信頼できると思っていた。
 D値の問題もあるので、軽々しく口には出さなかったが。
「ボッシュ? まだ痛い?」
「……オマエ、上司を呼び捨てにするの? 俺はファースト、オマエはサード。わかるよな?」
「……うん。じゃなくって、はい。ボッシュ「隊長」、まだ痛みますか?」
 くすぐったそうに、リュウは半分笑いながら言った。
 ボッシュはちょっと不貞腐れながら(子供にするような対応だったので)よし、と言った。
「大丈夫、問題ないよ。それより朝はカーテン閉めたまま、開けるな。この空のひかりっての、いまだに我慢ならないよ。なんとかならねえもんかな……」
「眩しいけど、おれは好きだなあ。それよりボッシュ隊長、早く起きて朝ご飯食べてよ。せっかく持ってきたのに冷めちゃうよ」
 ほんとに寝汚いのは昔から変わらないんだから、とリュウが呆れたみたいに言った。
 ボッシュはにやっと笑って、確かに昔みたいだと思った。
 何もかも以前と変わらなかった。
 ただほんの少し、お互いに背丈が伸びただけだ。
 リュウの穏やかな性質は、ボッシュが二年前にセカンド・レンジャーに昇進した時分と変わらなかった。
「オマエは相変わらず無能なんだろうね、相棒」
「……なんだかボッシュが隊長って、変な気がするなあ・・・・・・」
 リュウはくすくす笑っている。そして急にまじめな顔になって、おれがんばるからね、と言った。
「ボッシュの足引っ張らないようにがんばるよ」
「きっと無理だよ」
「む、無理じゃないさ! おれだって、割と強くなったんだ。じゃ、邪公とか、ひとりでも倒せるようになったんだよ! ……ちょっと顔が怖いけど」
「そんな雑魚処理できたって、何の自慢にもなりゃしないよ。もういいよ、無能な部下に迷惑掛けられる覚悟はできてるよ」
「ひ、ひどい……」
 リュウは落ち込んで、項垂れてしまった。
 その仕草が子供っぽかったので、ボッシュはくすくす笑った。
「それよりオマエさ、わかってる? 俺の名前呼び捨てにしたり、タメ口で喋り掛けたりするなよな。上下関係ってのわかってる? 無礼だよ、ローディ」
「うん……なんか変な気がするんだけど……いや、します、ん、ですけど?」
「バカ、変だよ」
 ボッシュはリュウを馬鹿だねと小突いて、ゼノ相手の時みたいにするんだよ、と言った。
「なんたって、俺がオマエの直属の上司なんだもんなあ?」
「うー……はい、ボッシュ、たいちょう?」
 まごまごとリュウが言った。
 いい大人のくせに、その様子はなんだか可愛かった。
 ボッシュはからかうようにリュウの腕を取って、ベッドに引っ張り込んだ。
「え、うわっ! ちょ、なにするの……じゃなくって、なにするんですか、ボッシュ隊長……」
「オマエ、カワイイね。やっぱ全然変わんない……」
 リュウをぎゅうっと抱き締めた。
 彼の身体は、少し冷たかった。体温が低い性質をしているのだ。
 まともな食物を採っていないせいだろうか。
 リュウは目を白黒させて、わけわかんないよー、とぼやいた。
「か、カワイイって、おれはもういい歳した大人の男なんだから! カワイイとか言われても、全然うれしく……あ、わかった、またおれのこと馬鹿にしてるんだボッシュ、隊長!」
「まあ半分はそう」
 ボッシュは笑いながら、リュウの耳を舐めて、噛んだ。
 リュウがひゃっと悲鳴を上げて、首を竦めた。
「ちょっ、何して……おれ汚いから、舐めたりはちょっと駄目だと」
「リュウ」
 目を閉じて、リュウの髪に顔を埋めた。
 柔らかい匂いがする。
 彼はまだあの悪趣味な殺菌処理を受けているのだろうか?
 リュウはなんだか訳が解らないという顔をしていたが、ボッシュに逆らうべきじゃないと悟ったらしく、じっとして、おとなしくなった。
 リュウが腕の中にあると、静かな安堵がボッシュに訪れた。
 もう何年も、ずっとこうやって触れ合い、友人同士みたいにふざけあってじゃれたりすることがなかった。
 ――――いや、そう言えば、リュウにまともに触ったことがあっただろうか?
 こうやってリュウが戸惑うくらい抱き締めたことは?
「……ボッシュ、たいちょう……」
 控えめに、リュウがボッシュの寝着の裾を握り返して、小声で呟いた。
 彼の顔には安堵があった。
「また……会えて、うれしいです。きみの……じゃなくて、あなたの下で働けるのが。おれは……」
 リュウはそこで黙り込んでしまって、ボッシュに強く縋り付いた。
「あ、あなたの盾にでもなんでもなります。なんでも使ってください。つ、使い捨てでもなんでもいいし、おれきっとそのくらいしかできないと思うけど、役に立ちたい」
 リュウは幸福そうだった。
 まるでボッシュが、彼の信じる唯一のものであるみたいだった。
 ボッシュはリュウの頬に手を当て、顔を上げさせて、ゆっくり唇を触れ合わせた。
 リュウはちょっとびっくりしたような顔をしたが、それも一瞬のことだった。
 やがて目を閉じて、ボッシュに身体を預けた。
 まるで昔から望んでいた世界がボッシュの目の前に広がっているようだった。
 栄光へと続く道が目の前にあった。
 誰も前を塞いだりしない。
 リュウは従順で、ボッシュの腕の中にいた。



 間違っても――――


 
 ベッドに押し倒されたリュウは、恥ずかしそうに顔を赤くしていた。
 彼は真摯な目をボッシュに向けて、掠れた小さな声で告げた。
「……だ、大好きです、ボッシュ隊長……」
 リュウはボッシュだけを見ていた。
 彼にはその他の世界なんてなかった。












――――ボッシュう?」
 鈴のような声が、ぼうっとしていたボッシュの意識を現実に引き戻した。
 白い壁が辺りに広がっていた。
 あちこちに繊細なつくりの彫刻が施され、その場所を荘厳に見せていた。
 目の前には真っ赤な顔をした女の子がいた。
 彼女は青いドレスを着て、恥ずかしそうに俯いていた。
 ボッシュは慌てて彼女の名を呼んだ。
「あ……な、なに、ルー?」
「……お、おれっ、やっぱり似合わないかなあ……こ、こんな綺麗な服、ううう」
 いつもぼろぼろの服を着ていたルーは、キレイな格好ってのが、どうも馴染まないらしい。
 ボッシュは慌てて彼女に言った。
「な、何言って……すごくカワイイって!」
 ルーは確かに可愛かった。
 ほっそりとした四肢は、幼い頃出会った時よりも大分伸びて、すらりとして、滑らかだった。
 ウエストのくびれたラインも魅力的だったし、それから――――ここでボッシュはこっそりルーの胸のあたりを見た――――胸だって貧相じゃない。かたちが良くて、もしも触ったらすごく柔らかそうだ。
 そう考えて、ボッシュは自分がルーに欲情していることに気付いて、真っ赤になって頭を振った。
 彼女はそんなじゃない。天使みたいにあどけなくて、可愛い。
 ルーはまだ居心地が悪そうにしていたが、やがてはにかんだような微笑を浮かべてボッシュを見た。
 ボッシュは、自然どぎまぎした。
 何年も何年も、ずうっと大好きだった初恋の女の子が目の前にいるのだ。
 これは何度も空想した夢や幻想の類なのだろうか?
 目が覚めたらまたひとりきりで、ルーはどこにもいなくて、ああ夢だったんだなんて溜息を吐く羽目になるんだろうか?
「き、きみのお名前、聞けて嬉しいよ。約束、覚えててくれたんだ」
「あ、ああ」
 ボッシュは真っ赤になったまま、恐る恐る手を伸ばして、ルーの肩に触れた。
 彼女は一瞬ぴくっと震え、緊張が見て取れたが、嫌がる素振りはなかった。
 ボッシュはそのままルーをぎゅうっと抱き締めた。
 小さい体は柔らかく、少し冷たかった。
 いい匂いがした。
「ルー、俺ずうっときみのことばっかり考えてたんだ。約束しただろ、俺の……」
「……お嫁さん? ずうっといっしょに遊べるんだよね」
「うんそう、ずうっと一緒だ。手を繋いで――――
 なんだかひどい虚しさがボッシュに訪れた。
 何故だろう?
 ルーはここにいる。
 触った感触もリアルで、きっと夢なんかじゃない――――と、思う。
 どのみち夢の中で「これは夢だ」なんて認識できた経験は、今まであまりないので、信用ならなかったが。
「手を繋いで生きてくんだ。今度は俺が手を引いてあげる。君を守るよ。絶対だ」
 口から勝手に言葉が零れてくる。
 なんだか奇妙な既視感があった。
 昔どこかで誰かが、誰かに、おんなじ言葉を掛けてやしなかったろうか?
 彼らは手を繋いでボッシュの前から消えてしまいやしなかったろうか?
 ボッシュの遥か過去の約束なんて、そこでは何の意味も成さなかったんじゃあなかったか?



 
『君を守るよ。絶対だ。大丈夫、きっと空へ連れてく』



 少年の声が聞こえる。
 良く見知った声だった。
 その目には強い意思の光があった。
 ボッシュの少しくすんでぼわっとした、焦点の合わないグリーンの目にはないものだった。
 そして彼らは手を繋いで行ってしまった。
 後に残ったのは、みじめに空虚になってしまった破られた約束と、もう無くなってしまった未来だけだった。




◇◆◇◆◇




 それらは過去の情景なのか、過去空想した夢や妄想の類なのか、ボッシュには判断がつかなかった。
 どちらも記憶の中にいっしょくたにしまい込まれてしまった後は、おなじようなかたちをしていた。
 それにしても悪趣味だ。
 リュウが『ボッシュ』の幻を現実だと認識していたように、これもチェトレの悪ふざけなのだ。
 そうに違いない。
「……いい加減にしろよ、チェトレ!」
 ボッシュは叫んだが、返事は返ってこなかった。
「だんまりかよ! 今すぐこの趣味悪い映像を止めろ!」
 変わらず返事はなかった。
 いや、竜の気配がない。
 いつも身体の奥底でじいっと佇んでいる、あの巨大な圧迫感が、ごっそりと欠落していた。
「……チェトレ?」
 ありえるとすれば、あの竜とリンクする以前の、人間の感覚と何一つ変わらなかった。
 チェトレが消えてしまった。
 なら、あれはどこへ行ったのだ?
 目の前にあったリアルな情景たちは?
 今自分がどこにいるのか、ボッシュには判断がつかなかった。
 強烈な眩暈を感じて、ボッシュは目を閉じ、頭を抱えた。
 しばらくそうしてひどい耳鳴りに悩まされていたが、それが止む頃、目を開けると、そこでは全てが完了していた。















Back  * Contenttop  Next